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微睡む牙古鳥の随筆

社会の網に囚われて在り

 人の世の「想い」というのは有り触れたもので、(しか)して語られることは多くはなく。それでも語るものは少なからず居て、昨今では、それが耳に入ることは珍しくはなくなった。

 人は何故、想いを語り、そして語らないのか。それはきっと、人の想いというものが、秘匿されるべき柔らかな実存であるからで、ありのままを知られるのは気恥ずかしく、()りとて内に秘めるには、しばしば熱く灼けるような熱であるからだ。小籠包(シァオロンバオ)のような。あんま食ったことねえけど。もしかしたら、一回もないかもしれん。


 人の想いが小籠包であろうが、豚饅であろうが、はたまた餃子だろうが、そんなことはどうでも良くて。想いというものは、そのままの形で語られることは、存外少ないように感じる。そこには割と複雑な、それでいてある意味語るまでもなく単純な理由があって、一つは「そもそも自分自身の抱く想いを、正しく言語化できる能力がない」というのがある。


 ――そんな馬鹿な。自分事だぞ。そんな訳があるか。

 ……そう思うのは、別に難しいことではない。だが、それを理屈として説明することは難しい。あなたは、どちらだろうか。あなたは、あなた自身の想いを言語化することはできるだろうか。

 私は、まず()()()()()()()()()()()人の主張は、前提として顧みる必要がない、と認識している。「簡単だ」と思うことは簡単である。だが、「簡単だ」というのを説明することは、多くの概念において困難だ。大抵のものは、深く考えるほど、それが「何故なのか」はわからなくなる。そも、人の世において解明されている事象というのは、想像よりも少ない。要素的には。


 もう一つは「本心というのは、直接語るにはあまりにも身勝手だから」という点。何でもかんでも思い通りになればいい、と感じることは当然あれど、掛け値なしにそれが認められることは、普通の感性の人間では、まずない。普通は、自身の意図を通すとき、本心そのままではなく、相手の都合や諸々を配慮した言葉が用いられる。

 別に、悪いことではない。むしろ、いいことに属する事の方が多い。悪意を隠すために使われる言葉も、当然ある。だが、良薬がしばしば口には苦く感じられるように、それが善意に由来する至言であろうと、相手に受け入れられなければ意味がない。だから、「別に伝わらなくてもいいや」ということでもないのなら、話す言葉というものは、受け取り手の解釈を制御する必要があることも、しばしば。

 そんな必要はない、伝わるべきものが伝わらんならそれは知らん、というのも、無論たやすい。それでいいなら、だが。


 何にせよ、そういった事情から、実際に聞くところの「想いを伝える言葉」というものは、そこにある想い、感情や、その他の得体の知れない何かというものを、それ自体を言語化して伝えている訳ではないものが、間違いなく多い。

 これでも論理的な思考を仕事としている立場から、それが皆無であるとは断言しない。直感的には、殆ど無いと考えている。それが例えば、人類史において数度存在したというほどの稀少性であるにせよ、はたまた十回聞けば一度は真が混ざる程度にせよ、あるいは二回に一度は偽である程度であろうと、稀だという認知は変わらず。


 極論してしまえば、そもそも実際には八割方が真であろうとも、私が真であることを稀だと認知する系においては、その如何によらず、真は稀なものでしかない。そこに事実に由来する根拠があるかどうかなど、気にしない人には無意味な観点である。

 事実、私の主張、ないしは考えというものは、定量化されたデータに依拠したものではない。つまりは、ただ「なんとなくそうだろうな」と思っているに過ぎない。存外、世の真実などというものはそんな程度のものだ。 



 兎も角、感情や想いという、不明瞭で不確かな実存は、人の世に規定されてそこにある。間違っても、自分自身がそう思うから、という形で感情や想いがあるわけではない。他者の言葉を借りて、内在の情動を表す概念に類形を見出し、そうであると誤認することによってこそ、想いは言葉となる。

 内側に滾る、どろりとした心のそのままは、言い表すことのできない混沌として、ただそこにあるのだ。間違っても、口に出して冷えた単語が感情なのではない。似たような何かでは有り得ても。


 そして、こういう話をするにあたり、


「つまり、お前はそれを通して何が言いたいわけ?」


 というような、あくまでも人が何かを言葉にして語ることには、厳然と明確な意味がなくてはならない――みたいな、短絡的で有り触れた、俗世の感性に塗れた価値観の極致の如き質問をするものがいるだろう。

 ならば、私もまた、それに答えよう。別に伝えたい意味なんてものは最初からない。突き放した答えをするのであれば、即ち、


「そこに存在する事象に対して、価値を見出すのはお前自身の権利だ」


 とでも言っておきたい。何でもかんでも他者の意図に縛られてはいけない。必要なのは、あくまでも社会の制約と要請に応えることであって、間違っても思想家の呟き、感情より漏出する何かに、正解を求めることではない。混沌は混沌としてそこにあるものなのであって、意味を見出し得るものであろうとも、一意の解が常に伴うわけではないのだ。

 いつまでも学生気分で、さも定期考査の点を取りたいという観点で生きるのは感心しない。人生は、別にスコアアタックではない。そういう生き方も出来るだろうが、ならば尚の事、点にならないことに拘泥するのは愚かな振る舞いだと、私は思う。

 点数稼ぎなら別の所でやった方がいい、あると思います。


----


 結局、何が言いたいか、というアプローチでこの文を書いているわけではないので、この文はどこまで続くのかではなく、どこで終わらせるかによって長さが決まる。目安としては、小説家になろうの「空白・改行含まない」の文字数が三千文字を超えたあたりが、毎回の目標となっていたりする。ちなみに今で二千四百程度らしい。

 何故三千文字なのかというと、三千(さんぜん)という量が燦然(さんぜん)という言葉に読みが共通しているためである。さて、問題です。この一節は真(ほんとう)でしょうか、それとも偽(うそ)でしょうか。正解は後書きにでも書きます。


 そして、その三千文字を書くという目標が、三千文字程度で終わるかどうかについては、ぶっちゃけ書いている最中はわからんと言える。書きたい言葉というものは無から生じるのではなく、その前後の――と言っても書いているうちは原稿の中に後は存在しないのだが――文から連想されて生じるものであるため、やり方次第ではどこまでも連ねることができるだろう。したいかどうかは別にして。


 それにしても、こんな風に文章を書くようになって久しいが、学生の時分は読書感想文なども平気でぶっちぎって未提出というほど、文章を書くのは苦手だった。より正確に言うと、私が苦手だったのは文章を書くことではなく、時間を割いて課題をやる事と、ついでに言えば手を動かして文章を記述することだったと言える。

 苦手といえば、今でもそうだが、人前で何かを発表するという行為も苦手だった。こちらは単に私が私の声に自信がないとか、声だけでなく存在にも自信がないとか、諸々の自信のなさに由来するので、性質はやや異なるが。


 ただ、待ってほしい。要らんことを言っていたら、もう三千文字に辿り着くではないか。最初から要らんことしか書いてはないが、とはいえどうでもいい思い出話など、趣味には合わん。過去は捨てた、とか言う意味ではなく。

 でも、何か昔のことを書くのも楽しそうですよね。また別の機会にやってみよ。



 そんなことは、今回はどうでも良くて。

 人の世の想いは、果たして社会の網に囚われて在ると、何となくそのように考える。それは例えば、人の社会の中において、自分自身の感情を上手く取り扱うことであるとか、はたまた、人の社会を渡る上で、その網の中で自分自身の感情を取り扱い、取り扱われるという、存在が囚われて自由でない、という想念。

 元より「自由」とは何かという話でもある訳だが、ここでいう自由が指すのは、権利的自由(リバティ)よりは根源的自由(フリーダム)の方に寄るように思う。まぁ、正確なニュアンスが合っているかなんぞ知らんが、その二つは微妙に違う概念である。そして、その根源的自由(フリーダム)ですら、その語に縛られるが故に、根源的に自由ではない。


 想いの自由というのは、もっとこう、想いそのものを()()()()()()()()()()()()()自在にあることだと認識していて、語ることそれ自体が自由ではない。想いは、考えるだけで既存の概念に縛られる。想いとただ向き合うというのは、それだけで難しいのだ。言葉により規定された感情は、きっと原典ではないから。


 もちろん、原典でない、抑圧されて規定された感情に価値がないとか、そういうことを言いたい訳ではなく、あくまでもそれがそういうものであって、内在の不明瞭なねばつき、とろけるような熱、刺さるような冷気、他、色々(エト・セトラ)。混沌に属する言語化できない、言語化できていないからこそ唯そこにある情動というものも、それはそれとして大事にしていきたい。

 そして、そう思う反面で、誰か他人と向き合うときには、理路整然と秩序とともに在りたいと願い、未整理の感情を外に曝け出すことを良しとしないで、さも自身が高潔や無欠であるものと見せたいと願う、そういった烏滸がましさと矜持のもと、決してそうであれない自身の不出来に悲観する、そんな愚かさに塗れて過ごすのもまた、私が私らしく在ることの一つの側面であるのだと思っている。



 それはきっと矛盾なのではなく、言葉にできない私自身の本質で。

 それはきっと、私が他者の理解を欲した、他者に理解されるべきではない内心の本質だった。

 答:部分的に真(何となくまとまりとして読みやすい文量と認識している+燦然と輝く三千文字、みたいな冗句は大好きでして)

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