表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編

夜明けの海と猫の尻尾

作者: 日室千種

 また来てるよ、とおかみさんに言われて、わたしは思い切り困った顔をした。


 確かに入り口から覗き込んでいる人影は、昨日しつこく話しかけてきた男だ。嫌だと拒否しているのに顔を覗き込んだり、生まれや歳を探ってきたり。他所の土地で目に余るぞと、顔馴染みの客たちに手荒に追い出されたのに、今日も来たらしい。本当に、しつこい。


 帰り支度をしたはいいけれど、これでは店から出ることもできない。わたしがまごまごしていると、見兼ねたおかみさんが、迎えを呼びに誰か行かせるよ、と言ってくれた。


 雇ってもらって、一年。こんな風に、おかみさんはずっとずっと、わたしに優しい。


「おかみさん、ありがとうございました」


 わたしもね、昔は素直にお礼を言ったり甘えたりなんて、できなかったのに、変わったな、と思う。この一年で、温かく受け入れてもらうことを知ったから。どんな失敗をしても見放されないし、成功すれば一緒に喜んでもらえるというのは、とても安心することなんだと、思い出せた。

 じわっと気持ちを温めてくれるのは、おかみさんも、おかみさんの料理も一緒。だからおかみさんのお店が繁盛するのは、当たり前なのよ。きっとずっと自慢しちゃうと思う。ここで一年、働かせてもらったのよ、って。


 迎えは意外にすぐに来たので、堂々と男の前を通って店を出ることができた。男はこちらの視線は避けつつも、ずっとわたしの後ろ姿を見ていたらしい。


「なんだ、あいつ、じろじろと」


 こらこら、そんなに鼻の頭に皺を寄せたら、癖がついちゃう。

 背伸びしてそこを撫でようとしたら、その手を掴まれて、そのまま繋いでくれた。手が大きいから、すっぽり包まれちゃうのね。普段は外でこんなに甘くしてもらえないから、これは少し、あの男に感謝しちゃうかも。


 気を良くして、ちょっとだけ、ちょっとだけ、と一歩進むごとににじり寄って、そおっと肩に頭を寄せる。

 今日は内勤だったのかな。いつもは、汚れるからくっつくな、と怒られるけど、今日は何も言われない。これは、くっついていいぞ、ってことよね。


「カナリー」

「なあに、セトゥ」


 彼が、短くなったわたしの名前を呼んだ。今の私の名前。家名はない。

 あ、なんだか、わたしの返事の方が甘い声になってた。少し恥ずかしいのよね、こういう時。


「あいつ、昼間は移民局に来てたらしい」


 ドキリ、と胸が折れちゃったかと思うほど、音がした。胸は、折れない。わかってる。


「カナリーによく似た容貌の貴族娘を探しているという手配書が前から張り出されていたんだが、正式な依頼を自分が受けたからと、迷惑な事に大声で事情をぶちまけて、手配書を取り下げさせたらしい。

 シュ、いや、シェル、シェラ?」


 シエラカナル。それが、むかしのわたしの名だ。

 手配書の存在も、知っていた。セトゥには、言わなかったけれど。


「海向こうの公国で、由緒正しい高貴な家の娘が、両親を失い、後見となった叔父一家の元から失踪。情報を求める、という手配書だ」


 そう。さらりと言えば、そういうことだ。





 叔父夫婦は、馬車の事故で亡くなった両親の遺体がまだ屋敷に着く前からやって来て、すべての権利書を分け知り顔で持ち出して隠すと、家のすべてを好き勝手にしたのだ。

 遺体の損傷が酷いからとこじつけて、葬儀すら、まともなものをあげてもらえなかった。

 今でも信じられない。ただ二人の兄弟で、お父様はいつでも、叔父のためになにかと便宜を図ってらしたと思うのに。


 幸いだったのは、叔父夫婦に子供がいなかったことだろうか。

 両親が取り決めてくれていた婚約という契約があったおかげだろうか。


 わたしは彼らの後見のもと、貴族令嬢という枠にひっかかったままとなり、成人したら結婚して、わたしの夫が叔父の次に家を継ぐこととなったのだ。

 けれどかれらは、家の財産の全てを食い潰す事に、取り憑かれたように熱心だった。財産を継ぐ自身の子がいなかったことが、ここでは悪く働いたのかもしれない。わたしの夫が家を継ぐまで、家自体が存続できているかどうか、怪しいものだった。


 遊び呆けていたかれらは、当然わたし個人に興味はなかったが、放置もしてくれなかった。

 意地の悪い家庭教師を付けられ、叱責、折檻が日常になり、悪戯に心を折られる日々。親しくしていた使用人は皆辞めさせられ、与えられる衣食住は外の目を誤魔化せる程度の最低限だったので、みるみるうちに体は痩せて、肌にも髪にも、生活の苦労が滲み出た。


 叔父が乗り込んできたその日にわたしのこころは死んでいたので、そんな状況について、わたしは一言も周囲に助けを求めることができなかった。やがて全ての自信を失ったわたしは、相手が誰であっても、目も合わせられなくなった。


 初めは心配してくれていた婚約者も、一年が過ぎる頃には、会うたびに眉を顰めるようになった。なぜ、いつも同じ髪型と服なのか、他の令嬢を見習って少し自分を磨いたらどうか、とも言われたが。どうしても丈が合わなくなるまで服を新調してもらえず、身の回りの世話をしてくれる者もなく、髪を自分で結い上げると一つの髪型しかつくれないのだ。わたしはただ俯いて、申し訳ありませんと言っていた。


 結局、その二年後に、婚約者はわたしを見限った。

 女性の魅力に乏しく、改善の意思もなく、愚鈍で返事もまともにできず、体は貧相で出産に耐えるかどうかわからない。そんな女性を妻に迎えねばならないほどの悪行を重ねた覚えはない。ゆえに神も、この婚約を儀を取り止めることをお認めになるだろう、と。最後まで彼とは目を合わせずじまいだったので、きっと彼はわたしの目の色も知らない。


 それは神の御前の婚約式の席だった。両親と親しく付き合ってくれていたたくさんの家の方が来てくださると聞いていて、わたしは、懐かしい両親の話を少しでも聞けるかもしれないと、本当に久しぶりに嬉しい期待をして臨んでいたのだけれど。

 その式が始まるより前に、わたしの未来は閉ざされたのだった。

 とはいえ、もともと未来に望むことはなかったので、俯いているうちにいつの間にか式も婚約者も無くなってしまったことより、参加してくれた誰とも話す機会がなかったことが、悲しかった。


 いつか嫁に出すまでとかろうじて養ってくれていた叔父夫婦は、家柄の低い婚約者側からの契約不履行に腹を立て、違約金をたくさん取り立てたようだったけれど、それとは別に、わたしをなるべく高値の対価と引き換えにしようと計画し始めた。

 家庭教師が言っていた。世の中には、不幸にして売り払われるように嫁がなければならない女性がたくさんいると。その中で、わたしは恵まれているのだと。立派な婚約者がいて、家の跡を取ることができて。そして、わたしには縁がなくて羨ましいと言いながら、不幸というものにはどんなことがあるのかを、たっぷりと語り聞かせた。

 その裏には、家庭教師の個人的な暗い経験があったのかも知れないけど。知る由もないし、どんな事情も、わたしへの仕打ちの言い訳にはならないだろう。


 とにかくわたしは、うら若い乙女でありながら、世にも恐ろしい想像に心底怯えながら、途方に暮れていた。不幸な結婚は怖かったが、それを避けるための手段を何も持たなかったのだ。わたしの世界は狭く、世の中を一人で生きていける自信はなく、人に助けを求めることなど欠片も思いつかなかった。


 そんなわたしを訪ねて来たのは、どこぞの令嬢で、初めて会うその方は、元婚約者の真実の愛のお相手だと名乗られた。


「とはいえ、あなたのご両親には当家も恩があります。だから、逃がしてさしあげます。どこぞ安全なところへ行かれて、わたしたちの邪魔をしなければ、ですけれど」


 彼女はそう言って、俯いたままのわたしに、一枚の乗船券をくれのだ。もう婚約は正式に破棄されていたのだから、わたしはお二人の邪魔をする立場にもないはずなのに。


 当座のお金と、ひとりでも持てる鞄一つにまとめられた荷物と、港までの馬車の手配までしていただいて、わたしはよくわからないうちに、ひとつ隣の町まで来て、船に乗っていた。見届けないと安心できないから、と同行した令嬢が、港で見送ってくださっていた。俯きがちにぼんやりとその美しい佇まいを眺めていると、令嬢が彼女の護衛の方に帽子を渡した。


 空は晴れて、肌を焦がす日差しが降り注ぎ、船の舳先あたりの甲板にはちいさな蜃気楼が見えるほどだったので、帽子をとった令嬢の肌を心配したのだが。護衛の方はさっと渡しを通って船に乗り込み、わたしに帽子を渡すと、また降りていった。

 手渡された帽子は甘すぎない青紫色で、つばが広く、黒猫のチャームが付いている。思わず顔を上げて、真っ直ぐに港の令嬢を見た。令嬢は眩しそうにわたしを見上げて、にっこりと笑った。

 それは、わたしが三年ぶりに見た、誰かの笑顔だった。




 そうしてわたしはこの大陸に来て、自由を得た。

 自由を得た、という言い方をしていいのは、自由を使いこなしている人だけかもしれないわね。わたしの場合は、自由の中に放り込まれた、というべきかも。


船の中でもどう過ごしていいかわからなくて、おろおろしていたっけ。思い出すと、我ながらちょっと恥ずかしくて、笑っちゃうのよね。

 でも船では、心細くて、ずっと後悔していた。あのまま、屋敷に残っていた方がよかったんじゃないか、って。家を捨ててきたことも、両親を捨てたようで、後ろめたかったのもある。


 でも、港で、そんな小さな悩みをまとめて吹き飛ばすことがあって。


 船が大陸の港に着いたのは夜明けごろ。港はまだ暗く、海の音が大きく聞こえて、渡しを通るのも怖かった。甲板からはわからなかったけれど、船を降りてみれば、初めての土地は匂いからして違っていた。


 海のにおいはわかる。でもなぜ、スパイスのような匂いがするのだろうと首を捻っていたら、誰かが、日が昇るぞ、と後ろで言ったのだった。


 振り返れば、港よりよほど海は明るくて、どこからか照らされた表面の波が繊細なレースのようで。


 魅入られているうちに、はるか海の向こう側から、金色の光が差した。そして、みるみるうちに茜色の帯となり、壁となり、ラ、ラ、ラ、ラ、と幾千も重なり響き渡るなにかを伴奏に、空を支配しに押し寄せる軍勢のように高く立ち上がった。やがて白金の太陽がその姿を現し、曙光の露払いを受けて暗く沈んだ海を尊大に睥睨しながら、全てを塗り替えて、今日も勝利の一日を始めようとしていた。


 実際には、あたりには、海の音ばかり。けれど、初めて見る海の夜明けがわたしを蹂躙した時、耳にはっきり響いた、ラ、ラ、ラ、ラ。あれは、お母様の歌声だった。


 声楽に優れ、娘の時分には神へ奉納する歌の歌い手に何度か抜擢されたことがあるのよ、とお母様は可愛らしく自慢げにおっしゃっていたことも思い出した。幼い頃から親しんでいた透明な歌声は、時に幼いわたしをも揺さぶり圧倒する力に満ちていたので、わたしの中で、胸に迫り魂を揺り起こされるような事象に強く紐付いていたようだった。


 お母様の声だった。ずっとずっと、うまく思い出せなかった、お母様の声。そしてお母様の歌を聞いて微笑んでいる、お父様の笑顔。幸せだった家族の姿。

 両親と暮らしていた屋敷では、塗りつぶされてしまったように一度も思い出せなかった優しい記憶が、見知らぬ大陸に来てようやく、わたしの元へと戻ってきてくれた。

 わたしはしっかりと海を見た。もう、何も怖くない気がした。


 たぶんこの時、ぎりぎりなんとか間に合って、わたしは猫の尻尾を掴むことができたんじゃないか、って思ってる。


 あ、この大陸でも、あちらの国と同じ神を信じていて、神の姿は誰も見えず誰も知らずで同じなのだけれど、神の足元にいつもいる猫の扱いがかなり違うのね。大陸では、黒猫は幸運の使いとされていて。だから、幸運に恵まれることを、猫の尻尾を掴めた、と言うらしいの。面白いでしょ。

 

 ともあれ、大陸に来たわたしの一番の幸運は、宿を探す仕事を探すという発想もなく途方に暮れていたわたしを、その日のうちに保護してくれたのが、街の警備隊長でもあるセトゥだったこと。これは、間違いない。


 港から街へと歩いて出て一日中うろうろしていたのに、盗難にも人攫いにも合わなかったのは、その次くらいかしら。


 鞄を抱きしめて、道端に座り込んでいたわたしに、セトゥが声をかけてくれた。思い返せば、すごく気を遣って優しい声を出してたわね。手を伸ばしても届かない距離を空けて、しゃがんでくれてね。だから、わたしは海にもらった勇気をかき集めて、そっと、セトゥの顔を見上げた。それが出会い。

 その日からわたしは、カナリーと名乗っている。


 つまり話をまとめると。

 もうわたしにとって、シエラカナルのことは過去のことなのだ。




 セトゥの声が、肩から伝って、響いてくる。いい心地。目も瞑っちゃいそう。


「その娘は、婚約式で婚約を破棄されたそうだ。以来引きこもっていると言われていたが、ほとぼりが冷めて以降も、誰も会うことができず、婚約式に出ていた多くの家が問題視して連名で国に訴えが起こされ、その失踪が明らかになったらしい」

「あら、まあ」


 あの時、挨拶すらできなかったのに、気にかけてくれたらしいと聞けば、少し嬉しい。


「貴族令嬢が行方不明のまま届出もないなど、有り得ない。後見人の責任だ。国から調査が入り、後見人がまともに面倒をみていなかったこと、娘の分の財産まで着服していたことが明らかになり、娘が見つかるまで、娘の財産分として後見人の財産の大半が、国に差し押さえられることになったのだと」

「んん?」


 娘が戻るまで、は不要ではないかしら。まあ、戻らないから一緒かな。


「元婚約者は、娘の現状に一切気を配らず、何の手助けもしなかったこと、婚約式という大切な場で破棄を訴えるという常識のなさが取り沙汰されているそうだ。婚約を破棄されたことを気に病んで、令嬢が世を儚んだのではないか、という噂も広まっているそうだからな。肩身が狭いだろう」


「ええ、そうなの? ちょっと、かわいそう、かな?」


「可哀想? 婚約者の状況にも気付けない鈍感さは仕方ないとして、それでも誠実な態度でいればいいものを、何を勘違いしたか、差し押さえられた娘の財産に権利を主張したそうだぞ。真実を知っていれば婚約を破棄などしなかったし、違約金を払わずに済んだはずだから、とか謎の主張でな。

 それで、ついには親に、領地の田舎の一役人として勉強し直しながら生きていけと、追い出されたらしい」


 そんなに欲の皮がつっぱった人だっただろうか。もう顔も思い出せないけれど。

 だけどそういえば、婚約中も贈り物は一度もなかったし、会うのはいつも婚約者の実家のお屋敷で、買い物に一緒に行ったこともなかったものね。知らなかったけど、つっぱってたのね。


「そういえば元婚約者には、不貞の恋人がいたという話もあるが、その後あっさりと男を捨てたとか。そもそも付き合っていなかったという噂もあるそうだ」


 そうか。

 もしかして、本当に彼女は、わたしの両親に恩返しをしてくれたのかもしれない。そう思えると嬉しいから、そういう事にしておきたい。そうしよう。

 わたしはいつもベルトに付けている黒猫のチャームをつんと弾いた。


「それでおしまい、でいいんじゃないかしら?」

「ところが、だ。娘が帰ってくれば、国から財産を受け取り、それを自分達に譲らせれば良いと、叔父夫婦は考えたようだ。手配書だけでは手ぬるいと、爵位を担保にして借金をし、さっきの男を雇ったようだ」

「まさか。そんなことしたら、わたしが帰らなければ、爵位を売ることになるのに?」


 カナリー、と名乗った以外は、彼には全て話してあるのだ。今の話だって、わたしのことだとわかっているはず。だから、こんなに詳しく話を聞いて来てくれたのだろう。


 ううん、もしかしたら、すでにあらかた調べてあったことなのかもしれない。なにしろ、彼はこの街の警備隊長でしょう?

 この街はこの大陸で一番大きな都市で、大陸で一番大きな国の王様が住んでいるところ。わたしもこれを知ったのはつい最近なんだけど、この国は兄弟の絆が強くて、王様の兄弟が、街ごと王様を守ることになっているらしいのね。


 つまりつまり。

 彼はこの国の王都の警備責任者でもあり、王弟殿下でもある。だから、わたしみたいに彼に近づく女性は、きっと睫毛の数まで調べられるんじゃないかな。


 一年一緒に暮らしていて、全く気がつかなかったのだけどね。


 のんびり話しながら歩いていたのに、気がついたらもう、金の蔓薔薇を絡ませた巨大な門扉の前にいて、門番たちが、おかえりなさい、と大きく扉をあけてくれた。


 わたしは今朝はここから出掛けてはいないけれど、今日からここがわたしの家になるから、そのあいさつは、間違いじゃない。


 門から真っ直ぐに伸びる道は馬車用に広くて平ら。街の中の道は焼き煉瓦を敷いてあるけど、ここはたぶん陶器質のタイルを敷き詰めてある。これは丈夫だし、レンガより段差が少なくなるから、馬車が滑るように走るのだと聞いたことがある。

 でもそうか、本来は馬車で行き来する道なのよね。わたしのお仕事の最後の日は、記念にふたりで歩きたい、とお願いをしたのだけど、なんだか恥ずかしくなってきちゃうな。


 ゆっくりと歩いていると、いつまでも建物が大きくなってこない。予想をはるかに超える敷地の広さ。でも、いまはそのくらいがいいかなと思う。だって、こんなにくっついて歩くことは、これからも滅多にないだろうから。


 遠目に細部が見えるようになってきた建物は、宮殿というに相応しく、砂岩を積み重ね浮き彫りを施し、さらに色タイルと金箔、そして目にも綾な染料で彩られた柱が立ち並ぶ、壮麗なものだ。篝火がたくさん焚かれて、柱は一本一本が橙色に照らし出されている。きっと、セトゥの帰りを待っているんだろう。ごめんなさい。もう少しだけ、セトゥを独り占めさせてください。あと、心の準備の時間をください。


 やっと道のり半分かな、というところに大きな噴水があって、セトゥはわたしを腕にくっつけたまま、その脇で足を止めた。


 噴水は、この国では富の象徴。三段重ねの高みから滝のように流れ落ちる様子は、小山のようだ。麓の池になっているところには、蓮の花がいくつも蕾をつけていたから、早朝にはぽんぽんと咲くのかもしれない。時折、スパイスの香が混じった夜の涼しい風に、水滴が舞い飛ぶ。昼間の暑気が嘘のように、夜はいつも、すこし肌寒い。


 一年前は慣れなかったけど、今はこの匂いも気温も、しっくりと肌に馴染む気がする。わたしはきっと、本当はこの国の生まれだったんじゃないか、って思うくらい、食べ物も水も、こちらが断然好きなのよね。


 隣を見上げると、セトゥもじっと噴水を見ていた。

 黙っている彼は、何を考えてるんだろう。

 わたしは彼に請われて、今日からここに住むわけだけれど。




 猫の尻尾を掴んだとはいえ、わたしは心が不安定な状態で、海を見ては泣き、次の日は笑い、突然たくさん食べたり、たくさん戻してしまったり、ふらふらと高い波のように上がったり下がったり。とても、医学的にも危ない状態だったようで。


 驚くことに、セトゥはわたしを拾ったその日から丸ひと月の間、ずっとそばに居てくれた。朝から晩まで、起きてから眠ってまた起きるまで。すごいよね、これは。他人に対して、誰もができることではない。セトゥだって、誰にでもするわけじゃない、って言ってたけど。どうかしら。


 とにかくそうして、セトゥが暮らしていた小さな家にふたりで一年暮らして、お互いのことを知って、そうね、男女としても近しくなってきたけど。


 そんな穏やかな暮らしを変えて、この屋敷に移り住む理由は、聞いていないのよね。最初のひと月以外は、セトゥも普通の暮らしをして、警備隊長のお仕事だって問題ないみたいだった。だから、王弟殿下って聞いても、最初は信じなかったのよね。

 あまりに信じないから、セトゥはわたしを王様の前まで連れて行って、証明したのだけど。


 いいんだけどね。何があったって、受け入れることは決めてるんだから。

 あ、でも。その手配書のことは。


「わたし」

「お前は」


 あ、かぶった。

 でもどちらもわたしのことを言おうとしてるなら、焦らなくていいわよね。

 お先にどうぞ、というと、彼はわたしの手を握ったまま正面に立った。少し冷えてきた体の中で、手だけが、とても温かい。セトゥの熱。あ、でもわたしの熱でもあるのか。繋がってる感じ。いいなあ。


 セトゥは、星の綺麗な空を見上げて、ふうと息をついた。


「カナリーは、ご両親に愛されてた。急なことで亡くなった後も、彼らの常日頃の生き方が、時間はかかったが、今カナリーの名誉と権利を挽回した。それは彼らの、愛の証明だ」


 それは、彼がわたしの海の夜明けの話を聞いた直後に言ってくれたことに似ていた。


 屋敷に押し込みのように入ってきた叔父たちは、事故の知らせを理解することができずまだ座り込んでいたわたしを、わたしのわがままを叶えるために両親は死に、その死の責任は私にあるのだと、決めつけてひどく詰った。


 わたしはまだ12歳で、前日に雨に打たれすぎたせいで熱を出していたこともあり、何もかもが曖昧だった。ただ、なにやら不吉な使者が来たのにいつまでも帰ってこない両親に、極限まで不安が高まっていた時、恐ろしい顔をして、まるで見知らぬ男にしか見えなかった叔父に怒鳴りつけられ、頬を執拗に叩かれた。


 わたしの心はこのとき根っこから折れた。のちのちまで、わたしは叔父の傍に寄ることができず、その部屋で熟睡することができなくなった。


 両親が、わたしのわがままのせいで事故に遭ったのは、ほんとうだ。事故の前日に、教会の近くで見つけた傷だらけの黒猫を手当てしたものの、直後にうっかり逃してしまい、その行く末が気になってしかたなくて雨の中探し回った。心配した家の者たちに家へ連れ戻されて、嗜められて、それならお父さまとお母さまが探してよ、と怒りをぶつけたのだ。


 今夜は嵐になるから、無理だよ、とお父さまはおっしゃった。きっと猫も、賢い動物だから、ちゃんと隠れているよ。だから明日、雨が上がっていたら探しに行こう、と。


 翌朝、わたしは熱を出してしまい。約束を守った両親は、わたしが眠っている間に、と教会へ出かけて行って、雨で弱っていた道が崩れたのに巻き込まれたのだ。


 叔父に責められるまでもなく、事情を飲み込むにつれ、わたしは自分の罪が怖くて、誰かにわがままを言えなくなった。


 叔父たちの元からは逃げられたけれど、わたしが悪い子なのは変わらない。理不尽に親を責めて、その命運を決めてしまった。親を、殺めてしまった。悪い子だ。だからずっと、お母さまの優しい声も、お父さまの笑顔も、思い出せないでいたのだ。ふたりは、天国に行けただろうか。わたしは、きっと死んでしまってからもふたりに会えないだろうけれど。


 海を見て泣いていた時は、そんなことを考えていた。情けないよね、とある時話をしたら、セトゥは、言ってくれたのだ。カナリーは、そんなに寂しかったのによく生きたし、よく逃げようと決めた。きっと両親も褒めてくれる、と。それはもう、一筋の迷いもなく、きっぱりと全肯定してくれたのだ。


 その言葉を聞いて。わたしの心の中の海が夜明けを迎え、ラ、ラ、ラ、ラ、と歌声と笑い声が満ち溢れた。以来、わたしはもう海を見ただけでは泣かなくなった。いつでも、目を閉じれば歌声と笑顔を感じることができるようになったから。




 ずっと見守ってくれたあげくに、呪縛から解き放ってくれた彼を、好きにならないわけがないでしょ。格好いいし。外ではそっけないところもあるけど、二人きりだとなかなか情熱的で、こちらが追い詰められる時もたびたびで……。あ、ダメダメ、今思い出しちゃ。セトゥが大事な話をしてくれているところなのに。


「だから、国に帰るなら、今言ってほしい。手配書のこと、知っていただろう。帰りたいと思っているのなら、隠さないでいい」


 わたし、口開いちゃってるよね。かなり間抜け顔よね。でもだって、え、だって。

 今日からここに、住むって。


「や」

「カナ」

「やだやだ、いや。いや。追い出さないで」

「カナリー」

「今日から、わたし楽しみにしてた。してたのに…」


 まるで12歳の子供のように。

 両親の葬儀でも、泣くことができなかった、代わりのように。

 おいおいと泣き出してしまったわたしを、彼はぎゅうっと、本当に強く抱きしめてくれた。


「わかった。帰るな。ここにいろ」

「いる。いるう」


「正式に結婚して披露目をしたら、もう誰も、お前をこの大陸から連れ出せない。そのためにこの屋敷に住む」

「うん、すむぅ」


「捨てられた猫のように見上げてきたよな。だから拾った。その青紫の目は、俺のものだ。一生帰るな。許さない」


 うん、うん。

 頷いて、全身でセトゥと体温を分かち合いながら、わたしは両親にありがとうと祈った。幸せです、と。

 もちろん、黒い尻尾の持ち主にもね。


評価★いただけると嬉しいです。

よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ