愛のある話
登場人物の名前が出てこない話。
「しょせん政略結婚なんだから、いいだろう」
と、私の夫は言った。
何が、といいますと、夫が愛人を持つことについてです。
私が祖父母のいる隣国に行っている半年間に、この男は浮気をしていたのです。相手は社交デビューしたばかりの男爵令嬢だとか。
開いた口が塞がらない、というのをまさか自分が実感するとは思いませんでした。私が隣国に行っていたのは葬儀のためですわ。身内の葬儀を「仕事がある」のひと言で欠席しておいて、浮気とは。
「そのお相手は愛人になることを了承してらっしゃるの?」
「ん? あー……それは、彼女は私を愛しているのだから、当然だろう」
これは確認を取っていないとピンときました。社交デビューしたばかりのうら若きお嬢さんなら、愛人ではなく結婚を望むものでしょう。気の毒ですわ。
私と夫は、彼の言った通り政略結婚です。家格は私が侯爵家、彼が伯爵家と私のほうが上でした。我が家は辺境伯家の軍事力を、彼の家は我が家の財力を欲してのことです。国の政策の一環として成立したものでした。
とはいえ彼は軍部の家柄だけあって逞しく、私はすっかりのぼせ上がって自分の夫に恋をしました。愛しているのです。
彼のプライドを傷つけないようさりげなく援助し、社交では常に夫を立て、夫に不満を抱いている若手軍人にフォローを入れたり。伯爵夫人として尽くしてきたと思います。
あまり身なりに頓着せず、粗野で乱暴者と誤解されがちだった夫を、今の見るからに頼りがいのある軍人に整えたのは私なのです。粗野で乱暴どころか小心者で卑屈なところのある夫の、そんな弱さも可愛らしいと思っていましたわ。私だけに見せてくれる、弱さだと。
「……わかりました」
にこりと笑ってうなずけば、私の夫は安心したように笑いました。心が引き裂かれそうな痛みを堪えている私に気づくことなく立ち上がり、私の前から去って行きました。
かまいませんわ。今や家政は私が握っていますもの。夫が愛人を作ろうと、別にかまいません。
夫が帰ってこなくても、私の生活はあまり変わりませんでした。
ただ社交には夫と行かなくなりました。自分の夫が脂下がった顔で自分以外の――若い女に笑いかけているのを見たくなどありません。
この話をすれば父は戻って来いと言ってくれるでしょう。ですが兄も結婚して子供がいますし、兄嫁は小姑が出戻ってこられても困るだけです。兄嫁とは仲良くさせてもらっていますが、それと一緒に住むのとは別の話ですものね。
なにより離縁で困るのは民です。いつまでも私の実家におんぶにだっこでは、とはじめた事業がようやく軌道に乗ったのに、私が実家に帰れば事業は取り潰しになるでしょう。
退役軍人や負傷により退役を余儀なくされた元軍人を集めての堆肥作り、炭焼き、道路整備をはじめました。炭焼きの際には液肥もできますので一石二鳥ですわ。さすが体力のある軍人で、力仕事も楽々こなしてくれます。
そしてそれらを私の実家から招聘した商会があちこちで販売してくれているのです。伯爵領の道路は軍馬の牽く戦車で荒れておりましたので、道路整備は必須事業でしたわ。
商人が来るようになれば警備を増やして治安を良くし、宿や食事処なども増えました。景気が良くなり、領は活気が満ちて来ています。
軍事費に多くの予算を取られていたのが、福祉にも回せるようになったのです。さあここから、と明るくなった民を、私の都合で見捨てることはできません。
ここまで軍事に力を入れているのはもちろん理由があります。伯爵領はいわゆる辺境にあり、国境を超えた向こうには砂漠が広がっているのです。
そこには遊牧民族が住んでいるのですが、大変好戦的でしかも強いのです。我が国に侵略せんとたびたび国境を攻めてきます。
一方の我が国は山々が連なる山脈から流れる豊富な水があり、土壌も豊か。欲しいと思うのもわからないではありませんが、こうも戦争をしかけられては友好など無理な話です。言語も文化も風習も違う敵国に同情で付き合う義理はありません。こちらだって必死なのです。
そんな理由ですので国も融通してくれてはいるのですが、中央から派遣されてくる人は中央の有力貴族のご子息で、たいてい箔付けか、おしおきの意味合いで送られてくる人が多く、はっきりいって使い物になりません。甘えん坊のバブちゃんですわ。
けれども小心者の夫はそんなお子様にもガツンと言うことができないのです。あからさまな見下しに睨み返すことしかできず、溜まった鬱憤を部下へのしごきで晴らします。
大切な領民からお預かりしたお子さんを、戦ならともかく上司のパワハラで負傷させるわけにはいきません。夫と彼らのフォローは私の役目でした。
夫も大変なのでしょう。幼い頃から戦塵に塗れ、疲れてしまったのかもしれません。妻に自分の矮小さを見抜かれてプライドが傷ついてしまったのかもしれません。
私は懸命に夫を支えておりましたが、夫の心に寄り添えなかったのかもしれませんね。自分の恋に夢中になって、大切な夫のためと大義名分を振りかざして、肝心の彼の心に目を向けていませんでした。
よそに安らぎを見出してしまったのは、もう仕方がありません。せめて愛人を認めてあげることが、私が夫に捧げる愛ですわ。
◇
「すまなかった……」
と、私の夫は言った。
愛人宣言から三ヶ月です。思ったより早かったですわね。
愛人として囲っていた男爵令嬢に、妻と離婚して自分と結婚しろと迫られ、結構な修羅場を繰り広げたのだそうです。
若いお嬢さんです。結婚に夢見るのは至極当然のこと。おまけに伯爵夫人の私を蔑ろにしている、と社交界で冷遇されたのだとか。まあ、これも当然ですわね。
夫にとって私は良き妻ではなかったのだとしても、伯爵夫人としては満点ですもの。この伯爵領の社交界で私を敵に回す愚は誰も冒せません。社交がこうして華やかになったのだって、私の尽力があってこそですのよ。奥様ネットワークの頂点に私がいるのです。
軍のみなさまにも安心して働けるようになった、とお褒めいただいております。その大恩ある奥様を「しょせん政略結婚」なんて蔑ろにして、夫に対する不満は不信にまで育っていったのですわ。
愛人に与えた家で暮らしていた二人ですが、私が面倒を見なくなって夫の化けの皮が剥がれ、それでも愛人はムキになったのか頑張っていたようです。愛人と暮らしはじめたらみすぼらしくなった、なんて女として屈辱ですものね。
ランドリーメイドやオールワークスメイドも夫が何者か知っていました。私を放って愛人に甘える夫に思うところがあったのか、ずいぶん手を抜いていたようです。メイドの指導もできないのは女主人の質が問われる事態。負けたと思いたくない愛人が結婚を迫るのも当然の結果ですわ。
おまけに娘のしでかしたことを知った男爵家が激怒して、別れないなら縁を切るとまで言ったそうです。
愛人については、少し可哀想に思わないでもありません。領主様との禁断の恋に酔ってしまったのでしょう。若い娘なら一度は夢見るシチュエーションですわ。せめて彼女に良い縁談が来るよう手配しなければなりません。それがせめてもの詫びであり、正妻の義務ですわ。
悪いのは、そんなお嬢さんに甘えた夫なのです。ようやく現実が見えたようですが、二人の女の心をもてあそんだ罪は消えませんわ。
「旦那様、私、あなたのことが好きでしたの」
「おお……っ」
喜ぶのはお待ちになって。おしおきは必要ですわよ。
「だから彼女のことを認めました。とても苦しかった……。でも私、気づいてしまったのです」
どうやら良い話ではないとようやく気づいた夫に、わざとらしいほどにっこり笑いかける。
「あなたがいないほうが、楽だって」
夫は絶句してしまいました。だって、ねえ。いちいち気を使わなくてすむのは本当に楽だったんですもの。はっきりいってこの三か月間は快適でしたわ。
「ですからどうかお気になさらず。せっかく家まで買ったのなら次のお相手を見つけたらいかが? しょせん政略結婚ですもの。ご心配なく、私の生んだ子が、跡継ぎですわ」
この小心者の夫が私の力を思い知った今、できないことを承知で言ってやりました。
伯爵夫人の私が生んだ子は当然夫との子供ですが、自分が浮気した彼は疑うでしょう。そして浮気されまいと懸命になるでしょう。
私だって女です。私ばっかりではなく、あなたに尽くされてみたいのです。
どうか私に花をください。愛を囁くのは私だけにして。そして私に心をください。私を愛しているとおっしゃって。他の女なんか見ないで、私を見てください。
私は愚かなのかしら? それでもいい。あなたが好きなの。愛しているの。涙も出ないほど。
「君を愛していると、気づいたんだ……」
「あら奇遇ですわね、私もです」
どうぞ私の愛に胡坐をかいてください。そうしたら何度でも、思い知らせてあげますわ。
「私」は愛が重いタイプ。夫は小心者の自覚があるから試したいタイプ。愛人は愛が正妻との勝負になるタイプ。