音楽のない世界#6
私の携帯電話が鳴った。夫が迎えに来たらしい。
裕太君とリンダを連れて、夫が待つ校門の前に到着する。
私が運転をせずに夫に運転を任している、もう一つの理由がそこにあった。黒のクラウンが一台止っていた。
実家の車はボコボコ、結婚したら運転してほしい、ということを夫は承諾したが、条件が一つあった。僕に車を選ばせてほしい。地理が好きで、いろいろなところに出かけるだろうから。僕が好むデザインの車で行きたい、費用も文句を言わないこと。
その結果、高級感にあふれ、実際の費用もそれなりにした、このクラウンが家にやって来た。こんな高い車をボコボコに私はできなかった。
ドアを開けて、リンダと裕太君を乗せる。
「お帰り。その子が送り届ける子だね。伊藤です。よろしく。」
夫は、少し明るい声で言った。
「斉藤裕太です。」裕太君は自己紹介した。
「リンダも一緒だね。」
「ヒサシブリネ。」
夫とリンダは私を通して面識があった。
「さて、少年、住所を教えてくれ。」
夫が、車のミラー越しに裕太君の目を見る。裕太君は私に言った時と同じように、夫に住所を伝えていく。
夫はナビを入れていく。この姿が珍しい。いつもならば、夫は地図がわかっているので、ナビは基本的に入れないのだ。
目的地の地図を確認した瞬間、夫の目の色が変わる。そして、不審な顔つきになる。
「ここで、合ってるのか。少年。」
裕太君はこくりと頷く。
「綾、本当に確認したの。」
「確認したよ。現にこの子、私にも同じ住所を教えてくれた。校長先生にも教頭先生にも。」
私は自信ありげにそれを言う。そう、彼が言ったのだ、この住所を。確かに覚えている。
「どうかしたの?」
夫に尋ねる。
「ここは、ハマダ電気だぞ。この間、結婚するときに、洗濯機と冷蔵庫を買った。ハマダ電気」
「ハマダデンキ、ワタシノイエノソバニアル、ワタシモココデ、イロイロカッタ。」
リンダが続ける。
「そうだよ、リンダまさにそのハマダ電気だ。」
夫は断言する。地図がすぐに頭に入ってこない私は、本当なのかわからない。リンダも同じだった。
「まあ、いいや、ハマダ電気の隣にあるのだろう。僕もあんまり結婚して引っ越してきたばかりだから、周辺の建物とかは頭に入っているわけではないし。」
そういって、夫は開き直った。
「綾、知っときなよ、一応二人で住んでいるとはいえ、ここは綾の地元なんだし、実家もこの近くなんだからさ、僕は電車があれば東京の会社にどこからでも通えるから、こっちに住むようになったけど。」
まさに、夫の言うとおりだった。地図が苦手なことや、方向音痴に関しては、私の特技、夫の意見に対して、反論もできない。
「はーい。」と一言いって、夫から頭を撫でてもらう。
「まあいいや、車を走らせてみよう。」
そういって、夫は車を走らせた。さすが、クラウン。性能のいい車だ。まるで音もなく静かに加速する。そう、『音楽のない世界』を一瞬だが、それを感じる。
夫はナビ通りに車を運転していく。確かに、この車はハマダ電気に向かっている。結婚するときに、洗濯機と冷蔵庫を買った、あのハマダ電気に。
小学校を出て、前の旧道のような道を道なりに進んで、そして、広いバイパスに出て、バイパスの陸橋の手前で側道にそれて、陸橋で交差する下の道を左折。
その道をしばらく走るとハマダ電気だ。
「目的地周辺です。音声案内を終了します。」
ハマダ電気の前で、ナビから声が聞こえてきた。ハマダ電気の駐車場に車を止めた。
夫はあたりを見回して言った。
「ハマダ電気だ、そして駐車場だ。少年の家はどこだ。」
「ここ。この道沿いにあるんだけど。ない。何で。」
裕太君がとまだっているのがわかる。
「そして、今全部通って来た道、確かに通学路で、学校まであってるんだけど、建物とか全然違うの。」
一生懸命、裕太君は夫と私に説明している。
「そして、僕の家がある場所はここであってるの。」
この言葉に私は戸惑う。ここ、ここなのか。ここは少なくとも10年以上前から、このハマダ電気が営業している。
「少年、ここに住んでんのか。」
夫は、明らかにハマダ電気の建物を指差して、笑いながら言っている。
裕太君の口元が、違うと動く。目からは少しばかり、涙をためているようだ。この表情、そして、彼の言った住所が性格なのは確かだ。ではいったいなぜか。
そうだ、ナビが間違っているのか。そうだ。
「耕治君、私に運転代わって。」
夫の耕治に言った。ナビの操作ならば私も知っている。むしろ私の方が扱いなれている。夫、耕治は地理が得意なので、ナビの操作はあまりしていない。
「いいけど、変に壊すなよこの車。」
私は運転席に座った。
「裕太君、住所もう一回教えて。」
裕太君の言った通り、住所を入力した。車のナビは明らかに現在地の場所を指していた。
「すでに目的地周辺です。」
車のナビがそう伝える。
私の携帯のアプリなら。同じように住所を入力するが、車のナビと変わらなかった。
「裕太君とか言ったか。裕太君の家は今、あるの、無いの。」
夫が、私の代わりに聞き返した。
「ない。」
涙を浮かべながら、頑張って答えた。
「仕方ない。校長と教頭に連絡して、最悪、確認が取れるまでうちで預かるしかない。」
―なんで、そんなことになるのよ。―
と、私は聞き返したかったが、それもそうだった。学校内で、けがをした子供をほったらかしにした、というのであれば、さぞかし大ニュースになり、
『教師は何をしているのだ』
と、俗世間様から、大バッシングを受けることになり、この小学校に問い合わせやマスコミの取材が殺到し、多忙な日々が続くことになる。
そして、私は、彼を助けた当事者なのだから。
校長先生と教頭先生に連絡し、ここまでのいきさつを話したら、やはり夫と同じ回答で指示が出た。
彼はしばらく我が家にあずかることになった。
夫の車で、リンダを送り届け、私たちは自宅に向かった。後部座席に裕太君を乗せて。
私の家はこの学校の隣の区域、南区第二小の区域にある。ここは駅の傍であり、私たちの家も駅前にあった。月極めをしている駅の駐車場に夫は車を戻しに行き、私と裕太君は家に入った。
家と言っても、駅前の10階建てのマンションで、マンションの1階にはスーパーと薬局。2階には眼科と、整体医院、そしてハローワークがある。住居部分は3階から上にあり、私たちの家は5階にある。
薬局の隣に住居者用の玄関があり、自分の家の鍵を使って、エレベータの呼び出しボタンを押す。このエレベータとその隣にある階段は、自分の部屋の鍵がないと、前者は呼び出しボタンが押せない、後者は通用口が開かない仕組みだ。
エレベータで5階に上がり、私たちの部屋に着き、裕太君を通した。
予備の布団を裕太君に用意する。
彼はありがとうと言って、頭を下げた。
これから一体どうしようか、と私は思った。