音楽のない世界#5
音楽室のピアノの前に相変わらず裕太君は座っている。
「ちなみに、この黒くて大きいものは何というか知ってるの?」
私は裕太君に質問してみた、さっきから、ピアノのことを黒くて大きいものとしか言っていない。裕太君の口からピアノという単語が出ていない。
「知らないです。」
彼はやはり『音楽のない世界』にいるようだ。ピアノが弾ける、ピアノを弾くという言葉を知らなそうだったからだ。
「これは、ピアノと言って、これを使うことを、弾くという動作なんだよ。」
私は言った。リンダはそれを微笑みながら見ている。
「ピアノが弾ける、ピアノを弾く、この動作で音楽、さっきの会話ね。」
私は、そうに続けた、裕太君はこくりと頷く。
「さっき、弾いていた、ひいおばあさんの教えてもらったものって知ってる。名前があるの。」
「知らないです。名前ってなんですか。」
「さっきのは、曲と言って、今弾いていた曲の名前が、『エリーゼのために』というタイトル。これを作ったのが・・・・」
私は、先ほどの教室後方の作曲家の肖像画を指差す。左から、4番目を指差して。
「きりっとした、真剣な怖そうな目で、こちらを見ている人がいるでしょう。ベートーヴェンと言って。他には。ちょっとピアノ貸してね。」
私はピアノを弾く、『月光』。もうすぐ日が暮れる時間ということで、このピアノの曲を弾く。
「なんか暗い。」裕太君はそう言った。
「まあ、月の光、夜をイメージした曲だからね。」
「ピアノの曲以外にもあって。」
「ピアノの曲以外ってなんですか?」
裕太君がまた聞いてくる。
「オーケストラとか知らない?ヴァイオリンとか、フルートとか、トランペットとか。」
「オーケストラ? ヴァイオリン? フルート? トランペット?」
裕太君は全ての単語に首をかしげた。
オーケストラの楽器も知らないのか。私はそう思った、一緒にいたリンダも同じだった。
「ミュージック、タノシイノニ」
リンダが心なしかゆっくりつぶやいた。
「では、気負取り直して、オーケストラのピアノヴァージョンですが、ベートーヴェンで。」
『運命』。
ジャジャジャジャーン。ジャジャジャジャーン。と。
裕太君はそっけない表情をしている。この世界では普通、この冒頭で、ああ知ってる。という顔をするのに・・・・・・。
「知らなかった?」
裕太君はこくりと頷く。
「それでは、同じベートーヴェンで。」
『第九』.『歓喜の歌』の有名な箇所を引いてみる。これも知らないという表情だ。
私は負けない、負けたくないと思い。
「他の人のもやってみる、あの肖像画の中で。例えばベートーヴェンの左隣。左から三番目。モーツアルトという人。」
『アイネクライネナハトムジーク』、『フィガロの結婚』と弾いてみたがやはり空振り、知らないという表情だ。
「ピアノ、だよね。そしたら、真ん中の黒い服を着た、普通の人のような感じの人。」
私は指差す。指の先にはショパンの肖像画だ。
『子犬のワルツ』、『華麗なる大円舞曲』をやってみる。すると、彼の表情に変化が現れた。
「おそらく、ひいおばあさんが使ってたかな。」
「うん、まだ難しいからと言って、使い方を教えてくれなかった。そしてそのまま死んじゃった。」
よしよし、ピアノの曲なら多少知っているものはあるのだろう。
そうだ、彼のひいおじいさんから教わった曲も無駄ではない。
「ねえ、ひいおじいさんの教わったものをもう一回弾いてみてくれる。」
裕太君にピアノの場所を譲る。得意げに裕太君はピアノを弾く。
『みかんの花咲く丘』それに私は併せた。彼のピアノに合わせて私は歌った。
『花』でも同じことをした。
裕太君は唖然としている。
「さっきのはなんですか?」
「歌。歌詞。この曲は、言葉が付いているの。こんな感じで。知ってた?」
「知らなかったです。」
やはり、歌詞は知らないようだ。
そうだ、リンダが居るのだからリンダにも手伝ってもらおう。
「ちなみに、歌詞は日本語以外でもよくて。英語、書けていたけど、話せていなかったよね。英語を覚えるためにも・・・。リンダ来て。」
私はピアノの伴奏をした。
「ピアノはこういう使い方もできるんだ。」
そういって、リンダが知ってそうな英語の曲を弾いた。イギリスの出身。世界中のだれもが絶対に知っているバンドがある。
『Hey Jude』。得意げにリンダは歌う。生き生きとしたリンダの表情に、裕太君は最初は興味がなさそうだったが、リンダの歌い方、迫力に圧倒されたのか。
終わってみれば拍手をしている裕太君がいた。
ああ、よかった。『音楽のない世界』に唯一、不思議な力を持った人を、こちらの世界に少しでも引きずり込むことができた。それに私は大満足した。
『音楽のない世界』、彼の世界は一体何なのだろう。つまり彼の家とその周りの人、曽祖父母以外の人は一体何者なのだろう、どんな家なのだろうと疑問に思った。もっと、言えばピアノを引き取りに来た業者もだ。
いや、私の考えすぎだ。彼の家が音楽を知らない人が多かっただけで、業者に関しては、ピアノの処分に関してのマニュアルがなかったのだろう。
すべては、この後、彼の家に行けばわかる。送り届けるように校長先生に指示されたのだから。大丈夫、普通の家の子だ。そして、両親にはピアノを弾かしてもらえるようにお願いしよう。
私はそう思った。そう、彼の才能を潰さないために。音楽の存在するこの世界で、正当に評価されて、彼のいじめが無くなるようにするために。私にできることはそれだ。
心に深く、決心をした。