音楽のない世界#4
職員室で、私は夫に連絡を入れた。
「車で迎えに来てほしい。生徒を送り届ける必要が出てきたので、一緒に車出してもらえない。仕事が終わって、家に帰ってからでいいから」と。
私は、先日婚姻届を出して、結婚式を行ったばかりなのだった。お互い、音楽が好きというところで、惹かれあった。夫の仕事は、ITの仕事をしており、電車で通勤しているが、今日は少し早く帰れそうであったため、電話してみた。
二つ返事で、OKのサインをくれたが、生徒は大丈夫なのか。と聞かれたが、それで大丈夫と答えた。
私の家は、隣の小学校の区域にあるのだが、そこまで距離が離れていないため、自転車で通勤していた。
私は、ある意味で、この自治体で教師をすることが気に入っていた。政令指定都市でもあり、異動もこの市内の学校で済む。この市は公共の交通機関が充実しており、車を必要としなくて済むからだ。
そう、私は車を運転したくないと思っているし、運転すると事故を起こしてしまうし、いろいろなところにぶつけていた。事実、私の実家で運転していた、実家の車はボコボコだった。
今、夫とつかっている車もある意味で運転したくなかった。
夫に連絡を入れて、裕太君、リンダ、私の3人で音楽室へ向かった。
裕太君は珍しそうに、音楽室を眺める。
「ここは。」と聞いてきた。
「音楽室。音楽の授業をするの。」
「音楽って何。さっきから、音楽室と言っているけれど。」裕太君はさらに続けた。
「音楽って何ですか・・・・・。」
―音楽って、なんですか。―
裕太君は6年生。普通であれば知っていておかしくないのに、音楽の授業も知らないし、音楽の単語の意味も知らないのか。
「歌を歌ったり、楽器を演奏したり、あっ、リコーダーとか持っていない?それを演奏したりするんだけど。この学校で。」
彼は首を振った。先ほどの発言で、リンダも驚く。
「ミュージック タノシイ シラナイノ?」
彼はうなずく。そして、物珍しそうに、音楽室の様子をうかがう。
「この絵の人たちは誰ですか?」
音楽室の後ろにある、クラッシックの作曲家の肖像に興味深々だ。
「ああ、昔の作曲家。歌を作った人たち。」
「先生は、知ってるんですか。」と彼は聞いた。
「もちろん知ってるよ。」
「一番左の人はどんな人ですか。」と聞いてきた。
バッハだ。
「バッハ、と言って。例えば。」
音楽室の前方のグランドピアノに私は座った。裕太君は私を追っている。
「あっ、これ。家にあります。」
「ピアノが家にあるの?」
驚いた。音楽を知らないのにピアノが家にあるのはとても不思議だ。
「はい、全く同じ黒くて、本当はこの横に文字が書いてあるんですけれど。」
「文字?どんな文字?」
彼は黒板に字を書き始める。
『STEN』と。
「もっと文字があったのですが、STEN何とかと。」
おそらくスタンウェイ。スタンウェイのグランドピアノが彼の家にある。なのに音楽を知らないというのか。一体、何者なのだろう。
「家のこれは、誰が使っていたの。」
私は質問をしてみた。
「ひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんが使っていました。でも、ひいおじいちゃんは5歳の時に、ひいおばあちゃんは3年生の時に亡くなってしまって。それ以来、家の人は使っていないし、使い方も知らないと言っています。家の人は捨てようかと言ってますが捨てられなくて。今では僕が遊んでます。2人から使い方を教えてもらったので。」
「ピアノ、弾けるの?」
彼は、首をかしげる。
「これ、使えるの?」
私は、質問を変えた。
次の瞬間こくりと彼はうなずく。
「ちなみに、使い方として。さっきのバッハの。」
『主よ人の望みの喜びよ』を私は弾いた。彼は表情を変える。
「ひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんがこれを使っていましたた。たしか。」
裕太君も同じように弾く。冒頭の部分だけであとは忘れていたようであったが、それでもしっかり弾けている。
「他にも、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんから教えてもらったことをやって見せて。」
私は、言ってみた。
「ひいおじいちゃんが死んじゃう前に最後に教えてくれたのは・・・・・。」
『みかんの花咲く丘』と、滝廉太郎の『花』を彼は弾いた。私とリンダが拍手をする。
「ひいおばあちゃんが死んじゃう前に最後に教えてくれたのは・・・・・。」
『エリーゼのために』を彼は弾いた。私とリンダは拍手をする。そして、目を丸くする。
「ピアノ弾けるじゃん。本当に裕太君、音楽知らないの?」私が質問する。
「ミュージック シラナイノ オカシイ?」
彼は、首をかしげる。
「これ、使い方わかるじゃん。」言葉の表現を変えた。
「わかります。」
「この使い方がわかるというのが、ピアノが弾けるという意味だよ。そして、ピアノが弾けるというのが、音楽。簡単に言えば。」
私は裕太君にそう教えた。
「あの、褒めてるんですか?」
裕太君が私に言う。
「そうだよ。これが使えるのはすごいことだよ。」
私は言う。リンダもうなずく。
「お父さんと、お母さんは怒られます。そんなわけのわからないの使っていないで、勉強しろとか、音がうるさいとか。」
何故だ。彼の両親は音楽を知らないというのか。
「お父さん、お母さんだけでなく、おじいちゃんとおばあちゃんも同じように言います。ひいおじぃいちゃんと、ひいおばあちゃんだけがこれを使える変人で、気色悪い人だった。だからこれは捨てる。ひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんが死んだ今、必要のないものとなった。と。生きている間は、二人は大反対したけれど、死んだ今はおんなじようにあの世へ送るのが、このわけのわからない黒いものにとっては一番いいのだと。家にあってもこれは邪魔だと。」
いったいどうして、そんなことがありうるのか。
「でも、捨てられなかったんだよね。お父さんもお母さんも。」
私は、続ける。
「業者さんに来てもらいました。でも、業者さんも、処分の仕方がわからないと言います。」
裕太君は答えた。
明らかにおかしい、『ピアノ売ってください』、そして『電話してください』とかいうコマーシャルもあるのに。スタンウェイのグランドなら、『電話してください』とノリよく歌っているコマーシャルの業者に実際に電話すれば、相当な値段で引き取ってくれるはずだ。両親も祖父母も、そして業者もピアノというモノを知らないのか。
まるで、彼だけに音楽があって、彼の居る世界はそう、『音楽のない世界』のようだった。
つまり、『音楽のない世界』に唯一、音楽の才能を持った裕太君が居る。一体どういうことなのだろう。