第八一話 鬼族
ボス部屋は広い。どうしてそんな広さが要るのだろうと思えるほど、首を傾げたくなるほど広く、そして天井も高い。
純粋に疑問なのだが、軽く一〇メートルは超えていそうなこの天井は、しかしどうして上の階層に何ら影響を及ぼしていなかったのだろうと思う。マップで見たところ、別に吹き抜けになっているというわけでもなければ、不自然な構造になっていたわけでもない。他の階層同様、特に違和感のないマップだった。
このことから、ボス部屋というのはもしかすると上の階層とは、物理的に繋がっていないのではないかと思う。
天井を隔てた向こうに上の階層がある、というわけではなく、もしかすると全く別の空間にこのフロア、或いはこの部屋が存在しているのかも。
ダンジョンというのは、異空間に生成されるものだ、なんて説があるらしいけど、それもあながち間違いではないのかもと考えてしまうな。
……などというのは、ある種の現実逃避的な思考に過ぎず。
私は正面よりビリビリと放たれる圧倒的なプレッシャーに、身震いせぬよう気を張るので精一杯だった。
幸か不幸か私達の前方に佇む、この黒い鬼には言葉が通じる。
そしてどうやら、話というものを毛嫌いするタイプでもないようで。今のところは言葉のキャッチボールが成立しているように思えた。
だが、いつ突然戦闘に発展しようと不思議ではない。
一瞬たりとも油断することは許されず、私は胃が痛くなる思いで黒鬼に言葉の続きを促した。
「珍客とは、どういう意味かな? 貴方は彼女の、ココロちゃんのことを何か知っているの?」
『いやなに、人と鬼が共に居ることに少々面食らっただけよ。其奴のことなど知らぬ』
「コ、ココロは鬼ではありません! 人間です‼」
黒鬼の言葉に、堪らずココロちゃんが反発する。
それはそうだ。彼女は自らを鬼から遠ざけたくて、こんな所まで来たのだから。
そんな忌むべき対象と自らを混同されは、たまったものではない。
しかしそんなココロちゃんに、鬼は告げる。
『いいや、鬼だ。ヌシは鬼だぞ、小娘』
「「「‼」」」
黒い鬼の断言する言葉に、私たちは揃って息を呑んだ。
ココロちゃんが鬼……? 確かに彼女は、鬼というジョブを持っている。
そのせいでこれまで彼女がどれほど苦労してきたか、想像するに余りあるというもの。
それも全てはジョブが悪いのだ。普通の人になりたいと、彼女はそう望んでやまなかった。だというのに。
「コ、ココロちゃんは確かに鬼というジョブを持ってはいる。けれど、貴方の口ぶりは……」
『この儂が、同族の気配を見誤るはずもない。ココロと言うたか、ヌシは間違いなく我らが同胞、鬼の末裔に違いないわ』
「っ嘘だ‼ だ、だって、鬼はとっくの昔にモンスターになったって! だったらココロが……そんな、あり得ません‼」
『確かに、儂を含め多くの同胞は鬼を御すことが出来ず、怪物に成り果てた。だが、全てではなかった。それだけのことよ』
「っ!?」
黒鬼曰く、鬼の中にも争いを嫌い、狂うことを恐れたものは存在したと言う。
そしてその中には、故郷を離れ、人目につかぬ場所に隠れたものもあったらしい、と。
ココロちゃんは恐らく、その一族が末裔なのではないかとのことだった。
「そ、んな……でも、でもそれでは話が合いません! ココロの両親は……賊に殺されました。ココロが鬼だと言うなら、父も母もそうだったはず。それなら、賊になんて殺されなかった!」
ココロちゃんが初めて自我を忘れ暴れたのは、彼女が幼い頃だった。暮らしていた村に突如押し入った賊の手で、家族や村の家々が襲われ、その凄惨な光景がきっかけとなり彼女は初めて大暴れをした。
しかし、本当に彼女が鬼だというのなら、そもそも彼女の両親が賊ごときに殺されるなんてこと自体有り得ないのではないかと。返り討ちにできて然るべきだったのではないかと、そう主張するココロちゃん。
しかしこれに対して、黒鬼はこともなげに返す。
『鬼の力を忌み嫌い、隠れ潜んで久しい一族が、時の中でそれを失っていたとして何が不思議だというのか? ヌシの親に鬼の力は無かったのだろう』
「だったら、どうしてココロにだけ……っ」
『先祖帰り、というやつやも知れんな。何れにせよ、ヌシは鬼じゃ。紛うことなき我らが末裔よ』
「…………」
愕然とするココロちゃん。
鬼というものを嫌い続けてきた彼女自身が、他でもない鬼そのものだったと。
古の鬼たちがどうだったかは分からないけれど、ココロちゃんはジョブという形で確かに鬼を宿している。
その原因が、その末裔だったからだと言われたなら、どうしようもないではないか。
これまでは、このジョブさえ何とか出来れば、ココロちゃんの問題は解決するのだと。そう思い、その方法を探して活動してきた。ココロちゃん当人は、私たちと出会うよりも前から、ずっとだ。
だというのに、やっとたどり着いた真実がコレでは、あまりに救いがないではないか。
鬼というジョブが、彼女の血筋にまつわる問題だとするなら、取り除くことなど、普通の人になることなど不可能だと決定づけられたようなもの。
ズン、と。
不意にココロちゃんが強烈なプレッシャーを放ち始めた。
理由は明白だ。過度なストレスが、彼女の持つ鬼の癇癪、スキルでいうところの【狂化】に火を着けてしまったらしい。
これは拙い。もしも彼女がここで暴れ始めたなら、否応なく戦闘が始まってしまう。
黒鬼を相手に戦うことになれば、正直どうなるか分からない。敗北も十分に有り得る。
「ココロ、抑えて。ここで暴れたらダメ」
「う……ぐぅ……っ」
『ふん。やはり鬼を抑えられんようじゃな』
オルカは何とかココロちゃんを宥めようとするが、彼女がここに来て直面することとなった事実は、到底理性だけでどうこう出来る精神的負荷に留まりはしない。
必死に感情の整理をしようとしているらしいココロちゃんだが、酷く不安定な状態に見える。
私はなんとか現状を好転させるべく、さらなる情報を求めた。
「……教えて欲しい。『鬼』とは一体何なのかな? 貴方の口ぶりからは、どうにも種族を指した名というだけには聞こえないのだけれど」
『如何にも。真の鬼とは、我らが内に宿る其れを言う。鬼を宿す種族、故に我らは鬼族と呼ばれた』
「! 鬼を宿す……つまり貴方たちも、ココロのように鬼のジョブを持っていた……?」
黒鬼が『鬼』と呼ぶものに幾らかの違和感を抱いた私は、その正体を問うた。
結果、どうやら彼らもまたココロちゃんと似たような問題を抱え、生きていたことが伺えたのだが。
『ジョブというのが何かは知らぬが、鬼は我らの力であり、恐れであり、もう一つの自身でもあった』
「なら、鬼がモンスターに変わったというのは……」
『自らの鬼に喰われた、ということじゃ。破壊の衝動に呑まれ、力を御せず無限に暴れ狂う怪物と化す。そうしていつしか戻れなくなってしまった者を、人々は、世界はモンスターと断じた』
自らの鬼を制御できず、呑まれてしまえばモンスターになる。世界に断じられたというのは、モンスターと同じく人を見境なく襲うようになり、そしてポップしたり、リポップするという世界の仕組みに取り込まれた、ということなのだろう。
鬼に完全に呑まれると、ココロちゃんもそうなってしまうのだろうか……。
しかしそれならば、一つ疑問が出てくる。
「……ではなぜ、貴方はこうして話ができる?」
『呵々! 儂はこれでいて、かつては力ある者の一つじゃった。鬼を御し、同胞を諌めて回る立場にあった。しかし世の流れは鬼を排斥し、あまつさえ殺し尽くそうとした。儂もまた憤懣故についぞ鬼に呑まれたのじゃが』
なるほどと、その話で得心がいった。
「力あるモンスターは、自我を持ち言葉を話すと言う。貴方には力があった、だからこうして話ができると」
『ふん。分かっておるなら訊くな』
貴重な話が聞けた。
大昔にはジョブという概念がなかったのか、それともそれを知るすべがなかったのか。何れにせよ彼らは総じてココロちゃんと同じように、鬼を抱えて生きていたらしい。
そしてこの黒鬼は、かつて鬼の力を制御し、暴れる仲間を諌める立場にあったと言う。なるほど、道理でこれまで見てきた下級、中級鬼とは一線を画す存在感を放っているわけだ。
「そ、それじゃぁ、ココロにも鬼の力が制御できたなら……!」
『儂が鬼を御するのに要した時は、優に百年を超える。まして鬼から逃げた一族の末裔である、ヌシのような小娘には無理じゃろう』
「そん、な……っ」
『去ね。同胞を手に掛けとうはない。儂も鬼に落ちた身なれば、あまり長く衝動を抑え込むことも出来ん』
気のせいではないようだ。先程から、少しずつ黒鬼の放つ威圧感が増している気がしていた。
モンスターというのは、人間を見ると問答無用で襲いかかってくる。それはもしかすると、彼らにはすべからくそうした衝動めいたものがあるのかも知れない。
だとするならこの黒鬼は今、そうした人へ対する敵愾心と、鬼の破壊衝動。その二つを抑え込んで会話に応じてくれていることになるのではないか。
途方も無い精神力だ。そうまでしても、彼はとうとう内なる鬼を抑えきることが出来なかったのだと言う。だからココロちゃんにも無理だと。
そして衝動を抑えるのも、そろそろ限界なのだろう。黒鬼は私たちに去れと言う。
程なくして自らを抑えられなくなると。そうなれば、私たちを殺すまで暴れるに違いない。そうなる前に去れと。同族たるココロちゃんを手に掛けたくはないから。
私たちにしても、聞きたかった情報を得ることは出来た。大収穫と言っていいだろう。
ここが引き際。立ち去ることに、何ら問題はない。そのはずだ。
色々と教えてくれたこの鬼と戦うこと自体、正直私は気が引ける。
戦ってみたところで、あまりにリスクが大きくも感じられた。見逃してくれるというのなら、乗らない手はない。
だと、いうのに。
「ココロちゃん、行こう」
「目的は果たせたはず。帰ろう」
「……ぅ……ぐぅ……ぁ」
「ココロちゃん……?」
見れば、彼女の顔は真っ白だった。血の気が引いた、というのは正にこのことか。
そのくせ額には汗を浮かべ、苦しげに呻いている。呼吸も荒く、ただ事ではない。
『……いかんな。余程精神を痛めたか、鬼に喰われかけておるわ』
「「なっ!?」」
黒鬼の言に、私たちはいよいよ背筋を寒くした。
完全に鬼に呑まれたなら、どうなる? 最も恐れていた事態になるのではないか。
それはココロちゃん自身が最も危惧していた、自身がモンスターに成り果てるということ。
それを阻止するためにこそ、私たちはここまで足を運んだというのに、これではまるで逆効果ではないか。
それほどまでに、黒鬼の語った言葉はココロちゃんに強烈な衝撃をもたらしたらしい。
「ど、どうしたらいい!? どうしたらココロちゃんを救えるの!?」
「ミコト!」
「っ!?」
いち早くそれに感づいたオルカの鋭い警告に、私はココロちゃんを抱えて跳び退った。
直後、私たちが直前まで立っていた石畳を、黒鬼のげんこつが叩き割っていた。
黒鬼との距離はまだ、三〇メートルは保っていたはず。それがほんの瞬く間に埋められ、この有様だ。
私はギョッとして黒鬼を見やる。すると彼は苦い表情で告げるのだ。
『すまんが儂も、そろそろ衝動を抑え切れん。問答の時間は終いのようじゃ』
「くっ」
『疾く去ね。さもなければ、構えろ』
ドッと、一層黒鬼より放たれる威圧感が膨れ上がった。
これは拙いと、私の生存本能が警鐘を鳴らす。今すぐ逃げろと。
私は短く決断を告げた。
「退こう」
「了解」
オルカは短く返事をすると、私と黒鬼の間に立った。殿を買って出てくれるようだ。
私はココロちゃんを抱えてこの場を去ろうとした。これ以上ここに留まったとて、状況は悪化する一方だと分かっているから。
しかし、ココロちゃんに手を伸ばそうとしたところで、彼女がぎこちなく顔を上げ、言ったのだ。
「ミコ、ト……様……逃げて……っ」
次の瞬間、バキンとなにかが壊れる音がした。
私が彼女に贈った、精神異常をレジストするためのチョーカーだ。それが、砕け散る音だった。
「ココロちゃん‼」
「あ……がぁ……ぁあああ……ああああああああ!!」
慟哭。
さながらそれは、拘束を破った獣のように荒々しく吠えると、石畳を踏み砕く程の勢いでもって飛び出した。
向かう先は黒鬼。
そうして、不本意にも唐突に戦端は開かれたのである。