第一五話 ずぶ濡れのミコト
雨粒が茂った葉を叩き始めたのは、私が身を潜めてから割りかしすぐのことだった。
服が濡れて不快でこそあったけれど、それでも初めはどうということはなかったんだ。けど、私は侮っていたらしい。
濡れた衣類というのは思いがけず体温を奪っていく。
この世界、というかこの国の季節事情なんてよく知らないけれど、少なくとも今は別段寒くもない気候だった。だと言うのに、気づけば私は寒さに震え、集中を保つのも難しい状態に陥っていた。
体を動かしていたならそんなこともなかったのかも知れない。けれど、息を殺して腹ばいになった状態で雨に打たれ続けた、というのが効いたらしい。
加えて何時やって来るとも知れない助けを待つという心細さもあり、私はどんどん不安を溜め込んでしまった。
オルカさえ、オルカさえ来てくれればと何度も思った。勝手な考えだとは分かっている。
この一週間、散々オルカにはお世話になった。
武器を手に入れてからも彼女は、なんだかんだと理由をつけて、結局私に同行し続けた。スキルの検証も親身になって手伝ってくれた。
その上こんな、あからさまなヤバい相手を前にしてオルカに救いを求めるなんて、我ながらとんだ厄介者だと思う。穴があったら入りたい。
でも、それでも。
オルカさえ来てくれれば、私には切ることの出来る札が生じる。
そう。私の切り札、唯一ソフィアさんに知らせていないスキルである【キャラクター操作】だ。
アレを使うには、オルカの協力が不可欠だから。
私は再度木陰から、未だに辺りを徘徊し続けている化け物クマを確認する。
残っていた男たちは、とっくに奴に狩り尽くされた。思い出しただけで怖気が止まらない、悲痛な悲鳴が何度も聞こえた。
パニックホラーの登場人物たちは、きっとこんな恐怖を味わっていたに違いない。
最後の断末魔が聞こえてから、結構な時間が経った。生存者は恐らく私だけ。そして未だに私は発見されていない。
なのに奴はこの辺りに留まり、徘徊し続けている。その仕草から、私の存在に感づいていることが窺えるんだ。鼻を動かし、あからさまに何かを捜している様子から多分間違いない。
雨のおかげで、匂いだとか音だとかいう情報は上手く隠せているのだろう。
しかしそれでも奴がこの辺りから離れない理由は、恐らくスキルか何かで漠然と私の存在を気取っているからなんじゃないだろうか。
だとするなら、発見されるのは恐らく時間の問題。
そう思い至ると、途端に恐怖が一層増してしまった。考えなければよかったとさえ思えるほどだ。
私は現実逃避気味に先日のことを思い出す。
それは、オルカと協力して【キャラクター操作】のスキルを解き明かした日のこと――
★
就寝前ということもあり、部屋に備え付けてある照明ではなく、アウトドア用のランプ型魔道具で部屋を照らす。
淡いオレンジの光は暖か味を感じさせ、安心とともに些かの高揚感を演出してくれる。
それをベッドサイドのチェストに置き、私は鼻息荒く語っていた。
「ヤバい! ヤバいよ壊れ性能だよ【キャラクター操作】!」
「ミコト、分かったから落ち着いて。おさらい、しよ?」
「う、うん。そうだね」
オルカにやんわりと窘められ、私はベッドへ腰を下ろした。それを確認し、向かいのベッドに腰掛けているオルカが口を開く。
「ミコトの言う通り、【キャラクター操作】は私もこれまで見たことも聞いたこともない、特別なスキルだと思う。その性能も破格だった。でも、ちゃんと使い方を熟知して、使い所を理解しておかないと宝の持ち腐れ、だよ」
「うん、確かにその通りだ。それならまずは、発動条件のおさらいから」
この【キャラクター操作】というスキルは、所謂アクティブスキルというやつで、常時発動型のパッシブスキルとは異なり、任意発動型となる。
しかし困ったことに、このスキルには何やら発動条件が設けられていたようで。それが分からず初めての発動までにはなかなかの試行錯誤を要求されたものだ。
オルカの助言や協力もあり、どうにか発動にこぎつけたあとは慎重に検証を行った。まだ完全かどうかは分からないが、一応私達なりに条件らしきものを絞り出すことは出来た。
「【キャラクター操作】を発動するためには、今判っているだけで三つ条件がある。まず一つは、対象が私とPTを組んでいること」
「PTはギルドでの正式な手続きを踏んだものではなく、ミコトの【ステータスウィンドウ】がそれと認めているものを指す、だよね」
「うん。因みに【ステータスウィンドウ】はPTメンバーのステータスも確認できてしまうみたいで、うっかりオルカのを勝手に見ちゃったのはほんと申し訳なかった」
「いいよ、気にしないで。それより私は、ミコトが私を仲間だって認めてくれてるみたいで……嬉しかったから」
「ぐふぅ……っ‼」
こういう不意打ちを仕掛けてくるんだものなぁ! 天然なのが恐ろしい……!
おっといかん、話が逸れてしまう。
「え、ええと、二つ目。PTメンバー一名を対象に、【キャラクター操作】の使用申請を私が送り、それを許諾してもらうこと」
「初めての時は、ちょっとびっくりした。いきなり私の中に……」
「オルカさん、そういう微妙に危険な発言はちょっと……」
「え、あ、ちがっ、そういうつもりじゃ……えっと、心の中にね、『プレイヤー:ミコトから【キャラクター操作】の申請が届きました。プレイヤーに身体操作の権限を貸与しますか?』ってメッセージが響いて。それでYESって答えたら」
「発動準備が調ったってことだね。そして三つ目の条件」
「私とミコトが、繋がること……」
「だから微妙に危ない発言だってば……」
まぁ間違ってはないけどね。要するに対象から許諾を得たあとは、手でも足でも頭でも、どこでもいいから体の一部が触れることがトリガーになるらしい。
因みに肌と肌の接触が必要っぽいんだけど、私は【完全装着】の効果のためか、普通に装備に触れられても発動することが分かっている。多分剣の先っちょに触れてもらうだけでも発動するんじゃないかな?
そう考えると、なんだろう……装備込みで私の体、みたいな扱いってことだから、常時スッポンポンみたいなヤバいイメージが湧いてくる。
まぁぶっちゃけると、私はそこまで裸を見られてキャー! ってなるタイプではない。生前はお風呂上がり、スッポンポンで過ごせる系女子だったし。
……母とかには度々怒られたけど。
ただなぁ、異世界で裸で冒険じゃい! っていうのはなんか、やんちゃが過ぎる気がするっていうか。……まぁ明らかに考えすぎなのは分かっているんだけどね。だって実際服も装備も着てるし。
「ミコト、使用のリスクも見直しておこう」
「え、あ、はい。リスクね、ええと……まずはとりあえず消耗が大きいことだよね」
「うん。フルタイムで使うと、くたくたで動けなくなるくらい疲れる」
「そうだね。それに時間制限もある」
「一〇分くらい、かな? あ、ミコトは時計って知ってる?」
「うん。それは知ってる」
「変な知識の偏り方をしてるよね、ミコトは」
「あはは……」
というか、この世界にもちゃんと時計はあったんだな、見たこと無いけど。あと、地球の一秒とこの世界の一秒が同じものとも限らない。とは言えオルカの言った一〇分というのは、私も体感で大体それくらいだと思うから、地球時間と大きな違いはないんじゃないかって思う。
まぁそれはさておき、【キャラクター操作】には制限時間が存在する。スキル発動からおおよそ一〇分経過すると、強制的にスキルは解除されてしまい、凄まじい消耗が襲ってくるんだ。反動、と言い換えてもいいだろう。
因みに任意での解除は可能で、その際は経過時間に応じた消耗で済むため、リスクの軽減に繋がる。
逆にフルタイムで使用すると、凄まじい疲労感に虚脱感、倦怠感などなど、とにかく体がずっしり重くなってしばらくろくに動けないほどくたびれてしまう。要は著しく行動を制限されてしまうのだ。
「【キャラクター操作】は使い所を見誤ると、あっという間に詰んでしまうスキルだね」
「うん。でも、そのリスクを補って余りある強みがある。正直、あれは無敵だと思う」
「無敵! なんて素敵な響きだろう!」
そうさ、使い所さえ見誤らなければ、たった一〇分間ではあるけれど強力な力を得ることが出来る。まさに切り札と呼ぶに相応しい、大きな可能性を秘めたスキル。それが【キャラクター操作】なんだ。
「それで、肝心の【キャラクター操作】が持つ利点についてだけど――」
★
……ええと。
回想の途中ではありますが、ここで臨時ニュースのお知らせです。
木陰に身を隠し、仮面の力で気配を遮断していた私だったけれど、クマの接近にとうとう気持ちを乱してしまい、現在……バッチリ目が合ってしまっている。
あ。これは死んだかも……。
一拍を置き、クマは恐ろしい勢いでこちらへ飛びかかってきた。
私は急ぎ四肢に力を込め、立ち上がろうとする。が、冷え切った体と水分をたらふく吸った衣服は重く、更に気が動転していたこともあって初動が鈍い。
とっさに起き上がることを諦め、タイミングを見計らい横に体を転がし、豪腕による叩きつけを避けることに成功した。
が、その余波は凄まじく、衝撃だけで私の体は容易く弾き飛ばされ、ゴロゴロと面白いように転がってしまう。
しかもヴィオラさんに蹴られた際、多分肋骨にヒビでも入ったんだろう。ビキビキと痛む脇腹に、堪らずうめき声が漏れる。
それでも呑気に死に体を晒していい状況じゃない。歯を食いしばって、転がる勢いを活かし起き上がると、私は即座にクマを視界に捉えた。
奴は既に次の行動の予備動作に入っている。追撃を仕掛ける気満々のようだ。
が、ゲーマーを舐めてもらっては困る。
多くの格ゲー、対戦ゲー、アクションゲーを渡り歩いてきた私だ。フレーム単位で動きを見切るなんて、息をするより容易いこと。
更に言えば、反射神経や動体視力以前に、ゲームで重要なのは予測だ。相手の動きを理知的に、或いは感覚的に予測した上で自身の動きを決める、なんてのは基礎中の基礎。
予備動作を見せた時点で、次の動きなど見切れているわけだ。
「上!」
瞬時に身を屈める。瞬間、恐ろしい勢いで距離を詰めたクマの爪が、頭上を凄まじい速度で通り過ぎる。えげつない風切り音は、とても心臓に悪い。
例えるなら、先端に鋭い刃物付けた丸太を、プロ野球選手のバット並みの速度でスイングされたようなものだ。そんなもの、当たれば即死だろう。
それから数度、振り回されるクマの四肢をなんとか見切りと、鈍い体捌きでやり過ごした。体が重く、全く余裕がない。
しかもこんなギリギリの回避を、あとどれだけ続けたらいいんだ? 逃げ出すだなんて余裕はないし、背を向けようものなら一溜まりもないだろう。
こんなので、オルカが来てくれるまで粘れって? くそ、現実は何時だってクソゲーってことか……っ。
「すこっ、しは、健闘をたたえて、手を緩めても、いいんじゃないか、なっ」
「グルォァオオオ!」
掠っただけで大惨事。まともに貰えば即オシマイ。
あまりのスリルに段々頭がおかしくなってくる。恐怖心が薄れ、代わりに興奮状態に陥る。多分、脳内に何かしらが分泌されてる状態なんだろう。よく知らないけど。
いいよ、好きなだけかかって来たらいいよ! 全部完璧に避けてやる‼ どっちが先にバテるかの勝負だ!
なんて、調子づいたのが悪かったのか。とんでもない予想外が生じてしまった。
私の予測は完璧だった。タイミングだって外すヘマはしない。
ヘマをしたのは、クマの方だ。これはゲームじゃないんだって、こんな形で思い知らされるなんて。
ぬかるみに足を取られたクマの振るった爪が、私の思い描いた予測線から大きくズレたんだ。
私はそれを察知し、なんとか身を捩って最悪の展開だけは阻止してみせた。けれど……完全に避けきることは流石に不可能だった。
興奮状態にあったためか、不思議と痛みをそこまで感じない。ただ、鳥肌が治まらない。背筋を怖気が駆け続ける。
その光景は、さながらスローモーションのように認識できていた。
奴の爪は、無理に体勢を動かしたせいで引っ込めそこねた私の左腕を、中程から引っ掻いたのだ。
たったそれだけなのに、冗談みたいにスッパリと切れてしまった。そうさ、切断だ。
私の左腕。掛け替えのない体の一部が、こんなに容易く台無しにされてしまうのか……?
痛みはそれほど感じないのに、取り返しのつかないことになってしまったという漠然とした巨大な感情が、私の奥歯をガチガチと鳴らして止まらない。
それなのにお構いなく、クマは攻撃を続ける。さながらこんなことは些事だと言わんばかりに。
私はほぼ反射だよりに体を動かした。酷い吐き気がする。視界がチカチカする。さっきより一層頭が変になったみたいだ。
ただ生存本能だけで動いてる。涙が止まらない。濃厚な死の気配。
たった一週間ほど前に体験した、あの一瞬の感覚が蘇ってくる。終わりの予感。
嫌だ。恐い。嫌だ!
理屈じゃない。ここに至ってはもう、他のことなんて何も考えられない。ただ死にたくないって気持ちだけが脳みそを支配しているように思える。
私は、私に出来る全てを総動員し、ひたすら回避に努めた。けれど出血量が増えるに連れて、恐ろしいほどの寒気を感じる。
体の動きはますます鈍く、そのせいで再度攻撃が掠めてしまう。次は右横腹を抉られた。
初めて吐血なんてものを経験する。どんどん体が駄目になっていく。頭がぼやけていく。
……死ぬ。
その時だった。
「ぅあああああ! ミコト‼ ミコトォォ‼」
「…………っ」
クマの目に、矢が突き立っていた。誰かが私の体を、抱きとめている。
そうしてようやく、私は待ち人と出会うことが出来た。
ああ、けれど。ここから逆転、できるかなぁ……。