23.『好きだ』
「珍しいな、陽一から話があるなんて」
恭介兄ちゃんの彼女には少し席を外してもらった。
自分から何かを相談するなんてきっと初めての事だ。
「あのさ……結婚……」
どう言葉にすればいいのか……
何から話していけばいいのか、混乱して自分の気持ちもよく分かっていないせいか、言葉に詰まってしまった。
「結婚? そんなに驚いたか?」
ふにゃりと笑った恭介兄ちゃんがは拓兄と違っていつも物腰が柔らかい。
僕はそんな恭介兄ちゃんの事すらずっと嫌いだった。
何を話したって、僕の気持ちなんか分からない。
僕の持っている悩みなんかとは縁もないだろう兄ちゃんに話したところで、どうせ上っ面の同情だけで終わるんだろうな、そう思っていた。
でも……
『結婚』なんて一生を決めるような事、さらっと決めてしまった心境を聞きいてみたかった。
兄ちゃんならなんでも持っているし、何でも苦労しないで手に入るだろうに。
僕が恭介兄ちゃんだったらきっとまだまだ自由を選ぶはずだ。
たくさんの女の子と遊んで……そう、遊んで……
僕は確かにそれを望んでいたはずだったんだが……
「なぁ、陽一。好きな子でも出来たか?」
突然の言葉に口に含んだ麦茶が身体の変なところに入り込んでむせ返った。
呼吸もままならない位、異物を全身から外に吐き出そうという現象が、変に自分の今の気持ちとリンクしていた。
はぁはぁとようやく咳がおさまってきた頃、僕はずっと否定し続けていた自分の気持ちを外に出そうという覚悟ができていた。
「……そう……かもしれない」
認めている自分が、なんだか自分じゃないみたいだ。
でも……、きっと間違いない。
「やっぱりそうか。いいんじゃないか?」
兄ちゃんは僕の歩幅に合わせるようにゆっくりとそう言った。
「でも……よく分かんないんだ。拓兄にはこれが『初恋』だって言われたけど、本当にそうなのかなって」
助けて欲しい。
どんなにみっともないって思われようと……チクチクと傷む身体で、靄がかかったような景色の中を行く先も分からず歩き続けなけれがいけない毎日をどうにか終わらせたかった。
「陽一の頭の中に、その彼女のいない日はあるか?」
僕は大きく首を振った。
居なくなるどころか、消えて欲しいと願っても目を閉じれば彼女の笑顔が浮かぶ。
「もしその彼女を別の男に持っていかれたら?」
「嫌に決まってんだろっ! 絶対!!」
僕は色黒男と城田の顔が思い浮かんで苛立ちの感情が湧き上がる。
完全に我を失って叫んでしまった時には遅かった。
「なぁ。たったこれだけの質問だけでも、それは十分『恋』だって分かるよ」
ごめんと顔の前で手を合わせながら笑いを堪えている恭介兄ちゃんはからかってばかりの拓兄と違って、どこか嬉しそうだった。
「……どうしたらいいか分かんないんだ。僕……」
恭介兄ちゃんが大きく息を吐いた。
「まずは、その子のことが『好きだ』ってちゃんと自分で認めることだ」
「『好き』……?」
一番自分とは縁遠い言葉だと思っていた。
誰かに向けて好意を持った感情を抱くなんて……
でも、改めて言葉にしてようやく自覚したんだ。
僕は、一香の事が『好き』だって。
全てが府に落ちた気がした。
心の中で堰き止められていた彼女への気持ちが急にサラサラと流れ出した。
今までの自分の行動、彼女の事……
言葉に出来る限りのことを僕は恭介兄ちゃんにひたすら話し続けた。
全てを話して、客観的な答えが欲しかったんだと思う。
ウンウンと僕の言葉を遮る事なくじっと黙って聞いてくれた。
それだけでも……本当にありがたかった。
「陽一は自分の気持ちに嘘はつけない奴なんだ。ずっと兄弟やってきたんだから俺にだってその位は分かってるよ」
恭介兄ちゃんの声が生まれて初めて心地よく心に響いていた。
「俺は彼女に会った事があるわけでもないし、陽一の話をただ一方的に聞いているだけだから現実にはまた違う事実があるのかもしれない」
真っ直ぐ僕を見た。
「でもな、これだけは間違いない。陽一が彼女にしてあげたいって思った事、それには間違いなく真っ直ぐな彼女を思う気持ちが入ってる。だから出し惜しみをするな。彼女の心がたとえそっぽを向いていたとしても、自分がしてあげたいと思ったことをすぐに行動言葉に移すこと! 陽一だから言うんだぞ? 拓哉には絶対無理な事だからな」
そう言ってアハハと優しい目をして笑った。
「優里! おいで!」
隣の部屋にいた恭介兄ちゃんの彼女を手招きして呼び寄せた。
「こいつは俺の元カノの事一切聞いてこないんだ。友達とかから多少なり噂は聞いてるだろうに」
恭介兄も昔から彼女が途切れた事がない。
確かに……気にならないんだろうか?
「気にならないわけじゃないけど……恭介が今私を想ってくれてる気持ちがいつも真剣で本物だって分かるから……昔のことなんてどうでもいいやって思えちゃう。この人、愛情を出し惜しみしない人なのよ。今の所はね」
クスクスと笑いながらもきっと彼女もそんな恭介兄ちゃんの気持ちに応えるように結婚を決めたんだろうな、そんな風に思った。
「優里といると本当に居心地がいいんだ。たまにケンカだってするけどそんな時間も振り返ればちゃんと自分たちにとっては必要な時間だったんだって思える。なかなかいないだろ? そう言う相手」
居心地がいい……
ちゃんと兄ちゃんの言っていることが理解できている自分が変に擽ったい。
でも分かる。ちゃんと分かったんだ。
僕は一香が傍にいると居心地がいい。
ずっとそれに気づかないフリをしていただけだった。
本当は……本当はずっと彼女に傍にいて欲しくて……
「陽一! ほら、卒業アルバム! せっかく届いたのに何度連絡しても取りに来ないんだから」
突然母さんが部屋に戻ってきて、僕の目の前にそれを差し出した。
「あ、あぁ……忘れてた、ごめん」
本当は振り返りたくもない暗黒の過去が詰まった卒アルなんて即刻抹消してやりたかった。
でも……自分のことを好きでいてくれた一香を……ちゃんと見ておきたい。
恐る恐るページを開くと、あの頃の彼女が眼鏡をかけて優しく微笑みながら佇んでいた。
僕はしばらく目が離せなかった。
写真の上から指でそっと彼女に触れた。
『好きだ』
今更だ。
彼女はあんなに僕に寄り添っていてくれていたのに。
次のページを開いた。
ページの片隅に……
体育祭で彼女が僕を介抱してくれている写真が写っていた。
なんだか、とんでもないくらい目から涙が溢れ出た。
彼女はムスッとしている僕に向かって優しく微笑んでいた。
こんなに……こんなに優しい表情をして僕を見ていてくれていたのに……
「陽一?! どうしたの」
驚いた母さんの声が聞こえた。
恭介兄ちゃんと優里さんはそんな母さんの手を引いて部屋の外に出て行った。
僕は……今までずっと流せなかった涙が、止め処もなくひたすら目から零れ落ちていた。




