21、ユウゴ倒れる
日本の上空に到着したガンズソン。ユウゴを観察し、シグナルを送り始める。そして...
職場の後輩がユウゴが最近、咳き込んでいることを気遣い、休んでもいいのでは、と声をかけてくれるようになっていた。ユウゴは仕事を休むことはしなかった。体力には自信もあった。今まで気弱になったこともなかった。それに自分が欠勤したら、業務全体が回らなくなってしまうという懸念がユウゴを支配していた。
その日も、日勤の後、仮眠をし、夜勤業務についた。いつものようにペアでトランシーバーを使って合図を送り合い、車を的確に誘導していく。小雨が降ってきた。夏の夜なのに肌寒く感じた。道路のアスファルト修繕工事は続いている。パワーショベルが動き、ダンプカーが次々と到着する。
ユウゴの咳は止まらなくなっていた。工事の範囲に合わせて、円錐形の赤いパイロンを運ぶだけで、息切れがした。おかしいとも感じていたが、このくらいは平気、と自分を奮い立たせるように、作業員と一緒に、深夜の任務をこなしていく。
雨が強くなってきた。これ以上、雨足が強くなれば、今夜の工事は切り上げになってしまうかもしれない。まだ、重機は動いている。積載した砂利を巻くためのダンプカーの数台、列を作って待機している。どこまで、作業は進めるのだろうか。現場監督の指示に委ねる。
パイロンを運んでいる時だった。ユウゴは、一挙に身体の重さを感じた。軽い樹脂製のパイロンを抱えただけなのに、足元がふらつき、めまいを感じた。息切れが激しい。周囲が回転するだけで、身体に意志が伝わらない。ダンプカーの強いヘッドライト、眩しすぎる工事現場用白熱灯、信号機、赤い誘導棒、作業員のヘルメットに装着されたLED電燈...光が襲いかかってくるように視界に満ちた。
肩に衝撃を感じたのが、その時の最後の記憶だった。激しいクラクションと共に作業員が数人ユウゴに駆け寄る。ユウゴは気絶して倒れていた。誰かが救急車を呼び、数分してユウゴは担架に乗せられた。
カーブに合わせて、身体が左右に振られる。サイレンが遠くに聞こえるかのよう。心電計のモニターが波打って見えた。救急車の中でユウゴは目覚めた。救急隊員から声を掛けられ「大丈夫です。」と一言、ユウゴは答えた。揺れにまかせていると、再び意識の奥深くに沈んでしまっていた。
......
意識の中で、ユウゴはネパール・カトマンズにいた。もう15年も前のことだ。インドを越え、ユウゴは、夜行バスでカトマンズに到着した。カルカッタの貧相と物乞いの応酬に疲れたユウゴは、ロッジで聞いた「ネパールは穏やかだよ。」という旅行者の言葉を聞いてやってきた。朝方、バスが最後の峠を越えてカトマンズ盆地に差し掛かる時、フロントガラスの遠く向こうに脈々と白銀色の頂きが折り重なっているのが見えた。
到着してすぐ、ユウゴはカトマンズの朝を歩いた。ここはカルカッタと違い、華やかな色合いがある、思えばカルカッタは、レンガ色と、黒々とした垢の色と、そして男たちの都市だった。艶やかなサリーを身にまとった若い女性の姿は、一部新市街地のショッピングモール付近でしか見かけることがなかった。
カトマンズは、多民族の都市だ。色とりどりの民族衣装からユウゴが直感的に思ったことだった。そして、ジーンズ姿の若者も多く、数人で戯れながら目いっぱい格好つけて歩いている印象だった。
民族衣装の女性が、野菜売りの市場ではひときわ精彩を放つ。そして、食材の色とスカートの色の対照が、網籠に盛られている販売品をより新鮮に美しく見せる。朝霧の中で、それは幻想的でもあり魔法的でもあるように思えた。
そして、ユウゴはカトマンズに魅せられてしまっていた。
(この街で少しゆっくりしようか。)
バザールの喧騒度が、カルカッタと違うのは、カトマンズの旧市街地は車が一台通れない程狭く、そこでエンジン音をけたたましく鳴らして交通する車はない、ということだ。空は青く澄み、街はずれからヒマラヤ山脈を望むことができるということを、たやすく予測できた。
西欧からの観光客も多い地区で、ユウゴは、正面から声を掛けられた。
「あ、あの時の日本の方ですね。偶然ですね。」
見覚えがあった。そうだ。バンコクの空港で「泊まる所はある?」と聞かれ、急ぎ足で去って行った日に焼けた青年だ。ネパールの人だったのか。日本語は饒舌だった。
「来ていたのですね。いつから。」
「さっき着いたばかり。カルカッタから乗り継いで来たんだ。」
「宿は決まってますか?」
「これから探そうと思ってる。」
「それならうちに泊まればいいですね。おいでください。ぜひ。僕の名前は、ジョー。」
「ジョー?」
「ネパールでは本名は難しいから、みんなニックネームで呼んでいるんです。」
「あなたは?」
「ユウゴ。よろしく。」
悪びれのないその表情からして、人をだますようなタイプではないだろう。若さと快活さから、欺くような気配の影を感じさせることなどなく、ユウゴは、カルカッタで騙され放しだったことも忘れ、ジョーに付いていった。
乗り合いワゴンに揺られ、一旦郊外に出る。まもなく寺院らしき建造物が幾つも見え、レンガ畳の広場で降りた。
「こっちです。」
ジョーは、中世の都市のごとくに密集している建物の間を、すり抜けていく。ユウゴは、ジョーから目を離すまいと必死に追いかけた。迷宮そのものだった。右へ左へ、手を広げれば通りを塞ぐことができる程度の間隔しかない。とたんに、また広場に出た。民族衣装の女性が何人も井戸を囲んで働いている。
「入って下さい。ここです。」
腰をかがめて、レンガの建物に入り、頭を垂らして階段を登った。三階に案内された。
「この部屋を自由に使っていいです。好きなだけここに泊まって下さい。」
カトマンズに到着して早々にそう言われても、とユウゴは戸惑いも隠せなかったが、幸運だったのか、どうなのか、ひとまず、宿泊代はかからないだろうし、街の雰囲気は魅惑的であるし...ユウゴは、しばらく「いそうろう」になることにした。
「ここは、パタン、というネワル民族の街です。僕もネワル人です。日本には、何度も行き、経営関係の仕事をしています。カトマンズでも仕事をしています。朝食は済みましたか?」
ユウゴは、朝食のこともすっかり忘れ、周囲の景色に見とれていたこと、ジョーに付いて歩くのが精一杯だったことを話した。
「それなら、どうぞ。」
四階に上がると、そこが居間のようで、エンジ色のカーペットが敷かれ、家財も置かれている。
「母です。」
ユウゴは両手を合わせ「ナマステー」と挨拶をする。ジョーの母もひかえめに手を合わせて挨拶を返してくれる。こんな出会いがあっていいのだろうか。この一家にしばらくお世話になるのだ、とユウゴは思った。
「食事にしましょう。座って下さい。」
ジョーがあぐらをかいて座ると、すぐに真鍮の洗面器のような容器が出され、そこには、ご飯が山盛りに入っている。高菜のような惣菜が盛られ、ジョーは右手だけでムシャムシャと頬張るように食べだした。
「どうぞ、遠慮なく。」
ユウゴの目の前にも、洗面器に、お米と高菜の惣菜が盛られた。
(これがネワリ族式なのだろう。)
ユウゴも気兼ねなく、ムシャムシャ食べ始めた。心の底からの安堵感が染みてきた。