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38.

「あ……」

 ラウス様に渡す予定だったハンカチの存在をすっかり忘れてしまったことに気づいたのはカリバーン一家との食事が終わり、寝る前の筋力トレーニングを始めようとした時のことだった。

 今渡しに行ってもいいのだが、ラウス様とはほんのつい先程別れを告げたばかりである。疲れて帰って来ているだろうラウス様の貴重なお時間を割いてしまってはならない。どうせ明日もまた会うのだからその時でいいだろう。そう決めて日課の筋力トレーニングとステップの確認を済ませることに決めたのだった。

 筋力トレーニングを終え、思うのは自身の体力についてだ。

 すっかりサンドレア家にいた頃くらいには回復しつつある。だからだろうか、明らかに一日の運動量が足りていないと感じてしまう。ダンスステップもあるからしばらくは大丈夫だろう……と考えてもいたけれど相手がいなければ本当に確認程度の軽めの動きしか出来ないのである。

 幸運にも明日からは刺繍を施すという役目を与えられている分、暇ではない。ただ何かが物足りなく思うだけである。

 しばらくの辛抱なのだと自分に言い聞かせ、布団の中に身体を滑り込ませる。そして無理矢理思考を運動からハンカチに施す刺繍についてと切り替える。真っ先に思いつくのはやはり薔薇についてだ。

 なぜか三人が三人とも薔薇の刺繍を望んだ。

 それはなぜか?

 私も一時期は薔薇の刺繍にハマり、一心不乱に施したことがあったもので腕には自信はある。確かあの時はお姉様達に喜んで貰えたのが嬉しくて嬉しくて、私のデビュタントでは姉妹揃ってどこかに薔薇の刺繍を誂えたものだった。

 一番上のお姉様は髪飾りに、二番目のお姉様はハンカチに、三番目のお姉様はドレスの裾に、そして私は……。そこまで考えてふと思考が止まってしまった。

 私は何に刺繍したんだっけ?

 もうあれから5年が経つ。あの日より前も後も色んなものに好きな刺繍を施してきた。髪飾りにもハンカチにもドレスにも。だがそのどれも思い出そうと思えば多少時間は要したとしても思い出すことができるのだ。だが夜会当日のものに関しての記憶は見事というほどにない。

 あの日は特別だったのだ。

 初回が王都で……なんて緊張してしまったけれど、楽しみだったのも事実で、だからこそ姉妹でお揃いの部分を作ったのに、なぜ私は思い出せないのだろうか。

 それはおそらく翌日の違和感も影響しているのだろう。

 落ち着いて思い返してみれば、いくら当日緊張していたからといってもドレスが思い出せないわけがないのだ。だってあのドレスは一月以上も前から仕上がっていたのだから。

 その日のことが気に入ったらしいお姉様達は自分の娘にも同じようにデビュタントには薔薇の刺繍の入ったものを持たせるのだと言って姉妹一刺繍を得意とする、もとい手先の器用さくらいしか売りのない私に嫁入り道具の一つを作らせたのだった。

 あの日自らが身につけたのと同じように、一番上のお姉様は髪飾りとタイに、二番目のお姉様はハンカチに、三番目のお姉様はさすがに今からサイズはわからないからとその日に来たドレスに刺繍を加えて、将来はこのドレスを解体して新しく作ってもらうのだと言っていた。

 私が嫁入りをする時はお姉様達が協力して作ってくださるという約束だったのだが、それを私が目にする日は来るのだろうか。

 ただでさえ私はサンドレアの家に産まれながら愛より金を選んだ異例の人間である。もしラウス様との婚姻を結ぶ直前に破棄できたとしてもその事実は変わらないのだ。

 カリバーンに身を移してから手紙でそのことを知ったであろうお姉様達はそんな私を軽蔑しないだろうか。

 そしてもしラウス様の勘違いを解いてサンドレアの家に帰ったとして私に居場所はあるのだろうか。

 …………きっとあるはずだ。

 あると思いつづけなければいけない。そうでなければ気持ちが揺らいでしまいそうになる。愛より金を選んだのは紛れもなく自分自身で今だって後悔なんてものはないのだ。

「よし!」

 揺らぐ心を切り替えるために頬を思い切りバチンと両方から叩き、そして都合の悪いことを忘れるようにして布団を頭から被った。

 何も見えない視界と温かな遮られた空間はすぐに私を眠りの世界へと誘ってくれた。


「ラウス様、おはようございます」

「おはよう、モリア」

「あの、ラウス様。もしよければこれ……受け取っていただけませんか?」

 いつものように挨拶をしてから、今日も今日とて機嫌が良さそうなラウス様に忘れないうちにとすぐにハンカチを差し出す。

 贈り物をするなど家族以外にそうそう機会がなかったからか妙に手が震えてしまう。拒まれたら自分で使えばいいのだと分かってはいるものの、やはりそこはハンカチの利用方法よりも気持ちの問題だろう。

 中々手の中から布の感覚は無くならず、迷惑だったかと、いつこの手を引くべきかと足元に固定した視線は右に左にと泳ぎ始める。

「すみません、忘れてください」

 沈黙に耐えかねその手を胸元へと持ってくる。やっと足元から視線を上げ、気にしないで欲しいという意味を込めてクシャリと笑いかける。それでもまだラウス様の目を見ることが出来ず、彼のシャツの合わせに向かって。

「お時間を取らせてしまって申し訳ありません。朝食にしましょう」

 まくし立てるように目の前で静止したままのラウス様に語りかけると早くこの場を後にしたいという思いが無意識のうちに出てしまっていたのか、踏み出した一歩はいつもよりも大きかった。

 二歩、三歩と行き場をなくしたハンカチと共に歩みを進めても一向にラウス様がその後に続く様子はない。

 刺繍したハンカチを贈ろうとするという行動がそんなにも気分を害したのかと振り返る。するとそこにいたのは目を見開いて先ほどまで私の手があった場所を見つめるラウス様の姿だった。

「すまないモリア。私は……間違えた、のだな」

 何について、とは聞き出せなかった。

 だがラウス様が間違えるものなど、こんなにも後悔した顔を浮かべるものなど、彼をよく知らない私が思いつくのは一つしかなかった。

 ラウス様はやっと私が本物ではないことを気づいたのだ。

 引き金となったのは先ほど渡そうとした薔薇の刺繍の入ったハンカチだったのだろう。

 結婚する前に気づいて良かった。

 婚約すら交わしていないのだからまだ間に合う。だから私とラウス様は元の関係に、お金以外の繋がりなどない、男爵家の四女と公爵家の長男にして次期宰相様に戻るだけだ。

 ……ただそれだけだ。

 だから今私の胸の中でドロっと疼きだしたものは歓喜のはずなのだ。今まで感じたどの感情とも違うけれど、喜びでなくては困るのだ。

 ハンカチを握る手に力が込もる。だが私の中に渦巻く感情も縫い付けられたその花も散ってはくれないのだった。


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