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学校の授業で夏目漱石が”I LOVE YOU”を”月が綺麗ですね”と訳したと僕は聞かされている。先生は『発している言葉の意味と本意は別物である。』と恥ずかしげもなく語っていたが、確かに言ってしまえば間違いではない。褒め言葉を嫌味として使う事もあるし、他人の真意など自分には分からない。だからこれほどまでに混乱しているのだ。
雪の降る通学路を進む僕の足取りが重いのは、決して冬の朝が肌を刺すように冷たいという環境的理由でも、ましてや鞄が重たいからという物理的理由でもなく、たった一人の女子生徒から言われた一言が原因だった。
『もう、学校に来ないで。』
脳裏にまたその言葉が過ぎり思わず眉間にしわが寄り少し頭痛が発生する。しかし、それは怒りや悲しみからくるものではない。学校に行かなければ、毎日なくなる上履きを探すことも、机の落書きを消すのに時間をとられることも、ボロボロになった教科書を使うことも、何もかもなくなって楽になれるのだから言ってしまえばかなりいい提案をされている。
先述のことは何が原因で、いつから始まり、どうすれば終わるのか・・・そんなことを考えていたのはかなり昔のことで、今となっては僕の日常の一部になってしまっている。だから僕は無感情を装い只々惰性で生きていこうと決めたハズなのに、なぜあの一言だけがこんなにも心に響くのだろう。
考え事をしていたせいで、渡っていた横断歩道が既に赤になっていることに気づいておらず、僕は渋々進んでしまった横断歩道を戻ることになった。しかし、この判断を僕はすぐに後悔することになる。
隣に並ぶ一人の少女、見間違うことなんて出来るはずがない。いや、見間違いならどれだけよかっただろうか。
本当に何を考えているのだろう、あの発言の張本人が僕の真横に立っている。勘弁してほしい、気まずいなんてものじゃないぞこれ。
そもそも、彼女とまともに話したことはなく、いや、そもそもここ数年まともに話した人もゲホンゴホン、それにしても、今まで彼女が視界に入った時の印象と言えば、物静かで、人と話すことが苦手なごくごく普通の恥ずかしがり屋の女の子というものだ。
誰かに今キモイと思われた気がしたが気のせいだろう。
休憩時間に席を離れれば物が無くなり、仮眠を取ろうと突っ伏せばどこからかゴミが飛んでくる。かと言って汚れた教科書で予習なんてする気にはなれない。強制的に他人を見なければいけなかったあの時間を気持ち悪いなんて言われたら異議を申し立てる。故に趣味人間観察という娯楽的考えではなく、学生として生きるための必要行為としての人間観察なのである。そして、それぐらい人を見ていれば大体分かる。
彼女の周囲にいる奴らが、責任逃れのために彼女を利用しているだけと分かっている。そういった思考は別に問題ない。誰だって自らの手を汚すのは嫌なのだ。それは平均的な考えでよくあることに過ぎない。
問題なのは他人より上でありたいと思う奴が多すぎることだ。向上心は大切なことだが、何年も前から人間は楽をして人の上に立ちたいという欲に溺れ過ぎた。その結果、一人の犠牲を作り自身の優位性を主張する行為を正当化しようとする。自身がもぬけの殻だと悟られぬよう集団を作り、自らが悪になっていると気付くことをやめる。
だが、昨日の言葉は今まで奴らに命令された言葉と少し違う様な気がしてならなかった。そもそもまず、俺が本当に学校に来なくなったところで、何が変わると思う?
簡単だ。奴らのおもちゃが変わる。少し考えればそれが『誰になるか』なんて簡単に分かることだ。しかし、彼女は言った。その集団の中で俺から目を離すことなく、遠慮なく、躊躇なく、引くことなく、そこにどれだけの覚悟があったのだろうか。
しかし事実これは、希望的観測以外の何物でもない、彼女は指示されるまま、その先のことを一切考えず行動しているだけなのかもしれないのだから、誰だって自分を助けるだけで精一杯だ。だから空気には逆らえない。いつしかそれは『みんな』と呼ばれた。『みんなが言うから』『みんながするから。』しかし、その発言をしたところでフォローをしてくれる奴なんて存在しない。だって『みんな』なんて最初からいなかったのだから。
夏目漱石曰く、「自らを尊しと思わぬものは奴隷なり。」
みんなが『みんな』の奴隷ならボッチのカーストはそれより上である。
だから、僕は今日も学校に行こう。彼女の言うことに従う必要はない。
自分で自分に訳のわからない言い訳を考えているうちに、横断歩道の信号はすでに青になっていて、彼女は我慢の限界とでも言いたげな速足で道路に出て行った。
後を追う形で登校を再開した僕が、目の端に捉えたのは、信号を無視して交差点に入って突っ込んできた一台の車だった。