不用意な一言
朝にトイレに入らなかったのがまずかったのだろうか、出勤途中歩いていると急に便意を感じてそんなことを思った。近くにトイレを探すがなかなか見当たらない。そういえばいつもと通る道ではないが公園があるがそこに公衆トイレがあったことを思い出す。今にも漏れそうな彼はその公演を目指して走った。
何とか漏れる前に便器に座り用を足す。ふぅー、と溜めた息を吐き出す。
「間にあった。でも、これじゃ会社は遅刻だな」
彼の勤めている会社は遅刻にうるさいのだ。なるべくなら早く出て走って間に合うようにしたいが溜めに溜めたからかなかなか便意が収まりきってくれない。少し我慢するとすぐこれだ。また、ため息をつく。今日は休んでしまいたい、そんなことを考えるが後が怖いので絶対に出来ない。
しばらくすると腸がすべて出し切ったようで便意が収まる、おなかの痛みが消え、何とか会社に迎えそうだなと思う。心の底から行きたくはないが。そして、紙を取ろうとするがそこにはもう紙は無かった。あるのは硬い芯だけ。ポケットティッシュは持っていない、紙は死んだ。
「すいませーん。誰か紙を持ってませんか?」
大きな声で叫ぶ、通勤時間のいま公園にいる人間なんていないだろうがこのままだと尻に不快感を感じたまま出社することになるのは勘弁なのでそうした。すると、意外なことに頭上からトイレットペーパーが落ちてきた新品だ。有り難い、大いに助かる。
「すいません、有難うございます」
と、返したが特に渡してくれた人間の返答はない。首を傾げながら尻を拭く。そして、外に出てみると誰もいない。誰が渡してくれたのだろうと思い他の個室を覗いてみるが誰もいる気配がない、さっきまで入っていたトイレを見ると扉には「親切なトイレ」と書かれていた。親切なトイレ?さっきトイレットペーパーが投げ込まれたのもこのトイレがしたことなのか、誰もいないならそう考えるのが妥当かも知れない、彼はそう考えた。まぁいい、そんな事にかまっている場合ではないのだ今からでも急いで会社に行かなければならない。彼はトイレから出るとすぐに走って会社に向かった。
それから、通勤途中で腹痛が起こるたびにそのトイレに向かった。夏の暑く、汗がにじむような日に入っていればタオルが投げ入れたり、「暑い」と言えば涼しい風がどこからともなく入ってきたりとそれは親切なものであった。
ある日の仕事の帰り彼はいつものトイレに立ち寄った、仕事で失敗をしてきつく怒られたのだ。しかも、彼のせいならまだしも自分の新人の部下のミスで怒られた。新人だから仕方ないとはいえ、彼も行き場のない怒りを覚えていた。
「ここに来てしまうなんてかなり参っているのかな。たまには誰かと飲みに行きたい」
とトイレに語りかえる。はたから見たらかなりやばい人なのだが、なかなか同僚に話せることでもなく。自分とは違う会社で働いている友達はみな忙しそうにしているので愚痴を打ち明けることも出来ない。便座に座るとそれは暖かく迎えてくれた。言葉どおり電気が通っているわけでもないのに便座が暖かいのだ。なんだか座るだけで落ち着くなんて彼は思った。さて、これからどうしようかと考えていると外からコンコンっとノックする音が聞こえた。別に用を足しているわけでもないので
「あ、すぐ出ますよ」
と言ってトイレから出てくる。すると、
「あっ、何でここにいるんだよ。久しぶり」
と、偶然高校の時の旧友が目の前にいた。
「お前こそ」
「おや、たまたまここの近くが取引先で帰ろうとしてたらトイレの方から聞き覚えのある声がしたから立ち寄ってみたんだよ。ここで会ったのも何かの縁だろう、これから一杯行かないか?」
と旧友は言う。これもトイレの計らいなのかもしれない、そう思うと気持ちが軽くなった。
「ああ、ぜひに。ちょうど行きたいと思っていたところなんだよ」
と心からの返事をした。そして、お互いの会社の愚痴や最近会った事、楽しかった事、きつかった事、いろいろなことを話した。久しぶりに楽しい時間が過ごせた彼はその後、旧友と分かれて自宅に帰った。部屋の明かりをつけ、ベットに横たわり考える。あそこのトイレはもしかすると神様が住んでいてなんでも良い願いがかなうんじゃないか、と。まさか、たまたまそんなことが続いているだけだ。酒が入っているから変事を考えてしまうんだろう。そうして、そのまま床についてしまった。
次の日、彼はまたトイレの中にいた。少しばかりいつもおより早く起きたはいいが、完全に二日酔いであった。通勤中に立ち寄ったのだ。
「ああ、頭が痛い」
そういうと、頭上から頭痛薬が降ってきた。彼はなんの考えなしにそれを口の中に流し込む。少しすると効いてきたのか、痛みが治まってきた。
「ふー、効いてきたみたいだな」
彼はトイレの個室の中でゆっくりと目を閉じた。これから会社に行って、昨日の部下のミスを正し、そしてその後どこが悪かったのかを部下に教え、上司に頭を下げに行く。違う意味でまた頭痛がおそってきた、今日は会社なんて行きたくはないな。彼はそれをつい口に出してしまった。
「ああ、今日は会社なんて行きたくはないな」
すると、外からコンコンっとノックする音が聞こえた。また誰か来たのか、そう思って扉を開ける。
外には電信黒ずくめの男がいた。サングラスをかけ、ニット帽をかぶり、そうちょうどコンビニ強盗のような格好だ。そして、手には鈍い光を放つ刃物が握られていた。そして、男はそれを彼に向けて振り下ろした。