若き当主の青き日々 後編
初冬の午前。
カタカタカタ…と旧式のタイプライターが音を立てる。それを繰る小さな手の主の眼差しは真剣だ。下書きを主体に資料を入れ替え視線を上下させながら、ひたすらに論文を打ち込む。
文字の打ち込みだけなので、さほど没頭はしていない。その証拠に、彼女の視線は時にタイプライターより遥かに上を向いた。小さな部屋の窓、半分カーテンの掛かったそこからガラス越しに外を見つめる。
ゆったりしたペースでひとつの章が終わり、チン!と改行台から音が鳴る。栗色の髪を小さな耳の横にかけつつ、彼女は手元のコーヒーを一口飲んだ。
カップを机に置いた、と同時にぱっと彼女は顔を上げる。外から音がしたのだ。街へ続く一本道、そこから近づいてくる古びたエンジン音。賃金を払えば寄り道をしてくれる都会への貨物車だ。
そして人間の声が、聴こえた。若い男性が、車の運転手に乗車賃を支払って礼と世間話を交わしている。―――今の彼女にとって、何よりも誰よりも待ち望んでいた彼の声。
椅子から素早く立ち上がった彼女の肩口で、少しばかり伸びた髪が躍った。栗色の軌跡を残し、小さな部屋の主は玄関へと駆け出す。途中、手櫛で頭髪を整えながら、若干の緊張としかし抑えきれない嬉しさでどんどん表情が綻んだ。
呼び鈴が、鳴る。
「アル!」
全開の笑みで扉を開けた先、迎え入れられた当人は照れくさそうに返事をした。
「よ。今、いいか?」
「うん! 入って」
身体を扉に添わせて促すと、彼は口元をもにょもにょとさせる。少しの間ののち、「オジャマシマス……」と小声で言い、少しばかり猫背気味になりながら長い脚を踏み出した。いつ見ても、その大きな身体にこの小さな家は窮屈そうである。
「寒かったでしょ?」
「ううん。全然」
小柄な彼女が見上げると首が痛くなるくらいの長身、短い黒髪、象牙色の肌。緑色の瞳はくりくりと大きくて、でも主張はそれほど強くなくて、どこか可愛らしいともいえる顔立ち。遠目から見ると背の高い大人の男性なのに、近くで見るとまた印象が変わるのが不思議な人である。鼻の頭が寒さで赤くなっているのが、少年ぽくて余計にかわいい。
ふわり、とこの家では発生しない香り。彼の温度であたためられたそれが優しく彼女の鼻腔に届くと、胸の奥がきゅんとする。そう、こんなにも近くで見つめないとわからない、彼の魅力。
「ほんとう?」
「いやマジで。俺けっこう寒さに強いし」
簡素だが仕立ての良い外套の裾が翻る。大好きなその匂いを閉じ込めるように、気配を独り占めするかのように。彼女は満面の笑みで扉を閉めた。屋外からの風が少し吹き込むも、不思議と寒くはない。
むしろ、彼の顔を見ただけで心は十二分に温められていた。
小さな家の小さな居間は、けれど大柄な人が座るに違和感が無いくらいにテーブルが広い。家中の家具は、おおよそが今は亡き祖父が手作りで設えてくれたものだ。
勝手知ったるでその一角に座り、こちらの差し出すお茶を自然に受け取ってくれる大きな手。彼が腰を下ろすと、遠かった視線と顔の位置が一気に近くなる。
「今、課題中だろ。本当俺来て良かった? じゃま、してない?」
「ううん! もうひと段落ついてるし、気分転換になるし、来てくれて本当嬉しい」
「そ、か。よかった」
広い掌には、可愛らしいマグカップ。昔同居人が使っていたそれは、若草色の野原に黄色いヒヨコがポイントされている。
「お土産のプルトクッキーすごく美味しいわ。ナイープで増産されてる果物とか、こういうのこっちじゃ手に入りにくいからとっても嬉しい。でも、わざわざ買ってきてくれたってことは遠回りだったんじゃない……?」
「ああ、俺ちょうど南方に用事あったから。ついでだったし、別に遠回りしたわけじゃない」
その手の大きさからするとまるで玩具のように小さい茶器。やや猫舌の彼は、ゆっくり中身を飲みながら軽めの口調でそう言う。いつもこうである。
「ふ~ん」
「……」
じっと見ると照れくさそうに目を伏せる。なんだかくすぐったい気持ちになって、彼女は自分の器を手に取った。向かいで傾けられるそれと同じ店で買った、空色のマグカップ。青空にふわふわと雲が浮かぶそれは、子供の頃から使っている。
空と野原。わかりにくいけど、よく見るとペアカップ。
「……」
その勝手な事実を確認するごと、口が自然と緩む。彼はきっと気づいていないけど。
「そういえばイーラのお父さん、またアルにお礼言いたいって言ってた。ルギリアでも高名な養蜂家と繋がれて本当に良かったって。……あの、これも一応伝えておくけど、町長さんがまたアルカリ―に来るようなら是非とも連絡してほしいって。連絡する?」
「いやいやいや、それやめて。本当いいから」
「え?」
「かなり前からもう嫌ってくらい礼言われたし。実際取引までいったのはイーラちゃんちの店が確かな品売ってるからだろ。俺は紹介しただけだし、養蜂家は――向こうは俺の口利きでもそういうの厳しいし。繋いだからって俺の功績じゃないから、礼は本当いいですって言っといて。あとイーラちゃん達はともかく、町長さんはいいわ。俺が週イチペースで来てることは黙っといて」
「うん、それは黙っておいたけど。……町長さん、町の特産が増えたし交易の幅も広がったからお礼の席を設けたいって言ってた。いいの?」
「うん。俺マジそういうの苦手だから本業言い訳にして逃げ回ってんの」
「ふ~ん。……」
「なんだよ?」
「意外だなと思って」
こういう会話の時、彼の「なんだよ」は響きが優しい。気のせいかもしれないけれど、自分にだけこういう言い方をしているような気がする。そうだといい、と思う。
「アルはそういうのに慣れてるかと思ってた。国立博物館に寄付とかも、してたんでしょ? 大勢の人に感謝されただろうし、もてなされるのに慣れてそう」
「慣れっつうかお偉いさんとの関わりが苦手だからさ」
経歴からして――それを知った時はさすがに驚いたものだ――自身もその「お偉いさん」に含まれるというに、彼はいつだってそんなことを言う。
「寄付も俺んちの倉庫の荷物押し付けただけだし。苦手なのはいつまでたっても苦手。まず、タイするのが苦手。礼服は俺の鬼門」
苦笑しながら、彼は長い指で首元の服を軽く引っぱった。インナーの見えない、襟が大きめに開いたニット。基本的に「首」と名の付く場所を締め付けるのが苦手なんだと、前にも聞いたことがある。
「昔っから逃げたくなるんだよな、礼言われる挨拶とかも出来れば省きたい。一言で言うなら、まあ、メンドい?」
彼の象牙色の肌は、適度に陽に焼けていながら荒れてはいない。綺麗な肌の、がっしりした首と喉仏。
「ふぅん。……」
こっそりと、自分が編み物しない女で良かったと思った。元同居人みたく自然にハンドメイド品をこしらえてしまう根気と手先の器用さがあったら、きっと勝手にマフラーとかを編んで相手の要望も考えず押しつけてしまっていただろう。恋愛の経験値不足や相手に対する重さや独占欲はどっこいだとわかっているので、容易に行動が想像できてしまう。
あの子は、いわばもう一人の自分。
「ねえ、アル。話は変わるんだけど」
「ん?」
「あのひとから―――騎獣さんから連絡とか、きた?」
ぱちくりと緑の瞳が瞬きし、頭が振られた。横に。
「―――ううん。今んとこ四か月は音沙汰無し」
「そっか……」
視線を手のマグカップに落とす。こちらの空色は変わらないが、向こうの空は今はどんな色をしているのだろうか。こことは違う場所だから、きっと色々なものも違うのだろう。
「元気かな」
「元気だろ」
即答し、彼はずずっとまたお茶を啜った。
「あいつが今連絡してくること自体、霊獣的にはあり得んと思うよ。イヴァとして天界に居るのに人界の騎者の助けが要るってのはあいつ単体では手に負えないことがあるってわけだから、それは逆にマズい。だから、今は連絡無いのが普通でそれが平和」
「……そっか。便りが無いのは元気な証拠、か」
そう紡いだ声が自分でも感じるほど暗かったせいだろうか。優しい彼はまた、早口で続けてくれた。
「……、にしても、ワカバちゃんの近況くれえは伝えてもいいのにな。これだから精霊族ってのは人間のことわかってねえんだよな。人界で数十年は修行したってのに、常識がなってない。今度連絡きたらそこんとこ問い詰めてやるよ、うん」
彼の優しさに、やっと視線を上げられる。
「ありがと」
目を合わせて微笑むと、彼の薄い耳たぶが少し赤くなった。
「ワカバがいなくなって、さびしくなるかなって思っていたけど。思ったよりそんなにさびしくないのよね」
「そか」
「うん。一人になってやること増えて逆に忙しいくらい。課題山盛りだしもうそろそろ卒論準備しなきゃだし、何より、イーラ達が引っ越してきてくれたから。あといくつも大手の企業が隣町に支店構えるなんてね、出来すぎなくらい。人通りが凄く多くなってびっくりしたわ。偶然だろうけど、このタイミングで首都から直通の貨物便が来るようになったなんてね」
「あー、うん」
「ふふ、イーラのおうち、七人も兄弟いるでしょう? イーラのお父さんもお母さんも大忙しで、ベビーシッターすると喜んでくれるのよ。下手なバイトよりちゃんと払ってくれるから、正直こっちも大助かり。お夕飯も毎回ご馳走になってるし、たまにお泊りするし。イーラも、イーラの家族も本当良くしてくれて、毎日賑やかで」
「うん」
「だからね、思ったより平気。一人になったって、……」
ちょっとまた視線を落とす。膝の上に置かれた自分の手と包まれたマグカップ。小さな頃から変わらない、子供のような両手。
「この環境でさびしいなんて、ねえ?」
熱々の紅茶であったが、もうだいぶ中身は冷めている。すぐ飲み干す気にならず、なんともなしに空色の陶器を眺めた。昔、いたずらをしておじいちゃんに叱られた時によくこのカップの雲を数えてたっけ。
そ、と。大きな手が、視界を占領した。
「………。なあに?」
「うん」
頼りなく小さなカップを包む自分の手を、外側から大きな手がそっと包んでいる。
「なんとなく」
「なんとなく?」
「うん」
今度は顔を上げられなくなった。きっと、すごく近くに彼の顔があるだろうから。
「ちっせー手」
ぼそりと至近距離で呟かれた声。長い指がマグカップの縁を器用に摘まみ、こちらの手の中から優しく取り上げてテーブルの上に置く。からっぽになった手を、寒いと思う間もなく乾いた温もりが包んだ。
大きい手。暖かい手。
「小さくて悪かったわね」
顔が熱くなるのを誤魔化すように、わざとむくれた風に言うと、前髪にふっと吐息が零される。
「小さくて悪いなんて言ってねえよ。小さいと色々便利だからいーなって思ったの」
「小さくてかわいいって言わないのね、アルは」
「そんなんわかりきったことだし確認するまでもねえだろ、俺が言いたいのは小さいと狭いとこに手が届くし細かい作業得意だろうから精密機器の整備にゃうってつけ……って、おい、かわいいとか、言われたことあんの? 誰に? 男?」
「なんで途中からいきなり尋問っぽくなるのよ」
ふふふ、と笑いが洩れてしまう。
「そんなこと言われたことないし」
「『小さくてかわいい』って?」
「『小さいと便利』って」
こちらの小さな手を包むように握る大きな手を、握り返す。骨太で長い手足は、大きな木の枝みたく芯からしっかりしていて、飛びついてもびくともしない。体格に差がありすぎて、まるで子供と大人の指。
そう、自分は子供だ。こんなちっぽけで力が弱いくせに、大好きなものを独り占めしたがる欲張りな手の持ち主。
「そんなこと言われたの初めて」
ちょっと身を伸ばして、額をごつんと突き合わせる。
「いて。やっぱ怒ってんじゃん」
「怒ってないし。ちょうどいいところに頭があったから、置いてるだけです」
俺は枕かよ、と至近距離の吐息が笑っている。
「さよですか。実に小さくて可愛い頭ですねぇ」
すり、と髪が優しく掻き上げられ、おでこの位置が変わった。視線を上げると、甘く優しい光を湛えた緑が間近にある。
「今度は『小さくてかわいい』の?」
「うん。中身は詰まってるってわかってんだけどな」
「何それ」
ふふっと笑った吐息は、大きくて熱い唇に吸い込まれた。
しばらくして、空からは冬のかけらが舞い降り始める。彼は夜の帳が落ちる前に帰っていった。これもいつものこと。
泊まっていいよって、むしろ泊まってほしい、そういう関係になりたいのと匂わせても勇気を出して直接言っても断られる。彼は何時間もかけてうちに来てお茶を飲んで親密な話をして、でもその日のうちに帰っていく。泊まらないし、キス以上のことは絶対にしない。年上の彼氏がいる友達が言うには「大切にされている」。そうなのかと最初はもどかしくも嬉しかった。でも、段々時間が経つにつれて焦れと悔しさが勝ってきた。
触れた端から、出逢った瞳から伝わっているだろう熱。もうそうなってもいいよって、こっちもそうなりたいのって、何度願いを込めただろう。――彼からも、どんなに熱が押し寄せてきているか。
でも、実際彼はこの先に進もうとしない。
(私はもう成人してる。ワカバもそれをわかってたからこの家を出た。もう子供じゃないのよ)
今日も小さくなっていく彼の背中を見送りながら、ふうとため息がこぼれた。白く舞い上がっていく想い。
いつだったか、自分にはそういう魅力が無いのかと落ち込み彼の前で涙目になってしまった時があった。彼は慌てて違う違うと何度も首を振った。
『俺はさ、お前が思ってる以上に普通じゃねえんだよ。ガンバッて普通に見せかけてるけど、本当普通じゃねえの』
普通って?
『俺の爺ちゃんは純エルフで、父親も純エルフに近い種だって話はしたよな? そういう関係』
知識としては知っている。でもそれがなんの関係あるの?
『……傷つける、かも』
傷つくのが怖いの?
『……お前を傷つける、かも』
そうじゃないでしょ。
『……え?』
アルは、相手を傷つけるのが怖いんじゃない。自分が傷つくのが怖いのよ。
『………かもな』
いつまで経ってもそういう意味で触れてくれない彼相手にもどかしくなった私は、突っ込んだ言葉を言ってしまった。でも、優しくて大人でずるい彼は、そう返して曖昧に笑い、黙ってしまった。彼らしくも彼らしくない、そんな反応。
私は。
「―――じゃあ、待つわ」
いつだって私は待つ側。力が足りなくてちっぽけで、だから頼りにならなくて前線には立てなくて。敵には舐められるし味方にも護られるだけだし。
でもね。
「待つことは、得意なの」
そのせいで、辛抱強さは鍛えられた。諦めとは違う。この先があるんだって信じているからこそ「待てる」ようになった。
だって。
「愛しているんだもの」
この気持ちはそう易々と生まれない。不器用で頑固で意地っ張りな私は、昔から簡単にこういうことを言えないし抱けやしない。
赤ん坊の頃に両親が亡くなり祖父と異種の家族に育てられた私は、短くちっぽけな人間の半生の中でそれでも悟ったことがある。私が愛を抱ける他人は、本当に少数だ。心の芯が熱く確かに訴える、その数人だけにこの気持ちを捧げられる。彼らがどんなに遠くに離れても信じられるし、待てる。血の繋がりも同種か否かもそこには関係無い。
基準は単純、自分がその人を想う時に熱を感じるかどうか、それだけ。
―――愛している、だから待てる。
それが確信できる、そういう存在に出逢えた時点で、この先どんなことが待ち受けていたとしても私は幸せなのだ。……例え、未来に死ぬほど苦しんだとしても、私はあの時抱きしめてくれた彼の腕の温もりを、今の気持ちを忘れることなんてずっと無いだろう。
(重い、んだろうなあ)
自分でもそう感じるから、今まで恋なんて出来なかった。自分の正体はこんな女だ。
でも、嫌いじゃない。今の自分は、今まで一番好きな自分だ。
私は、待てる。
「……でも、なるべく早くしてよね。寂しくて拗ねちゃうかも」
そんな独り言をつぶやきながら、扉を閉めた。ワカバもアルも、ちゃんとわかっているんだろうけど。
私は、待ってるからね?
「っくしょ」
冬の夜空に、白いくしゃみが解けていく。
「~~ッあー……」
ほわ、と見上げた先に月は無い。けど、青年の目はきらきらと輝いていた。
「……好きだーー……あーもうたまんねー……。………あのまま居たら本当ヤバかった………あかんなー俺ー………」
潤んだ緑は、慾とも情とも愛とも恋ともつかぬものに浮かされている。
「あー………」
寒さにも紛れることないそれに、彼はただただ空を見上げるしかなかった。
彼本人にも、拭おうとする気が無いゆえに。
リョクが天界に行ってからのアルセイドくんの日常でした。こんな感じで過ごしている彼です