若き当主の青き日々 中編
自然区域の暮れは早い。人の集落が作る灯りが無い分、日が落ちると周囲はほとんど見えない暗闇となり、夜目の利かない動物は動けなくなる。例えば、只の人間のように。
「ううっさびい」
加えて、季節は初秋。南方の国ならともかく、北方に近いここでは日没はそのまま気温の急激な下降を伴う。
「外套持ってきといて正解だった」
ぐず、と鼻を擦りつつアルセイドは夕暮れに包まれた山中を歩いていた。辛うじて人の通れる、最低限草が掃われた山道である。手元には簡易手灯一本。登山というより野原の散歩と言った方が似つかわしい靴に、至極薄着の出で立ち。野宿の荷物すら背負っていない。夜に突入しようかという自然区域に分け入るには、心細いを通り越して考えなしと言われるような備えだ。
尤も、当の本人にとってはすべて計算のうちであるが。
「しっかし、ねえわマジで」
寒いのだけは勘弁とばかりに外套の襟を詰め、あとは無造作に歩く。手灯の細い光だけでは当然、足元の一部しか照らすことはできない。やがて日はすっかりと落ちて視界は闇に遮られ、もはや人間の目には元来た道すら判別不能になる。全身に吹きつける冷風も、生身の肌を切るようなものとなった。
「正気の沙汰じゃねえよな、今更ながら」
独り言だけが闇に溶けていく。短い黒髪に吹きつける自然区域の容赦ない風。山岳遭難のことなど一切考えていないかのように無計画にざくざくと歩を進めた先、ふ、と空気が変わった。
最初は躊躇いがちに、しかしアルセイドの頬に確実に「それ」は触れてくる。そしてそっと、冷え切った全身を包むのだ。まぎれもない「自然」の風だが、この場においては「不自然」な風が。―――まるで彼を護るかのように暖かな、空気が。
「……また来たのですか」
「……おう。また来た」
アルセイドが細い灯りを向けた先、うっすらと暗闇に浮かび上がった人影。彼と同じくらい長身であるが、彼とは対照的に薄い色をした頭髪の主だった。
人工的な光を顔に直に受け、眩しそうに目を細めた彼はいつもながら人外的な麗貌である。複雑細緻な銀灰色の髪、青が濃い紫の瞳まで暗闇の中だというのにくっきりとその色が視認出来る。只人であるが霊力界隈の知識を一通り修めたアルセイドには、悔しいことだがその理由がわかっていた。
力のある精霊族は物理的暗闇など気にしない。霊視ですべて事足りるからだ。相性の良い自然区域内において光源の有無など気にしない彼らだが、「視ることが出来ない」相手に配慮することがある。―――こうして自ら光ってくれるのだ。
「そこのぼっちエルフ。リア充人間が来たから護衛しろ。ほっといたら死ぬぞ。俺が」
「……。はいはい」
アルセイドとまったく似ていない顔で苦笑し、アルセイドと同じような歩調で彼は近寄ってきた。
もう頬に冷気は刺さらない。違う色をした二人の頭髪は、優しい風に靡いている。
「ハヤテさんは? 貴方を普段護衛しているあの風精は、どこに」
「なんであんたがリョクの子飼いの名前ナチュラルに把握してんだよ……ってこの疑問無意味か。あの風っこ、使役のくせに気まぐれだから。今日は『あの超コワイ風使いさんいるんだろ~オレいないほうがいいな~』とか言ってさっきどっか行った、イミフメイ」
「なるほど」
「『なるほど』じゃねえよ」
夜の山道を、二人で下る。
「それにしてもよ、ティーさんはいつまでこの山に登んの」
「死ぬまで、です」
「あっさり言うね」
「真実ですからね。実家の墓参りが赦されたので、もう心の整理がついてしまったようです。それなりに永く生きてはきましたが、そろそろいいだろうと。ティリオ=シル=イヴァニシオンというエルフは、ここで終わることにします」
「うわ、ぶっちゃけ超絶迷惑宣言。私有地が勝手に終活場所にされてるとか本ッ当迷惑。心底から言うけどやめてくんない?」
「大丈夫ですよ、エルフとしてもイヴァニシオン家の血筋としても真っ当な死に方ですから。霊気が絶え寿命を迎えると同時に器が一気に腐りますからね、下手に人の界隈に居ない方がいい。こういう山奥の自然区域内で最期を迎えた方が始末が良いんです」
「あのね、誰に向かって上から解説ぶってんの? 俺は誰よりもそのことクソほどわかってんだけど。他でもない、あんたのクソ親父にそれやられたんだけど。あんたも同じことする気?」
「ですから、迷惑をかけないようにここで迎えようかと、」
「あのさ、何度も言うようだけどここ私有地だかんね? 父子二代でひとさまに迷惑かけないでくれる??」
「大丈夫ですよ、自分は父よりは分別があります。腐臭がしないように風精には頼んでおきますし、残った骨も出来るだけ風化はさせますが、万一残ってしまった場合には適当に土を被せておいてくださればそれで結構です」
「『結構です』じゃねえからな!?!」
ため息をつき、アルセイドは空を仰いだ。腹が立つほどに満天の星空である。
「……なんでこの山なの」
「昔、よく来た場所でして。さすがに地元の霊獣や四元精は入れ替わっていますが、風土なのか実力者なのは変わっていませんね。ひとの身に転じた風の精霊王も、よく我が家を訪れていました。この身に宿る霊力に馴染みにあるこの地なら、風の混乱も最小限に抑えられる。此処ならば最期を迎えやすいかと踏んだのです」
「『踏んだのです』じゃねえよ」
「それに、これでもイヴァニシオンの端くれですからね。先々代の当主も一族の心得を書き残しているはずです、もしこの身が最後の役に立つのなら――器が還る場所を決められるなら、少しでも先祖伝来の土地近くにすべしと」
「無視かよ」
「なのでアルセイド、自分のことは放っておいて結構ですよ。貴方の人間としての思い遣りはありがたく感じておりますし意義も理解しておりますが―――正直、まったく無用の心配かと。エルフはこういう生き物だと、精霊学者として誰よりもおわかりでしょう?」
「……」
頭を掻きむしりたくなったが、そういう場面でもないなとアルセイドは思い直した。
「……。あーもーよくわかった。頑固ジジイと同様、俺のツッコミ無意味だなってよォくわかった」
「はい、そういうことです」
にこにこと穏やかに微笑むこのお綺麗なツラを一発張り飛ばせば、少しはすっきりするのだろうか。恐らくこいつは黙って「殴らせて」くれるだろうが、痛くなるのはこちらの平手のみだろう。
あまりに苛ついたので、せめて大声で愚痴ってやる。
「ッあ~~~もう! しょうがねえよなこれも! しょうがねえから看取ってやる!」
「いや、看取らなくて結構ですよ。一人で逝くので」
「はあ!? まァたじいさんの時と同じことやらせる気か!!」
「いえ、だから後始末が楽なようにと、」
「うるせえ! 俺が言ってんのは、また家族を看取らせないつもりかよってことだよ!!!!」
「―――」
「ッあのクソジジイにこのクソ親父!! 俺の肉親は母さん以外まともなのいねえなマジで! ガチで!! だから二度目は俺の望みも通させるかんな!!」
「―――」
「いいか、これだけは約束しろ!! 一人で死ぬな!! 死ぬ時はちゃんと言え!!」
「―――は、い」
ふ、と空気が変わった。
暖かな風は変わらないのに、確かに何かが変わったのを感じてアルセイドは振り返る。斜め後ろを歩いていたエルフは、それまでとは違う表情でこちらを見つめていた。
「――んあ? どうした、ティーさん」
「……」
数瞬の沈黙のち、開かれた唇。
「自分はずっと、…………ずっと、貴方のような人間になりたかった」
「は?」
「そう、なりたかったんだ、人間に」
見開かれた緑の瞳。それにそっと笑み返し、ティリオは続ける。
「人間になりたかったんです。貴方のように尖っていない耳を持ち、四元素を操ることなく、霊気も霊力も何も使えず、不思議をただ不思議と捉え、ありのままに生きる只の人間に」
自分はずっと、それに憧れていたんだと。誰にも言うはずのなかったことが、口を次いで出た。
「昔は心からそう考えていました」
こんなこと。
「――リラと同じ、人間で生まれたかった」
こんなこと、あのひとにも言ったことは無かったのに。
その名を日常の中で、なんでもないことのように口にすること。それがかつての至上の望みだった。それが出来る事実が、どんなに得難かったのかを識る者はもう己以外にいない。それを感じるごと生まれる心の痛みは深く、しかし現在を自覚するごとに甘やかでいとおしい感覚も生まれる。
ごく自然に、
あのひとの名を、口に出来る。
あのひとへの想いを、語れる。
目の前のこの存在は、己のそういった心底の望みを叶えてくれる。
犯した罪が消えるわけではない。しかし、かつての絶望感は覚えない。
彼のその身が、存在自体で現状を肯定してくれるから。
それは、悠久の時を超えてきた今においても過去に感じたことの無い充足感だった。
しかし。
(しかし、自分は何も返せていない)
そう、この存在からあまりに多くのものを与えられているのに、自分は何も与え返していない。少なくとも、今の充足感と等価になり得るものを返せていない、とティリオは感じる。
(むしろ、彼に多くの責を押し付けたままだ)
このまま勝手に死に逃げてよいのか。よいはずがない。
(……もし、)
もし、この無駄に命数が残っている長命種としての生が、生きている間に役に立てるのなら。人間としては永すぎる人生の手助けとなれるのなら。……彼の、人間としての幸せを見届けられたのなら。
ティリオはこっそりと思う。
自分はいずれ、この山中にて弊えるつもりであるが。
それは割と先になりそうだ、と。
微笑みと同じ温度の風は、優しく異種の二人の隙間を抜けていった。