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桜ちる頃

作者: 竹下舞

 テレビにはお昼の情報番組が流れていて、保育所の問題が特集されている。〈保育所の数が不足している〉とか〈保育士の待遇が悪い〉とか、そういう数年前から言われつづけている問題を、スーツ姿の男性が説明している。祖母はそれをじっと見ていて、私は気まずくなって窓の方を見た。でも音だけは聞こえてくる。

 窓の外には細い木々があり、赤い花々が咲き乱れている。南側は枝が見えないほど花がついているけれど、家の影になるためか、北側はちらほらとしか咲いていない。

 窓の前には、からのペットボトルがある。

「それって砂糖が異常なほど入ってるらしいよ。小学校のとき習わなかった? 缶ジュースの写真がいくつかあって、その下に角砂糖が何個もあって。覚えてない?」

 サイダーを飲んでいると、アキくんからそう言われた。三日前のこと。そのとき成り行きで初恋の話になった。アキくんとは幼なじみで、もう二十年もの付き合いになるので、それは単なる思い出話だった。でも、アキくんは突然こう言った。

「だけど〈初恋がいつか?〉なんて別にどうでもよくて、ホントに知りたいのは〈初めての失恋がいつか?〉ということ。そう思わない?」

 そのときは特に何かを思うことはなかった。ただ「まあ、そうかもね」と受け流しただけだった。でも今から振り返ってみると、ずいぶん意味深に響く。幼なじみと付き合うなんてありえないけれど――本当に本当にありえないけれど――なぜか意識している自分がいる。今朝も、アキくんの家の前を通らずに、遠回りして祖母の家に来た。

 私はダイニングのイスにひざをかかえて座っている。祖母は座敷のこたつに入っていて、テレビに目を向けている。まだ保育所の問題について話し合われていて、保育士をやめた身分としては、居心地が悪い。たとえ保育士の苦労が紹介されていても、私たち離職者の根性のなさを指摘されている気になる。テレビで誰かが冗談を言ったのか、祖母は笑い、等しく並んだ白い歯が見えた。

 また正面の窓を見る。赤い花々は、あきらかに景色から浮いている。それは、じっと見ているだけで目が疲れるほど、強い色をしている。ただ、五月には緑の葉がおいしげり、赤い花は数えるほどしかなくなり、しとやかになる。

「ねえ」と私は祖母の方を向く。「あの花ってなんて名前だっけ?」

「どの花?」と祖母はこちらを見た。

「あの、赤いの」

「ああ、あれはボケだね。きれいに咲いてるでしょう?」

「うん。でも、そっちの黄色い方が好きかな、私は」

 座敷の窓の両脇(りょうわき)には障子(しょうじ)があり、和を感じさせる。窓の外には、黄色い花が枝いっぱいに咲いていて、風が吹くと、枝ごとゆれて、黄色はかろやかに見える。私は青い空と黄色い花のコントラストを想像する。でも想像では物足りず、こたつまで行く。実際に見たコントラストは、味気なかった。背景の青色が薄すぎて、前の黄色ばかり目につく。

 黄色い花の向こうには、すべすべした幹の木があり、白い花が咲いている。太陽の影響のためか、上の方の枝には花が咲き乱れているけれど、下の方はつぼみが多い。ときおり風が吹き、白い花びらが(またた)く。数百枚がいっせいに瞬くので、明るい音が聴こえてきそうなほど美しい。

こたつの中で足をのばすと、祖母の足にあたり、目が合った。祖母の顔はほころび、白い髪は静かにゆれる。

 机の上には、毛糸の玉が二つ転がっている。それは緑と赤のクリスマスカラーで、緑の方がやや小さい。それから、折り紙もあり、いくつかの完成品が並んでいる。緑のカメ、紫のカメ、ピンクのカメ。それらは保育園に寄付されるのだけれど、どうあつかわれるのかは知らない。園児から感謝の手紙が届いたことはない。ただ、祖母は退屈しのぎに作っているので、それでかまわない。

「私、この家に住もうかな」と私は指で髪をもてあそびながら言う。

「あたしは一人でも平気」

「そうよね」と私は言い、床に手をついて座り直す。「そうよね。おばあちゃんはもう二十年も一人で暮らしてるんだもんね」

「もうそんなにもなるのかねえ」と祖母は過去をなつかしむように言った。

「だって私、もう二十四だし」と私は言った。頭には父のことが浮かんでいて、下唇のはしを指で軽くひっぱった。

 アキくんには好きな人がいるのか?

 そういうことを考えるのは恋している証拠に思えてきて、少し困惑してしまう。母と父のことを考えれば、やはりアキくんはありえない。一緒にいて楽という状態からはじめる恋愛は健全ではない。楽しいと思えるならいいけれど、楽としか思えないのだから、よくない。それとも、そちらの方が長続きする?

「最も人間的なことはなんだか知ってる?」とアキくんは言った。中学生のときで、学校帰りのことだった。

「そうだな。何かな?」

「昔のロシアの作家が言ってんだけど、最も人間的なこと、それは日記をつけることと昆虫の標本を作ること」

 そう言われて、思わず笑ってしまった。でも、今では笑い事ではない。

 アキくんの趣味は昆虫採集であり、中学生のときにはすでに標本用の引き出しが三つもあった。アキくんは、美しい蝶以外にも、ゴミみたいな虫も集めている。というより、ゴミみたいな虫ばかり集めていて、健全な趣味とは思えない。少し前まではそんなことは考えもしなかったけれど、今では無意識的に考えてしまう。

 祖母は入れ歯をはずし、(まゆ)をひそめた。しなびた手に持たれた入れ歯は、いやに清潔に見える。唾液(だえき)が輝きをそえている。祖母は入れ歯を戻し、ほのぼのと口を動かす。ティッシュペーパーで手をふくことはなかった。

 テレビはコマーシャルになった。私は立ち上がり、トレンチコートを着て、右のポケットにスマートフォンを入れる。

「じゃあ、帰るね。おじいちゃんの命日にはお墓に行くんでしょ?」

「ええ。そのときには千鶴に連絡されるから」

「じゃあ、また今度」

「どうもありがとう。気をつけて帰りなさいね」と祖母は座ったまま言った。

 祖母は以前は必ず、裏口まで見送りに来てくれていたのに、近頃はそういうことは少なくなった。それは寒さのためか、それとも老化のためか? 叔母の千鶴さんは「母さんには料理も洗い物もやらせた方がいいから。その方が健康を維持できるから」と言っていた。それでも老化は止められないもので、物覚えも少しずつ少しずつ悪くなっているようだった。家事を一人でこなせないほどになったら、どうなるのか?

 裏口には水槽があり、そこには立派な金魚がいる。私が近づくと、エサの時間だと勘違いしたのか、みんな水面によってきた。魚と交流するのは気分がいい。もう一つの水槽には小さなカメがいる。カメの世界は金魚の世界ほど広くはないようで、その子は私に関心を示すことはなかった。

庭を通るとき、黄色い花と白い花が目についた。それらは室内から見るよりおとなしい雰囲気があり、小鳥のさえずりと気持ちよく調和している。

 私は自宅に向けて歩いていく。手は両方ともポケットに入れている。空にはかすれた雲があり、地面には短い影がある。裏通りなので、人も車も見当たらない。

スマートフォンが鳴り、またアキくんのことが頭をよぎった。でもナルミからで、面倒だったのでポケットに戻す。スマートフォンは鳴りつづけ、私は歩きつづける。音がやむと、心もとない感じがしてきて、タイヤキの歌を口笛で吹く。

 道路沿いの桜並木は、閑散(かんさん)としている。ただ木が並んでいるだけで、花もなければ、葉もない。向こうからは保育園の子供たちの騒ぎ声が聞こえている。今度は雨の歌を吹く。それはそのうち別に歌に変わっていて、〈これ、なんの歌だっけ?〉と考えながら吹いていると、〈あっ、タヌキを撃ち殺す歌だ〉と思い当たった。

 メールの着信音が鳴り、口笛をやめた。やはりナルミからで、いつものように改行なしの長い長いメールだった。〈本を読んで、中年女性の話だったんだけど、息子の手をひいて歩いた記憶より母に手をひかれて歩いた記憶の方が強く残ってるんだって。母の記憶の方が古いのに〉まで読み、途中をとばして、最後の〈カラオケ行かない? 一時半までに返事ちょうだい〉を読んだ。

 高校を卒業した頃に、ふとしたきっかけから、アキくんとお互いの卒業アルバムを見せ合うことになった。そのときアキくんはナルミの容姿を褒めた。そんなことはそれまでに一度もなく、私は少しとまどったけれど、二人を会わせることにした。でも、恋に発展するには二人のタイプはあまりにも違いすぎた。

 ナルミは無鉄砲な性格をしている。

 二年前、私は男の人と付き合っていて、その人から「もしもの話だけど、俺が浮気をしてたら、どうする?」と言われた。それは単なる雑談にすぎなかった。でもその日からその人のことが信じられなくなり、毎日が不安になった。ナルミに相談すると、「もし浮気したら、顔に熱湯をかけるから。浮気しそうになったら、その言葉をよく思いだしてみてね。そうやって脅せばいいんだよ」と教えてくれた。ナルミなら脅すだけではなく、実際にやってしまいそうで、少し怖い。

 歩道のフェンス越しに池があり、そこには栗色のカモがいる。私は両手を頬にあてた。みんな楽しそうに泳ぎ回っていて、小波(さざなみ)がつぎつぎと広がっていく。それに合わせて、光がキラキラする。それはカモの周囲だけにあり、カモたちは光とたわむれているように見える。〈ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ〉と数えていき、十二までいった。

 また口笛を吹きながら歩いていく。あいかわらず人の姿はなく、静かな光景が続いている。日差しはあたたかい。ふと、何かの影がすばやく地面を横切った。空をあおぐと、トンビがゆったりと旋回している。私はタカみたいな声で二つ吹く。もう一つ吹く。トンビはのんびりと円を描いている。その影は驚くほど速い。

 自宅に着くと、祖父母にあいさつをして、二階に上がった。こちらの祖父母は母の両親で、母と父は幼なじみだった。だから、祖母の家と私の家は、歩いていける距離にある。

 私の両親が離婚したのは、父の不倫が原因だった。それは私が四歳のときのことで、その頃までは私たちは父の生家で暮らしていて、私は父方の祖母を〈チエばあ〉と呼び、母方の祖母を〈テルばあ〉と呼んでいた。離婚後は母の生家で暮らしはじめ、いつしか祖母の呼び方は両方とも〈おばあちゃん〉になっていた。

 不倫による離婚だったためか、両家の交流は一切なくなった。私だけは両家とつながっているけれど、家族には祖母に会ったことは言わないし、祖母にも家族の話はしない。それは暗黙の了解として昔から習慣づいている。

 ベッドに寝ころび、祖母と二人で暮らすことを考えた。それは難しいように思えた。祖母は二十年も前の息子の失態を引け目に感じているようだし、たとえ私の家族が納得したとしても、今日みたいに拒否するように思える。

 クラクションが三つ聞こえた。三つ目が消えると、とても静かになる。静けさのあいだには小鳥のさえずりがある。私は起き上がり、レースのカーテンをはぐって外を見る。ナルミが手をふる。白い車は丸くてかわいらしい。室内に向き直ると、外の明るさに目が慣れたせいか、視界が一瞬ぼやけて見えた。


 空は雲で閉ざされている。ただ、雨の気配はない。まだ朝の八時だというのに、保育園からは子供たちの声が聞こえていて、それらは軽くて騒がしい。私は遠くを見ながら歩いていく。人の姿が見当たらないので、すがすがしい。風でロングスカートがはためき、子供たちの声がやや大きくなる。すぐにもとに戻る。風は子供たちの声を運んでいる、そう思い、歩調をゆるめて、代わりに歩幅を大きくした。

 角を曲がると、桜並木があり、すでに満開になっている。風のためか、花びらは次から次へと落ちる。風がやんでも、はらはらと音もなく落ちていく。ふと、ある光景を思いだす。数年前、ちょうどこの場所で、花びらが降りしきる中を白い蝶が飛んでいた。頭の中のその光景は、実際に見たときよりも、ずいぶん美しい。桜も蝶も踊るように舞い、お互いに祝福し合っているように見える。

 歩道には花びらが美しく敷かれている。その一方で、車道の花びらは汚く押しつぶされていて、吹きだまりの花びらもみすぼらしい。車道を横切り、反対側の歩道に行く。そちらには椿(つばき)の木があり、赤や白の花がいくつか咲いている。下には凛とした花が二つ転がっていて、赤い方を拾い、そっと鼻もとに持っていく。そして葉と葉のあいだに飾り、指をスカートにこすりつける。

 あちらから初老の男女が歩いてきた。男が二人、女が三人。彼らは桜を指さしたり顔を見合わせたりして、上ばかり注目している。私は踏まれていく花びらを想像して、少し早足になった。でも遠くに子供たちの騒ぎ声を見つけ、ゆったりと歩いていく。

「花なんて何がいいの?」

 中学生のとき、アキくんからそう言われた。

 私はすぐさま「虫なんて何がいいの?」と返した。すると、アキくんは昆虫の魅力を語った。「あんなに小さいのに、精巧に作られていて、しかも動く」とか、「人間はいくらロボットを作れても、昆虫と同じ大きさで同じ性能のものは作れない」とか、なんとか。そのときも私は笑った。

 振り返ると、お年寄りたちはまだ陽気に桜見物をしていて、さっきのは間違いだったと思った。口笛を吹きながら歩いていく。そっと木から葉をもぎとり、風を確かめるように真上に(ほう)った。葉ははかなく落ちていく。

 自転車に乗った子供がいて、そのあとを走って追いかけている子供がいる。春休みなので、二人とも私服を着ている。

 マスクをしている中年女性が、ゴミ袋を片手に走っている。ゴミステーションの(おり)の中にはゴミ袋の山があり、そばにはタンポポがゆかしく咲いている。檻のけたたましい音がして、タンポポはかすかにゆれた、そんな気がした。彼女は花を観賞する余裕はなさそうで、でも化粧だけはしっかりしている。

「おはようございます」と私は言う。

「おはようございます」と彼女は明るく言い、小走りで去っていく。

 仕事をしている人は大変だなと思っていると、さきほどのお年寄りが誰もマスクをしていなかったことに気づき、スマートフォンで〈高齢者 花粉症〉と検索する。ディスプレイを見ながら、とぼとぼと歩いていく。

 ナルミは病院で事務員をしている。患者はお年寄りが大半を占めているらしい。

半年ほど前、ナルミから合コンに誘われた。私はそっけなく断ったけれど、「ただの飲み会だと思ってくれればいいから」とせがまれたので、結局、参加することになった。でも周りの調子になじめず、もう二度と参加しないと心に決めた。それが今ではまた参加するのもいいかなと思えている。

 庭の木々には新緑がぽつぽつと芽吹いている。白い花はだいぶ散っていて、黄色い花は幾分くすんでいる。私は玄関をあけて「おじゃまします」と声をはりあげ、返事を待つことなく入っていく。

 祖母は座敷のこたつでテレビを見ていて、そこには千鶴さんもいた。千鶴さんに会ったのはお正月以来だったけれど、髪が驚くほど短くなっていたので、別人に見えた。私はダイニングのイスに座り、両手を太ももの下に入れる。千鶴さんはさっそく髪を切った理由を話した。それによると、運転免許を更新したときに、顔写真が指名手配犯みたいな感じになったので、髪をばっさりと切ったようだった。

 千鶴さんはこたつに入ったまま「はい、いくよ。そりゃ」と言い、運転免許証を投げた。私はそれを足で引きよせ、座ったまま拾う。たしかに指名手配犯に見えなくもない。ただ、やわらかい顔立ちなので、凶悪というより陰鬱な感じがある。

「息を吐きつづけないといけないみたいね」と私は言い、運転免許証を投げ返す。それは祖母の近くに落ち、祖母は手をのばす。

「何?」と千鶴さんは言った。

「写真に写るときには息を吐きつづけないといけないんだって。息をとめてると緊張状態になって、こわばった顔になるから、だから息を吐きつづけなきゃいけなかったんだよ。残念でした」

「今どきの若者はなんでも知ってる。スマホがあるものね」

「イルカの睡眠は知ってる?」

「何? 知らない」

「テレビでやってたんだけど」と私は嘘をついた。本当はインターネットで見つけた情報だった。「イルカって泳ぎながら寝ないといけないでしょ? 海底にみんなで横たわっていたら、それはそれでかわいいけど、そうはいかないし、だから片目を閉じて片方の脳を休ませて、次は反対の目を閉じて反対の脳を休ませて、そうやって眠るんだって」

「環境に合った行動をとるようになるのね、イルカも、若者も」

「じゃあ、そろそろ行こっか」と私は立ち上がる。「そういえば、サトシとワタルは? 今年も不参加?」

「さあ? 環境に合った行動をとったんじゃないかしら?」

「環境に合った行動ねえ」と私は言い、それからバナナの皮で行う歯のホワイトニングの方法も教えてあげた。ただ、よく覚えていなかったので、スマートフォンで調べた。そのあと証明写真についても調べ、〈写真を撮られる直前に、鼻から息を吸いこむと、目が開いて明るい印象になります〉という文章を見つけた。

 千鶴さんの車は青色で、若々しい印象がある。祖母は後部座席より助手席の方が高等な席だと思っているようで、私は助手席に乗ることになった。でも本当は、後部座席の方が気楽でいいと思っていた。

 車は裏通りを進んでいく。桜並木にはお年寄りはもういなかった。その代り、十歳くらいの子供が四人いる。一人は虫捕り網を持っている。

 昨年の春、ナルミと二人で、見物人が少ない桜を探し回った。たいてい、何本も並んだ桜には人が集まっていたけれど、一本だけの桜には誰もいなかった。それでも、一本だけでも何千枚もの花びらで華やいでいて、とても美しかった。それに、騒がしさに囲まれた桜より、静けさの中にたたずむ桜の方が、贅沢に思えた。私はそれを口にした。

「私は花より団子(だんご)だから」とナルミは答えた。

「でも、桜はいつでも見れるわけじゃないけど、団子はいつでも食べれるし」

「桜餅は季節限定なんだな、これが」

「まあ、そうだけど」

 墓地の入口には桜の木があり、日差しが雲にさえぎられているため、あたたかい色合いに見える。地面には花びらがやわらかく敷かれていて、祖母も千鶴さんも気にすることなく踏んでいく。千鶴さんはスマートフォンで写真をとった。アングルを変えてもう一枚。どれだけ桜をとったのか聞いてみると、スマートフォンを貸してくれた。そこには大小さまざまな桜があり、日本には本当にいたるところに桜があるようだった。

 水道の塗装はいくらか()げている。祖母は(おけ)を置き、蛇口をひねる。水の音には冷たさがあり、背筋に寒気を覚えた。水は泡をたてながら増えていく。水がとまると、泡はまたたくまに消える。

 山肌には(おびただ)しい数の墓石(ぼせき)が並んでいる。目的のお墓は上の方にある。葉のない木々はまだ冬を思わせる。でも、くすんだ山からは小鳥のさえずりが鳴り響き、気温とあいまって春らしさを感じる。

 私は祖母の夫には――つまり父方の祖父には――会ったことがなかった。祖父は私が産まれる数年前に亡くなった。

 祖父は激しい人だったようで、暴力をふるうこともあった。祖母の眉のわきには小さな傷跡が残っている。それでも、まだドメスティックバイオレンスという言葉が一般的ではない時代だったためか、離婚することはなかった。それどころか、亡くなって三十年近くになるのに、祖母はいまだに命日のお墓参りをかかさない。

 そのお墓は立派なもので、私よりも背が高い。祖母は墓石(はかいし)杓子(しゃくし)で水をかけてから、雑巾(ぞうきん)を水にひたし、軽くしぼる。そして精いっぱい手をのばして墓石の頭をふき、それから下へ下へとふいていく。

 千鶴さんはじっと見ていて、さきほどとはまったく違う表情になっている。私も祖母の小さな背中を見た。白い髪は颯爽(さっそう)とゆれる。そのため、しなびた手はかわいそうなほど醜く見える。山は小鳥の声でひしめいている。向こうの木には立派なクモの巣があり、風によりいじらしく震えている。

 祖母の作業が終わると、水入れに水をそそぎ、線香をたてる。そして手をあわせる。花をそなえることはなかった。千鶴さんは「さてと」と言い、桶を片手に歩いていく。私は最後尾を行く。上から見下ろす墓地は、どことなく荘厳(そうごん)な印象がある。入口の桜は見事に咲き誇っていて、そこは静かな墓地の中でめだって明るい。

 ふと、昆虫採集とはつまり虫の死骸を集めることだと思い当たった。そのことをアキくんに言おうと思って嬉しくなり、でもたちまち恥ずかしくなった。心の中は誰にも見られるはずはないのに、霊のようなものを意識して、大股(おおまた)で歩いていった。

 駐車場には千鶴さんの車しかない。私は後部座席に乗ろうかと迷ったけれど、なんとなく助手席を選ぶ。二人も車に乗る。無言のまま、発進する。

「ねえ、おばあちゃん」と私は前を向いたまま言った。「このあいだも言ったけど、私、おばあちゃんの家に住みたいと思ってて」

「おや、またその話かい?」

「うん、またその話。家族ってたまに会う方が大切さがわかったりするし、〈一人暮らしをして、あらためて家族の大切さがわかった〉とか言う人もいるしね。私がおばあちゃんと一緒に住んで、たまに今の家に帰る方が、なんというか、あの人たちも私の大切さがわかるというか。ずっと一緒に暮らしてるより、たまに会う方が孫や娘の大切さに気づけるというか。とにかく、私がおばあちゃんの家に住んでも、誰かが犠牲になることはないし、みんなにとってプラスになると思う」

「うちの人には言ったのかい?」

「まあ、いちおう。〈そうしたいなら、そうすればいい〉って言われた」

 そのあと誰も何も言わなかった。

 やや気まずくなり、目をつむる。車のゆれは心地よい。角を曲がったのか、重心が傾いて右足がわずかに浮く。後ろから衣擦れ音がかすかに聞こえ、祖母の服装を思いだそうとする。でも無理だった。髪と手しか思い浮かばない。

 私は家族より祖母の方が好きだった。一緒にいて居心地がよかった。保育士をやめてからは、そういう思いは顕著になった。家族からとがめられることはないけれど、無職では肩身がせまい。

「なら仕事を探せばいいじゃん」

 ナルミからはそう言われた。まったくその通りで、私は一人娘という境遇に甘えているだけだった。それをわかっていても、就職には前向きになれなかった。

 車はとまった。目をあけると、祖母の家に着いていた。千鶴さんから「ちょっと話したいことがあるんだけど」と言われ、私はそのあとの言葉を待つ。祖母は「じゃあ、私は」と車をおり、すとすとと歩いていく。

「さっきの話だけど」と千鶴さんは言った。「さっきユイちゃんは〈誰かが犠牲になることはない〉と言ってたけど、本当にそうかな? 私はユイちゃんの家族のことはよく知らないし、見当違いかもしれないけど、もしユイちゃんの家族が母さんにネガティブな感情を――恨みとか嫌悪とか、そういう感情を――持ってるとしたら、ユイちゃんが母さんと一緒に住むことで、それが出てくるかもしれない。もちろん悪いのは兄さんだし、母さんは何も悪くはないよ。でも人の感情って一筋縄ではいかないから。だからユイちゃんが母さんと住むようになると、そういう感情が浮かんでくるかもしれない。別に母さんと住むことに反対してるわけじゃないよ。ただそういうことを思ったから」

「じゃあ、えっと」

「年をとると変化を怖れるようになるし、だから母さんもちゃんと返事ができないんだと思う。でもあんがい変化してみると、よかったと思えるかもしれない。まあ、私の方でも母さんに聞いてみるから」

「うん、そっか。お願いします。じゃあ、私、帰るね」

 千鶴さんは祖母の家に行き、私は自宅に向けて歩いていく。なんとなく足が重い。

 空はあいかわらず雲で閉ざされている。ゴミステーションにあき缶が一つ転がっていて、角砂糖が思い浮かんだ。私は口笛を吹きながら歩いていく。

 桜並木のそばに、アキくんの姿を見つけた。引き返そうかと思ったけれど、目が合った。アキくんは子供たちに囲まれていて、すぐにその子たちに視線を戻した。私は〈いっぽ、にぃほ、さんほ、よんほ〉と数えながら、ゆったりと足を進めていく。ふと、車道わきにたまった花びらが目につき、いとおしく思った。

 私がアキくんに声をかけると、子供たちは丁寧にあいさつをして、競争するように走っていった。虫捕り網を持っている子が先頭を行く。誰も振り返ることはない。アキくんの肩に花びらが一枚ついていて、私はそれを指でつまみとり、そっと吹く。それはすうっと落ちていき、色の中にまぎれる。

 私たちは歩きながら「子供は元気だね」や「すっかり春だね」や「大学はいつから?」と一通り言葉をかわした。

「そういえば」とアキくんは言った。「今日、おじいちゃんの命日だっけ?」

「えっ? うん、そうだけど」と私は言い、何かが吹っ切れた気がした。

「どんな人だったの?」

「会ったことないから、どんな人と言われても。でも、暴力をふるったり浮気をしたり、そうとう荒れた人だったみたい。昔の人だから」

「暴力をふるう人は減ったかもしれないけど、浮気する人は今でもたくさんいるよ。もしかしたら昔より多いかもしれない」

「どうして男の人は浮気するんだろうね」

「女だって浮気するよ」とアキくんは何気ない調子で言った。「恋人の浮気が心配なら、こう脅せばいい、〈もしも浮気したら、顔に熱湯をぶっかけてやるから。気の迷いを覚えたら、その言葉を思い浮かべなさい〉って。そうすればたぶん浮気しないし、もしも浮気したとしても徹底的に隠そうとする」

 頭の中ではなぜか桜と蝶が舞っていて、それはどことなく現実味がある。振り返ると、花びらは散りつづけている。それでもまだ満開のままだった。

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