10.ロッシュの悩み
「では、今回の取り決めは以上でよろしいでしょうか?」
中央からやって来た政務官が帰りたいという感情を殺し、交渉の早期終了のために焦っているという隙を見せないことを心掛けつつロッシュにそう告げる。ロッシュはそんな政務官の内心を分かった上で確認のためにもう一度決まった内容を繰り返して最後にもう少しどうにかならないものかと溢してみせた。これにより条件を少しだけ更によくしてロッシュは政務官を見送る。
帰り道、政務官は周囲の側近と王家の近衛兵たちに告げる。
「アレはもうダメだな。過去の権勢はどこへやらだ……全く、ナタリア様も見る目のない。まぁ、領地経営が上手く行かず、こちらに泣きつこうと思った時にはナタリア様の方にも考えはあるようだがな」
ウエノ家が中央に泣きつくようなことがあれば確実に弱体化しているという状態である。そのような状態で王家との密約があったなどと言っても相手にされないだろう。所詮、保険としての交渉だ。
政務官の認識はその程度であり、極わずかな可能性としてウエノ家が這い上がってきた時の保険として適当にやったものだ。それに、こちらが圧倒的に有利な交渉をある程度対等に移しただけであり、ピンハネする予定だった分の取り分はしっかり残し、こちらが不利になるようなことは一切やっていない。
「ま、これが俺の腕のなせる業だな! 早く帰るぞ。こんな田舎、何の面白みもない!」
危険地帯であり、娯楽の類もないこのウエノ家新領地から一刻も早く中央に戻ろうと彼はそう言って滞在の誘いも断りすぐに帰っていった。
「……よろしかったので?」
「あぁ、問題ない」
交渉が終わったウエノ家の当主であるロッシュは分家に移った親族の一人であり、彼の政務を補助している叔父の問いに表情を崩すことなくそう応じた。叔父からすれば今回の交渉はウエノ家の負けだ。言いたいことがたくさんある。だが、ロッシュはそう受け取らない。
「不満は分かる。何の力も貸さない相手に魔石の利益を渡すことが気に入らないんだろう?」
「えぇ。名前は貸す、そうは言っていますが信与に関わる事はない。これは実質何もしていないのと同じです。これを黙って受け入れるなど……」
こう、意見をはっきりと言ってくれる相手はロッシュにとってやりやすい。だからこそ彼を自身の側近においたのだ。ロッシュは彼、ネーミングに問う。
「では問うが、何故ウエノ家がこんな不平等な条約を中央から吹っかけられたと思う?」
「…………先の大戦で……」
「違うな」
非常に言い辛そうにしながらも問われたことにはしっかりと答えなければなるまいとネーミングが言いかけたところでロッシュはそれを遮って否定し、自ら答えを出す。
「皆、ウエノ家が怖いんだよ。ウエノ家は強すぎる」
「……は?」
意味が分からないとネーミングは追随しようとしていた言葉を切って変に問い返す形になってしまう。それに対してロッシュは続けた。
「強いが故に反乱を恐れ、王家は我が家を遠くに置く。自身を守るために貴族は群れ、我らに牙をむく。あの戦争での失敗は単なるきっかけに過ぎない」
ネーミングは彼の主が自らの正当性を確認するために自身に同じ考えを追従しろと言っているのかと受け止めて諫めようとするがロッシュの方は真面目な顔……いや、苦労人の顔になっている。
「追放してからも自分たちが勝ったことを確認し、安心するために攻撃が止むことはない。……ここまでは予想していたし現在も問題なく対処できている……」
だが、とロッシュは呟き頭を抱えて机に肘を置く。
「どうしてこれ以上強くなるんだウチは……!」
切実な問題。魔石が……湯水のごとく出てくるのだ。いや、出てくるというよりもやって来るか。本来の開拓の方針では魔物を追い払い、そこには別の生物が縄張りを持ったと知らしめることで開拓を始めるということが普通なのだがここでは魔物がひっきりなしにやって来る。
当然、対処しなければならないので戦い、魔石が外に転がっていると他の魔物が食らい強くなるため回収せざるを得ない。この結果、膨大な魔石が領内に出回るようになった。そして、たくさんあるんだし魔物がひっきりなしにやって来るから自衛しようと一般の開拓民が色々弄った結果……魔具の改良に成功してしまった。
「……魔石が大量にあるため、経済的にも大変なことに……ウチの領民は民度が高いことと帰属意識が強いことが幸いして領外にはバレてないが……」
ウエノ家の領内における教育の成果で独自文化が発達している彼らは無駄に稼ごうとはしない。それに領外の連中がこっちを貶めているなら実力で見返してやると思っているため、団結しているので領外には様々なことを機密として噂すら流さないので今は問題がない。
「フミヤの連絡からこの領地の奥地には凶悪な魔物がいるらしい。少なくとも、中央に近づけば近づくほど危険な相手がいる……このまま順調に開拓を進めた場合はぶち当たるだろうな」
「未来のため、命を賭す覚悟はあります」
「……嬉しいことを言ってくれる」
口ではそういうロッシュだが、内心では余計な真似をしてくれるなと思った。ただでさえ新規開拓で忙しいんだから少しは大人しくしてくれと切実に願う。こちらに招いたギルド員のタチアナが先日に非常識と言い残して気絶したのを忘れたのだろうか。
(魔具が発展し、開拓のスピードは上がった。流石に全体的に迫りくる魔物の量は減って、北で酷使してしまったがために文句を言っていたフミヤにも交代要員が出来てある程度、貴族らしい生活には戻すことが出来たと思う……)
だが、思いの他開拓のスピードが上がり過ぎた場合はどうなるだろうか。民衆は領主様が喜ぶだろうなと考えて日進月歩で開拓と開発を行っている。その厚意は無碍に出来ないし、間違ってもいないがどうしたものだろうか。
(奥地に行けば魔物は凶暴で強力になる。魔物が強くなれば前線の負担も増える。魔物の質が上がれば魔石の質も上がる……やはり、ここは引き締め政策を取るべきだな……いや、どう考えても現状に則してないんだが……うぅむ……)
ふと、ロッシュの頭に過るのは先日、彼の兄でありながら継承権を放棄しているフーシェの一言。
(……もう、独立した方が……)
いけない。ロッシュは首を振って考えを正す。ネーミングは訝し気にロッシュのことを見たが気にせずにロッシュは思考を立て直した。
(安易に流されて楽をしようとすれば後が大変だ。俺としたことが過労で頭が鈍っているらしいな……今はそうだ……こっちを、こっちもなんだが……)
思考を切り替えるために目の前にある政務に取り掛かろうとして、交渉の際に連絡として送られてきた王女ナタリアからの親書を読み、今度は右手で額を抑える。
「フミヤ……」
「どうかされましたか?」
気遣うネーミング。ロッシュは絶対にこの親書を誰にも見られないようにさり気なく、しかし非常に慌てて隠した。微かに魔力を込めて書かれたそれは中央の非戦闘員では決して読むことが出来ないし、ほとんどの戦闘員も読むことは出来ないが、ウエノ家にいる近衛兵レベルであればだれでも読むことが出来るそれだ。
(……これはちょっと、俺が出向く必要があるな……)
親書の返事について考えながらロッシュは一度お忍びで王都に戻ることを決め、同じような手法と暗号を用いて密偵にそれを運ばせた。