8(左上の四番)
美紗子がいなくなって、すぐさま親父がやって来た。そしてぼくらは夏の滞在を切り上げることになった。親父と僕らは先に帰った。お袋と兄貴が残った。やっぱり長男って頼もしいよな。経緯を思えば、神隠しなんてことも考えなかった訳じゃない。暫くして兄貴と話したよ。なにしろ、いつ、どこで、どんなふうに美紗子とはぐれたのか誰も気付かなかったんだ。夕食の時に「美紗子は?」って兄貴がぽろっとこぼして、やにわに事態が転がり出したんだから。すぐさま警察に届け出したし、町内放送もあった。消防団が山狩りに出た。あの時、マチコばちゃんが何をして何をしなかったかなんて、ナンセンスだろうね。文字通り総出だった訳だ。
僕と兄貴はそれなりに事態を把握していた。でも亜希子には、とても怖いことだったと思う。未だに夏は苦手だろう? あの子は。美紗子はひと月経っても戻らなかった。
兄貴に連れられてお袋が帰ってきた。大叔母が倒れたのはそれから半月くらいしてかな。一命は取り留めたが、後遺症が残った。身体の左半分に障害が残ってね。リハビリで大分良くはなったが、最後まで顔の半分は戻らなかった。それが何を意味するか、あれこれと創造力豊かにするのは単純で便利なことだと思う。でも僕はね、あんまりそう云うのは好きじゃぁないんだ。さてと、そろそろかな。戻ろうか。
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和彦伯父にならって佳奈子は姉と共にソファーから立ち上がり、スカートの皺を伸ばした。
「伯父さん」先を歩く黒い背中に姉が呼びかける。「今日、母に何をお願いしてたんですか?」
振り返らぬまま伯父は応える。「歯だよ」
「お守りの?」
「いいや」伯父はゆっくり歩きながら語を継いだ。「芳彦叔父さん風に云うなら、左上の四番。あの子の歯並びは叔父さんの言葉通り八重歯になった」伯父は首を巡らし、「結局、抜く羽目になったんだ。中学から高校に入るくらいまで矯正してたかな。他人の口の中なんてよっぽどでないと気にしないだろう。あの子の永久歯が他人より一本足りないなんて、君らのお父さんも知らないかもね」
佳奈子は無性に自分の歯列を拘束する金属のワイヤーを忌まわしく感じた。物心ついてからずっと春と秋の二回、近所の歯科医へ連れて行かれた。学校へ上がると春は学校の検診で済まされたが、秋の歯科通いは続いた。虫歯はないが昨年、歯並びを指摘された。母は迷わず矯正治療へ切り替えた。
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待合室に戻ると、職員が収骨室への案内に現れた。その部屋は四角く、何もなく、殺風景で、強い熱気をはらんでいた。近づくのも憚れるほどに熱せられた焼き台の上に、小さな骨がかろうじて人それと分るように並んでいた。頭は頭蓋骨と呼べるようなものではなく、しかし顎の辺りに一本だけ、歯が残っていた。生前、彼女は総入れ歯だった。
薄緑色の制服を着た係員が、汗だくになりながら手順の説明をする。大腿骨の細い欠片を母と伯父が箸渡しをして、白い陶の骨壷に収めた。幾人かの手を渡った箸を受け取り、佳奈子は姉とふたりで、云われるがままどこのものとも分らぬ骨を拾い上げた。
一巡すると係員が残りの骨を集め始めた。ふと佳奈子は女の子が参加してなかったことに気が付いた。彼女は部屋の隅にいて、大人たちの様子をくりくりとした愛らしい目で興味深げに眺めていた。