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わたしが少女だったころ

作者: 冬野 暉

 この世で一番美しいものは何かと訊かれたら、わたしは迷わず『彼』だと答える。

 薄明るい空から降る雨のような銀色の髪、最高級のビスクドールよりも白く滑らかな肌。完璧なバランスで作られた美貌は少女のように繊細だというのに、すらりとした長身はしなやかな黒豹を連想させた。

 特にわたしが惹かれてやまなかったのは、伏し目がちなまなざしだ。長い睫毛に縁取られた『彼』の双眸には深い影が差し、目が合った瞬間に全身が痺れるような、物憂げな艶めかしさを湛えていた。いつもどこか遠くを見つめているような横顔をこっそり盗み見ているときが、わたしの一番幸せな時間だった。

『彼』は、わたしの祖母が所有する旧式アンティークのアンドロイドだった。祖母が少女だった時代から護衛としてそばに仕え、わたしが物心ついた頃にはその役目を最新型に譲ってもっぱら祖母の介護に尽くしていた。

 やわらかな午後の光が射す窓辺、安楽椅子でうたた寝をする祖母を静かに見つめる『彼』の姿が記憶の底に鮮烈に焼きついている。幼いわたしから見たふたりは、主人と従僕でも所有者と所有物でもなく、美しい絵画のなかに住む恋人たちのようだった。ふたりの交わす言葉や表情は甘く穏やかな情熱を帯びて、わたしは見てはいけないものを目にしてしまっているような高揚感にいつも胸をどきどきさせていた。

 祖母は孤独なひとだった。若くして莫大な富を手に入れたが、その代償に信頼できる人間を失った。政略結婚で結ばれた祖父とは理解し合えないまま死に別れ、実の息子である父とも疎遠だった。孫というほどよい距離に生まれたわたしは、人並にかわいがってもらえたと思う。だが、祖母が本当に愛していたのは血のつながった肉親ではなく、血の通わない機械人形だった。

 人間ではなくアンドロイドに心を寄せる祖母は、周囲から気のふれた女と見られていた。父や母はそんな祖母の存在を恥じ、疎んでいたのだろう。祖母は屋敷から隔離された小さな離れに押しこめられ、まるで高い塔のてっぺんに囚われた姫君のような生活を送っていた。

 わたしは両親や使用人の目を盗んで祖母の離れに通った。彼女はわたしの来訪を優しい微笑みで迎え、『彼』に甘い飲みものや菓子を用意するように頼んだ。祖母が笑うときだけ、『彼』も白い睡蓮の花が綻ぶようにほろりと笑みをこぼした。

『彼』には感情があった。そして、祖母を愛していた。

 限りなく人間に近い自律思考型の人工知能を搭載したアンドロイドは、今では珍しいものではない。だが『彼ら』はロボット三原則に基づき、人間に対して悪感情を持てないよう徹底的にプログラミングされている。つまり、『彼』が祖母に寄せる想いもだれかの手で計算された仮初めのものでしかなかったのだ。

 精巧なガラス細工のような模造品の愛に縋って生きる祖母は、滑稽で、憐れで、けれどどこかまぶしかった。『彼』の隣で笑う祖母は、輝かしい青春時代の少女そのものだった。

 紛れもなく、彼女は幸せだったのだ。

 いつしかわたしは祖母が羨ましく思うようになった。美しい『彼』に愛され、その心を独占する祖母はこの世でただひとりの特別な存在に見えた。祖母のようになりたい、彼女の居場所が欲しい――『彼』を手に入れたい、と。

 幼い羨望が嫉妬に変わるのは単純だった。まるで黒い染みのように祖母を疎む感情が生まれ、十代に入るとわたしは祖母の死を待ち望むようにさえなった。

 祖母が亡くなれば、その遺産は父やわたしに引き継がれる。両親の興味はもっぱら祖母の持つさまざまな利権にあり、ただ美しいだけのアンドロイドなど処分してしまうに違いない。だからきっと『彼』はわたしのものになる。

 この頃、祖母の体は老いだけでなく病にも蝕まれていた。祖母は一日の大半をベッドの上で過ごし、『彼』はますます祖母につきっきりになった。

 徐々に衰弱していく祖母を見つめる『彼』の横顔はいっそう憂いを帯びて艶めかしく、わたしはすっかり『彼』の虜になった。わたしは祖母の見舞いを口実に通い詰め、『彼』を手にする瞬間が近づいてくる幸福感にうっとりと酔い知れた。

 ――わたしは、無知で愚かな少女だった。

 わたしの浅ましさなど、祖母や『彼』はとうに見抜いていた。それでも祖母はわたしの顔を見ると昔と同じように目を細め、『彼』もまた変わらぬ態度で接してくれた。それは優しさであり――憐れみでもあったのだと、今ならわかる。

 その日、絹糸のような雨が静かに降っていた。

 開け放たれた窓からは、遠い潮騒にも似た雨音が聞こえてきた。やわらかな風は秋の訪れを知らせるようにどこか冷たく、わたしはひらひらと泳ぐ白いカーテンを捕まえて窓を閉めようとした。

 しかし、寝室の奥のベッドで眠っていたはずの祖母が、不意に「閉めないで」と言った。

「でもおばあ様、体が冷えてしまうわ」

「大丈夫よ、雨の音が聞きたいの。……雪ちゃん、少し起こしてくれるかしら」

 微笑む祖母の顔にいつもとは違うものを感じ、わたしは思わず黙りこんだ。

 小さな頃から、『雪ちゃん』と甘やかしてくれるように呼ぶのは祖母だけだった。雪穂ゆきほという名前は、祖母の沙雪さゆきにちなんだものだ。

 電動式ベッドの背もたれを上げると、祖母は「ありがとう」と呟いた。さあさあと吹きこんでくる雨音に耳を澄ますように目を伏せている。

 珍しいことに『彼』は席を外しており、寝室にいるのはわたしたちだけだった。唐突に居心地の悪さに襲われ、わたしはちらりと閉じたままのドアを見た。

「ねえ、雪ちゃん」

 目を瞑ったまま祖母が言った。

「ひとつだけ、お願いをしてもいいかしら」

「……え?」

 きょとんとするわたしに、祖母は瞼を上げてこちらを見た。その瞳の深い影に、わたしはぞっとした。

「もしもわたしが死んでしまったから、一緒にお墓に入れてほしいものがあるの」

 そのとき、わたしははじめて祖母は確かに『狂っている』のだと肌で感じた。

 老いてなお思慮を失わぬ双眸の奥には、底なしの闇のようなものが潜んでいた。目に見える激情よりもおそろしい、だれにも理解できない泥の淵。狂気。

「な、に」

「わたしの、一番大切なもの」

 祖母はそっと胸を――心臓の上を押さえた。祖母の言うものに、わたしは震えた。

「そ、そんなこと、なんで」

「約束してくれたの。ずっとわたしのそばにいてくれるって。あの子が約束を破ったことなんて一度もないから」

 乾いた唇に淡い笑みを浮かべ、祖母はわたしの手を取った。ぎくりと強張る掌に、薄いプラスチックのカードを握らせられる。

 おそるおそる手を開くと、無機質なカードの表面にはわたしの名前と数字の羅列が刻まれていた。

「これ……」

「わたしの個人的な資産は、すべてそこに預けてあるわ。名義は雪ちゃんのものに変えてあるから、好きなように使っていいのよ」

 ふと、祖母の表情にほろ苦いものが混じった。

「……それだけあれば、あなたの望むとおりの最新型アンドロイドを手に入れられるわ」

 目を見開くわたしに、祖母は手を伸ばした。頬を、労るように撫でられる。

「ごめんなさいね、あなたのためになるものを遺してあげられなくて。……もっともっと、違うものを、あなたにあげたかった」

 本当にごめんなさいという言葉は、儚く雨音に溶けた。

 ぶわっとわたしの両目から涙が溢れた。嵐のように沸き上がる思いは、悔しさであり、羞恥であり、悲しみだった。どうやってもわたしの欲しいものは手に入らないこと、それでもわたしは祖母に愛されていたのだということに、わたしは泣いた。

 カードを握り締め、祖母の膝元に突っ伏してわたしは嗚咽に身を震わせた。祖母は何も言わず、ずっと背中を撫でていた。

 ――それが、祖母との最後のやりとりだった。

 雨が上がった翌朝、祖母の容態が急変した。すぐに医療スタッフが呼ばれたが、まるで砂時計の砂が落ちきるように……祖母は逝ってしまった。

 わたしは慌ただしく動き回る大人たちをぼんやりと眺めていた。いつの間にかやってきた両親が祖母の死に顔をまともに見ることもなく事務的な指示を飛ばしている様子に、ふと、『彼』の姿が見当たらないことに気づいた。

 祖母の呼吸が止まるまで枕辺に寄り添い、白く枯れた手を握り締めていたはずの『彼』はどこに行ってしまったのか。わたしは寝室を抜け出し、離れのあちこちを探し回った。

 リビング、キッチン、客室……最後にたどり着いた祖母の私室に『彼』はひっそりと佇んでいた。

 生前、祖母が過ごすことの多かったこぢんまりとした部屋。庭に続いている大きなガラス扉からは真っ白な陽が射し、窓辺に立つ『彼』を淡い影に変えていた。祖母のお気に入りだった安楽椅子をそっと撫でる仕種に、わたしはかけるべき言葉を奪われた。

 ふっと『彼』が振り向いた。

「……最後のお別れをしに来てくださったんですか?」

 ガラス玉のような瞳を細め、『彼』が手を差しのべた。立ち尽くすわたしに、『彼』はひどく穏やかに続ける。

「沙雪が、あとのことはすべてあなたに頼んでおいたと。あなたは優しい子だから、きっと十全に終わらせてくれるはずだと」

 祖母はどこまでも残酷だった。それは『彼』も同様で、「雪穂」と呼ぶ声はまるで最終宣告のようだった。

「これは、あなたにしかお願いできないことだ。……許してほしいとは言いません。でも、どうかあのひとの最後の願いを叶えてあげてください」

 気づくと、涸れ果てたはずの涙が頬を濡らしていた。わたしは手を伸ばし、最初で最後、わたしのために広げられた腕の中に飛びこんだ。

 熱に浮かされるように焦がれた『彼』からの抱擁は、しかしわたしの夢見た情熱からはほど遠く、小さな子どもを慰めるような優しさだけがあった。

「これは最初から決まっていたことなんです。僕は沙雪のためだけに存在する――彼女のバイタルサインが確認できてはじめて僕は稼働していられる。彼女を二度とひとりぼっちにしないように、僕を造った彼女の父親がそうプログラミングしました」

 曾祖父と曾祖母は身分の差によって引き裂かれたひとたちだった。本来なら日陰者だった祖母は、後継者の不在を理由に望まぬ栄華とその裏に潜む昏い闇を背負わされた。

 哀れな娘のために、曾祖父は『彼』という守護者を遺した。決して離れず裏切らず、死にすら殉じる忠実な機械じかけの騎士。

 祖母を守り、愛し、彼女の孤独を癒すためだけに生まれてきたひと。『彼』の心がわたしに向けられる可能性など、わたしが生まれる前からゼロだったのだ。

 きっとわたしを慈しんでくれたのも、祖母がいたから。ともに在る永遠を確かなものにするためにわたしを利用しようとしている。なんてひどいひと。愚かで、かわいそうなひとたち。

 だからこそ、好きだった。愛してしまった。手に入れたい、身代わりになりたいと思うほど、求め惹かれた。

「……わたし、あなたが好きだった」

 鼓動の聞こえない胸に頬を寄せ、冷たい『彼』の体温を記憶に刻みつけながら、わたしは呟いた。

「おばあ様が大好きだった。でも、今は嫌い。大嫌いよ、わたしを置いていくあなたたちなんて」

「……ごめんなさい」

「謝らないで。惨めになんかなりたくない。わたしはおばあ様のお下がりなんていらないわ。わたしを見てくれないおばあ様もまっぴら。だから――ふたりで勝手に、どこへでも行けばいいんだわ」

 わたしは『彼』の胸を押し返した。涙を拭い、はじめて正面から『彼』の目を見る。

 清かな光を纏った彼は目が眩むほどまぶしかった。触れられない、だからこそ美しい。

 わたしの、初恋のひと。

「さようなら、『シロ』」

 意趣返しをこめて口にした呼び名は、祖母にだけ許されたものだった。『彼』は小さく目を瞠り、微笑んだ。光に透ける双眸が最後に映したのは、少女だった祖母によく似た、けれどわたしでしかないわたしだった。

 それだけで充分だった。

「ありがとう……ゆき、ほ……」

『彼』の声に微かなノイズが混じる。ぼやけるように焦点が遠くなり、肩に置かれた両手が硬く強張った。息を呑んだ瞬間、止まったままの『彼』の唇から無機質な音声が響いた。

《すべてのプログラムを終了。『C-06』の稼働を停止します――》

 ブツン、と何かが切れた。

 硬直したまま『彼』の体が傾ぎ、重い金属音を立てて床に崩れ落ちた。投げ出された手足は人間ではありえない方向に折れ曲がり、見開かれたままの両目はただのレンズになって宙を向いている。そこにあるのがただの機械の塊なのだと気づいた途端、膝から力が抜け落ちた。

 乾きはじめていた頬を冷えた涙が伝っていく。

 わたしは唇を噛み締め、『彼』の胸元に手を伸ばした。シャツの奥、温度の消えた人工皮膚をまさぐり――目的のものを見つけると、ためらいを捨てて勢いよく引きちぎった。

 震える両手でそれを握り締め、わたしは祖母の私室から逃げ出した。その後、発見された『彼』の亡骸を処分したと父から教えられ、もう一度だけ泣いた。

 祖母の葬儀は寂しいほど慎ましいものだった。

 参列者は親族と、ごく近しい関係者のみ。だが彼らの表情は一様に厄介者が片づいたと言いたげで、それを上手に取り繕っているものでしかなかった。実子である父ですら、白けたような目で棺の中の祖母を見ていた。

 聖職者の祈りの言葉が響くなか、ひとりひとり手向けの花を棺に添えていく。そそくさと母が献花を済ませ、あとに続いたわたしは準備されていたものではなく、密かに用意していたブーケをそっと祖母の両手に持たせた。痩せ細った祖母の手は冷たく乾き、だが何度もわたしの頭を撫でてくれたときと変わらずやわらかかった。

 ふんわりとかわいらしい小ぶりのブーケは、「花嫁のために」と注文して作ってもらった。その中には、唯一持ち出せた『彼』の『心臓』を忍ばせてある。真っ白なサマードレスは花嫁衣裳、祖母は生涯をかけて愛し続けたひととようやく結ばれるのだ。

「さようなら、おばあ様」

 どうかお幸せにと声に出さずささやいて、わたしは安らかに眠る祖母の頬に口づけた。

 こうして、ふたりは永遠にわたしの手の届かない場所へ行ってしまった。

 祖母と『彼』とともに、わたしは叶わなかった初恋を葬った。綿菓子を紡いで編んだ繭の中でまどろんでいたような、無邪気な少女の時代も終わった。

 わたしの手に遺されたのは、我が家の総資産に比べればちっぽけな、けれどもひとりの人間が生きていくには充分すぎるほどの財産。おそらく父すら知らない、祖母が与えてくれた自由への鍵。

 これをどう使うべきか、どう生きるべきか、わたしはまだ選べない。選ぶには無知すぎて愚かすぎた。

 だからこそ、知ろう。学ぼう。そしていつか、あの美しい箱庭の日々にすら勝る尊いものを見つけよう。

「わたしは、行くわ」

 幸せになるために。

 心から笑いたいような気持ちで見上げた夏の終わりの空は、晴れやかに輝いていた。 

 この作品は、公開終了作品『恋―Ren―』シリーズの完結編に当たります。「沙雪とシロのその後が読みたい」とリクエストしてくださったいが様に捧げます。

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