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後編

* パラパラと開いたノートを見つめると、ちゃんとそのときの光景が目の前に。




 夕方が近いファミリーレストランは夕飯には早く、お茶をするにはちょっと遅い、なんとも微妙な混み具合で、それがなんだか逆に楽しい気分にさせてくれる。

 学校とは駅1つ離れているので同じ学校の生徒も見かけない、そんな中で制服に身を包みテーブルに教科書とノートを広げる私たち。

 それだけで今日の目的は達成されてしまった感が凄まじい。


「ふわぁー……ねえ、真希ー、デザート頼んでいいー?」

「美奈ちゃん……ポテトとドリンクバーばっかりで全然ノートのほうが進んでいませんよ?」


 テーブルの上にでーんとこれ見よがしに広げられた教科書もノートも、ここに来てから全然手をつけていない。勉強道具を広げただけで、勉強し終えた気になってしまうのは私の悪いところだ。

 放課後を利用してのお勉強会―――――の、はずだったんだけれど、学校を出てまで勉強する習慣が無い私にはやっぱりちょっとだけ厳しい。私からお願いしておいて悪いけれど、出来ないものは出来ない。


「そうだけどー、腹が減っては戦が出来ないと言うし。糖分は脳を動かすのに必要らしいよー?」

「…………さっきからジュースをたーんとお召しになっているじゃないですか。そんなに余裕なら、私は勉強道具片しちゃうよ?」

「うっ……ご、ごめんなさい。ちゃんとやります! だから終わったらパフェでも食べよう!!」

「ええ、終わったら食べましょうか。教科書やノートを開いただけじゃあ、勉強したことにはならないんだからね?」

「う、うん、よくわかってるなぁ、真希は。あ、あはは……」


 さすが真希、私のことをよくわかっている。そしてしっかり釘を刺しつつの呆れ顔、これ以上勉強以外にうつつを抜かしていると本格的に怒り始めかねない。

 真希が怒ると怖いのは私がよーく知っている。わめき散らすタイプじゃなく、静かに冷静に怒るのがあんなに怖いと思わなかった。だからもう怒らせないようにと誓ったのはつい最近のことだったか。

 まさか、ズルして保健室で休んでいたのがバレてあんなに怒られるなんて……。


「なんですかー、その面白可笑しい表情は。では私はお先にパフェを食べてお暇しましょうか」

「まっ、待って!!! やりますっ!!! えーっと、今日はこ、ここからだったかなー………………」

「………………それ、一昨日やったところですよ。今日は――――――ここから、でしたね」

「ありがとー。じゃあモリモリがんばろうかな。分からないところは教えてね」

「ええ、わからないところは、教えます。分かりそうなところは自分でがんばってみましょうね」

「はーい。真希は相変わらず厳しいなぁ、あはは。さーてと…………」


 にこやかに微笑む真希の視線がチクチクと痛いと感じながらも、しっかりとノートと教科書に目を落とす。我ながらミミズの行進みたいな文字だ。

 えーっと、確かここの英文は……。ん、んー……なんだっけ…………。真希はもう自分の勉強に入ったようだし、さすがに最初から教えてもらうのは…………。


 ちらっ。ちらちらちらっ。


「……視線がくすぐったいですよ、美奈ちゃん。どこかわからないところ、ありました?」

「えーっとね、最初の一文からわからなかったり……あはは……」

「もう…………仕方ないですね。とりあえずは単語だけ意味を教えるから、それで分からなければまた聞いてください」

「ありがとー。辞書重いから学校におきっぱなしだったし助かったー」

「今日は仕方ありませんけれど、家での予習では使うと思いますし、ちゃんと持って帰ったほうが良いですけどね」


 そう言いながら真希は自分のノートにさらさらと英単語とその意味を書き出していく。辞書も引かずに教科書だけをチラチラ見ながらさらさらとそれは滑らかに。

 授業中、誰も答えられないような問題になると先生が決まって真希を指名して答えさせるのがとても頷けてしまう。

 私なんか当てられても『わかりません!!!』くらいの回答しか出来ないというのに。


「はい、単語と熟語はこれくらいですね。文章に合わないと感じたら意訳してみると良いかもしれません」

「さっすが真希は凄いなぁ。これさえあればスラスラいけそうな気がしてきた。がんばろうーっと」

「ふふふ、がんばってください。私は飲み物でも取ってきましょうか。美奈ちゃんは何が良いです? 」

「んー、じゃあオレンジジュースかな。あ、オレンジジュースとカルピスソーダのミックス!!!」

「……混ぜるんですね。じゃあちょっと行ってきますね」


 はーい、と軽い返事で軽やかに席を立つ真希を送り出しつつ、彼女お手製のノートを手元にグッと引き寄せる。パラパラと捲ってみるとその綺麗さに改めてびっくりしてしまう。

 綺麗な文字で要点を上手く、なおかつ見やすくまとめられたノートなんてそうそうあるもんじゃない。ちゃんと今日の分のノートとは別なページを使って私に対する気遣いまでしてくれて……。

 チラッと今日の部分を見て、それでやったことにしても良いんだけれどさすがにそれは彼女に悪いし、何より自分のためにならないからパス。

 さてと、単語が分かれば今日やったところだし、さらさらっと読むことは出来る、はず。パフェのためにがんばるとしよう。


「……ちょっと美奈ちゃん。オレンジジュースとカルピスソーダ混ぜたらすっごい泡出たんですけど?」

「あー、それ言うの忘れてた。炭酸と普通のジュース混ぜると泡がぶわっと出ちゃうから気をつけてねー」

「今更そんなことを言われても遅いですよ。溢すのも勿体無かったのでついグラスに口付けちゃいましたけど、よろしかったですか?」

「あー、うん、全然問題無し。ありがとねー」


 面識の薄い他人が口を付けたものは飲みたいと思わないけれど、真希が口を付けたものなら変な意味じゃなく、喜んで飲めるのに細かいことを気にする。

 集中力がゼロから上がってきているので顔は上げなかったけれど、ドリンクが2つ置かれたトレイと彼女の身体が視界の端に入ってくる。

 どうぞ、と優しい声とともに運ばれてくるジュースを手に取りストローに口を付ける。この何とも言えない味わいが頭を冴え渡らせてくれる。


「では、私も大人しく勉強していますので、わからないところがあったら言ってね」

「はーい。遠慮なくそうさせてもらうよー」


 私のやる気を知ってか、真希も大人しく教科書やノートに向かい合い始めたようだ。

 ざわざわとちょっとだけ騒がしい喧騒をBGMに、私の勉強タイムが幕をあけたのだった。




「よーし、っと。一応終わったよー。今日の分はちゃんと復習出来たかな。他の教科は家でやるっ!」

「ふふふ、お疲れ様です。復習するだけで頭に入る量はだいぶ違いますからね。さて、美奈ちゃんは何パフェが良いんでしょうか?」

「だねー。勉強した『気になった』だけじゃなくて、しっかり頭に入ったよ! そして私はチョコバナナ!!!」

「夕飯もありますし、ミニサイズにしましょうか。私は苺パフェにします」

「はーい。苺もいいけど……私はやっぱりチョコバナナ!」


 そう言い終わるか終わらないかのうちに真希が呼び鈴ボタンをぽちっと押してくれた。涼しい顔をしながら勉強していたように見えて、彼女も実はパフェが待ち遠しくて仕方なかったらしい。

 彼女の勧めで考えて眺めて終わりじゃなく、ちゃんと1回書いてから問題を解く方法にしていたので多めに時間は掛かったけれど、その分しっかりと頭には入ってくれた。

 教科書とノートの上に乗った勉強の証である消しゴムの消しかすを指で集め、ティッシュに包んでおく。床にばら撒くのは彼女の手前、ちょっと抵抗があった。

 そんなことをしているとやってくる店員さん。ミニサイズのチョコバナナと苺のパフェを1つずつ注文して、あとはお楽しみがやってくるのを待つだけだ。

 勉強を始める前より大きくなっている、勉強中には全く耳にも入らなかった喧騒が今じゃあこんなに大きく、寛げる雰囲気を演出してくれている。


「今日の分はバッチリだし、明日は苦手な英語も無いし、得意な理科と国語だから安心!!! それに理科は実験って言ってたから楽しみだなぁ」

「あー……そういえば、ですね、明日は私学校お休みしますよ。言おう言おうと思っていたのに、なかなか言い出すタイミングが見当たらなくって…………」

「えーっ!! 真希明日休んじゃうの!!!!?」

「……あの、そんなに大きい声を出されると恥ずかしいよ……」


 あまりの驚きとショックでついついお腹を使ったように大きな声が出てしまった。真希に言われて周囲を見渡すと、視線が私たちのテーブルに集まっているのがわかって、彼女に一瞬遅れて恥ずかしさが込み上げてくる。

 とりあえず呼吸をひとつ、ジュースをひとくち。よし、恥ずかしいのも引いてきた。

 それにしても元気馬鹿の私はともかく、真希が休むだなんて珍しい。体調不良ならともかく、予告をして休むだなんてなおさら珍しい。

 寂しさも多分にありはするけれど、やっぱり私としては理由が気になるところだった。


「それで、真希は明日なんで休むんだろう? 言えないことなら言わなくて良いけど、体調悪いから検査受けに行く、とかじゃないよね?」

「ええ、至って元気ですのでそういうことはありませんよ。ちょっとその……祖母が亡くなったので。それで、です」

「あ……何かごめん。聞かないほうが良かったよね、こういうことは……」

「いえ、平気ですよ。子供の頃はよくお世話になっていたのでちょっと寂しいですけどね」


 1、2度おばあちゃんの話は聞いたことがあるけれど、真希の家で一緒に暮らしているわけではなかったはず。遊びに行ったときも両親と彼女の3人暮らしと言っていた。

 突いたら心が痛むような場所を突いてしまったわけだけれども、それでも不幸中の幸いと言って良いのか彼女の表情は曇ることは無かった。

 苦笑いと形容するのが一番似合う表情、それが全てを物語っているように感じられるものだった。


「昔はおばあちゃんっこでしたが最近は顔を合わせる機会も減っていましたから。私は大丈夫ですよ、ふふふ」

「うーん……なんて言ったら良いのかわからないけど、ちゃんとおばあちゃんとお別れしておいで?」

「ええ、ありがとうございます。それで、ですね、ひとつお願いがあったりするんだけど……」

「なんだろ? 私に出来ることなら何でも言ってー。真希のお願いなら多少の無理でも聞いちゃうよ!!」


 周囲の騒がしさと同じように、やはり真希の表情に悲しみは見て取れなかった。そういえば、彼女の悲しむ表情はそこそこ付き合いが長くなったが、今まで見たことが無い。

 心配を掛けまいとそういう感情を表に出さないのか、少々のことでは動じないほど私が思っている以上に彼女が強いのか、私にはわからなかった。

 だけど、そんな彼女が私を頼ってくれる、頼ろうとしてくれているという現在進行形の事実が胸を弾ませてくれる。ここは何としてでも応えてあげたい!!!


「えーっと、それでは遠慮なく。明日の授業のノート、明後日にでも写させて欲しいかな」

「うっ!!!!! の、ノート……想像以上に難しいお願いだなぁ、あはは……」

「ダメでしょうか? 美奈ちゃんのお勉強にもなりますけど……無理なら仕方ありませんね」

「いいや、やる!! ちゃんと居眠りしないでノート取るよ!!! 私だってがんばれば出来るところを見せてやる!!!!」

「あらあら、それは本当に助かります。そんなにギッチリでなくて良いので、お願いしますね」

「は、はーい。出来る限りがんばる!!! あ、一応明日の分の予習、どこからしたらいいのか聞いておこうかな」

「そこまでしていただけるなんて心強いですね。えーっと、それでは国語から、明日のおおよその範囲を……」


 これは想像以上に難しく、過酷な道が待っていそうな要望だ。真希ほどじゃなくても、出来ればしっかりやっておきたいという小さじ1杯分にも満たないプライドに火がつく。

 とりあえずは明日の予習をしておかないと、授業中に理解してノートを取るなんて出来ないだろう。

 真希がしっかり範囲を教えてくれて助かる、そんな感謝の念を持ちつつさっきとじたばかりのノートを捲って範囲だけでもメモすることにしよう。



* すらすらと白いノートの上を走るペンが、淀みなく描くものは。



「よし………っと。とりあえずは頭には入ったかなー」


 黒板に板書された内容をノートに写しつつ頭の中で整理する、最初は大変だったけれどやっとのことで終業の鐘と同時に終えられるようになってきた。

 鐘が鳴り終わると同時に日直が号令を掛ける。そのすぐ後にやってくる喧騒が緊張感を一気に解き放ってくれる。

 それにしても真面目に授業を聞くようになってから、頭が疲れるようになった。嫌な気分は全くしないけれど。


「美奈ちゃん、ノートみーせて♪ ちょっと途中で居眠りしちゃってさー」

「いいよー。字綺麗じゃないけど。この授業眠くなるもんね、あはは」

「そうそう!!! じゃあお弁当食べてから借りようかな。腹が減っては戦は出来ないもん」


 前の席の子―――――七瀬瑞希ちゃん。

 頭がぐわんぐわん揺れていたから寝てるんだろうなーと思ったら、本当に授業中は寝ていたっぽい。

 席が近くなってから仲良くなったけれど、お昼と放課後が近付くと振り子のように頭がゆらゆら揺れ始めるのが面白くもある、どっちが名前でどっちが苗字かわからないような友人だ。


「よいせ……っと。お腹減ったよぅ。それじゃあお弁当食べるぞー!!!」

「うん。さすがに頭使うとお腹が空くなぁ。脳がカロリーを結構使うって本当なのかもね」

「そうかもだなー。あたしは寝ててもお腹空くから、もしかしたら寝るのもカロリー結構使うのかもかも?」

「あはは、確かにそうかもねー。何もしなくてもお腹空くし!」


 机をくっつけてご飯するのも日常風景のひとつになっている。こうやって過ごす時間も大切なものだとすっごくよく分かる。

 思ったことは何でも良くも悪くも口にする、真希とはタイプがかなりの角度で違うけれど、やっぱり友達は良いものだ。


「今日のお弁当はなんだろなっ……おっ、今日はからあげ弁当だやったー!!!!」

「からあげいいなぁ。私は……コロッケだ……昨日の夕飯も今日の朝ごはんもコロッケだったよ?」


 うちの母は何でも作りすぎるから……夕飯のおかずがお弁当なんてよくありすぎる。でもカレーじゃなくてよかった。

 お弁当にカレーはかなり人目を引いて恥ずかしくて仕方ない。実体験だから間違いない。


「あはっ。コロッケいいじゃーん。あたしだったら死ぬまでコロッケでもいいぞー? でもそれだと飽きそうだし、交換希望!」

「わっ!! いいの? ありがとー。じゃあ遠慮なく交換してもらおうっと」

「いぇいっ! はい、からあげでございますよー。そして、コロッケは頂いたっ!!!!」

「からあげを頂いたー。きっとジューシーな若鶏のからあげだー」


 ご飯の上にポンとから揚げが置かれたかと思うと、そのまま戻り箸でコロッケがさらわれて行く。

 揚げ物プラス揚げ物イコール無限大!!


「わかどりってどんな鳥かわかんないけど、たぶんそれだっ!!」

「あはは。コロッケも毎回じゃなければ味は保障するよー。美味しいよー、確かに美味しいよ……たまになら」


 ちょっとノリが男の子っぽいけれど、瑞希ちゃんとはウマが合う。ここに真希も入ればもっと楽しいのに、そう思うとなんだかちょっと寂しくなる。

 真希のことなんか始終考えているわけでもない、たまに思い出したように考えるだけのくせに。


「おおおっ、これは美味しいコロッケ!!!! って、おーい、美奈ー、どしたー?」

「あ、ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事っていうかなんていうか……もぐもぐ……からあげも美味しいよー」


 美味しいはずのから揚げは本当は味がしなくて、楽しいはずなのに心の中の暗い部分が一気に膨らんだ感じがして、笑顔を作るのがやっとだった。


「だろー? で、どうしたのか言ってみ? なんとなーく想像出来るけど、何考えたかさ」

「あ、はは……たまーに、ね。どう形容したらいいのかわかんないけど、何かもやもやするんだよね」

「お友達のことだろー? えーっと……真希さん、だっけ? ごめん、面識薄いからさ」


 飾りにように机の目立たない位置に移された真希の机。もう担任の先生も朝の点呼で名前を呼ぶことも無くなっていた。

 だから当然のように真希の存在も、どんどんみんなの中から薄れていってしまっている。『みんな』の中に私は含まれていちゃいけない。


「ううん、もうずっと会ってない子も多いし仕方ないよ。お見舞い行った子もそんなに多くないし。あ、悪い意味じゃないよ?」

「わかってるって。美奈と真希さん、仲良かったからなぁ。最初は見てられなかったぞー?」

「そう、だったっけ? 忘れたんじゃないけど、かさぶたになって取れちゃったのかな……………」

「嫌なことは人間忘れるって言うしなぁ。普通のことじゃん? あたしも嫌なことはすぐ忘れちゃうし」

「うん。そうだといいな。はっきり覚えていたとして思い出したくなんてないし」


 思い出せないなら思い出せないほうが良い。だけど覚えていないことが罪に感じられてしまう。

 考える時間、心を覗き込む時間が減った代わりに、こうやって不意に掘り下げることになるとどんどんどんどん穴が深くなる。


「真希さんも大変だろうけどさ、美奈ちゃんも大変だろ? 結構頻繁にお見舞いに行ってるみたいだし。友達だからってのはわかるけどさ」

「ううん、大変だとは思わないよ。それに頻繁っていっても、毎日通ってたころよりは全然減ったし」「それでも偉いよ。あたしだったら絶対真似出来ないし。家族だったとしても、それが出来るか怪しいもんだ、ははは」


 偉いと褒められたくてやってるわけじゃない。だったら私はなぜ、真希のところに足繁く通っているのか。

 心配だから、じゃない。もう心配するようなことも無いと医者からのお墨付きももらっている。

 可哀相だから―――――じゃない。車椅子でも、そんな悲しい表情を見せたことの無い彼女にそんな感情を抱くわけがない。

 だったらどうして私は彼女のところに――――――


「ほら、あたしも何回かお見舞いに行ったけどさー、良い子だとは思ったよ、真希さんのことはさ」

「私もそう思う。すっごい良い子だよ、真希は。いつも笑顔で居てくれるし辛い顔なんて見たこと無いし、逆に私が励まされるくらい」

「そうそう、それそれ。最初からだったと思うんだけどさー、あの子、いっつもにこにこしてるじゃん? これからどうなるのかも知ってるのに」

「うん。目を覚ましたときから、真希が弱音を吐いたり悲しい顔してるの見たこと無いよ」


 そうだ、彼女は私に負の感情を見せたことなんてない。笑ったり怒ったりしても、泣いたり悲しんだりしているところなんて見たことがない。

 全く減っていない私のお弁当とは対照的に、瑞希ちゃんのお弁当は順調に減っていく。


「なんかさー、あたしは、だよ? あたしはああやってずっとにこにこされてたら逆に嫌な気分になるなー。笑ってられると思う? 普通さ」

「……笑ってなんかられないと思う。もし私が同じ立場に立ったら」

「でしょ? うーん、なんて言ったらいいのかなぁ。気に障ったらごめんね?」

「うん? なんだろ? 気になるし、どうぞどうぞー」


 しかめっ面になりつつも、瑞希ちゃんのお弁当を食べる箸は止まることがない。こういうとき、真希だったらちゃんと箸を止めてくれるのに。

 だけど瑞希ちゃんは真希じゃない。だから私も箸を動かし始める。私の心に立ち込める闇を、微かにでも悟られないように。

 口に運んだコロッケはパサパサとした口障りだけで、口の中が乾いて、不快になるようなものでしかなかった。


「上手く言えないけどさ、あんなふうににこにこされてるとお見舞い行ってもなんだかなーって感じるなー」

「……………そう、かな? 私は―――――みんなを心配させないように真希はがんばってるんだと思ってる」

「例えそうだったとしてもさー、ちょっとも悲しそうな顔しないし――――――」

「もういいよ。やめよう、真希の話は」


 瑞希ちゃんの口から紡がれる言葉の殆どが、私の心の中を代弁しているように感じられて、言葉の全部が鋭く胸に突き刺さる。

 私はそんなこと

を思ったことなんか無い。だから―――――そんなことを口にしないで。


「ちょっとぐらい悲しそうな顔してくれたほうがお見舞いし甲斐があるって、絶対。大体ずっとにこにこされてるとちょっと気味が悪い――――――」

「やめてよ、そういう言い方!! 真希のことを悪く言わないで!」


 感情に任せたままの言葉が、心では止まってくれずに口からあふれ出す。机の上に置かれていたお弁当用のフォークが床に転がったことも気にも留めずに。



* 床に落ちたフォークの音が、あらゆる音を掻き消すかのように。



「えっ? す、すみません、フォーク落としちゃいました……ははは……」

「あら……替えのフォーク、用意するわね」


 いつもは気にも留めない、耳にも入らない時計がチクタクと時を刻む音が耳に障る。替えのフォークをと席を立った真希の母の表情が笑顔に変わるが、それが逆に痛ましくて仕方ない。


 彼女の母の背中が、さっきの言葉を口にするだけでさえ負の感情に全身が染まってしまいそうになっているのを如実に物語っていた。

 彼女の母でさえそうだ、私なんかが話されてすぐに理解出来るわけもなく、頭の処理が追いつかずに身体が固まり指を抜けてフォークを床に落としてしまう羽目に。


「はい、替えのフォーク。ごめんなさいね。突然こんな話、お友達にするべきじゃなかったわよね……」

「いえ……すみません……ちょっとだけ飲み込めてないだけです。フォーク、ありがとうございます」


 手渡してくれたフォークを受け取り、お茶菓子の横にちょこんと置いたけれど、もうお茶菓子に手をつける気になれそうもない。

 彼女の母の後悔の言葉に、薄い否定の言葉を並べるのがやっとだった。


「本当、なんですよね……? 冗談、なわけないですよね……冗談でこんなこと、言いませんもんね……」

「ええ……冗談だったら、最初は私もそう思ったわ。冗談だったらどんなに良いことかって」

「ごめんなさい。信じられませんけれど…………」


 この場に真希はいない。この時間、真希は病院でリハビリの最中で家にはいない。

 彼女の母に『真希抜きで美奈ちゃんに聞いておいてほしい話がある』そう言われて悪い内容の話だろうと心の準備はしていたつもりだったのに、そんな準備では受け止められない事実。

 下半身不随よりも悪い話なんてあるわけがない、そう軽く考えていた自分が居た。日が経つにつれ真希が車椅子であることに対して悲壮な考えを持つこともしなくなった。

 それはいつも、彼女が笑ってくれていたから。


「本当……なんですよね……真希が感情欠落症って……」

「ええ……ずっと気付いてあげられなかったなんて……母親失格よね、私…………」

「そんなことありません!!!! 真希だって、ちゃんと分かっていますよ!!!!」


 そう、彼女の母が悪いことなんて微塵も無い。気付かなかったことに罪なんてない。だけど、気付けなかったことに罪悪感が宿るのは痛いほどよくわかる。

 あんなに近い距離に、あんなに長い時間を、あんなに一緒に過ごしたのに。ありのままだと思っていた彼女の表情が、ありのままなんかじゃなく周囲に対しての精一杯の努力だったなんて。


「先生に言われても『何をバカなことを』って思ったわよ。昔っからよく笑う子だったから……泣いているところはおろか、悲しい顔をしているのさえ見たこともなかったんだから……………」

「私も笑顔の真希しか知りません……優しい笑顔しか……」

「だから、私も真希が『悲しい』って感情が無いことなんて気付きもしなかったのよ……」


 感情の部分欠落、それが彼女に降りかかった新たな病。いや、彼女に降りかかったというのは正しくない。いつからか分からないが、彼女はずっとそれを内に秘めていたのだ。

 家族がそれを知らなかった。だから私もそれに気付いてあげられなくて当然、そんなことは思いたくも無い。一番傍に居たのに、気付けなかったことが悔しくて仕方ない。

 相手の心を、まさに本当に彼女のことを想うことが出来ていたと思っていたのに!!!


「もし、いいえ、もしじゃなくて美奈ちゃん。負担になるようだったら、負担になっているのだったら、ちょっとずつで良い……」

「負担になんてそんな…………」


 彼女の母が言葉を一旦区切った。それの意味するところはひとつ。私に次の言葉への覚悟を促しているのだろうと推測できる。

 どんな言葉が出てくるのか、私には想像すら出来なかった。真希の状態を頭や心で必死に理解しようとしているとき、私にとってはマイナスな話なんだろう程度にしか頭が回らない。

 ちょっとずつ、その言葉の続きを、決意の表情とちょっとの間をおくことで私は彼女の母に伝えた。

「……ちょっとずつで良い、真希から離れたほうが良いと思う。真希のせいで美奈ちゃんまで辛い思いをする必要なんて無いから……」

「……えっ?」


 意を決した表情から放たれる言葉が、何を、言っているのか、私には理解できなかった。


「……何を、言ってるんですか? ごめんなさい、ちょっと言葉が出ません……」

「ごめんね、突然こんなこと言って。でも、美奈ちゃん、あなたの為だと思うの……」

「……私の、ため……?」


 何を、言っているんだろう。私のために、私にとって負担になる? 真希の存在が、私にとってマイナスになる?

 ……私が、真希が退院してから、お見舞いに来ている回数が減っているから?

 だから、私にとって重荷になっていると思われている? 私が……私が………。


「ええ、美奈ちゃんのためだと思うわ。私と夫で真希のことはしっかり生きていけるようにがんばるから。だから美奈ちゃんは無理しないで、ね?」

「……すみません。ちょっとだけ時間をください……」

「ええ、すぐにとは言わない。きっと真希も、言葉として伝えなくてもちゃんと分かってくれるはず。だから美奈ちゃんには自分の生活を、日常を、青春を、自分のために謳歌して欲しいの」


 彼女の母親から紡がれる言葉のひとつひとつを噛み砕いて理解するまでもない。放たれる言葉の数々は完全に私のためを思っての言葉に違いなかった。

 自己の利益や損得を考えているんだというのを僅かにでさえ感じられる隙間は無い、純然と完全に私以外の利益を排除した言葉と思考と判断。

 その思考と判断に答えを出すための時間が欲しいと、つい口を吐いて言葉が出た。それの意味するとこと、それは迷いがあることとイコールだ…………………

 それを物語るかのような彼女の母親の優しい笑顔が、今の私にとってはこの上なく残酷な表情に見えて。


「私だって、美奈ちゃんにはとても感謝しているのよ。本当に、言葉では表せないくらいに。真希だってきっとそう。だから、だからこそ、美奈ちゃんには負担を強いたくない、強いるべきじゃないのよ……」

「……………………………………………」


 笑顔を絶やすことの無い、彼女の母親のいつもの笑顔と優しい口調で流れ出す言葉。いつもと同じ、真希のそれによく似た、心が温かくなるような笑顔。

 その笑顔を流れ落ちる一粒の滴が、私の心の水面にぴちゃんと落ちて、心に小さな波紋を描き出す。

 涙が描き出す波紋、その波はどんどん大きく膨らんでいく。その波紋が描き出す感情はたったひとつ。それは――――――悲しみ。


 悲しみという名の波が、私の心の中を大きく揺らし、決して大きくはない私の心はそれを受け止めきれず、溢れ出してしまった。


「ごめんね、美奈ちゃん。いっぱいいっぱい貴女には心配も苦労も掛けたし、悲しい想いもさせちゃったわね……だからもう、これ以上真希のために自分を犠牲にしないで頂戴……」

「私、別に真希のために心配も苦労もしたことなんて…………」


 ぽたぽたと流れ落ちる感情に塞き止められていたわけじゃない。手のひらに掬えるほど残っていた冷静な部分が自分自身の言葉を頭の中で必死に打ち消した。

 心配は嫌というほどしたし、苦労もしていないとは言えない。心配と苦労がイコールで繋がってしまうのなら、私は今までの長くは無い人生で一番といって良いほどの心配と苦労を経験した。

 だからそれがなんだっていうんだ。選んだでも背負ったでもない、そんな大そうな言葉に当てはまるような立派なものなんかじゃない。

『当たり前のこと』、言葉にするならばたったの3秒も掛からずに言い切ってしまう動機。私はそのために行動してきた。

 言葉にすれば3秒にも満たない言葉の中に詰まっている感情と想いは――――――宇宙を飲み込んでも足りないくらいに大きいものなんだ。

 決意という音叉が心を打ち鳴らし、心の中の荒波を打ち消す。それと同時に打ち立てられた道標の名前は―――――決意。

 私がしなければいけないことは、違う、するべきこと、それも違う。私がしたいこと、それは過去も現在もこれからも、変わらないんだ。


「だからね、美奈ちゃん、真希のことは少しずつ――――――――」

「真希のお母さん。私は真希のための心配も苦労も否定しません。悲しい想いをした、それも否定しません。その感情、ううん、それを含んだ全ての負の感情を多分否定しきれないと思います」

「……美奈ちゃん…………」


 そうだ。全ての負の感情を否定なんか出来るわけがない。全部が全部、真希への想いに他ならない。

 それを否定してしまったら、私の真希への想いを全て否定することになる。そんなことは絶対に嫌だ。真希との時間を全て無にしてしまうことになる。そんなことは絶対に嫌だ!!!!

 だからもう、私は絶対に揺るがない。何があろうとも、絶対に、絶対に、絶対にずっとずっとずっと一緒にいたい!!!


「私は――――――真希と―――――――これからもずっと一緒に居たいです!!! お母さんの期待には答えられないかもしれません。私のわがままです。真希がそれを望んでいるのかすらわかりません。だけど、だけど――――――――」


 私は彼女の母親の止め処なく涙が溢れる瞳から自分の瞳を離さない。言葉に乗せて、ちょっとでも、ほんのちょっとでいい、私の気持ちと決意が伝わって欲しいから。


「私は―――――お母さんが想っているよりずっと―――――いえ、私自身が想っていたよりもずっと、真希のことが――――――」


 悲しみという感情を知らない、知ることすら出来ない真希の気持ちなんて私には一生掛かっても、たとえ何度生まれ変わって何度彼女と巡り合ったとしても、理解することなんて出来ないだろう。

 悲しみが要らない感情だなんて思わない。それが無ければ、自分の心に触れることでさえ難しく、相手の心に手を伸ばすことさえ困難になる。

 だったら――――――悲しみ以外の感情で、彼女が自分の心に触れることが出来るようにすればいい。手を伸ばして届かないなら、私が手を伸ばして彼女の手を掴めば良いんだ!!!


「本当に、本当に……本当に……ほんとうに…………」


 言葉に想いを込めて。私の心の中にある想いを全部込めて。想いを言葉に、言葉を想いに。

 私の心を、全部全部、言葉に乗せて。


「ほんとに……かけがえのない―――――大事な友達です……!! その言葉で私の想いが全て語れるほどに!!」

「美奈ちゃん……あり…………がとう……」


 手で口元を覆った彼女の母親の言葉は最後までよく聞き取れなかったけれど、涙に濡れたその笑顔から、私の心は伝わってくれたんだと悟る。

 もし、もしもそれでも尚、彼女の母親が私と真希との関係を不安に思っても、私は絶対に揺れることはない。

 ゆらゆら揺れていた私の真希への想いは、心にしっかり根を張りどんなに強い嵐にももう絶対に倒れることはないだろう。

 迷うことがあっても、立ち止まることがあっても、後ろを振り返ることがあっても、私は絶対に絶対に絶対に、真希を大切な友達としてずっとずっと傍に!!!


「……真希は本当に良いお友達を持って幸せだわ。ごめんなさいね。そして……ありがとう。これからも真希をよろしくお願いします」

「はいっ!!! こちらこそよろしくお願いします!!!!」


 にこやかに微笑みながら頭を深々と下げる彼女の母親の声にも、頭を上げいつもの笑顔で私を見つめるその瞳にも悲壮な感情は宿っていなかった。

 それが私に胸を撫で下ろしたくなるような安堵感を与えてくれる。安心したと表現するのが一番近いけれど、何か違う。ただただ、ちゃんと私の気持ちが伝わってくれてよかった。

 安堵感と充実感からか、勝手にこぼれてくる笑顔がなんだかおかしくて、嬉しくて、心がどんどんいっぱいになっていく。




* 瞳の端に溜まっていた一粒の涙が、ぽろりと零れ落ちた。




「ちょ、ちょっとちょっと!? 美奈!? な、なになに!!! 何で泣いてるの!!?」


 そんな大きな声とともに、暗い部分に潜り込んでいた意識が一瞬で引き戻される。さっきまではチョークが黒板を叩く音しか聞こえていなかったのに、なんて賑やかになっているんだろう。

 考え事を、いや考え事と言うよりは自然に頭に浮かんでいた事柄をなぞっていたら時間がいつの間にか過ぎていた、そんなところだろう。

 瑞希が声を掛けてくれなかったら、私はいつまでこうしていたんだろうか。


「ん? あ、あははっ、目開けたまま寝てたのかな? たぶんそのせいだと思う」

「ホントかー? 昔の真希なら居眠りとか珍しくなかったけど、珍しすぎてびっくりしちゃったぞー?」

「そういうこともあるよー。ほら、さっきの授業、板書ばっかりで撃沈する人が多くて有名だしね」

「そうだけどさー。ま、いいや。それじゃー、お弁当にするかー!!」


 涙を流していた記憶なんてないし、寝てもいなかったしあくびなんてした覚えがない。だから瑞希の直線的な質問を捌くのにありきたりな回答しか出来なかった。

 ざわざわと思い思いに昼食の支度をし始めるクラスメイトたち。だけど私はそんな気分になれなかった。

 胸につっかえるもの、その正体は考えずとも自覚出来ているし、答えという光は見えているはずなのに、手を掴むと近くにあるようでずっと遠くにあって届かない、それが苦しい。


「あ、黒板、消されちゃった……あとで誰かにノート借りないと……」

「そんなもの、あたしが貸してあげるから、おーべーんーとー!!!!」

「ありがとー。だけど私ちょっと食欲がないから、お弁当はあとにするかなー。瑞希、気にしないで食べるといいよー」


 にこにこと笑顔を向けてくる瑞希が今の私には正直重たい。いつも寝ているのにたまにノートを取っているし、そこは後で甘えることにしよう。

 良くも悪くも嘘はつかないバカ正直な友人だと認識しているし、疑うのは好きじゃない。だけど今は独りにしておいてもらうほうがありがたいし、有体に言えば邪魔。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼女はいつものように机を持ち上げ、私と対面するようにくるっと回しいつものように置いてしまった。


「いやー、友達が悩んでるのにそんな暢気にご飯なんか食べてられないぞー? お節介かもしれないけどさ、あたしじゃその悩み、軽く出来ない?」

「……ごめんね。でも気にしなくていいよ? たいしたことじゃないし、ね」


 一瞬でも瑞希を邪険に思った自分に反吐が出る。心配してくれている友人に対して抱く感情じゃないし、そんな感情を抱くような人間だったことに嫌悪感しか沸かない。

 だけど、私はそれでも独りが良いとしか思えなかった。


「そういうけどさー、美奈朝から、あたしの勘違いじゃなければちょっと前からなんかおかしかったし、独りでなんやかんや考えてても埒明かなくない? 悩みの種はバカなあたしでも想像つくけどさー」

「……私、そんなに分かりやすいかな。大丈夫、だよ? だから心配しないでお弁当――――」

「友達なのに、涙まで流して悩んでいる友達を差し置いてお弁当なんか食べれると思う?」


 私の言葉を遮って重なった瑞希の言葉が胸の一番大事な場所を深く抉ってくれた。私の勝手な部分を根こそぎさらっていくほどの強い言葉。

 そして彼女の口から出た『友達』という言葉の、口に出せばたった4文字にしかならない言葉の重みが何よりも心を押し付ける。

 友達だから、友達だからこその感情を、私は邪険に思い振り払おうとさえしてしまったのだ。


「……ごめん。でも、これは私自身で解決しなきゃいけない問題だと思う。気持ちは…………本当に嬉しいよ」

「美奈さー、そうやってたらアンタが潰れちゃうぞ? そうなったあたしは悲しむし、真希だって悲しむと思うぞ?」

「……ごめん…………そうだけど……どうしていいかわからなくて…………」

「だったら口に出しちゃえば? 頭に押し込めて自分の中でぐるぐるぐるぐる考えたって、どうにもならないぞー? あたしもこう見えてたまに悩むから間違いない!」

「……だけど…………」


 瑞希を信頼していないわけじゃない。時々本音を曲げることなく口に出すことはあるけれど、ちゃんと謝ってくれるし、相談をすれば真剣に乗ってくれる。

 だけどこれは私の、私自身の問題で、これは私が自分の力で解決しなければ先に進めない、そう心のどこかで引っかかっていて、それが外れてくれなかった。

 だから、その切欠すら私自身で掴まなければ―――――――


「まったくもう。あんたがそういう顔をすればあたしも胸が痛むんだよ? 美奈がどうかは確認しようがないけどさ、あたしはあんたを本当に良い友達だと思ってるわけだよ」

「うん……私もそうだよ……だけど…………」

「だけどもへちまもないっ!! 友達なら、友達が悲しんでいるときに一緒に悲しんで、それが出来ないならせめて傍に居てあげたい、そう思うのが普通でしょうが!!!」


 重い。瑞希の言葉の全部が全部、ずしりと心に圧し掛かってくる。

 真希の母と話したときには私は全部受け止めて、真希の傍に居ようと決めたはずだったのに、それが本当に出来るのか、そんな疑問に捕らわれて、その疑問は私を離そうとしていない。

 傍に居る、それは簡単な響きだ。ただただ傍に居ること、それは簡単なようで難しい、私にはそう思えてならない。

 真希の笑顔を傍に居て感じられたとして、彼女の怒りがわかったとして、彼女の喜びを分かち合えたとしても、もう1つ残った感情に対する苦しみを私は理解することが出来ない。

 悲しいと思い涙を流すことが出来ない、それを聞いたときには私は『良いこと』としか思えなかった。

 だけど少し考えれば簡単に分かってしまう。悲しみを知りえることが出来ないことの悲しさを。

 深すぎる、友人だと思える瑞希に対しても話すには重過ぎる悩み、だからここは話さないことを選ぶべきだ、そう決めていたのに――――――


「瑞希は……瑞希だったら、どうする? 私が真希で、瑞希がわたしだったら………………」

「難しいこと言うわね……うーん………………………」


 言葉にした言葉が、搾り出すように選んだ言葉が酷く滑稽で、私は苦笑してしまいそうになったのに、瑞希の表情は真剣そのもので。

 瑞希の言葉を待つ自分がそこにいて。光に届きそうで届かない、私の手を掴んで引っ張って欲しくて。


「あたしだったら、あたしが決めたことを、あたしだからこそ出来ることをする、かなぁ。真希は笑顔ばっかり!!! って悪口みたいに言ったことあるけど、あたしだったらその笑顔を大事にしてあげたい、かな。悔しいけど、笑えないよ、目の前に安心して笑える人が居ないと、さ」

「……一緒に笑える人? 私も、隣で笑ったら、おかしくないかな……」


 悲しみを知らない真希の隣で笑うこと、それなら私にも出来る。

 だけど……彼女の悲しみを私は……。


「いやほら、笑顔で悲しみを包んでやる!!! ってやつ? そんな上手くいかないことぐらいわかってるつもりだけどさー。あ、そっか。一緒に『居る』だけだと足りないのかもね」

「……あはは、漫画みたいな台詞。でもそうだよね。傍に『居る』だけじゃ、足りないよね………………」

「なーに暗い顔しれんのー。ちょっと手、出してみ。騙されたと思ってさ」

「手? ……こう、かな? あはは、なんか占い師さんみたいだね……」


 瑞希に促されるままに、私は彼女の目の前に右手を差し出した。この小さな手で、こんなにも頼りない手で、私は真希を支えていけるのだろうか……。

 この手で、彼女の全てを受け止めるだけの強さはあるのだろうか。この手で彼女の悲しみの全てを―――――――


「ほ、ほらっ!!! こ、こうやって、握ればいいじゃない? こうやって手を取ってあげれば伝わるものあるわよ」

「……あったかいね、瑞希の手…………」

「な、なーに言ってんだか!! こういうこと、改めてすると恥ずかしいんだから……って、美奈っ!?」


 手を繋ぐことが、こんなにあったかかったなんて、私はどうして知らなかったんだろう。

 無意識のうちに、私の小さな手のひらに重ねられた瑞希の手を、私は握り返していた。強く強く、そして優しく。

 その温度は、私の中にでんと居座っていた氷をいとも簡単に溶かしてくれる、魔法の温度に感じられた。


「瑞希、なんか本当にありがと。分かったような、ちょっとだけだけど、私わかったかもしれない」


 一緒に歩くだけで足りなかったら、手を取ってあげればいい。そして一緒に歩いていけばいい。

 全部を支えられない小さな手なら、この小さな手で掴める精一杯を、真希の小さな手を、私が掴んであげればいい。

 手が届きそうで届かなかった光に、小さな手が添えられてそれが私を繋いでくれて、それはもう目の前に。


「わかったならよろしい。あとアレよ、あたしも入れなさいよ? あんたの大切な友達は、あたしにとっても大切な友達なんだから、ね?」

「うん……ありがと……ありがとう、瑞希ちゃん…………」

「な、泣かないでよ! あたしが泣かせちゃったみたいじゃない……全くもう……」

「ごめんね、でもありがとう。本当にありがとう」


 ぽろぽろと零れる涙を私は止めることが出来なかった。

 掴んだ瑞希の手、その暖かさは心にまで染み込んでくれて、あんなに寒かった心を暖めてくれた。

 私はただ、真希の届くところに手を伸ばせばいい。きっと、きっと彼女はそれを掴んでくれる。

 そして少しずつ、真希と瑞希も一緒に笑えるように、ゆっくりでいいから笑える場所まで連れて行けばいい。



* 零れ落ちる涙、その涙は私の心の証明に他ならない。



 何かを考えたわけじゃない、私はただ、彼女を物陰から眺めていただけだった。真希が、嫌な顔をひとつせずにリハビリに励んでいるのを、ただ眺めていただけだった。


 気付けば彼女が退院してから、気が付くと私はこの病院の門をくぐったことがないことをふと思い出す。あんなに毎日通い詰めていたのに、彼女が居なくなった途端この病院の存在が頭からすっぽりと抜けてしまっていたような感覚だ。

 白をベースにした清潔感溢れる院内の風景も、つい昨日まで顔を合わせていたように感じる看護婦さんたちの顔も月日の彼方だったことに驚く。

 病気をしたりしたならともかく、それ以外の用事でここに来ることはもう無いだろうと思っていたし、そうあることが日常にとって大事なことだろう。

 日常から切り離されたこの病院という場所は、真希にとってはまだ完全な日常の1つだったことを、私は知らなかった。

 私が彼女の家を訪れる前に、私が彼女の家を訪れた後に、彼女は可能な限り毎日リハビリのためにこの病院を訪れていたのだった。

 それを私が知ったのはつい最近のこと。事故の後遺症と同じくらいの病気を抱えていること、いや同じと計れるものなんかじゃあ決してありえない辛い病気について聞いたほんの少し後だった。


『本当は美奈ちゃんには絶対に言わないようにって、口止めされているんだけれど、美奈ちゃんが真希をそんなに思ってくれているなら、美奈ちゃんにも知っておいて欲しいことがある』


 彼女の母の言葉にドキリとしたが、真希が背負っている―――――これからも背負っていかなければならない病に比べればあまりにも弱く軽いものに聞こえてしまったのだ。

 むしろ私は、一日でも早く快復出来るように努力をする彼女の姿勢に、もっとがんばって欲しいとさえ思ってしまう始末だった。

 少し考えれば、その努力の先に光なんて無いかもしれず、ただただ延々と真っ暗な暗闇の中をひたすら前へ前へと進むように、絶望との戦いでしかないことに気付けたはずなのに。


 悲しみを知らないから、嘆くこともなく一生懸命に、動かない足で前に進もうとしているのだったら、それは悲しみを日常の傍らに置いて生活している私たちの何倍も悲しいことだ。

 いや、悲しむことの出来ない彼女の悲しみなんて私に想像することすら出来ない。大切な友人の悲しみを少しでもわかってあげることが出来ないなんて………………


 狭くは無いリハビリのための部屋の中で他の患者さんたちに混じりリハビリに励む真希を遠めに眺めていると、止め処ない感情が溢れてきて、それが滴となって落ちる。

 私は良い……悲しんで涙を流すことが出来る。それを幸せだとは思わない、けれど涙も流せない彼女のことを想うと心が凍りつくように痛い。


『あっ!!! 真希ちゃん、大丈夫!!!?』


 突然響く声に肩がビクッと震え、ぽたぽたと流れ落ちていた涙もすっと引っ込んでしまう。伏せていた視線を移すと、そこには笑顔で床に転がる真希の姿があった。その表情は私の位置からはわからない。

 胸を痛めているはずなのに、心が割れそうな光景なのに、私はどうしたらいいのかわからず彼女の下へ駆け出すことが出来ない。

 無機質に見える床に倒れる彼女の下にすぐにでも駆け寄りたいのに、何を言えばいいのか、どう接すればいいのかわからなかった。手を伸ばせばすぐそこにあるだろう答えに手が届きそうで届かない。


『もう、何度も言ってるのに………………無理をしないで、ゆっくりやりましょ? ただでさえ真希ちゃん、普通の人の何倍も努力してるんだから………………』


 辛うじて耳に入ってきた真希に駆け寄った看護婦さんの言葉は、心配しているというよりはどこか叱るような感情が入っているように聞こえたのは気のせいじゃない。

 毎日毎日毎日毎日、私の知らないところでずっとずっとずっとずっと真希が努力を欠かさなかったことはちゃんと知っている。

 無理をしてまで、看護婦さんの言葉通りに彼女が無理をしてでもリハビリを行っているであろうことも。


『いえ、まだ大丈夫です。ちょっと油断しただけですよ。続けさせてください』


 そう言い放ち顔を上げた彼女の表情に、背筋が凍るような、全身に電流を流されたような衝撃が走った。

 辛うじて聞こえた気丈な言葉に、じゃない。上げた彼女の表情に―――――そのまるで屈託のない、いつもと変わらない穏やかで優しい笑顔に…………………。

 彼女は笑っていた。卑屈な感情を一切宿さないかのように、私の隣でそうするように。本当に綺麗な笑顔で、その笑顔が私には泣いているようにしか見えなかった。


『まったくもう……少し目を離すとこれなんだから……ちょっと休んでから続きをしましょう、ね?』

『……はい。では少し休んでから再開することにします』


 思わず目を背けてしまいそうになる光景にも、私は目を逸らさなかった。ここで私が目を逸らすのは真希に失礼だと思ったから。

 それでも私は、彼女の下に駆け寄ることが出来なかった。駆け寄って、私なんかに何が出来るというのか。ずっと、何があっても彼女の傍に居ようと決めたのに、それでも私は自分がどうすれば良いのかわからなかった。

 薄い扉を開こうと持ち上げた手は、ドアノブにさえ触れることなく、力なく下ろされるしか行き場を失っていた。

 笑顔で看護婦さんの手に支えられる彼女の表情はやっぱり笑顔で、その笑顔が本当に胸を突く。あんなにも優しい笑顔なのに……。


『じゃあ30分は休みましょう。そのあとなら私がちゃんとついていてあげられるから、ね。しっかり休むのもリハビリのうちよー?』

『ええ、そうします。では30分ほど休憩しますね』

『よし! えらいえらい!! ちゃんと水分摂って、休むときはしっかり休む、これが大事だったりするんだからねー』

『ふふふ、かもしれませんね。あ、大丈夫ですよ、ひとりで移動くらい出来ますから』


 どうみても大丈夫じゃないと思ったのは私も看護婦さんも一緒。それにも構わず真希は看護婦さんの腕を笑顔で振り払い、自分の力で車椅子に戻ろうとするのを看護婦さんに支えられる。

 真希の大丈夫という声が少しだけ強く聞こえ、手を添える看護婦さんの笑顔の表情に苦いものが見て取れた。

 さっきまで痛ましかった風景を眺めていると沸いてくるまた別な感情。それをちゃんと真希に伝えたい、いいや伝えなきゃいけないと思う。

 真希がどう思ってそうしているのか、それは想像でしかわからない。でも真希を見ていて私が言うべきことがなんとなく理解し始めてきた。

 だけどちょっとだけ、ほんのすこしで良いから考える時間を持ちたい。だから今、この場は立ち去るとしよう。ちゃんと気持ちを綺麗にまとめてから、彼女が受け取れる大きさにまとめてから真正面から彼女の手の中に受け渡そう。


 どう転ぶかわからないけれど、ちゃんと気持ちは伝えたい。もし真希が怒るようなことがあっても、ケンカしてしまうようなことになっても、伝えるべきものはちゃんと伝える。それが友達というものでしょう?

 よし、そうと決まったら真希に気付かれる前にこの場は立ち去ることにしよう。今日のリハビリが終わるまでの長くない時間、それだけあれば十分だ。

 がんばれと心の中でエールを送り、私はリハビリ室をあとにして、とりあえずは待合室―――――そして真希が出てきたら見える位置でちょっとだけ悩もう。

 どう伝えれば良いか、どう伝えられるか、コーヒーでも飲みながら苦手だけれど落ち着いて考える。

 そうと決まれば心は軽いもの、リハビリ室から待合室に戻る足取りも驚くほど軽やかで、心にずしりと乗っかっていた錘はリハビリ室に置いてきてしまったようだった。

 行き交う看護婦さんたちに元気に挨拶し、挨拶をされることに感じる喜びに似た感覚。ひらけた廊下に射し込む陽射もとっても暖かい。

 そうだ、考え事をするなら何か飲み物が欲しいところだ。ちょうど待合室の目の前にある自動販売機に目が止まる。考え事のときは紅茶や緑茶よりも断然コーヒーに限る。

 飲み物片手に悩み事をしよう、そうと決まれば善は急げ、私は早速自動販売機の前に立つ。財布から100円玉を取り出して、投入口にちゃりんとひとつ。

 ……ブラック、飲んだことないけど、こういうときはブラックだよね。ミルクも砂糖も無し、アイスのブラックコーヒーのボタンを人差し指で軽く押す。コトンという軽い音が自販機から聞こえてくる。



* 小さな小さな紙コップが、見る見るうちに満たされていく。



 ピッピッピッと軽快な電子音がコーヒーの出来上がりを告げてくれる。正直、ここらへんで打ち止めにしておかないと夕飯にも夜の睡眠にも差し支えてしまいそうだ。

 本日、というか1時間そこらで3杯は私のコーヒー許容量を越えている。しかも、3杯とも止めればいいのにブラックコーヒーにしてしまう始末。さすがに4杯目はカフェオレにすることにした。

 コーヒーのお陰か穏やかな陽気のせいか、それとも別な何かの要因があったのか、私が伝えたいことはしっかりとまとまった。あとは伝えるだけだ。手を差し伸べてくれた瑞希にもしっかりと感謝しないと。

 胃の粘膜保護の効果があるという牛乳たっぷりと書いてあるカフェオレを取り出し口から取り出す。そういえば……最初にカフェオレ飲めば良かったかな。今更胃の粘膜を保護しても仕方ない感が凄まじい。


「あら、美奈……ちゃん? どうしてここに?」


 カフェオレの入ったカップを手に取った丁度そのとき、視界の端の端から耳に飛び込んできた聞きなれた声についつい笑顔がこぼれてしまう。


「お、真希、おつかれさまー。真希の家行ったらここだって言われたから、ついつい来ちゃった」

「あらまあ。私の部屋で寛いでいてくれてよかったんだけど……」

「さすがに真希が居ないのに部屋で寛ぐのはちょっと、ね。真希は何飲むー? 紅茶? 喉渇いているかもだし、スポーツドリンクがいい?」

「えーっと、では……美奈ちゃんと同じものが良いです」


 真希が愛用のハンドバッグから財布を取り出そうとするより早く、自販機に100円玉を投入する。それの意味するところを彼女は察知してくれたらしく、少し困ったような笑顔を浮かべながらハンドバッグを閉じてくれた。


「私のおごりね。いっつも真希の家でお菓子とかいろいろ食べさせてもらってるから!」

「それならお言葉に甘えるとします。ありがとうございますね」


 建前だけど本音ではある言葉だった。ちゃんと理由をはっきりさせないと納得してくれない彼女の性格はちゃんと知っている。だからこそ言葉を選ぶ、ちゃんと受け取ってくれるように。

 彼女の笑顔に笑顔を返していると、カフェオレが出来上がった軽やかな音が聞こえてきた。それを手に取り、私は自分の分のカフェオレも、真希に一緒に渡す。


「はい、んじゃ真希、これ持っててー。溢さないように気をつけてね!!!」

「えっ? えーっと、これじゃあ私……」

「いいからいいから。まだ時間も早いし、外の広いところで飲もうか。そのほうが美味しいよー、絶対!」

「でも……」

「じゃあ、レッツゴー!!! 発車しますよー」


 真希の困惑した顔なんてお構いなしに私はカップをふたつ彼女に手渡し、車椅子のグリップを握りゆっくりと前へと押し出す。

 ゆっくりゆっくり、真希が怖くないように、ゆっくりゆっくりと。だけどちゃんと前に向かって。グリップに掛かる彼女の重さすら、今なら私には幸せの重さに感じられる。


「……美奈ちゃん、どういうこと? 私はちゃんとひとりで動かせるんですよ?」

「知ってるよ? でもいいんじゃないかなぁ、別に私が押しても。これでもちゃんと勉強してるんだから、あはは」

「……私の言いたいことはそういうことじゃなくて……」

「いいからいいからー。話ならあとで聞くから、カフェオレ、溢さないようにっ!」

「……はい。ご迷惑掛けてごめんね……」


 真希の声のトーンが落ちたのがすぐにわかったけれど、それでも私は車椅子を押すことをやめない。

 そういえば、真希が車椅子で生活することになるだろうと決まってから、車椅子の押し方や扱い方をいろいろ調べていたけれど、実際に押すのは今日が初めてだ。

 それだけ私は彼女に手を貸さず、彼女もそれを望んでいた。だけど――――――それは違うと思う。だからこれは切欠。本当に小さいかもしれないけれど、ここから新しい道を歩くための切欠になってくれるはずだ。


「どう? 揺れたりお尻痛くなったりしない? もうちょっとゆっくりのほうがいいのかな」

「いいえ、全然大丈夫です。ごめんね……」

「あはは。割と力は強いはずだから大丈夫!!! じゃあ、このまま行くよー」


 行き交う人たちも、私たちを奇異の目で見ることは無い。そもそも私はそんなことを全く気になんてしていない。

 俯き加減の真希を乗せて、車椅子が病院の外の広場を目指して進んでいく。もう夕方も近いというのに、目を細めてしまいそうなほど綺麗な光が私たちを包んでくれていた。



「ここらへんでいいかな。陽が当たって暑いーとか、日陰で寒いーとか無い?」

「ありません。大丈夫です。はい、美奈ちゃんのカフェオレですよ」

「ありがと。外で飲むカフェオレはさぞ美味しいんだろうねー」

「そう、ですね」


 気持ち良いくらいに晴れ上がった空と撫でるように吹く風。手ごろな木陰を見つけ私たちはそこに陣取ることにした。木漏れ日がきらきら射し込んでくれて、本当に快適だと感じられる温度と雰囲気だ。

 私は手ごろな位置にあったベンチに、真希はその横の車椅子の上でカフェオレに口をつける。あれほど胃に負担が掛かっていたのを忘れるほど、甘くて甘くてちょっと苦くて美味しい。


「美味しい、ですね。ありがとうね、美奈ちゃん」

「うんうん、美味しいねー。別に改まってお礼言われるようなことでもないけどねー、あはは」

「それもですけれど…………結構待ってくれてたよね。嬉しかったですよ」

「あ、あはは……居たの気付いてたんだ。気付かれてないと思ったんだけどなぁ」


 これちょっとした誤算だった。てっきり気付いていないものだとばかり思っていたのに、しっかり私が来ていたことは確認されてしまっていたらしい。

 だから少し早めに切り上げてきてくれたのかもしれないと考えると罪悪感が沸いてくる。


「だから早く切り上げた、というわけではありませんけれどね。看護婦さんに止められちゃったので」

「あはは、真希はずいぶんがんばっているみたいだからねー。私も知らなかったよ。週に何度も顔を合わせているのに、さ」

「……言っちゃうと心配するでしょう? だから言わなかったし、言いたくなかったんです。母にもそう伝えてあったのに……」


 俯く真希の言うとおり、何度か彼女が居ないところに私が訪問しても『検査で病院だからすぐ帰ってくる』と言われるだけだった。だから心配なんてしなかったし、他に何かあるだなんて考えもしなかった。

 だけど、知らないままより知ってしまった今のほうが、絶対に真希のことをちゃんと考えられる。


「まあ、友達なんだからそりゃ心配もするよ。でも、言われないことのほうが辛いかもしれないしね」

「……それでも、私は美奈ちゃんには知られたくなかったです」


 私から視線を逸らしカップに口をつける真希の表情は私からはわからない。だけど、彼女の言葉の意味は、そのまま本心を表しているだろうことは容易に想像できた。


「私が真希だったら、たぶん同じように考えるだろうけどさ。でも私は私だし、私は真希じゃないから」

「そう、ですよね……ごめんね………」


 眉をしかめる彼女の表情は、やっぱりどこかぎこちなくて、ちゃんと全部を知った私にはそれが分かってしまう。

 私に悟られまいと、『悲しみ』に該当する表情を作っているのだろうということに。


「あとね、聞いたよ、真希の深い部分のこと。気付いてあげられなくてごめんね……」

「……ッ!!!! お母さんのバカ…………」


 さっきまでより少しだけ冷たい風が頬を撫でる。辛うじて確認できる真希の表情は、もう隠すことをやめたかのように冷たい笑顔に変わっていた。


「気付ける機会はいっぱいあったんだと思う。気付かなかった責任は私にもある。でも、出来ればちゃんと真希の口から言って欲しかったかもしれないね」

「……言えるわけないじゃないですか、そんなこと。悲しむことも出来ないし、足も動かない、涙すら流すことの出来ない私なんて…………」

「ごめんね。私は真希が本当に辛いんだろうな、っていうことぐらいしか想像出来ないんだ。本当に辛いと思う。たぶん私が想像している何倍も何十倍も」

「……わからないんですよ。辛いっていうの……」


 彼女が作る笑顔は、おそらく悲しみの代替としてのものだということに気が付いてしまった私には、とてつもなく深く悲しいものしか見えず、一瞬で心が決壊しそうになる。

 だけど、私は、ここで泣くわけにはいかない。


「真希がわからなくても、私は辛いよ。真希があんなにがんばっているの、私知らなかったから……」

「がんばらなきゃいけないんです……私は、がんばらなきゃいけないんです……」


 真希の言葉が一段と強くなる。今まで感じたことの無いほど、強い意志と決意のこもったような言葉。強く居られる―――――いや、強く居ようとする理由が、私にはさっぱりわからない。


「私は、私は……私は、美奈ちゃんと並んで同じ速さで歩けないだなんて、絶対に嫌。同じ景色を、同じ高さで感じられないなんて絶対に嫌。一緒に笑って、一緒に……ごめんね、私……泣けないんですよね…………」

「……真希……」


 小さくなる言葉とは反比例するかのように、真希の言葉がどんどん心の隅々にまで流れ込んでくる。

 言葉が出なかった。ううん、頭の中が、心の中がいろいろな感情で溢れかえって、今すぐにでも溢れ出しそうで、それを抑えるので精一杯だった。

 真希の努力―――――努力という言葉では生易しすぎる行動原理が、私だったなんて……。私が―――――真希を追い込んでいたなんて――――――


「美奈ちゃんのせいにするわけじゃないよ。私は……私がしたいようにしているだけ。私は、またいつか―――――そのときに、真希ちゃんが傍にいてくれるかわからなくても……美奈ちゃんと同じ速さで歩いていきたいだけ」

「……だから、何でもひとりで背負い込んで、全部ひとりで……全部……全部…………」


 震える喉から唇から、声が出てくれない。突然の大雨の中に置いたバケツのように、あっという間に私の中がいっぱいになっていく。全部、真希の努力の全部が私のため、ううん、私と一緒にまた並んで歩きたいためだと言ってくれた。そんなこと、私は想像すらしていなかったんだ。

 言葉から感じられる強い意志と決意は、今更確かめることすらしなくても十分に私に伝わっていた。だから、今涙を流すわけにはいかない。

 手に持っていたことを忘れていたカップの中身を一気に胃の中に流し込む。氷が溶けてちょっとだけ薄くなったカフェオレが涙を瞳の奥に引っ込ませてくれた。


「私自身のためですから、辛いと思ったことなんてありません。いいえ、辛いと感じることすら私には出来ませんけれどね、ふふふ」

「だから、だからって、そうやって全部、何もかもを真希ひとりで背負い込んでるの? 私だって、友達なんだよ?」

「だからこそ、だよ。だからこそ私は、美奈ちゃんに負担を掛けたくないんです。出来れば……出来ることならリハビリの件はずっと知られたくなかった」


 言葉だけじゃなく、今までの真希の行動がそれを全て物語っていた。全部言葉だけじゃない、強い意志を持って実行してきていたんだ。

 針の筵なんて生易しいものじゃなかっただろう。それでも彼女は歩いてきたんだ……。


「だからね、美奈ちゃん。私はこれからもがんばろうと思っているんですよ。出来れば、美奈ちゃんには見守っていてもらいたいです」

「真希は間違ったことは言わないと思ってる。だけど、私はそのお願いは聞きたくない」

「えっ……? どうして、そういうことを言うんですか……」

「私は真希の友達だから。今までは見守っているだけだったけど、これからはそれだけじゃ嫌」


 友達だから、友達だからこそ私は見守るだけなんて、今の私には絶対に無理だ。それが私の出した答えに繋がっていく。

 だから真希がどんなに言葉で跳ね除けようとしても、ちゃんと私は私の意志を伝える。もし、それが彼女に拒絶され貫くことの出来ない意志だったとしても。


「私は……がんばらなきゃいけないんです。ちゃんと、自分の力で美奈ちゃんの隣に……」

「友達って言葉だけで表せるようなことじゃないけどさ、私はそのたった2文字の『友達』って言葉に全部の想いを込められるくらい、真希のことは大切に想ってる」

「わ、私だっておんなじくらい……ううん、美奈ちゃんに負けないくらい大切な友達だと思ってます!!!」

「あはは、それは嬉しい、かな。そう思ってくれているなら、なおさら私は真希の言うようには出来ないよ」

「……わかりませんよ、美奈ちゃんの言うことが、私には。大切だから、迷惑なんて掛けられません……」

「大切だからこそ、私は真希の力になりたい。そう思うだけじゃなく、行動でそれを示していきたい」


 真希の言葉に胸が熱くなる。そこまで私を大切に思ってくれていたなんて、気付きもしなかった。だからこそ、私に対して負荷になることは全部背負っていたとしたら、辛いというだけじゃ収まらないほどに辛いことだ。

 大切な友達だと思ってくれているならなおさら、大切な友達だと思っているからなおさら、そうあるべきじゃない。


「別に何でもかんでも手を焼こうとは思わないし、それは私も良くないと思う。だけど、私に出来ることは―――――たとえば疲れているときに車椅子を押すこととか、リハビリに付き合うこととか、そういうこと、一緒にやっていきたいよ」

「でも……それは美奈ちゃんに迷惑が…………私一人で……」

「だから、迷惑なんかじゃ全然無いって。真希は私が一緒だと迷惑なの?」

「いいえ……迷惑なんかじゃ、決してありませんけれど…………」


 やっと顔を上げて言葉を紡いでくれるようになった真希の表情には、困惑が混じりつつも笑顔が浮かんでいた。

 全然痛ましく見えない笑顔、やっと私が見たかった笑顔に近付いてきている。


「真希、言ったじゃない、ついさっき。『同じ速さで一緒に歩いていきたい』ってさ。それって、別に今からでもいいじゃん。同じ景色も一緒にいっぱい見ていけばいいよ」

「……美奈ちゃんは、それで良いの? 私に使う時間があったら、他に自分のしたいことがいっぱいできちゃうんですよ…………」

「やりたいことがあったら真希に付き合ってもらう!! 私だって、真希と一緒に歩いて行きたいって思ってるんだから。友達なのに、同じ景色が見られないなんて寂しいことだよ?」

「……いいの? 本当にいいの? 私、美奈ちゃんの悲しいって気持ちもわかってあげられないんだよ? 笑って怒ることしか出来ないんだよ? 美奈ちゃんが辛くても、一緒に悲しんであげることも、涙を流してあげることも出来ないんだよ…………?」


 吹く抜ける風がどんどん心地よく感じられるのは気のせいじゃない。射し込む暖かい陽光がさっきよりずっとずっと暖かく感じられるのも気のせいじゃない。


「悲しめないなら、その分笑えばいいよ。私が悲しかったら、私の傍で笑ってくれればいいよ。私が涙を流すことがあったら、それを受け止めてくれれば私はそれだけで嬉しいから。あ、怒るときはちゃんと怒ってくれないと! 私はこの通りだから、あはは」

「……私ひとりでがんばるって決めたのに……決めたのに……美奈ちゃんが好きだから………ひとりでがんばろうって決めたのに……」

「私のこと考えてくれてるなら、私の言うこと聞いてくれたほうが嬉しいよー? 大好きな友達がひとりで苦しんでいるのなんて、見たくないもん」


 これが私の決めたこと。全部私の独断で、真希の意見なんてこれっぽっちも入っていない、独り善がりな決意。

 私も―――――――――真希と一緒に、同じ速さで歩いていきたい。


「……美奈ちゃんのバカ……でも……ありがと…………」

「お礼言われることでもない―――――――って、真希? あんた……あは、あはは……えぐっ……ひっく……」


 空を見上げ、満面の笑みを湛える真希の瞳に光る一粒の光。それがすごく嬉しくて、胸がいっぱいになって、私はもう感情を抑えることが出来なくなってしまった。


「……ひっく……泣けるんじゃない、ぐすっ……泣けないって言ってたのに……」

「ふ、ふふふ……本当、ですね。ありがとう、美奈ちゃん。だから、泣かないで?」


 視界がぼやけて前が見えないけれど、私の耳に届いてきたのは優しさに包まれた声だった。真希は、私のわがままを受け入れてくれた。それだけで、こんなに嬉しくなるなんて。


「……ひっく……真希と同じ涙だから、いいの。それに……ぐすっ……な、泣いてなんかないもん!!」

「ふ、ふふふ……ひっ……美奈ちゃん、これからも、よろしくね」

「もちろん!! あーもう、目にゴミが入って……ぐすっ……よろしくね、私の、本当に大切な友達だよ!!!」

「私も負けないくらい、本当に大切な友達としてよろしくお願いします。あーあ、美奈ちゃん、これから大変になっても知りませんよー?」

「あ、あははっ。そんなの望むところだ!!! むしろ私に大変だと思わせることが出来るかなっ!?」

「ふふふ、大変だと思ったらちゃんと言うこと、これは私から聞いて欲しいところですね。聞いてくれないと……怒ります!」

「真希、怒るとおっかないからなぁ……了解っ!」


 お互いに交錯する視線がすごくくすぐったい。でも、すごく心がくすぐったくて気持ち良い。

 真希の浮かべている笑顔は、私の見たかった、本当に心からの笑顔に見えた。私もそれにつられて笑顔が零れ落ちる。

 心から笑顔を交し合えることがこんなに幸せなことだなんて、私は今まで気付かなかった。この笑顔をずっと取っておきたいくらいに―――――――


「あっ、真希!!! 友達になったときのこと、覚えてる!?」

「え、ええ、鮮明に覚えていますけれど、それがどうかしました?」

「ふっふっふー、さーて、真希さん、大人しくしていてもらいましょうか」

「えっ? ちょ、ちょっ!? 美奈ちゃん!? こんなところでそれは……」


 ベンチから立ち上がった私は、真希の横で視線を合わせ彼女の肩に手をまわす。彼女の表情があのときと同じでなんだか可笑しくて、すごく嬉しくて。

 今日は、私にとって本当に大切な1日だ。本当に、本当の意味で真希と友達になれたんだから。

 だから、今日は私から!!!


「いや? いやだったらやめるけど……」

「……いやじゃないですけど……その……ちょっと恥ずかしいです……ほら、あっちから人が見てますし……」

「なーんだ、嫌じゃないならいいよ。私だって恥ずかしいから!!! ほらほら、笑って笑ってー」

「……ちゃんと後で私にもメールで送ってくださいね」

「もちろん!!! よーし、はい、チーズ!!!!」


 ぽろりんという音とともに閉じ込められるふたりの笑顔。

 私と彼女が一緒に歩いていく道は、まだまだ最初の一歩を踏み出したばかり。



 空が突き抜けるように青くて、それはまるで私と彼女の心を写しているかのように綺麗で、ずっと同じ空の下をふたりで進みながら、同じ空を見上げて笑っていける、そんな未来がそこには描かれているような気がした。

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