表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前編

 空が突き抜けるように青くて、それはまるで。



 雲ひとつ無い晴天というにはちょっと弱いかもしれないけれど、それでも吸い込まれそうな青さは足取りを軽くしてくれるには十分なものだった。

 履き慣れてきた少し踵の高い靴が地面を小気味良くコツコツ叩く音が今の気分を表しているような気がして、なんだかおかしい。

 数ヶ月前までは通ったことも無いこの道が、今では少しずつ移ろう季節まで感じられるほどに通いなれた道になっていた。


 ついこの間までの、足が進むほどに気が重く、陰鬱な気分になっていたのが嘘のようにすら感じられる。

 煩わしかった街の喧騒も、今ではすっかりこの道のBGMのひとつとなっているかのようだった。


 私の進む先に見えてきた、視界いっぱいに広がる白く大きな、一際存在感を示している建物――――九条総合病院。

 大きさに威圧感を感じ、事態の深刻さを飲み込めず前に進むことが出来なかったあのころよりは、病院がなんだか優しく見えるから不思議だ。

 視界から零れ落ちるほど近付くと、大病院だけあって車列も人の波も少しずつ多くなっていく。

 不謹慎かもしれないけれど、心がぽっかぽかになりながら病院の門を潜れることに喜びを覚えずにはいられない。

 私の手には紙袋に入った手作りケーキと特製の紅茶が2つずつ。

 今日も彼女の、私の大好きな笑顔が見られますように。


 空調の程よく効いた清潔感溢れる廊下を、ひとりてくてくと歩くのにも慣れた。

 階下の診療待ちのスペースとは打って変わって、当たり前のことだけど5階ともなると入院患者とお医者さん、看護婦さんにお見舞いの人くらいしか目に入ってこない。

 

 502号室。入院中の患者を示すために貼られている名札には『藍原真希あいはらまき』の文字。

 突き当りを右に曲がってすぐの個室、年頃の女の子なんだから相部屋より個室というのは親御さんのナイス判断だと思う。

 真希の意見を聞いたら、絶対に個室じゃなく相部屋で良いとブーたれたんだろうけれど、そんな判断の隙は最初から無かったわけだし。

 清潔感ありありで、だけど無機質っぽくない温かみのあるラインのこの扉のドアを叩くのがとても怖かったのがつい昨日のように、頭の中でフラッシュバックもするけれど―――――


 ―――――こんこん。


「どうぞ? 開いてますよ。」


 いつ来ても、ドアをノックすれば木霊のように間をおかずに返ってくる落ち着いたかわいらしい声。

 病院だからなのか何なのか、ノックから返事までの短い間に不安になったりするけれど、それもすぐに安堵に変わるのも、これも毎日の日課か。


 私の都合で時間が早くなったり遅くなったりしても、ノックして返事が返ってこなかったためしがない。

 それだけ楽しみにしてくれているんだろうと勝手に想像し、私は嬉しくなるのであった。


「お邪魔しまーす。今日はケーキ作ってきたよー。おやつの時間にぴったんこだけど、食べるー?」

「わっ、嬉しい! 食べる食べる!! ちょうどお腹空いてたんですよね」


 私の瞳に視線を合わせ、にこやかに微笑んでくれる彼女。最初は目をバッチリ見てくる彼女にちょっと気恥ずかしさを覚えていた。

 いつの間にか普通になったそれが、今ではなぜか昔みたいにちょっとだけ気恥ずかしくもある。


「んじゃちょっとテーブルと食器、借りるよ。飲み物は紅茶で良い? 実はこれもお手製なんだー」

「ありがとー。紅茶にケーキ、眺めだけはバッチリだから雰囲気でもっと美味しくなりそうですね」

「あはは。ちゃちゃっと準備するから、真希は寛いでてちょーだい。」


 ここ最近、真希のお見舞いに来るようになってから、真希がベッドで休んでいるのを見たことが無い。

 それだけ元気になってきているのだと思うとおやつを用意する手もぐいぐい進むというものだ。

 広くは無い個室だったが、小さい食器棚にコンパクトな冷蔵庫、小ぶりながらも見やすい大きさのテレビもあって不自由はしないだろう。

 大きめの窓に大きすぎるほど広がる景色が、病室の圧迫感を忘れさせてくれている、と良いな。

 食器棚からちょうど良い大きさの皿と、大きさの違うマグカップを取り出し、フォークとスプーンを拝借。

 お店で買うならまだしも、家から持ってくることを考えて作ったドライフルーツのパウンドケーキは見事なまでに綺麗な形を保ったままだ。

 そっと紙袋から取り出し、シンプルな小皿にちょこんと盛り付ける。生クリームでも添えたら本格的な感じになりそうなのに、残念。

 水筒からとくとくと注いだ紅茶は、我ながら上手く淹れられたようで湯気が心地よい紅茶特有の香りを部屋の隅々にまで運んでいくかのよう。


「真希、準備出来たよー。味は保障出来ないけど、見た目は悪くないと思う!」

「いっつもそう言うけど、美味しくなかったこと、無いですけどね。紅茶の香り、すごく良いですね」

「あーっ!!! そっちでいいよ、そっちで!! 景色も見えるし、そっちで食べよう」

「そう………ですか? そうですね、せっかくなので、景色も一緒に味わいましょうか」


 真希がこっちに向かおうとするのを言葉と仕草で制することに成功した。

 この子はいつもそうだ。迷惑を掛けたくないのか、気遣いなのか天然なのか、甘えるという行為をとことんしようとしない。

 ちょっとでもモタつこうものなら『何か手を貸しましょうか?』と言いながらこっちに向かってきそうな、というよりも、既にそんな視線がちらちらっと飛んできていたり。

 そういうところも真希の良いところには違いないんだろうけれど、真希の状況が状況なだけに気を遣われてしまうと、何だか心が痒くなる。

 手元にあったお盆にケーキと紅茶、砂糖とミルクを乗せ、きびきびと真希の近くのテーブルに手際よく並べてみせた。


「はい、どーぞ。改めてみると絶景よね、ここからの景色。こんな質素なケーキが豪華に見えちゃうくらいに。」

「景色が無くても美味しそうですよ。それじゃあ、頂いて良い? 小腹ぺっこぺこです」

「うんうん、じゃあ頂こうか。紅茶、味加減はお好きにどーぞ」

「はいっ。頂きます」


 テーブルの横の椅子を拝借し、ちょこんと腰掛ると同時に真希がマグカップを取り紅茶を口に運ぶ。それを見て私も同じ動作を追いかける。

 少しだけ温くなってしまっていた紅茶は、直接口に運ぶには丁度良い温度になっていた。

 温くなってしまったとはいえ、味もきりりと、香りもふわりとしていて美味しい紅茶だ。

 値段がいつも家で飲んでいるものより張っているのもあるだろうけれど、真希が美味しそうに飲んでくれていることと、同じ景色を見ながらなのが大きく占めるだろう。

 それにしても―――――こうやってふたりで同じ景色を見ながら笑える日が来て良かったと本当に思う。マグカップに口をつける真希のほうに視線を送ると、にこりと微笑みを返してくれる光景。

 日常に、こうやって笑い合える日常に、私たちは戻れたんだ。


「なーに? どうしたの美奈ちゃん、私のほう見てにこにこしちゃって。どうかしましたか?」

「ん、んんー? にこにこしてたかな、あはは。別になんでもないよ。平和だなぁと思ってさ。本当になんでもない、なんでもないのが嬉しいってことぐらい」


 たまにどうでも良いことが本当に嬉しく思える瞬間がある。昔ならそのどうでも良いことが本当にどうでもよくて、嬉しさすら感じられることは無かった。

 私の名前を、美奈という名前を彼女が呼んでくれる幸せ。毎回ではないけれど、数え切れないほど呼ばれ続けた『美奈』という二文字しかない言葉が胸を躍らせてくれる。

 こうやって名前を呼べること、呼んでもらえることが幸せだなんて知らなかった。


「急にどうしたの? 私は美奈ちゃんのケーキが食べられて幸せですよ? こんなに美味しいケーキ、他にはありませんからね」

「て、照れるなぁ。そう言ってもらえると作った甲斐があるってもんだよ!! ちゃーんと余分に持ってきてあるから、良かったらあとで食べて!」

「わっ!! それ、嬉しすぎます!!! 遠慮なくあとでぱくぱくさせてもらっちゃいますね」


 真希のフォークを口に運ぶスピードがちょっとだけ速くなったような気がして嬉しくなる。

 本当に平和で、噛み締めたくなるほど平和で、嬉しくて、楽しくて――――――


「美奈ちゃん? さっきからどうしたんです? もしかして、調子悪いとかじゃないですよね……………?」

「あ、あはは。違う違う。陽気のせいかな、ぽっかぽかで気持ち良いし、なんかふわふわするからかもね」

「それなら良いですけど。本当に具合が良くなかったりしたら、無理しないでくださいね?」

「うん、大丈夫!!! 嘘はつかないから、心配しないでね。おっ、意外と良い味だしてるね、我ながら!」

「美味しいですよ、本当に。ありがとうございますね」


 真希の笑顔と遥か彼方をゆるやかに流れる雲。時間の緩やかな流れを味わうかのように、優しい時間はゆるやかに過ぎていった。



* こんなに時間が緩やかに流れることが、その流れに身を置くことでしか感じられなかった。



 交通事故―――――言葉に出すとたったの6文字、文字におこせばほんの4文字だけの短い、だけど日常的によく見かける言葉のひとつにすぎない。

 見かけるだけで、自分の知る世界とは無縁だと意識すらしなかった言葉。


 そんな不幸な言葉が、まさか突然何の前触れもなく、私の大好きな友人に舞い降りることになるだなんて、考えもしなかった。

 私がこの病院に駆けつけたときに見た光景は、点灯する手術中の文字の前で、目を真っ赤にし祈るように何かを呟いている真希の母と、気丈に振舞ってくれた父の姿だった。

 それを見た私は、もう真希に会えない、そんな想いしか沸いてくることがなかったし、正の方向に思考を曲げることなんて出来なかった。

 何秒か、何分か、何日か、何週間か、何年か、本当に長く短く辛く苦しい時間の中、神様を信じることをしない私が、必死に神様に祈ったのを覚えている。

 私が見ても仕方の無い走馬灯が、一緒に過ごした時間がぐるぐると頭の中を駆け巡り、戻れるならその瞬間に戻りたい、そう強く願った。

 自分の貧相な頭で考えうる負の感情を全て舐め回し、涙も枯れてしまったときに開いた手術室のドアの音は、私の命が尽きるまで忘れることはないだろう。

 音なんてしないはずのあのドアの開く音が、どんなに大きく、耳の奥に深くずしりと響いたことか。

 そのときの私は、それと同時に聞こえてきた足音をどんな気持ちで聞いていたのか覚えていない。

 まるで叱られた子供のように、扉の向こう側からやってきているであろう医師の顔をみることが出来なかったことだけはしっかり覚えている。

『本当に良かった』そう声にならない声を出し、泣き崩れる真希の母親の声に恐怖し、安堵を覚えた。

 彼女は―――――助かった。

 その向こう側にある現実なんて私には知る由もなく、じわじわと溢れ出す感情を止めることなく、ただただ流し続けるのだった。




 下半身不随―――――言葉に出すとたったの8文字、文字におこせばほんの5文字だけの短い言葉。

 真希が一命を取り留めた喜びの中で語られた過酷な、その言葉が全てを表している現実が突きつけられる。

 回復する可能性がゼロじゃないという言葉には、可能性なんて宿っているように聞こえなかった。

 そこに、どれだけの絶望が宿っているのか、私には想像することすら出来ない。

 歩くことが出来るのが普通、それが出来て当たり前の世界に居る私には、理解しようにも『理解した気になっただけ』になることしか出来ないだろう。

 一命を取り留めた彼女に待っていた現実はあまりにも重く、当事者じゃない私でさえ受け止めることに短くはない時間を要した。

 私以上にショックを隠せていなかった彼女の母に掛ける言葉なんて見つからなかったし、そもそも私の言葉なんて心まで届くとは思いもしない。

 辛うじて彼女の父は精一杯現実を受け入れようとしていたように見えて、私のままならない頭のまま、これからのことを話し合うことは出来た。

 幸いと言えば幸いだったのが、彼女が意識を取り戻すまでの時間が短くはなかったということかもしれない。

 チューブと機械に繋がれ、痛ましい姿になった彼女を見るのは辛かったが、『生きている』ことで安心することができたのは事実としてある。

 時間が過ぎれば過ぎるほど、彼女に付いて回るであろう不幸に対しても心に重く圧し掛かったものでさえ、どんどん軽くなっていった。

 彼女の両親の負担を考えてと、どちらかというと私のわがままで一晩二晩彼女に付きっ切りで面倒を見たこともあった。

 まるでただただ眠っているように見えた彼女の横顔に呼びかけてもまったく反応すらなく、笑顔すら、表情と言えるもののひとつも見せてくれなかったときに、産まれて初めて『胸を締め付けられるような想い』というのを味わったものだった。

 希薄に、日が経つにつれ現実感が薄らいでいくような感覚の中で、生きていてくれてよかったと撫でた彼女の髪の感触が心にも触れた気がした。


 10日が過ぎたころ、真希が目を覚ます1日前に彼女の両親と相談して出した結論を私は今でも間違いではなかったと思っている。

 彼女が目を覚まし、落ち着いた時期を見計らってきちんと全てを話すこと。

 ゼロではない確率の話をするよりも、今目の前にある現実を、きちんと話そうということ。

 私は、それを拒んでいた。そうすることで彼女の持ちえる夢も希望も全て、言葉ひとつで奪ってしまうことになるんじゃないかと、そんな気がしたから。

 それでも彼女の両親の意思は固く、幸運にも会話に参加させてもらっていた私は、不幸にもその選択肢を取るほか無かった。

 私よりもずっと長い時間、彼女と接し彼女のことをよく理解している両親の言葉だからと、渋々私はそれを受け入れることにしたのだった。


 そして12日目に彼女は目を覚ました。まるでうたた寝でもしていたかのように、前触れも無くそっと開いた瞳。

 ちょうど居合わせた私と彼女の家族は歓喜の渦に飲み込まれ、久しぶりに感情を爆発させ、病院だということも忘れて騒いで看護婦さんに怒られたっけ。

 そんなお祭り騒ぎを横目で見ていた彼女のぽかんとした表情がおかしくて愛しくて、頭をわしゃわしゃ撫でて、また看護婦さんに怒られたっけ。


 半刻も過ぎればそんな感情は自然と落ち着くのが人間というもの。私や彼女の家族も例外ではなく、そのあとに訪れる静寂に恐怖すら感じていた。

 お医者さんも看護婦さんも立ち去り、一通りの説明を受けた後に訪れる静寂。

 このとき私は、こんなに早く彼女に現実を突きつけることになるだなんて思ってもいなかった。

 誰しもが『今日は言い出す必要が無いだろう』そう思っていたはず。私だってそうだ。目を覚ましたその日に、わざわざ現実を突きつける必要なんてないと。

 少ない会話と暗黙の了解を突き崩したのは、彼女のたったひとつの言葉だったのを、今でも鮮明に覚えている。


「ねえ、足に力が全然入らないんですが、これってもしかして………………」


 そのあとのやり取りを、私は知らない。私はその場から適当な理由をつけて逃げ出してしまったから。現実に向き合おうとする彼女から、逃げてしまったのだ。


 そして今、彼女は車椅子での生活を余儀なくされながらも健気に生きている。

 全ての絶望を飲み込み、それを一切外に漏らすことすらせずに。

 静かな笑顔を湛え、その優しい視線を向けてくれる。あのとき、病室に戻ったときに見せてくれた笑顔と変わらない笑顔を。



* それはまるで、何も無かったかのように、優しい笑顔を。



「なーにそんなに真剣な顔をして考えてるんでしょうか? 紅茶、冷めちゃいますよ?」

「う、うん。ちょっとだけ考え事ー。ほら、テストとか近いから? あははー」

「そういえばそんな時期だねー。私も勉強はしてるけど、学校じゃないとやっぱりしてる気がしないですね」

「そういうもの? でも真希は勉強できるし羨ましいな。私はからっきしだし」


 目を覚まして程なくして、真希は上半身を自由に出来るほどにまで回復し、それ以来学校の勉強を毎日のようにこなしているようだった。

 私に進行度合いを聞きつつ、おおよその見当をつけて教科書の予習をしておいている。そして私にノートを借りての復習を重ねる。


「私は勉強が出来るより、美味しいケーキが作れることのほうが羨ましいですけどねー」

「ありがとー…………って、勉強できないってところ、認めた!?」

「ふふふ、今度ケーキの焼き方でも教えていただけると嬉しいですよ」

「よし!! かわりに勉強を教えてもらおう。真希に教われば……!!」

「では交換条件ということで。交換じゃなくても、勉強なら喜んで教えますけどね?」

「そ、それはまた今度でいいよ!」


 いつもにこやかで落ち着いていて、それは事故の前からだったけれど事故の後も全く変わっていない。

 だからこそ私は普通に、以前と変わることなく彼女と接することが出来ているのだ。

 変わったことがあるとするならばそれは、私と彼女の距離が縮まったように感じられることぐらい。

 どれぐらい大切な人間なのか、その想いが乾いた地面に染み込む雨のように私の心に染み込んでいっているのがわかる。

 ずっと傍に居て、彼女を支えてあげたい、そう心から思った。


「今日の美奈ちゃん、ちょっと変ですねー。変ついでに、ひとつお知らせがあります」

「気にしない気にしない。絶対天気のせいだから。どれどれ、変な美奈ちゃんにお知らせを聞かせてごらんなさい」

「あらら、もうちょっとがっつり来られるかと期待したのに。えーっと、それでは、コホン」

「盛り上げ下手でごめんねー。どんなお知らせなのか気になるのはホントっ」


 にっこり微笑みつつちょっとのタメを作る真希。お知らせと言われても不安なんて沸いてこないし、むしろ楽しみですらある。

 悪い報せじゃないことは彼女の表情からも分かるし、もし悪い報せだったとして…………もし悪い報せがあったら、彼女は私に伝えてくれるのだろうかという素朴な疑問。

 ……それは今考えても仕方の無いことだ。きっと報告や相談をしてくれると信じよう。

 それよりもまず、彼女からの話がどんなものなのか、純粋に気になるし、楽しみではある。

 性格上、「かもしれない」話ではなく、ほぼ決定事項の話だと思えるし、出来ればうんと良い報告であればなおよし。

 私のほうも聞く準備が出来たという意思を笑顔で彼女に対して示すと、彼女はマグカップをテーブルにおき、おもむろに言葉を紡ぎ始めた。


「えーっとですね、突然でもないんだけど、決定したのがついさっきのことなのですけど、明日退院することになりそうですよ」

「おー、そかそか、明日退院かー…………って、明日退院!?」

「ええ、私もちょっと驚きましたけど、明日で決定らしいです。病院側の都合も多分に含まれているようですけれどね」

「全然そういう話聞かなかったからびっくりしたー。急すぎて準備とか大変そうだけど良かったねー!!!」

「ええ、ちょっと大変なことも増えるかもしれませんが家に帰ることが出来るのは嬉しいですね」

「うんうんっ! 美味しいものも食べ放題だねー。快気祝いにお寿司なんていいなー」

「あ、それいいね。久しぶりにイクラとか海鮮サラダとか食べたいですねー。マグロアボガドとかもいいですねー」

「あははっ、全部回転寿司にあるメニューだー。明日帰るってことは、今日は準備とかいろいろ忙しい感じになる予定?」

「そうでもありませんね。荷物も多くありませんし、手続きは両親がしてくれるということでしたので」

「そっかそっか。じゃあ明日までは病院を堪能する感じかな? 別に病院なんて堪能したくないだろうけどさ」

「ふふふ、そうですね。美味しいとも言い難い夕飯はきちんと堪能しようかと思っていますよ」

「あはは……前一口もらったとき、味がしなかったのを覚えてる……」


 突然のことではあったけれど、胸を撫で下ろすような報せで良かった。真希もようやく落ち着いた時間を過ごすことが出来るようになるというものだ。

 それと同時に、退院を許されたということは生命への危険は取り去られたと同義と受け取って良い。それも安心材料のひとつになる。

 それにやっぱり、当事者じゃないが24時間いつでも誰かが入ってくるかもしれない環境に身を置かなければならないのは相当精神的に苦痛になるだろうし。

 ちょっとした精神的疲労が軽減されるだけでも、彼女にとっては大きな安息になることは間違いない。

 少しでも良い環境に身体を置くことが、彼女の精神衛生にとってもきっとプラスになってくれることだろう。

 いつまでも平坦に続くかのように思われたこの日常があっさりと好転する、良くも悪くも事態が動くのは突然だけれど、良い方向に転がるのならいつでも大歓迎だ。

 だが問題がひとつ。退院となると昼間のかなり早い時間になるような気がしてならない。そうなると学校がある私は退院に立ち会うのが難しくなる。

 新しい門出になるだろうし、出来れば私もそのときに同じ風景を見られる場所に居たい。


「退院はすっごい嬉しいんだけど、退院する時間って何時くらいなんだろう………………」

「えーっと、午後には別な患者さんがここに入る予定らしいので、午前中の早い時間には退院しなくてはいけないようですね」

「あ、やっぱりそうなんだ…………うーん…………どうしようかなぁ…………」

「大丈夫だよ、家族が迎えに来てくれるから。それよりも学校を休んでまで来てもらうほうが私としては悲しいかもしれません」

「あ、あはは。バレてた? 今ちょっとそれやろうかなーって考えてたところ。1日くらいなら何とかなるんじゃないかなーっと」

「いけませんよ? そんなことをしたら……明日1日は口をききませんからね?」

「うっ……わ、わかりました。明日は学校終わってから家に寄らせてもらおうかな」

「ええ、そうしていただけるととっても嬉しいですよ。学校を休んでまで、と考えてくれることもかなり嬉しいですけどね、ふふふ」

「それは実行しないから気持ちだけ受け取っておいてください」

「ええ、もちろんです。ありがたく受け取っておきますね。大事にしまっておきます、その気持ちは」

「うんうん。明日何時になるかわからないけど、ちゃんと行くから待っててね」

「ふふふ、もちろんです。楽しみにお待ちしてますよ」


 案の定考えていたことは真希に筒抜けになっていた。昔から察しが利いて思い遣りが強かった子だし予想通りといえば予想通り。

 そしてもし言葉に反して学校を休んで退院に付き添った場合、彼女がさっき口にした公約を確実に守るということも私は知っている。

 そこをゴリ押ししてまで駆けつけても、彼女の悲しそうな顔を見ることになる。内心はどう思っているかわからなくても、悲しい顔なんて見たくない。

 だから涙を飲んで、明日はちゃんと授業を終えてから彼女の家にお見舞いに行こうと心に決めた。


「そういえば真希の家に行くのって久しぶりだなぁ。久しぶりすぎて迷子になっちゃったら連絡するから、そのときはよろしくね!」

「ふふふ、多少入り組んではいますからね、うちの近所は。駅までのお出迎えが出来なさそうなのは残念です」

「大丈夫! 大丈夫じゃないかもしれないけど大丈夫っ!! さてさて、ちょっと給湯室借りてくるかな。それとももっと食べる?」

「食べたい気持ちは山々だけど、さすがに夕飯がおなかに入らなくなっちゃうからね。夜のおやつにいただきます」

「はーい。じゃあ給湯室借りてくるー。真希はちゃんと待ってるように。あ、紅茶だけおかわり置いておこうかな?」

「ええ、では頂きます。わざわざありがとうございますね」


 自分の皿に残っていた最後の一切れのケーキを口に運び、綺麗に食べきられた皿を手に取る。こんなに綺麗に食べてくれると、作り甲斐があるというもの。

 やっと最近になって片付けや細かい用事のときに自ら動こうとすることは無くなっていた。逆に気を遣わせてしまっているように感じられるけれど、彼女に動いてもらうのは私にとっては思ったより心苦しい。

 注ぎ足した紅茶に口をつけつつ少しだけ薄くなった青い空を見上げる彼女。薄くなった青色が、私の目には吸い込まれそうなほど透明で神秘的なものに見えた。




 夕日が射し込み、オレンジ色が暖かく感じられるちょっとだけ肌寒い帰り道。あれこれ話しているうちに真希の夕食の時間になってしまった。

 遅くなく帰ろうと思っていたのに、ビルの隙間から見える綺麗な夕焼けがたまには良いかなという気分にさせてくれる。

 駅に向かって一目散に歩く人、友達グループでワイワイやっている人、買い物袋をぶら下げて家路を急ぐ人、みんな帰るべき場所に向かっているのだろう。

 帰るべき場所に帰る事のできる喜びなんて毎日のことで私にはさっぱり分からないけれど、改めて実感することが出来たならそれはとても嬉しいことに違いない。

 今思えば今日の真希は、顔を合わせたときから何だか嬉しそうにしていた気がする。

 明日からのお見舞いは彼女の家ということになる。病院なら邪魔にならないとは思わないが、家族も居るであろうお宅に毎日のように訪問するのはさすがに気が引けるかもしれない。

 それに彼女の家は病院とは真逆で定期の範囲外ときた。これは悩みがちょっとだけ増えてしまった気がするけれど嬉しい悲鳴ということにしておこう。


 それにしても真希はいつ会いに行っても元気だ。元よりそうだったけれど、喜と楽の感情以外を表しているのを殆ど見たことが無い。

 常識に外れた行動や規律を逸するような行動、言動に対しては強い口調で注意することはあってもそれ以上は無い。

 さっきの学校を休んで会いに行く件がそれに該当する。本当に怒るし、口も利いてもらえなくなる。経験則からの予想だけど間違いない。

 基本的に人当たりの良い彼女が怒ってくれる、誰にでもじゃない対応を自分にしてくれることは私と彼女の距離の近さを物語っているようで嬉しく思える。

 初めて出来たといっていい本当に素直に心を許せる友人。だからこそ私は彼女を大切にしたい。

 明日からまたちょっと違う生活が訪れる。それを楽しみにしながら家路を急ぐのであった。



* 夕焼けの空が、いつもより赤く赤くそれは私の心の色を映しているかのように。



「今日も疲れたなぁ……」


 とぼとぼと夕日が照らす通学路を独り歩く。下校時間ということも相まって、この時間の駅へと向かう道は同じ制服の生徒でいっぱいになる。

 わいわいがやがやと話しながら駅へと向かう生徒の中に居ると、まるで自分だけが孤立した寂しい人間のように思えて余計に寂しい。

 入学して1週間、元来友人を作ることが苦手な私には未だに仲良しと言える友人はいなかった。話しかけられれば話すし、別に避けているわけでもない。

 それでもなんとなく距離を詰めるのが得意じゃなかった。友人は欲しいのに自分からは話しかけにくい、友人が出来にくい人間の典型かもしれないと自分自身が可哀相になる。

 まだ学校が始まって1週間、まだまだこれから、と自分を慰めても周囲の喧騒がさらに大きく、夕日に照らされる景色がさらに寂しげに見えてしまうだけだった。


「ちょっと遠回りになるけど、裏道で帰ってみようかなぁ……」


 カチカチとケータイを弄るふりをしながら入ったことも無い裏路地に入る。方向さえ合っていればちゃんと駅には着くだろうし問題ない。

 通ったことの無い裏道を通るのは楽しい、そう思える人間なら楽しめるのかもしれないけれど、生憎私はそんな人間じゃないらしく特に胸躍るようなこともなかった。

 大通りから1本横道に入っただけなのに激減する人の流れ。喧騒も静まり、歩くだけに専念するのならこの選択は大正解だ。

 小さいラーメン屋に居酒屋みたいな店によくわからない店と様々な看板が軒を連ねる。

 さっきまで寂しげに見えていた夕日に照らされる風景が、なんだか少しだけ綺麗に見えた瞬間だった。

 何となくこういう裏路地には野良猫が似合いそうだと思い辺りを見回してみても、残念ながら野良猫の姿は見つからない。

 真っ直ぐ伸びる道の先を見通してちょっとしたミスに気付く。このまま真っ直ぐ歩いていたら確実に駅から遠ざかってしまうことに。

 とりあえずは適当な小道を見つけて、どんどん駅の方角に流れていったほうが良さそうだ。

 そう思い、すぐ先にあった小道も進路を変更しようとしたときだった。夕日もさほど届いていない小道の先に感じる2つの気配。

 誰かが居たからといって、特に問題があるわけでもないのに思わず足が止まってしまった。思わず近くにあった電信柱に身体を隠す。


「……こんなところで……やめてください…………」

「……………あんまり騒ぐと………………………」


 女の声と男の声なのははっきりと理解できたし、何をしているのかもおおよそ見当がついてしまった。

 しかも男の方はちょっとわからないけれど、女の子のほうはうちの学校の制服に間違いない。

 いくらお金が無いからといって、こんなに学校から遠くない場所で、しかもこんなところでスケベなことをしようとするだなんてちょっと頭を疑う。

 告げ口しようにも、学校の生徒というだけで名前も顔もはっきり見えない。うちの生徒、とだけ学校に報告しても、下手すると全校集会とか面倒なことになる。

 だからといって引き返すのも何だか癪に障るし、かといってニヤニヤしながら見ているような趣味もない。


「……ちょ……ダメ…………………」

「……嬉しいのか、そんな顔して………………………………」


 何が「ちょ、だめぇ」だ。男のほうはそれはもう夢中になっちゃっているようだったし、女の艶のある声なんて聞いたって私は全然嬉しくない。

 淫らに揺れる髪の毛と湿っぽい女の声、もう我慢できない男の声が嫌悪感をぐいぐいと煽ってくれる。

 私はこの道を行こうと決めてたし、だからといってあの雰囲気の中を歩くのは少々嫌だ。

 ……よし、こんなところでイチャイチャしているのが悪い。ちょっとだけ悪戯してやろう。

 こういうときの定番といえば―――――――アレしかない。

 すーっ…………………はーっ………………………よしっ!!!!


「おまわりさん!!! こっちです!!! こっちこっち!!!!」


「なっ!!? ちっ!!!!! いってぇ!!!!! くっそー!!!!!」


 がたんごとんという派手な音とこれでもかというくらいに足早に遠ざかっていく足音に思わずニヤリと笑みがこぼれる。

 こっち側に逃げてくれれば顔くらい拝めたかもしれないのに、その点だけは残念だけれど、それ抜きにしても良い気味だ。

 どこからか聞こえてくるカラスの鳴き声も何だか嬉しそうに聞こえるのは気のせいじゃないはず。

 あんなに焦って逃げるくらいなら、こんな場所でこれ見よがしにイチャコラしなければいいのに。

 彼女のほうを置いて逃げるなんて、やっぱりちょっと頭おかしい………………って………………


「ええええ!!? 逃げてない!!? 置いていかれたの!? ……あは…………あはは…………………」

「………あなた…………」


 こ、怖い。薄暗い小路地に射し込む逆光、どんな表情なのかは判別出来ないがとにかく怖い!!!

 逃げ出したい、絶対に逃げたほうが良い、逃げなきゃダメだ、こんなところでこんなことをするような女だ、何されるかわからない!!!


「あー…………あ、ご、ごめ……………」


 カツカツカツと制服に不釣合いな足音がどんどん近寄ってくる。逃げなきゃいけないのに…………足が言うことを聞いてくれない。

 夕日を背にして近付いてくるその姿はまるで――――――ホラー映画の殺人鬼………………っ!!

 誰か、誰か助けて…………誰か!!!!!

 からからに渇いた口から、想いが発せられることは無かった。活きたまままな板に乗せられた鯉のように、口をパクパクすることしか―――――

 無抵抗の意思を示すために逸らした視界に、女の黒い革靴が飛び込んでくる。もう―――――私は―――――

 お母さん、お父さん、もう一度だけ顔が見たかった――――――




「ありがとうございました。助けていただかなかったらどうなっていたことやら……………」

「ひぃっ!!!!!」

「わっ!!? えっ!? えっ!!? ど、どうしました!!!?」

「あっ、えっ、うっ!!!! ご、ごめんなさい!!!!」


 俯いたままビクッと振るわせた肩に掛かった言葉が瞬時には飲み込めず、これまた言葉が上手く出ない。

 とりあえず声に不快感は感じられなかったので、謝って穏便に済ませることは出来るかもしれない――――――って、ありがとうございます?

 ありがとうございます、その言葉の意味するところはひとつしかない。


「えーっと、本当にありがとうございます。私だけでしたら、大変なことになっていたと思います」

「え、っと、お邪魔しちゃったのは怒って無い……の?」

「いえいえ、お邪魔も何も危ないところだったので。顔、上げていただけますか?」


 彼女の言葉に甘え、恐る恐る顔を上げるとそこにあったのは優しそうな笑顔だった。あんなに怖かった夕日に照らされた姿が、今になると神秘的にすら見える。

 敵意が全く感じられないその笑顔さにさっきまでの緊張と恐怖が夕空に消えていってしまった。


「あ、あはは……なんて言ったらいいのかわからないなぁ。ど、どういたしまして?」

「ふふふ、こちらこそ、というのはおかしいですね。私のほうこそ、何と言ったらいいのかわかりませんね」

「あ、う、うん。危なかったから咄嗟に機転を利かせてみました!!」

「本当にありがとうございますね。ちょっと私も油断が過ぎました」


 目の前でにこやかに微笑む女の子をよくよく見てみると、そんな疚しいことをするようになんて全く見えない。

 肩の下まで伸びた真っ直ぐな黒髪に夕日を背後にして尚それとわかるほど白い肌。きりっとした眼と穏やかそうな雰囲気が全部を物語っている。

 外見だけで人を判断するのは良くないことだろうけれど、それでもこんな清楚で綺麗な子が如何わしいことをするわけがない。


「危ないよー、こんな人気の少ない道を歩くのは。私も人のこと、言えないけどさー、あはは」

「そう、ですね。風景を見て歩くのが好きで、ついついこんなところまで独りで入ってきちゃって」

「それで変な男に絡まれたのかぁ。この辺もあっぶないんだねぇ。私はちょっと別な道帰ろうと思っただけだけど」

「有難い偶然です。えーっと、ですね、不躾ですがちょっとお伺いしたいことがあるのですが……………」

「ん? 何だろう? 分かることなら答えられるけど」


 お礼だけならまだしも、質問なんて言われるとちょっとだけ身構えてしまいそうになる。その口調はさっきと変わらず真摯なものだ。

 きりっとした瞳がきらきらと輝いて見えるのは気のせいだろうか。射抜くように向けられた視線が私を離してくれない。

 妙な気を持っていなくとも、そんなに真っ直ぐな瞳でじっと見つめられると恥ずかしくてつい眼を背けてしまいそうになる。


「違っていたらごめんね。もしかして、立花美奈さんじゃありません?」

「え!? う、うん、それ、私の名前だけど……名乗った覚えが無いけ………」

「えーっとですね、藍原真希といってもわかりません? 答えになっていないかもしれませんが」

「あいはらまき……あいはら……うーん…………………」


 頭の中の多くない友達リストをぺらぺら捲ってみても、アイハラマキなんて名前はヒットしない。

 そんな電話帳の一番先にくるような名前なら印象に残りやす――――――あっ!! 


「出席番号1番、あい…………あいはらさん!? 藍原真希さん!!! 違ってたらごめんね!!」

「正解です。出席番号23番、立花美奈さん、ふふふ」

「そ、そこまで覚えてるなんてすごい!!! 逆に私が覚えて無さ過ぎるのかな…………あはは」

「入学してからまだ1週間ですからね。仕方ありません。一応、立花さんの顔と名前は一致しているつもりです」

「あ、あはは…………私そんなに目立つかなぁ。藍原さんは出欠取るときに1番最初だから名前だけならなんとなく覚えてた」

「それでも覚えてもらえているのは嬉しいよ。ありがと。立花さんはほら、2日目か3日目に遅刻してきたから、ね」

「あー、そんなこともあったかなぁ、あはは。あの時は朝急いでて、逆方向の電車に乗っちゃっただけ!!!」

「慣れていないとそういうこともありますよね。そのときから面白い人だなぁと思ってました」


 なんとまあ、笑顔のかわいい子だ。話しながら見せてくれる笑顔にこっちも自然と笑顔がこぼれてしまうほど。

 笑うときに口元に添えられる右手がなんともいえない上品さを醸し出していたりする。何となく抵抗が出来ないタイプなのがわかってしまう。

 上品そうで大人しい、なんとなくだけれどクラスで話したことは無いけれど見かけたことはあるような気がしてきた。

 怪我の功名というかなんというか……こういうところで自分のミスが役に立つことになるとは思いもしなかった。

 名前も覚えていてくれて、そのうえクラスメイトだなんて、相手が男の子だったら運命を感じちゃう。女の子、藍原さんに覚えてもらっていたのも十分に嬉しい。


「あはは。何か奇遇だねっ! でも藍原さんに覚えてもらってたし、何かオッケーかも?」

「ふふふ、かもしれませんね。えーっと、ですね、藍原でなく真希で良いですよ。苗字より名前で呼んで貰えるほうが…………その…………好きですから」

「じゃ、じゃあ、私もな、名前で呼んでもらえると嬉しいかなっ! ま…………ま、真希さん!!!」

「はーい、美奈さん。何だか不思議な感じがするけど、これからよろしくお願いしますね」

「よ、よろしくねっ! 思わぬところで友達が出来るなんて、人生遠回りもしてみるものだね」


 思わぬところで学校初の友達ゲット成功。まさか偶然遠回りした挙句人助けまでして、その上同じクラスの友達が出来るなんてちょっとした奇跡だ。

 あんなに悪く思えた印象が今では180度変わって見える不思議。真希さん、とてつもなく話しやすくて良い人だ。


「好意的な出来事とは言えませんでしたが、美奈さんとお近付きになれたことだけは感謝しないといけませんね」

「感謝はしなくて良いんじゃないかなぁ、あはは。真希さん、お家までは歩いて帰るのかな」

「いえ、電車ですよ。美奈さんは電車ではなさそですね 私が言うのもおかしいですが、駅の方向とはちょっと違いますし」」

「いやー、なんとなーく遠回りしてみたけど私も電車だよ。なんとなく遠回りもしたくなることがあるし!」

「あらあら、それはちょっとびっくりですねー。よろしければ駅までご一緒しません? 用事があるようでしたら無理にとはいいません」


 真希さんにも言えることだけど、駅に向かうのにこの道を通るとは思えなかったらしい。これもなんたる偶然。

 言葉の端々に宿る細かな配慮がなんとも心地よい。違うような気がするけれど損して得取れとはまさにこのことなのかもしれない。

 そしてだいぶ慣れてはきたけれど、笑うときに手で口元を隠す癖と話す途中に視線は外さないことがお淑やかさと話しやすさを加速させてくれる。


「私からお願いしたいくらい! こんなところでお話してるのも危ないかもしれないし、そろそろ行く?」

「そうですね。このままここを進むのも面白そうですが……………暗くなってきましたし、戻りましょうか」

「だねー。景色眺めたりが好きだったら私が今度付き合うよー。新しいものを見るのは好きだし!!! 2人なら危なくなることもなさそうだしね」

「それは有難いですね。この辺は時間を掛けてじっくり眺めようと思っていたので、遠慮なくお願いしようかな、ふふふ」

「どーんとこい!! それじゃあ、今日のところは戻ろう戻ろうー」

「それでは参りましょうか。あっ、そのまえに………………ひとつだけいいかな?」


 さて歩き出そうと思った矢先に笑顔と少しバツの悪そうな声が引き返そうとした足を止める。

 何か用事があるのだったら遠慮せずに済ませてくれれば良いと思ったけれど、悲しいことに今さっきであったばかりの私たちにそこまでの親密さは無くて残念な気分になる。

 ともあれ、独りで残ったりまた来るくらいなら今この場で済ませられることは済ませておいたほうがいいのは明白だし、そこまで考えていなくても断る理由なんてこれっぽっちもない。


「うん、何か用事あるなら済ませておいたほうが良いよー。何があるかわからないけど」

「えーっと、ですね。夕日も綺麗だし、折角なので……記念に夕焼けを背景に写真でも、と思ったのですが……」

「あ、そういえばこの辺見て回りたいって言ってたもんね。景色も薄っすら綺麗だし、写真撮っておくといいかもね!」

「え、ええ、確かに景色は綺麗だけど……いろいろな景色のいろいろな瞬間をカメラに収めるのは好きですけれど……」


 なぜか歯切れの良くない真希さん。表情は笑顔には違いないのだけれど、それが私の気のせいなのかちょっとわからなかった。

 なーんとなく、気のせいだと思うんだけど夕日を浴びたその表情はちょっとはにかんでいるようにも見えたり見えなかったり。


「んー、なんだろ? ちゃんと待ってるからちょっとぐらい時間が掛かっても大丈夫! なにせ友達だしっ!!」

「ありがとうございます。写真には違いないのですが……良かったら……せっかくお友達になれたことだし……………ね?」

「あっ! なるほどー。いいよいいよー、撮影ぐらいならお安い御用! 中身みたりもしないって約束するよ」

「お願いすることになったとして、そんな心配はしませんよ。えーっと……うーん………………」


 変だ。真希さんが変だ。話をするときには相手の目を真っ直ぐ見つめて話すと印象付けられているだけに、視線をあっちこっちに泳がせて、しかも歯切れが悪いなんて変だ。

 モジモジしているのを見ていると可愛いなと思いつつ、ちょっとだけ腹が立ってくる自分が居たりもする。

 元来こらえ性なんてないし、ちゃんと決めなくちゃいけないことは決めなきゃ落ち着かない。それは家族友人に対してもそうだったりするのが困ったところ。

 ファミレスなんかでメニューをあれだこれだと迷っていたりするのを見ると早くしろと言いたくなってしまうし、言ったこともある。そのときの反省を生かして今ではグッと我慢することを覚えた。


「暗くなる前に写真撮るなら撮らないと!! ケータイのフラッシュは弱いから写らなくなるよ。それにほら、さっきのこともあるし危ないかもだし」

「ですよね。えーっと……ちょっと恥ずかしいのですが……せっかくなので一緒に撮りたいなーって……ダメかな?」

「一緒? 一緒……んんんー?」


 上品で真面目そうなのにちょっと変わった子だ。視線も横のほうに完全に逸れているし、あんなにハッキリだった口調もうっかりすると聞き逃してしまうほどごにょごにょになっている。

 俯き加減の頬も薄っすら紅潮しているように見えなくも無いし、たまーに聞こえるカラスの鳴き声も滑稽に聞こえて仕方ない。

 そんなに恥ずかしがることなのか分からないけれど、一緒に同じ方向を向いてシャッターをきっても面白くもなんともな―――――


「あーあーあー!!! いいよいいよ!!! 喜んで!!!! 一緒に写真なんて家族以外に撮ったことないからピンとこなかった!!!」

「ふ、ふふふ、ちょっと……いえ、すごく恥ずかしかったです。こんなに恥ずかしいと思ったのは久しぶりかもしれません………………」

「あははっ。改まって頼むのは恥ずかしいかもね。じゃあお言葉に甘えて一緒に撮っちゃおう」

「ふつつかものですが、よろしくおねがいします」

「そ、そんなにかしこまらなくても。逆光にならないようにこっち向いて……」


 ケータイを取り出し、ちょちょいとカメラを起動させる真希さんの表情はなんだかとっても嬉しそうで、それを見ている私のほうまで嬉しくなってしまう始末。

 私が思っている以上に友達として認識してくれているような気がしてきて、あっけらかんと答えたはずの私のほうが照れくさくなってきてしまう。

 こういうときは照れくささと恥ずかしさがどんどん加速してしまう前に、パパっと思い出を閉じ込めてしまうに限る。


「はい、準備オッケーです。えーっと、ではフレームからはみ出さないようにちょっとだけ近くに…………」

「あ、じゃあ私撮るからカメラ貸して。やったことないけど、たぶん出来る!!!」

「はい! ではお願いしますっ!!」


 こういうときはどうすればいいか、ドラマやら漫画でちゃんと知識を吸収しておいて良かった。

 真希さんからケータイを受け取り、夕日と向き合いそれを掴むようにケータイを持った手をうんと伸ばす。

 あとはシャッターを切る前の仕上げが残っている。恥ずかしいけれど、ここは恥ずかしさをグッと堪えて――――――


「ひゃっ!!! み、美奈さん!!?」

「いいからいいからー。ほらほら、ハイ、チーズ!!!! いぇい!」

「い、いぇい♪」


 右手で抱き寄せた肩に頬に感じる真希さんの温度。緊張も恥ずかしさもあったけれど、これくらいのほうが距離がぐいっと縮まるはずだ。

 ぽろりんと鳴るシャッター音がいつもの何十倍も楽しげに聞こえる。あとは手ブレしていなければ完璧だ。


「ど、どうです? ちゃんと撮れてるかな?」

「どーれどれ……おっ、良かった!! ちゃんと撮れてるよー。ブレてないしバッチリ!!」

「どれどれ……おっ……おーっ!!!! 何だか雰囲気もバッチリですねー、さすがです」

「ふっふっふ。自画撮りっぽいのは初めてだけど、案外上手く出来るもんだねー」


 割かし適当に撮影した割に手ブレしていないだけじゃなく、射し込む夕日もふたりの表情もすごく良い感じに!!!

 真希さんの表情もちょっと照れ笑いみたいになっていてかわいらしいことこの上ない。私のほうはというと、どこかぎこちなく無理しているように見えるけれどギリギリセーフなラインだ。


「おーっ、初めてだったんですか!! 何だか手馴れているように見えましたよ、ふふふ」

「あはは、どうせだからちょっとがんばってみました! てへっ♪」

「ふふふ、美奈さん面白い人ですねー。大事な記念の1枚、すばらしいものになりました」


 よし、実はかなりドキドキしていたのはバレていない。写真も上手く撮れていたし、真希さんとの距離も縮まったはずだし言うことなし。

 思ったよりも綺麗に撮れていたし、どうせなら私も記念の意味に1枚欲しいような気がしてきた。いいや、ぜひとも欲しい。家に帰ってから眺めてニヤニヤしてみたい。


「そだ、綺麗に撮れてたし、私も欲しいからあとで良いからメールで送ってほしいかもー」

「……とっもだちとっもだち♪ おっともだちー♪」

「……おーい、真希さーん? どこか行くのは家に帰ってからにしたほうがいいよー」

「るんるんるんるん♪」


 よ、予想以上にテンションが上がってしまったのか何かの発作なのか、真希ちゃんはどこか遠くへお出かけしてしまっている予感。

 さっきの写真を見ながらほわわんしているのは見ていて面白いけれど、やっぱりここは立ち去ったほうが良いだろうという理性が働く自分はえらい。


「真希さーん!!! おーい!!!!」

「ひぅっ!? は、はい? な、なんでしょう? 何だか記憶が………………」

「あははっ。そろそろ戻るよー? とりあえず駅のほうまでー。あとさっきの写真、私も欲しいからあとでメールで送っておいてー」

「えーっと、それは一向に構いませんが……美奈さん、やっぱりこういうの、手馴れてますぅ?」

「え、え、えーーーーー!!!! そんなことないけど…………」


 にこやかだけれどどこか引っかかるところのある真希さんの物言いに、弾んでいた心がぼたっと地面に落ちた音が聞こえた。

 未だにクラスメイトの友達が居ないくらいの私が精一杯がんばって、出来たばかりの友達との距離を詰めようとしたのが原因なんだろうか………………。

 ついつい嬉しくなって、もっと仲良くなりたい、すぐ仲良くなりたいと気が急いてしまったのが良くなかったのかな…………。

 そんなことを考えると、自分の行動に嫌気がさす。テンションに身を任せずにもっとじっくりゆっくり仲良くなっていけばよかったのかな。


「悪気があっての言葉じゃないよ? ただ、私、美奈さんのメールアドレスなんて知らないから……………」

「うん、そうだよね、私のメアドなんて知らないもん。当然だよね…………って、当然だよっ!!!」

「ひゃっ!? び、びっくりしました……急に大声を出されるのは慣れていないもので…………」

「それもそうだよね、そういえばメアドなんて交換していなかったもん。あはは……」

「ふふふ、それでは良い切欠にもなりましたし、メールアドレス、交換しません?」

「もっちろん!!! ぜひぜひぜひぜひお願いしますっ!!!」


 やった!!!! 下がっていたテンションが一転、スキーのジャンプみたいに一気に飛んでいくような一言。

 流れで会話を運んで行ったはずが、大きく1箇所抜けていたことに真希さんの一言でやっと気付く。

 そして有難いことにそこを埋めてくれるような一言! 今日はなんて良い日なんだ………………


「ではメールアドレス交換をお願い致しましょう。さすがにちょっと暗くなってきたので、歩きながらでも良いでしょうか?」

「うんうんっ。じゃあ駅に歩きながらメアド交換しようか!!! 赤外線のやり方わからないからちょっと面倒かもしれないけれど……」

「それでは歩きながらにしましょうか。私も赤外線とやらは全く使いこなせていないので面倒かもしれませんがそれでよろしければ」

「はーい。じゃあついでに電話番号の交換とか…………」


 薄暗いと感じられる道も、友達と一緒だと楽しいものに他ならない。こんなに楽しい気分で家への駅を歩くことが出来るなんて1時間前には思いもしていなかった。

 メアドの交換に電話番号の交換。どんどん距離が縮んでいくのが分かってわくわくどきどきが止まらない。

 適当な会話も彼女の声も仕草も、単純な私はもう大好きになってしまっているのがわかる。新しい土地での一番最初の友達、こんなに嬉しいことはない。

 大通りに戻ると目に入る仲良く帰る生徒たちの波も今じゃあ全然疎ましく思えないどころか、なぜそんなことを気にしていたのかと不思議なほどに意識すらしない。

 誰かと、誰かじゃなく友達と一緒に歩いたりおしゃべりしたりするのは本当に楽しいと思える瞬間だった。

 同じクラスなのにクラスで起こったことを話して笑ったり、家でのことを話して頷いたり、何でもない出来事が楽しい思い出に変わっていく。

 この一週間、登校のときも下校のときも歩く時間がもったいないとしか思っていなかったのに、友達と一緒だと本当にあっという間に駅に着いてしまう。

 ちょっとでも長く、そう思っても楽しいひと時は時間が濃縮されているんじゃないかと感じられるくらいに足早に過ぎていく。

 真希さんと私の電車は、丁度真逆の方向だったし、それはそれで仕方なかったんだけれど―――――

 ちょっとした嘘を私は吐いてしまうことになる。それは本当にどうでも良い、あとでちょっとだけ母にお小言を言われるくらいの嘘。

 私の家も同じ方向という、本当にどうでも良い嘘でほんのちょっとの時間、ゆらゆらと電車の中でもおしゃべりに華を咲かせた。

 見たことの無い景色が流れているのなんてそのときは見向きもせず、真っ直ぐに覗き込むような視線に答えることが楽しかった。

 それでも10分程度ですぐにお別れの時間がやってくる。さすがに降り口まで一緒と言うのは気が引けたので、閉まるドアに注意しつつ名残惜しく思いながら真希さんに手を振った。

 ちょっと寂しさが顔に出たのか自分ではわからなかったけれど、にこやかに姿か見えなくなるまで手を振ってくれた彼女の姿が嬉しくて、明日からの学校生活が何倍も楽しみで、早く明日にならないかと遠足前の子供のようなことを考えてしまう。

 もう夜の比率が高くなった夕暮れが寂しげに見える、何だかそれは自分の心の中を映しているようで人目も気にせず小さく苦笑いが漏れてしまった。



* 電車の揺れる音と足早に駆け抜けていく景色が、こんなにも優しく感じられるなんて。



 がたんごとんと電車に揺られながら、手すりに背中の体重を預けつつケータイをパカっと開く。混んでいない電車でも座らずに立っていたほうが楽なのはいつものことだ。

 別段退屈でもないけれど、何があるわけでもないのにケータイを開いて、適当にゲームやらネットやらで時間を潰すのもいつものこと。

 今日はどっちも気分じゃなかったので、開いたケータイのメニュー画面からデータフォルダへ。そこから懐かしいファイルを展開させてみることにした。

 たまにこうやって見たくなってしまう友達になった日の夕焼けの中で撮った写真。今みるとかなりぎこちない表情の私とすごく恥ずかしそうな表情の真希の精一杯の笑顔が心をくすぐってくれる。

 何時みても何度みてもニヤけてしまうのは死ぬまで治らない気がするけれど、それはそれでよし。あの日のあの出来事がどれだけ良い思い出だったか忘れていないことに他ならない。

 ……そういえば、初めて真希に怒られたのもあの直後だった。バカ正直に帰る方向が実は逆だったと告白したびっくりするほど真面目に怒られたのを覚えている。

 親が心配するだろう、私のために迷惑なんて掛けたくないよ、そんな感じでかなりこっ酷く叱られたのは今でも記憶に鮮明すぎる。

 ちゃんと私が謝って事なきを得たが、曲がったことには結構厳しい子だと涙目になるほど身にしみて感じたのだった。

 それ以来、冗談を言って笑い合える仲ではあるけれど、悪いことはしないようにしようと心に刻んでおいている。

 まあ、それを差し引いてあれから私たちの関係は良好そのもので、今では唯一無二の親友と胸を張って言えるほどだと自負している。

 グッと頭を上げて外に視線を移すとがたんごとんと揺れる電車の窓から見える景色が、どんどん目的地に近いことを教えてくれていた。

 退院して暫くは毎日通うのが日課になっていた真希の家への電車も、金銭面と時間の関係、それと真希の家族への配慮から少しずつ少なくなっていた。

 真希もそれは了承してくれていたし、やっぱり寂しくはあったけれど、心のどこかで安心というと大袈裟な感情があったのも事実ではある。

 毎日会いたくはあるけれど、僅かずつでも疲れと言うかなんというか、そういうものも溜まっていくのが否定しにくい自分が悲しい。


「次は―――駅、―――駅、お降りのお客様は――――――」


 がたんごとんと揺れる電車が一際大きくがたんと揺れ、流れる風景の速度を落とし始める。もうすぐ目的の駅に到着する。

 荷物はバッチリ、忘れ物は無し。ゆっくりと身体に掛かる重力に備えるために体重をちょっとだけ反対方向に移す。

 さて、今日も真希との楽しいひと時に向けて出発だ。よっこらせと荷物を担いで開くドアにご注意をっと。


 駅からほんの10分も無い道をてくてくてくと歩くのにも慣れすぎるほど慣れた。午後の早い時間ということもあって行き交う人も多くない。

 射し込む日差しもこの道を通い始めたころよりずっと柔らかく穏やかなもの。歩く回数が増えると自然と見知った顔も増えてくると言うもの。

 通りの掃除をするおばあちゃんにいつも散歩しているおじいさん、わんわん吠えるわんこ。いつの間にか笑顔で挨拶するようになってしまっている。

 そういう交流も私としては大歓迎だったりするので、真希には感謝しなければならないところかもしれない。

 似た様な建物が並ぶ中でも、ちゃんとそれぞれの家庭にちゃんと色があるのも分かって面白かったり。

 ガーデニングというのだろうか、木々や草花の感じに庭に置いてあるおもちゃやら何やらが幸せそうな家庭を物語っているようで微笑ましくなる。

 表札ひとつにしてもそう。ドーンと黒光りした石の重厚で威厳のあるお父さんが居を構えているような家、ずしっと年季の入った木材の歴史的に重みのありそうなお年寄りが隠居していそうな家、パッとポップでかわいらしい家族全員の名前が入った表札の家。

 どの家にもそれぞれの物語がありそうで、それを考えながら歩くだけでも退屈せずには済む。

 ……………『退屈する』。退屈と言う言葉が脳裏を過ぎるようになったのはいつからだっただろうか。

 最近はこんなことが頭を掠めるたびに自己否定して、そのたびに自己嫌悪を抱いたりしている。退屈なんかじゃ絶対に無い。

 青く突き抜ける空も、ふわふわ漂う雲も、肌を撫でる風もこんなにも心地よい。だから退屈だなんて感じているわけが無いんだ。

 そんな自分との些細な葛藤をする時間はあっけなく終わりを告げる。ほら、もう楽しみにしていた真希の家が目と鼻の先だ。

 今日も真希は元気だといいな。


 ここに立ち並ぶ家に比べて1ランクくらい立派な門構えの家のインターホンに躊躇なく手を伸ばす。昔はこの立派さにこの指が止まったものだった。

 立派と言っても豪邸というわけではなく、ちょっと立派という程度だったけれど、それでも私が躊躇うには十二分なほどの豪華さはあった。

 戸惑っている様子を家の中から見ていた真希が笑顔で出迎えてくれる、そんなことも今となっては懐かしい限りだ。

 ぴんぽーんと軽やかな音が家の中から聞こえてくると同時に、殆ど時間を置くことなくインターホンから聞こえてくるのは彼女の母の声だった。


「はい。どちらさまでしょうか?」

「こんにちわー。お見舞いに来ました、美奈です」

「あら美奈ちゃん。真希ーーー!!!! 美奈ちゃん来たわよー!!!! どうぞ、開いてますから」

「はーい、お邪魔します」


 特に施錠されているわけでもない外玄関の扉はドアノブを回して押すと簡単に私を受け入れてくれた。インターホンを押さなくても良いと言われているけれど、さすがにそれは気が引けるので今でもちゃんと段階を踏むことにしている。

 綺麗に手入れされた草花が彼女の母親の几帳面さをそのまま投影しているかのようだ。

 しかしインターホン越しのやり取りは何度聞いても、受話器を置かずに真希を呼ぶ姿が想像できて笑い出しそうになる。

 真希を呼ぶ声がインターホンからも直接中からも聞こえてくるのは何だかやまびこみたいだ。

 昔ならドアの前で立ち止まり、真希が開けてくれるのを待ったものだけれど今はあの頃よりも良い意味で遠慮も無いし、それにやっぱり出てきてもらうのは気が引ける。

 あんまり時間を掛けてしまうと真希が無理をして玄関まで出てき兼ねないことも知っているので、ここはささっと迅速行動が吉。うちの玄関とは重さに雲泥の差がある扉をカラカラと開け放つ。


「お邪魔しまーす」

「いらっしゃい、美奈ちゃん。どうぞ、あがってー」

「おっはよー、真希。お邪魔します。真希の家なんだから、部屋ででーんと待っていてくれればいいのにー」


 ドアを開けるとちょうど真希が部屋のほうから車椅子を漕いで出てきているところだった。私がゆっくりしすぎたのか真希がテキパキしすぎなのか……………。

 痛々しくさえ思えた真希が車椅子を漕ぐ姿が、見慣れてしまったのか「自然なもの」に見えてしまう。それでも可哀相と思うよりは、よっぽど良いことだといろいろ調べてちゃんと知識として持っている。だから私はこれでいいんだと納得させた。


「いえいえ、折角遊びに来ていただいているのに待っているだけじゃあ何だか落ち着きませんので。お部屋へどうぞ」

「はーい。あ、真希のお母さんこんにちわー。お邪魔しますー」

「はい、いらっしゃい。いつも来てくれてありがとうね。お茶とお菓子持って行くからゆっくりしていくと良いわよー」

「わーい。こちらこそいっつもありがとうございますー。今日もお茶とお菓子楽しみですっ!」

「ふふふ、そう言われるとおばさんも嬉しいわー。じゃああとで部屋に持っていくからー」

「ありがとう、母さん。ではお部屋にどうぞ」

「はーい。おばさんありがとうございまーす」


 すたすたすたと嬉しそうに台所のほうへと消えていく真希のお母さんにぺこりとお辞儀をし、真希の後をついて部屋へと向かう。

 彼女の後ろを歩きはしても私は彼女の車椅子を押すことはしない。前に数度、車椅子を押そうかと聞いたときにことごとく断られて以来、押すこともそうしようとすることもやめていた。

 彼女が自立して、自分の力で前に進むというのなら私が下手に手を添えるより、見守るくらいが丁度良いのだろう。

 手を差し伸べて欲しければ私たちの仲だ、ちゃんと言ってくれると信じている。


「どうぞー。ちょっとだけ散らかっているけど。家にばっかりいると散らかっちゃうんですよねー」

「まーたまたー。初めて来たときも同じようなこと言ってたけど全然綺麗だったもんねー」

「ふふふ。美奈さんも同じことを言っていたのに、部屋綺麗でしたよねー、遊びに行ったときに」

「あ、あはは。あれは前の日に必死に片付けたからだったり……………………」


 最後に真希がうちに来たのはいつだったか思い出せそうで思い出せない。ただ、本当に必死に部屋を片付けたのだけは記憶に残っている。

 片付けなんて得意じゃないし、ごったごたに見えて実はどこになにがあるのか分かりやすくしてある―――――みたいな、片付けない理由の代表みたいな理由もあったり。

 また真希が遊びに来ることがあったら、そのときはあのときの1.5倍は苦労することになりそうだ。


「ふふふ、それでもそうやって片付けてくれるのは嬉しい、かな。毎日少しずつ片付けておけば、ね?」

「あはは……お、お邪魔しまーすっ!!!」

「ふふふ、どうぞどうぞ。大したおもてなしもできませんけれど」

「お、おーっ、やっぱり綺麗だ……」


 出来ないことに頷くのは得意じゃないのを行動で示す。真希もそれに気付いてくれたようでニコニコと微笑みを私に投げかけてくれる。

 そしてやっぱり、数日振りだというのに部屋がとんでもなく綺麗だ。確認したわけじゃないけれど、塵ひとつ落ちていないというのはこういう状態を言うのだろう。

 車椅子だっていうのに、手の届く範囲は軒並み整理整頓されているのは頭が下がる。私なんて五体満足でも部屋が散らかるのに。


「お友達が来るんですから当然のことです。どうぞ、お好きな場所にお掛けくださいな」

「ほーい、ありがとー。んじゃまあ、よっこらせっと」


 ちょっと行儀が悪いと知りつつ、初めて真希の家に来たときからの定位置、ベッドの上に腰を下ろす。当初はちょっと苦い顔をしていた真希も慣れたものだ。

 決して広いと言えない部屋の中を車椅子で苦もなさそうに動き回る真希の姿も慣れたもの。


「掛け声がなんだか年相応じゃありませんよ……そういうところもらしさといえばらしさですけれどね、ふふふ」

「あはは、細かいことは気にしなーい」

「ふふふ、そうですね。今日は何か楽しいこと、ありました? いつもより時間が早いですけれど」


 車椅子を漕ぎ、いつもの場所に車椅子を進めながらにこやかにだけれど鋭い視線を投げてきてくれているのが分かる。笑顔を絶やさずに向けられる訝しげな視線。どこが引っかかっているのか想像に難くない。

 だからそれにはきちんと応えておく必要がある。


「あーっとね、今日は午後から先生たちの会議みたいなのがあるっぽくて午前中で終わりだよ。心配しなくてもサボって来たわけじゃないからー」

「あら、見透かされているんですね。こんなに早い時間に来ていただけるなんて珍しいですからね」

「うん。直接来たからねー、見て分かるとおり。帰る時間が勿体無いし」

「それなら良いですけれど……ちゃんと親御さんに連絡してからにしないといけませんよ?」

「だいじょーぶ。ちゃんとメールしてるから問題なーし。そんなことより―――――――」


 言いかけた言葉がノックの音で遮られる。コンコンと優しく軽いノックが2回、いつものタイミングでいつもの音が聞こえてくる。

 真希が小さく了承の言葉を返すか返さないかのうちに扉が開くのもいつものことだ。


「真希、入るわよ。今日はお取り寄せスイーツよー。たくさんあるからおかわりしてくれると助かるわー」

「わーっ! ありがとうございますー。美味しそう!!!」

「母さんはいつも買いすぎますからね。美奈ちゃん、たくさん食べてくださいね、ふふふ」


 テーブルにやたらめったら良い香りの紅茶と、テレビか何かで見たことがあるようなロールケーキが並べられていく。美味しそうだけれどクリームが多くてパンチのありそうなロールケーキだ。

 1個だけでお腹いっぱいご馳走様になりそうなボリュームに見えて仕方ない。


「そんなにいっぱい食べられるかなー……でも頂きますっ!」

「食べてくれると嬉しいわー。お茶のおかわりも遠慮なく言って頂戴ね」

「はーい、お言葉に甘えちゃいますね。真希もたくさん食べるんだよー」

「ふふふ、夕飯に差支えが出ないほどにはたくさん頂きますよ」

「それじゃあ母さんは茶の間に居るから何かあったら呼んで。ごゆっくりどうぞ」

「はーい。ありがとうございますー」


 お盆を両手で抱えて部屋を出る真希のお母さん。真希の母親だけあって、どことなく上品さのなかにかわいらしさが見て取れる。

 そしてテーブルに並べられた紅茶から立ち込める柔らかい良い香り。私が淹れるよりもずっと紅茶の香りが引き出されているように感じられた。

 にこにこと笑顔で「お先にどうぞ?」と訴えかけてくる真希に甘えてお先に紅茶をひとくち。


「おっ、おーっ……なんか花みたいな香りがするよ? すっごーい」

「そういえば新しい紅茶を手に入れたと母が言っていましたね…………これは、レディグレイという紅茶だと思います」

「ひとくち飲んだだけで分かっちゃうの!!? 真希すっごーい!!! 私なんて美味しいか美味しくないかくらいしかわかんないのに」

「ふふふ、実は母から買った紅茶の種類聴いていましたので。私も美味しいか美味しくないかくらいしかわかりませんよ。一番好きなのは美奈ちゃんが淹れてくれた紅茶だけどね」

「なーんだ、真希の隠れた特技かと思ったのにー。私の紅茶なんて本見ながら淹れるだけだからなぁ」

「そうであったとしても、私は美奈ちゃんが淹れた紅茶が一番好きなんだよね」


 本心なのか社交辞令なのかわからないけれど、真希にそんなことを言われるとどっちであってもついつい笑顔がこぼれてしまう。

 そういえば真希の家に通うようになってから久しく紅茶なんて淹れて持ってきてなかった。病院に居た頃は毎回のように持って行っていたのに。

 お見舞いというか遊びに来れば毎回のようにお茶を出してもらえるから当然と言えば当然だけれど、それを「しようともしなくなっていた」自分が居ることも事実。何だか自分が嫌になる。


「よしっ、次は私が淹れてくる……台所借りて私が淹れようかな!!! 紅茶の葉っぱ持ってくる!!」

「催促したつもりはありませんが、それは嬉しいですね。嬉しいのでお断りせず、お言葉に甘えさせていただきます」


 建前でも一旦断られるより、すんなり甘えてくれたほうがやっぱり良い気持ちだ。ちゃんと有言実行出来るように家に帰ったらテーブルの上にお茶の葉っぱを出しておこう。


「うんうん……うっ、うまっ!!! ロールケーキうまっ!!クリームたっぷりなのに甘すぎない!!!」

「本当ですね……さっぱりしていてしつこくない…………これは危険です」

「ごくり……ついつい食べ過ぎて、体重計という恐怖が…………」

「行きはよいよい帰りは怖い、ですね。それでは食べ過ぎないように、お勉強しながら食べましょうか」

「そうする? 食べながらのほうが落ち着いて出来るしそうしよっか」


 お見舞いとおしゃべりの他に私が真希のところに足しげく通っている理由の1つがお勉強会だったりする。まだまだ登校出来そうも無いということでノートを見ながら彼女にささっと説明する。

 基本的に丸写しせずに範囲だけ照らし合わせて自分で解いてみて、答えあわせと分からなかったところの参考というスタイルが真希流だ。


「今日は……っていうか、今日までで進んだのはーっと…………」

「私も教科書とノート用意しますね。一応予想だけ立てて進めておいてみましたけど、やっぱり独学だと分からないところもありますねー」

「いやいやいや、私なんて独学で勉強しようなんて思わないから。真希はがんばりやさんだなぁ…………」

「ふふふ、嫌いじゃないだけですよ、勉強することが」


 とりあえずフォークを置き、バッグから教科書とノートを取り出す。教科書もノートも人並み以上に使用感が目立っているけれど、それがかえって誇らしい。

 ちゃんと真希に聞かれたら答えられるようになりたい、その一心でちゃんとノートも取るし、予習復習もするようになった。

 今や彼女のおかげで成績もかなり上のほうになっていたり。彼女のためのつもりがいつの間にか自分のためになっていた。


「んーとね、ここからここまでかな。とりあえず英語からね。何か重要なところらしくて、何回も反復授業してるからそんなに進んでないよ」

「むむむ、予習してみたらちんぷんかんぷんだったところです。ちょっとノート、見せてもらいますね」

「うんうん。えーっと、ノートだとこの辺りかな? いつものことだけど、字汚くて読めないところは聞いてね」



* パラパラと開いたノートを見つめると、ちゃんとそのときの光景が目の前に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ