第一章 02. 落花
地に落ちる木洩れ日が切り絵のようだと思うのは、私だけなのだろうか。
木々の青葉は地に濃く影を落とす。紺や黒の影が重なるその光景を、切り絵と言わずなんと表すのだろう?
空を見上げた。春だ。ぼやけた色合いの空はまるで私の着ているワンピースのようで、愛らしい青。まだ午前中のはずだが、日差しはもう強く、私は眼を細めた。
………さっき声が聴こえたのは幻聴だ。
そう結論づけると、私は屋敷に取って返した。
だってそうでしょうどうしてこんな真昼間から知らない人間の声がこの屋敷の敷地内で聞こえなければならない。門は閉まっているはずだし、庭園を囲むように茨棘線みたいな柵がはりめぐらされている。侵入者がいたら使用人にフルボッコだし。
ていうか白昼夢にしたって怖過ぎるけどねあんな文句! なんなんだ不思議の国って! しかも片道切符かよ!
ひとしきり脳内で突っ込んでから、私はふと思い出した。いや、思い出した、というほど鮮明にではない。けれど、肋骨が鳥籠のように守る胸の奥が、きゅうっと絞まるように感じた。同時に浮かんだのは、とても懐かしい、茫洋とした記憶か空想かわからないほどの思想の欠片だった。
―――――アリス、お母さんはね、昔、不思議の国へ行ったことがあるのよ。
―――――ふしぎのくに?
―――――そう。不思議な国よ、とても。
―――――どうして?
―――――さあ……気が付いたら、落ちてしまっていたの。………でも、もしかしたら、何か必然だったのかもね………。
―――――ひつぜん?
―――――いいえ、なんでもないわ。理由があったのかも、ということよ。
―――――どんなところだったの? おかしはあった? くまさんやうさぎさんはいた?
―――――くまさんはいなかったわ。でも、うさぎさんならいたわよ。真っ白で、とても綺麗な紅い目をしたうさぎさん。ねこさんもいたの。とても変わった、ピンクでパンクなにゃんこさん。他にもたくさんの人がいたわ。とても誇り高く格好良かった女王様や、気まぐれな芋虫さん、見分けがつかないくらい似ている双子の兄弟、ちょっと変わってたけど優しい帽子屋さんに、人みしりのうさぎさん第二弾。そうして、あとは――――――――………
視界が不意に滲んだ。金色の日差しが世界を覆い、私は目元に手をやる。
胸が苦しい。
ノスタルジックな疼痛が、身体の中心をひっかきまわす。嫌だ、嫌だ、思い出したくない。忘れろ、別のことを考えろ。そうだ、家に戻ったら姉にこの服を返して、掃除をしなければ。大分暖炉の埃がたまっていたはずだ。あとは裏庭の野いちごの様子を見に行って、それから、
どうしても視界が滲んでぼやけていく。奥歯を噛み締めるとじんわりと熱を持った痛みが顎に走る。
瞼の上に、ふるふると震える滴がたまっているのが分かった。
泣いてはいけない。
私はぐいと、青いワンピースの袖で目をこすり、屋敷へ目を向けた。さあ、働かなければ。
天を仰ぎ、まるで昼下がりのようなあたたかな空気に、私は伸びをした。
「ちっ、遅刻だ、遅刻!」
どこの少女漫画だ。
背後から響いた声に、つい反射的に突っ込んだ私は振り返った瞬間、振り返ったことを後悔した。
関係ないが、普通女性は、距離感や方角を掴むのが男性よりも苦手らしい。地図で目的地と道順を確認するときも、例えば男性は「南に五百mくらいかな」などとあたりをつけて、女性は「パン屋の角を曲がって五軒目」などと物や建物を目印にすることが多いそうだ。
何故こんな全然全くとことん隅から隅まで関係ない話をしたか、それは私の頭が一重に混乱状態にあるからに違いない。
焼却炉のある方向に顔を向けた私が目にしたものは、正確に言うなら私の位置から前方十メートルほどの直線を、銀髪の燕尾服の人間が駆け抜けていった姿だった。
おまけにその人間の頭部の両脇に、白い柔らかそうな獣耳が垂れていたとなれば。
これはもう、一体どんな白昼夢だ。
「………なんかのイベントかしら」
そんなわけはない。だったら何故人気のない住宅街しかも個人宅敷地内を全力疾走する必要がある、宣伝文句が書かれたプラカード持ってるんならまだしも。
えーと。
うん、無視だ。
私はあんなのには気がつかなかった。
如何にも会議に遅れそうなサラリーマンの如き―――無性に追いかけたくなるような雰囲気をまとい、彼は走っていたが、唐突に、革靴でブレーキをかける。逸らしかけた視線を思わず固定してしまい、その男―――年齢は少年と青年の合間くらいだろうか、彼と向かい合うかたちで立ち止まってしまう。
正直驚いた。銀髪だったからか、どことなく年齢のいった人物像を描いていたのだが、かの侵入者は若い、それもまだ十代でありそうだったのだ。
その目線がこちらに向けられ、一瞬だけ微笑んだような気がした。
――――おいで
声は出さず、唇だけを動かして、彼が言った。
そして、その獣耳――恐らくは兎の類――の青年らしき人は、私の背丈ほどもある繁みに躊躇無くダイヴした。って、待て。
後を追うように私は茂みに駆け寄る、みずみずしげに繁る若葉が鬱蒼としていて、よく見ればトンネルのように小さな隙間が、小路の体を成す茂みは、私がやっと通れるほどの大きさだった。覗き込み、頬に当たる葉の形から、バラ科の植物なことを確認する。え? あの人ここ通っていったの? この小さな隙間を? 小学生でもやらないぞこんなこと。
私は一旦トンネルから頭を出し、腕を組む。
さて。
こっからどうしよう?
私は、半袖の所為で若干枝葉で傷の付く腕を庇うように、身体を縮めてもういちど繁みの隙間を覗きこんだ。懐かしい。小さな頃、よくこうやって遊んだな。
先に入っていったウサ耳青年の姿はもう見えない。っていうかあいつ一体なんなの。変態か。変態なのか? ああそうか今は春だからかなるほど。
まあああいう痛い人は放っておこう。どうやって敷地内に入ったのかは分からないけれど、屋敷の使用人は男一人見逃すほど愚かじゃない。ヒステリックな義母のおかげで、皆鍛えられているのだ。少しでもネズミやGを見逃せば、速攻でクビが飛ぶ。
それにしても、まるで不思議の国のアリスのよう。私がアリスだとは到底思わないが、小灌木の中は鳥籠のように枝葉がやわらかく空間を模って、とても居心地がよさそうだ。入ってみたいけれど、姉から借りた衣服のままではそれはできない。私は息をひとつつくと、立ち上がった。さあ、掃除をしなくては――――――――
「アっ、アリス! どうして追いかけてきてくれないんですか!」
なんで戻ってきた侵入者っていうかどうしてもこうしてもねーよどうしててめえを追いかけなくちゃなんねーんだ! と脳内で突っ込みながら私は光速で振り返る、後方五メートルの地点には、両膝に手を当て荒い息をつくウサ耳変態男。
「ぎゃっ……きゃああああああああああああああ!」
「最初『ぎゃああああ!』って叫ぼうとしましたよね貴女!?」
「あっ、アルヴィンさん! セシリアさん! バークリーさ……むっ!?」
仲の良い使用人たちの名前を手当たり次第叫ぼうとした瞬間、長い腕が伸びて、白手袋をはめた手で私の口を塞ぐ。
なにこれ、どうして!? ひょっとして、強盗………
そう思った途端、手が離れた。叫ぼうとした唇に、今度は長い人差し指が一本、あてがわれる。
叫ぼうとした声を呑み込む、逆上されたらたまったものではない。こういう物腰柔らかな人間に限って怒ると怖いのだ。私は恐る恐る、刺激しないように彼を見上げた。逆光でよく顔は分からない、だが、口もとの表情の変化は分かった。
わずかに青年が微笑む。その笑顔の殺傷能力の高さったらなかった。もしも私が普通の女子高生だったなら一瞬で撃沈されていただろう。
だがあいにく私は普通の女子高生ではない。悲しいけどない。ないったらない。何かを呟こうと薄く開かれた唇を注視し、何を言われたのかと理解しようとした。
彼は無言のまま。けれど、曖昧げな微笑を模った唇が囁いたセンテンスは、しっかりと理解できた。
「Take my hand and come with me」
私の手を優しく取った青年は、今度こそ、はっきりとした笑みを浮かべる。
「……え?」
重心が、支えを失う感覚がする。
バランスを喪う感覚がする。
あっという間も無く、私の体は空へ投げ出された。
――――――あ
あ、
墜
ち
て
い
く
現実は脆く終わる。
幻想は儚く始まる。
歯車がゆるく回転し出す。
物語が音を立て動き出す。
『――――――――さぁ、』
『Let's start the tea party that doesn't end.』
―終わらない御茶会を始めよう―
物語の舞台へ、堕ちて逝く。
(さぁアリス、そろそろ兎を追いかけなくちゃ)
Take my hand and come with me・・・「私の手を取って、一緒においで」
です。
上の文型は本当は命令型なんですけど、私は英語が苦手なんですってば!← どうやって誘えばいいの! レッツ? シャル? しらねーよもう!←落ちつけ