第一章 01. 金色の昼下がりに沈没
歯車が軋む。
物語が萌す。
現実が緩やかに崩壊する。
幻想が艶やかに舞い降りる。
――服にだって心にだって庭にだって穴はあくものよ。
(さあいらっしゃい、「アリス」)
アンハッピーバースディ、私。
私はそう心中で呟きながら、おままごとのような量の食事を胃におさめた。
フランスパンのように固いパンがひときれと、水みたいに薄いスープが罅割れたマグカップに一杯。今日は良い方だ。何せスープに具が入っているのだから。どろどろに溶けた、僅かな味を持つ何か。恐らく傷みかけた玉ねぎだろう、台所の方からそういう趣旨の声が聞こえてきた。
私は母と血が繋がっていない。だからこんな仕打ちを受けるのだろう。
そう納得してしまうにはどうしても理不尽過ぎる人生だが、そう思って諦めるしか、精神の均衡を保つ方法はない。
愛して欲しかった。
可愛げがなくても、にっこり微笑めなくても、気の利いたことを云えなくても、私はちゃんとあなたを慕います。軽蔑なんてしません、反抗もしません。私を引き取ってくれたあなたに感謝してます。一生懸命働きます、なのにどうして、愛してくれないのですか?
そう呟いて涙を零した日々は過ぎ去った。一昨年、十三回の誕生日に、私は悟った。
義母が私を嫌うことに理由などないのだと、
私と彼女は相性が悪かっただけなのだと、
「レモンティーとミルクの組み合わせね。成分分離は自明の理だわ」
そう自嘲的に呟いてみせれば、自然と口角も上がる。
「アリス、アリス! ちょっと、聴いてるの!」
怒らないでお義母さん。
怒鳴ると耳がキンキンするの。ちょっとは私にやさしくして、ちゃんと聞いてるから。
お義母さんが大変だってわかってるから、がんばってるのにだれにも褒めてもらえなくて、それがつらくって私にあたるしかないのわかってるから
優しくするから、優しくして。
ちょっとでいいから好きになって。
好きになって。
くだらないわ。
「アリス!! 」
絶叫と同時に、私は椅子から床に転がり落ちた。
体の下敷きになった右腕が痺れているけれど、身を起こせば、生理的な現象で霞む視界には鬼のような形相の義母が立っていた。
「耳も聴こえないの!? 全く、本当に使えないわね! リデル家の養女として引き取ってやったのになんてこと!」
私はあなたに引き取ってもらった覚えは無い、あなたが勝手に、自分の優しさをアピールするために、可哀想な孤児を引き取っただけ。そうよ、どうして今まで気がつかなかったの、アリス。現実を直視しないで、義母が自分を痛めつける理由を無理やりにこじつけていたツケ。
痛みで意識が朦朧とする、私はつい顔をしかめてしまい、義母はそれを見て更に眉を吊り上げた。
「さっさと片付けなさい! それが終わったら、そうね」
先程のヒステリックな金切り声の雰囲気も抜けないままに、義母は台所にとって返し、まだ立ち上がれずにいる私のところへ、何かを持って戻ってきた。
「これを裏庭の焼却炉に捨てておいで。そんな汚らしい格好で行くんじゃないよ、あんたは曲がりなりにもリデル家の人間なんだから」
怖気が走るけどね、と口汚く言い捨て、義母は私の前から歩き去った。どうせ行き先は寝室だろう。
私は目の前にぶちまけられた物体を緩慢な動作で見る。
生ゴミだ。しかも、かなりの量。数週間分はある。これを全て、私に始末させるためだけにとっておいたのだろうか。
いや、そんなことを義母がするはずかない。私のことなんて普段忘れ去ったように振舞っている彼女は、ゴミが溜まっているのを発見して、ついでにと思っただけなのだろう。
私はゆっくりと立ち上がると、それをかき集めて、汚れた手で袋に詰めた。
「アリス」
呼び声が聴こえた気がして、私は振り向く。
リデル家の屋敷の廊下は長い。両側に様々な衣装を凝らした扉があり、それぞれが使用人も含めた個人に与えられている。私は屋根裏部屋で寝泊まりしているけれど。
どの扉からの呼び声だろうと思って、誰もいない廊下を見渡すと、左側のオークの扉が一つ、きしりと小さな音を立てて細く開いた。「アリス」
白くしなやかな手が隙間から覗き、手招きする。
ゴミを廊下の壁にもたれかけさせるように置き、私は細く開いた扉の中を覗き込んだ。
「母さんにまた殴られたの? 可哀想に、ごめんね、今すぐ手当てを」
「大丈夫、ロリーナ姉さん。傷にはなっていないわ」
私は扉の隙間から、今にも泣きそうな表情でこちらを見遣る一歳年上の義姉に、笑顔を作って見せた。
義母はまったく虐待に長けていて、上手に体の表面に傷が残らないように私を甚振る。その手際は見事としかいいようがない。表向きには、「可哀想な孤児を心優しく引き取って世話をしてあげている良家の貴婦人」を演じている義母にとって、私の体に虐待の痕を残すなんてことは、名誉に関わる事態だからだ。
「でも……」
「今からゴミを捨てに行くの。大丈夫、すぐだし、軽いから」
嘘だ。本当は重い。
でも、私を心配してくれる義姉のロリーナの想いに比べれば、軽い。
「だったら服を着替えなくては。待って、アリスに似合う服を今、探すから」
戻ってきたら姉さんの部屋に来てね、絶対よ、と泣きそうな声で言いながら、ロリーナは私に、扉の隙間からこっそりと手招きした。「ここで着替えるでしょう?」
「ありがとう、姉さん。でも」
「お母さんなら今日はいないわ。さっき出掛けていったもの」
さあ、早く、という姉の手招きにつられ、私は暖かなその部屋に足を踏み入れた。
血の繋がっていないはずの義姉は、何故か私にとても優しい。
自らの母が、私を虐待している様子を見て、良心の呵責に苛まれたのかと思ったが、どうも違う。私が引き取られて最初の数カ月、義母もまだ私を対等に人間として扱っていてくれた頃から既に、彼女は私に無償の愛を向けてくれていた。
彼女の親切が、優越感と表裏一体の同情心から出た優しさでないことが、私にとって、彼女を尊敬する一因になっていたことは明白だった。
長い金髪は、私の髪とは違い綺麗に整えられていて、優雅に巻いている。あちこちはねる私の髪とは大違いだ。櫛もろくに通させてもらえないこんな髪と較べるのはおかしいだろうけれど、それでも、思わず。
姉ほど容姿が優美で、理想的な淑女であったなら……あるいは血が繋がっていなくとも、義母は、私を。
くだらない。まだそんなことを考えてるの?
私は頭を振ってその考えを追い出すと、優しい姉さんに向かってせいいっぱいの微笑みを浮かべてみせた。白いエプロンスカートが翻る。
「行ってきます、姉さん」
大理石の敷き詰められた玄関を小走りに出ると、眩しい昼の光が目を射った。綺麗に手入れされた林檎の樹冠が、淡い早緑の繁みに影を落とす。絹糸のように梢から差し込む金色の陽光がとてもうつくしくて、私は眼を細めた。
裏庭にある焼却炉はアンティークな雰囲気のある大きなものだ。緑がかった銅色の体にはつる草のような彫刻が施されている。
苦労して重い扉を開ければ、人一人を余裕で呑み込んでしまいそうな暗い焼却炉の入り口がひらく。それを見て、ふと、このままこの中に入って燃えてしまえば、楽になれるのではないかと思った。
胎児に戻ったように身を縮めて、安らぐ暗がりの中で、死んでいけるのなら、それもいいかもしれない。
火葬場から出てきた骨はきっと熱いのだろう。だけど直接手にした事はなくて。死後の温度を私は知らない。身を灼く痛みをまだ知らない。
だからそんなことは妄想に過ぎない。現実の私にそんなことが出来る筈は無いのだから、この姉さんから借りた服も返さなくては。止まっていた手を動かし、微かな悪臭を放つ生ごみを中に放る。そうよ、こんなもの入れた中で眠れるわけないじゃない。
私は踵を返し、焼却炉へ背を向けた。
愛なんてなくても生きていけるのよ(アイがなければ生きていないのよ)
この葉が風にざわめいた瞬間、声が聴こえた気がした。
「ああ君、不思議の世界に堕ちてみないかい? ただし片道切符だけどね(戻る道はもう無い もう無い)」