第一章 17. 春は狂いの季節にて
ぼくにあなたを愛させていただきたく候。
……あれ。なんか違うかも。
アリス、ああ、アリス。今のがきっと春風だよ。
ああ、なんて美しい三月!
( とっておきのミルクティ抱えて、一番にあなたのもとまで会いにいくの! )
”三月兎”と、いう役名なのだそうだ。
「はじめましてアリス! 逢えてすっごくうれしいですアリス! 光栄ですアリス! あ、もーしおくれましたっ、ぼくはマーチ=リトル・ロゼです! えっと、代々服飾とかをやってる家の出でして、いつか”アリス”の衣装をつくるのが夢だったんです!」
バルコニーの下で叫ぶ少年の頬が薔薇いろに輝き、その若草色の瞳がきらきらと潤んでいることはだれの目にも明らかである。私は若干ひきつった笑顔で、とにかく彼の口上に口を挟むべく、「あの……」と声をあげた瞬間、少年が悲鳴……もとい、歓声のようなものをあげた。
「きゃ――――――――っアリスがしゃべった―――――――――っ!」
喋った程度でこれほど騒がれる私は幼児か何かか。
コーヒーで染めたような革の鞄を芝生に放り出してぶんぶん手を振っている少年(当初見たときは少女かと思った。首筋あたりで切り揃えられたボブカットや装飾多めなリボンタイブラウス、愛らしい顔立ちの雰囲気がモロに少女だった)の、太陽に似た明るい金髪の頭部から、ぴこっと淡い杏子色の兎の耳が春の山菜のように生えていた。せわしなく動いているそれが妙にかわいい。
「マーチ=リトル・ロゼ! 早く上がってきなさい、アリスが待っているのですよ!」
と、私の背後から白兎の怒声が聞こえる。フルネームで呼ぶあたり、几帳面というか、神経質な性格のようだ。
「はーい!」
よい子の返事とともに、マーチ少年の姿が消えた。私に宛がわれた部屋のある東側の塔の、直接の玄関から入ってくるらしい。
「いや、あの……」
私が服を着なおしたというのに、扉の外に立ちっぱなしであろう白兎青年を振り返って、言う。「クローゼットに、何枚か着替えはあったんだけど……」「あれは普段着です」「さいですか」
と、いうことは、もしかしたらあれよりももっと着飾ったものを着せられるのだろうか。その姿を想像して、私はうんざりしてバルコニーの手すりにもたれかかった。似合わないこと甚だしいだろう。
「アリースッ!」
扉が勢いよく開かれ、壁に当たって止まった。突然全開された部屋の戸に私が硬直していると、背後で「何勝手にあけてるんですかこのボケウサギ!」と怒鳴る白兎をしり目に、先ほどまで窓の外にいた少年が、背景に光でも背負っていそうなテンションで仁王立ちしていた。
「おまたセントバーナード☆ あのね、とっておきのリボンとレースを使ったの! いっちばん可愛くなるようにつくったから、期待して!」
いえ、いくら衣装が可愛くてもそれを着る人間が可愛くなかったら意味ないのですが。つかうっかり突っ込み忘れたがなんだ前半の挨拶。
ぶんっと思い切りよく振り回されたトランクを床に置き、さっそく留め金を外して蓋をあけるマーチ少年。いや、ちょっと、待ってくれ、まだ色々と準備が。
「あっ、そうだ!」
唐突に顔をあげた彼に、私はびくっと後ずさる。今度はなんだ。
「自己紹介するの忘れてたし! あのね、ぼくね、マーチ=リトル・ロゼ、あ、これはさっき言ったや、そんでね、十四歳、もうすぐ十五歳! 好きなものはお菓子です! 得意なことはお菓子づくりとお洋服づくりです! ”アリス”には初めて逢うの! 逢えて光栄です! あ、よかったらぼくのおうちに遊びにきてね! 正確にはぼくのじゃないけど! クロシェのだけど! あ、クロシェっていうのはね、帽子屋! なんか黒っぽい格好してるから、きっとわかるよ! あのね髪の毛がわかめみたいなの! 面白いよね! 水かけたら増えるかなーって思って水をかけたら真顔で諭されたの! こわいね無表情って!」
あなたの饒舌がこわいです。というか、いつ敬語外れたよお前。
しかしこうも立て板に水でどうして噛まないのだろうか。しかもだんだん声が高くなってきている気がする。このまま喋らせておいたらどうなるのだろうか。超音波になるのだろうか。
「そう、それでね、クロシェにも手伝ってもらってがんばったの! ”Alice”の春のお茶会仕様!」
唐突に話が舵を切って衣装の話に戻ってくる。そうかきてしまったかこの時が、ああ鏡を見て自分の醜態に悶絶するなんて御免だと思いながら、少年が勢い良く持ち上げた服に目を向けた。と、いうか、私は今に至るまで一度も自己紹介すらしていない気がするのだが、そこのところどうなのだろうか。
「はいっ、アリス! はやく着替えてぼくに見せてみてね! きっと、いや絶対似合うから!」
って、着方くらい教えていってください頼む、
と口に出して言う間もなく、少年はひとっ飛びで扉まで移動すると、まだ入り口でぐだぐだ説教を続けている白兎の脇をすり抜けて、ばたむっとドアを閉めた。
沈黙が降りる。
「…………………」
さて。
仕方がないので、虚空をさまよっていた我が右腕をおろし、マーチくんに半ば押しつけられるように渡された衣装と、床に置かれた箱などに目を落とした。
ジョン・テニエルによる挿絵によく似た、質のいいやわらかな布(サテンのような光沢はない。恐らく綿などだろう)をまんべんなく水色に染め上げたワンピースに、レースの海のようなオーガンジーやシフォンのやわらかい素材でできたパニエ。それと繊細な刺繍のドロワーズ――驚くことに、フリルのレース部分の刺繍薔薇が、すべて違う種類のようなのだ――クラシックな清楚さが強いが、釣り鐘型のミディスカートから膝下が覗き、少し露出が多い気がする。白黒の縞模様のニーハイソックスを履くらしいが、さて、私のこの枯れ枝のような足に合うかどうか。どうにも見栄えが悪くなること請け合いだ。
エプロンスカートは下着とは好対照に無地だと早合点して持ち上げたら、ポケットや袖、胸元に、黒いレースやサテンの細いリボン、編み上げ、飾り釦などが随所にあしらわれていて、若干尻込みした。嘘です、ものすごく尻込みした。……いや……衣装負け甚だしいだろ……と引き攣った顔でそれを矯めつ眇めつしていると、扉の外から、「あ――り――す―――」とかくれんぼでもしてるかのようなやけに間延びした呼び声がしたので、「いや、待ってください、まだ着替えてません」と言いながら生成りのシャツを脱ごうとしたら、盛大な音を立てて扉が開いたので、毎日の労働で培われた反射神経をもってして速攻でシャツを羽織る。
飛び込んできた少年は、開きっぱなしの扉もそのままに、ボーイソプラノでまくしたてた。
「遅いしアリス! 何してるのアリス? あ、もしかして着方がわからなかった?」
いや、気後れしてました。もちろん着方も解らないんですが。
「もうっ!」
少年は憤慨したように私の指先からエプロンドレスをむしり取り、ばんっと効果音でもつきそうな勢いでそれを私の前に掲げた。思わず私は両手を降参のように挙げる。
「アリス、これイヤ? このデザイン、だめだった?」
急にうるうるした愛らしい瞳で問いかけてきた彼に、不意を突かれて、「あ、いや、そういうわけでは」と言ってしまったのが間違いだった。
「わ―――――いっ、アリスがボクのデザインを気に入ってくれた――――――っ!」
「煩いですよマーチ=リトル・ロゼ! っていうかあなた何さっきから自由にアリスの部屋に入ってるんですか私だって入りたいのに!」
言質をとったように騒ぎ立てるマーチ君と後半ふざけたことをのたまっている白兎の声に、私は白目を剥きたい気分になった。剥いてもいいだろうか。そしてそのまま倒れこんでもいいだろうか。
テープ状の細いリバーレースで作った花や葉が縫いつけられたエプロンに尻込みしている私に、彼は「いいの! 似合うかどうかなんてアリスが決めることじゃないの! ボクが決めることなの!」と何やらぷんすかし始めたので、腹を括って、それを(紐や飾りに注意しながら)頭からかぶろうとしたら、
「だめ――――っ!」
と思いっきりタックルされて止められた。いいかげんにしろ。私はこんな服の着方はわからんぞ。だって本来羽織ってから後ろで結ぶはずの白いリボンが既に結ばれた状態で固定されてる上に、前掛け部分から垂れ落ちた細いレースが蜘蛛の巣のように絡んでいる。ガーリーと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、はたしてこれがガーリーなのだろうか。
「もー、アリスってばー。……ぼくが着せる?」
上目づかいで問うてきた彼に、思わず言葉に詰まった。
うっかり頷きかけたが、私だって一応女子なのだ、鶏ガラみたいだとはいえ。さすがに、たとえどんなに見た目が女子力抜群な女子でも、十四歳の少年に着付けを手伝ってもらう、というのは、なんというか、羞恥心がというか……
「はいアリス、シャツ脱いで!」
「って問答無用かよ!」
シャツの裾を一気にまくりあげられた。反射的にそれを下ろす。「ちょっ、待ってほんとに、まだこうね、ホラ心の準備というものが」「早くしないとぼくが陛下に首をはねられちゃうのおおおっ!」
ぴょこんぴょこん上下する茶色の耳に、心底困ったようなうるうるおめめで、マーチ少年は私を見上げてきた。う、上目づかいとは、卑怯な……。
「ねーぼくを助けると思って、おねがいっ!」
手を合わせてお願いされてしまった。ああ、確かにあのロザリオ女王陛下、白兎が遅れたときも相当怒り心頭だったからな……時刻に厳しい御方なんだろう。などと思案する。
まあ、私なんぞ、そこらへんの案山子と一緒である。素っ裸で繁華街を踊り歩いていても大丈夫だろうから、変に恥じらう方がおかしいだろう。私は素直にシャツの裾に手をかけ、それを脱いだ。
「………っ、」
マーチくんが一瞬ことばを詰まらせる。どうしたのだろう、そんなに私の体は貧相だったか、と思いながら、下着のみの体に目を落とす。
「………ああ、」
思わず頷いた。「いや、これは母がヒステリックな人でね。そんなに気にしないで、見た目が酷く見えるだけで全然痛くないし」
嘘だった。
でも、彼は大きく頭を振ると、「そだねっ! アリス、肌白いから目立っちゃうだけだよねっ!」と、心なしか固い声音で言い、堅そうで尚且つ高そうな、蔓草の刺繍が入った編み上げタイプのコルセットを取り出した。「ちょっと、…細いかな」と言いながら、私の背後に回って手早くそれを編み上げていく。申し訳ない。腹部から腰までの違和感に、私は思わず背筋を伸ばす。
「あー…ちょっとゆるいねー」
残念そうにマーチくんが言った。確かに、そうきつくはない、だが、ティーパーティではあることだし、このくらいの方が楽でいいのでは……と甘えたことを考えていたら、「まあ、逆に細すぎてもだめかっ」と元気よく腰を叩かれたので、「ぐえっ」という音が喉から漏れた。情けない。
「下は――――――えっと、どうしよう。先にワンピース着て、それから寝間着、脱ぐ? そんでパニエ穿く?」
頷いた。何もわからないから、彼の言うとおりにしよう。
するり、と、快い衣擦れの音が、私の耳に響いた。
「………ときに、お前は保護色という言葉を知っているか?」
「今更そんなこと言われてもね」
名前の通りの三日月型の笑みに、クロシェはいつものように嘆息で返す。淡白な表情に隠されている、わずかにしかめられた眉に、リュンヌは更に笑みを深くした。
「保護色なんて小細工に頼んなきゃなんないのは弱い生きモンでしょ。俺はヒエラルキー最上位の百獣の王ですから?」
「お前に鬣らしきものがあるようには見えないんだが」
「知ってる、ライオンってネコ科なんだよ?」
くつくつと喉の奥で笑った紫の青年に、黒髪の音楽家じみた出で立ちの青年―――つまり”チェシャ猫”リュンヌに、”帽子屋”クロシェは、無言で返す。啜った紅茶をちらりと見たリュンヌは、「イングリッシュブレックファースト?」と問うた。
「クロシェ、そんなにブレンドとかしないのに、珍しいねぇ」
にやにやと何が楽しいのか笑っているネコ科の男に、クロシェは沈黙を貫き通す。まともに取り合っても時間の無駄だ。幼い頃からの付き合いでそれは身に染みてわかっている。
「そろそろ十時じゃん。こっから城までどんくらいよ? 早く行かないと首はねられるよ?」
「僕が遅れるのは日常茶飯事だ。ラビより遅刻の回数は多いだろう」
「……明らかに呼び出しの絶対回数はクロシェの方が少ないのに、遅刻の合計回数がクロシェの方が多いっておかしくない? てかすごくない?」
「毎回遅刻しているからな」
「ねえ、ひとつ訊いていい? なんでお前まだ生きてんの?」
問題ない、もう準備はしている、ともう一度紅茶を品よく啜ったクロシェの燕尾服を一瞥し、リュンヌは剥きだしになった細くしなやかな肩をすくめた。パンキッシュな服装は深緑の森という背景に似つかわしくないことこの上ない。
「……そういうお前はどうなんだ? まさかとは思うが、その格好で行くのではないな? それならバックれた方がまだ幾らかマシだからな」
「そこまで言う?」
勿論―――――と、リュンヌは一度、目を伏せ。
ざあっと、一刹那、風が音を浚った。
思わず細めた瞳をまたあけると、目前は無人だった。点を仰げば、屋敷の上にぽっかりと広がった円形の青空に、周囲の木々のどこからか、歌うような声が響いた。
「我らが”Alice”に、最上級の敬愛を以て」
茨で囲まれた城で会いましょう―――――と、声を残して、気配が消えた。
あとには、梢をわたる風の音しかない。クロシェはひとつ溜息をついて、また天を仰いだ。
「…………そろそろ、僕も向かうか」
今日はアリスのティーパーティ。
さて、今回はどのような”Alice in Wonderland”が綴られるのだろうか。




