第一章 16. あなたは博愛のひと
全然話が進まねえ……
どうも、更新怠りまくりだったくせに公立高校受験二週間前を切ったタイミングでまさかの更新という愚者雲井ですやっふい(
三月ウサギは最後まで男か女か迷ってましたが、結局こうなりました。
「それでは、ワタクシ”三月兎”、マーチ=リトル・ロゼは、可愛いかわいい”アリス”サマのいしょーをお届けにっ、今よりハートのお城に向かいますっ!」
右手を元気よく天へ向けて宣誓した少年に、朝靄の立ち込める森から、幾匹もの鳥が飛び立った。さえずりながら空へ上がっていくそれらを一瞬目で追い、簡素なシャツと麻のパンツ姿の男が、深みを帯びた青い瞳を眇めた。
「なお、本日の午後六時までにワタクシが戻らなかった場合はっ、ただちに――――――」
「招待状と証明書は持ったのか?」
「あっ」
肩にかけたオレンジペコのような色合いのポシェットを押さえて、首をかしげる。「部屋に置いてきちゃった」
「だったら今すぐに取って来るというのはどうだろうか」
「ボクよりクロシェの方が屋敷に近い位置にいると思うんだ」
真剣なまなざしで提案してくる少年を見事に流し、どこか憂いを帯びた貴族的な美貌の男―――”帽子屋”、クロシェ=ブランシュ・ド・マッドハッターは、小脇に抱えたテーブルクロスを、マホガニーの長い食卓に掛ける。広げたそれを一回でぴたりと長方形に合わせる技術は目を瞠るものがあった。真っ白に洗濯されたクロスはシーツのようにも見え、長方形の長い一辺に整然と並べられた、背もたれの高い木造りの椅子のひとつにも掛かった。歩み寄り、手早くその部分を戻しながら、「結局ボクが取りに行くことになるんだしー…分かってたしー…」と手を小さな頭の上で組んでぶすくれている少年に、「行く前に、」と手招いた。
「花をなんでもいいから持ってきてくれ。花壇からでも、森からでもいい。ガラスのティーポットに、溢れるように」
ドレスコードを指示するように、彼にしては珍しく手袋をはめていない人差し指を、指揮者のように振る。少年は丸い目でぱちっと一度瞬きすると、途端に笑顔をはじけさせて、「今の季節なら、れんげとクロッカスが最高なんだからっ」と、跳ぶように――――否、本当に跳んで、野いちごの茂みの向こうへ消える。目立つ檸檬色の髪に、純白のリボンタイブラウスがあっという間に見えなくなる。身なりを気にしないわけではない。この付近の灌木、小低木と梢の枝枝の位置を熟知しているのだろう。勿論、野の花の群生地も。
どちらかといえば直線的な睫を伏せると、目元に落ちる影が淡い菫色になる。黒く沈みがちな色だが、艶のある色の奥には、瑠璃や菫がみえかくれする。不思議な色合いと言われる。明確に菫色を語るわけではない。むしろ、色のみを見れば、黒檀の麗々しさが優る。しかし、夜空の色をした底に、一筋、流れるように、別の鮮やかさを持っている。
夜色の帽子屋は、ようやっと晴れてきた朝靄のなかで、淡青の空を見上げた。
今日は、アリスの御茶会、だ。
「ただいまかえりました!」
明るいボーイソプラノと共に、軽やかな音立て、芝に少女的な編みあげブーツが降り立つ。ばねのように揺れた栗色の兎の耳が、ぴんっと勢いよく立つ。右手に握った小花の束をかかげ、髪の毛に絡まった細い蔦にも気付かず、びしっと敬礼のまねごとをした。「隊長、れんげとスイートピーを発見いたしました!」「御苦労」
適当にあしらうと、すぐに花を生ける少年の手によってあっという間にお茶会仕立てとなったテーブルに、クロシェは優雅に座る。
クロシェに云われた通り、ガラスのティーポットから溢れんばかりに摘み取られた、果実のような水紅色のれんげと、蝶々のような淡い金色のスイートピーに、彼は目を向ける。達成感に満ち溢れた表情で、頬を桜色に上気させて立っている少年に、頷いてみせる。そして、
「マーチ。時間は大丈夫なのか?」
小脇に下げた、亜麻色の鞄を指差した。
「みょおおおおうっ!」
五十センチほどその場で跳ぶと、少年――マーチは「早く行ってよお! 陛下は時間にうるさいんだから! ボクの首が飛んだらクロシェのせいなんだからねええええっ!」とかん高い悲鳴を上げながら、一目散に、今度こそ城へ向かうために――森の中へ跳び込んだ。
瞬く間に消えた明るい色彩の少年の姿を見送ると、クロシェは、その端正な顔を伏せて、白磁のティーポットを持ち上げた。
ふと、スラックスのポケットから、乾いた葉ずれのような音がした。微かな違和感に、細い指先で、中のそれを取り出す。
二つ折りにされた白い封筒。開けば、開封された痕跡のある、深紅の蠟印。王国の紋章を模ったそれに、目が吸い寄せられる。
中に指を差し入れ、ばらの匂いをほのかに漂わせる白い便箋を、蝶のように開く。
流麗な、濃紅の筆致。
”Would you come to the tea party for Alice in spring?”
―――――目が醒めた。
頬に当たる上質なクッションの感触。丸めた身体を覆う毛布は、もうこのまま繭のようにくるまったままでいいと思えるくらいふわふわした手触り。はて何故私がこんないいベッドに寝ているのか熟考して数秒後、跳ね起きた。枕もとのベッドサイドテーブルを見る。見覚えのない置時計の指す時刻は六時二十一分。まずい、寝過ごしてる。早く起きて竈に火を入れて、ごみを捨てて―――ああ、今日はごみの日だっけ?――――とにかく、起きなくては。すぐにスプリングの利いたベッドから下り、寝起きで少しぼやけた眼に映るファンシーなクローゼットまで歩み寄る動作の中で、着ている生成りのワンピースの胸釦を外す。…………あれ。
アイアンワークの瀟洒な寝台。ポップコーンのような編み飾りのついた枕に春麻のシーツ。春の空の色をうっすらと引き延ばしたような壁紙には、ボタニカル・アートではなく、少女趣味なテイストの白薔薇模様。アーチ状の窓の外からか、硝子越しの鳥の鳴き声が遠くに聞こえる。
この部屋はなんだっけ、あれ、いつもの屋根裏部屋ではないぞ、どうしてこんな壁が綺麗な空色なのだろう、義母か義父が所用でどこかに養女を連れ出しでもしたのだっけ、それとも―――――
「おはようございますアリス、ってきゃあっ!?」
なんとも女子力の高い悲鳴を上げた闖入者(寝ぼけてて誰かよく分からんが、)に思わず「すみません!」と叫ぶ。違う、ここは”不思議の国”なのだ。義母も屋敷の使用人の方も、いない。忘れていた。ともあれ、なぜ叫ばれたのか分からないのでとりあえず謝っておいたが、私は何をしてしまったのだろう。
「アリス、何をしているんですか!? まさかなんで貴女がそんな、」
「いやあの、すみません、ごめんなさい、私なにかしましたか!?」
「ベッドメイクなんて私がやります! アリスは何もしなくていいんです! でもとりあえず釦は閉めてください!」
「その声、ていうか顔、そうか分かったあなたは昨日の白兎か、確かラビさん」「えっ、ちょっ、認識されてなかったんですか私今まで!?」
朝から一分の隙なく着込んだシャツにベスト、簡素な正装の白髪のウサ耳青年に、慌てて釦を留めながら「昨日はごめんなさい、いやあの、あれは本当に言葉の綾で」「それはそうとアリス、あなたはどうしてそんなに綺麗な髪なんですか!? 寝癖とかつかないんですか!? サラッサラすぎてもう川みたいじゃないですか!」「ちょっとごめんなさいどの辺が!?」「私じつは毎朝三十分かけて髪整えてるんですけど、どうしたらそんなにストレートになれるのか教えていただけませんか!?」「気にしてたんですねわかります、確かにそのカールはすごいなって思ってました!」
いや、落ち着け、私。そして白兎。
深呼吸を二回する。頸動脈から血潮の拍動音が鈍く響いている、冗談じゃない、寿命が縮むじゃないか。私は無意識に左手の薬指を握った。少し汗ばんだ手のひらの感触で、初めて自分の行為を知る。これは小さい頃からの癖だ。教えてもらった、『左手の薬指には、心を落ち着ける神経が通っているの。だから、ここを握ると安心するのよ――――――』
だからそこに、永遠を誓うのよ。
「―――――…!?」
記憶が揺さぶられ、再度鼓動が走り出す。
これは、誰の言葉だ?
「――――――――いえ、あの、」
口から意味のない言葉が滑り出る。口蓋で発した震える声音は息に紛れ、みっともなく掠れた。「すいません、朝から―――というか、昨夜、から、」
身を乗り出しかけた姿勢のまま静止している、白皙の兎青年に、私は頭を下げた。
昨日、昨晩の失言が頭をよぎる。急な言葉。あまりにも唐突すぎるそれに、私が発した拒絶の言葉。彼は傷ついたろう。他意なく、純粋な好意、優しさから出た言葉であったのに、私は取り乱した。
「あの、ゆうべは、」
「あ、気になさらなくて構いませんよ」
すっと、白兎が姿勢を元の直立に戻した。均整の取れたスタイルに、小作りで整った顔が、やわらかく微笑む。いつくしみ。
だれかに、似ている。
「昨夜は、多少私もおかしかったと思います。なぜいきなりあんなことを言ったのか――――貴女を混乱させるだけなのに、」
少し眉尻を下げて呟いた言葉が申し訳なさそうで、私は慌てて否定する。「いえ、あれは本当に私が悪いんです――――あんなによくして頂いて、それでいて、」
「アリス」
名前を呼ばれ、続けるはずだった言葉が喉へ落ちた。
「私は、”白兎”です。
”白兎”は、女王陛下の腹心であり、また、”アリス”を、ここへ導く役割を担っています。したがって、私が”アリス”に、害意を抱くことはありません。
私は、”博愛の白兎”です。だから、貴女を愛するのです」
ごめんなさい、混乱させてしまって―――――と、そう言いながら丁寧に(九十度に)腰を折る。
噛んで含めるような口調は、妙に落ち着いていた。先程の天パ論争はどこへ行ったのか、裏表のありそうな人だ。と、そう考えてしまってから、私は内心かぶりを振った。いけない、私の方が邪心を抱いてどうするのだ。ただでさえ、初めて会ったとき、変質者扱いしたことも詫びたいし、乱暴な言葉遣いをしたことだって詫びたいのに。だけども、私の口からその言葉は出ない。
わずかに拍子抜けしたように、胸部のこわばりが解ける。喪失感にも近い。だが、安堵がそれに勝る。
愛されることは、何より私に足りていないことだろう。異性愛はおろか、家族愛すら満たされない。
飢餓状態の人間が食べ過ぎると死ぬのだ。私は水だけでいい。それだけで、今は幸福だ。
私の沈黙をどう受け取ったのか、青年は微笑を浮かべたまま、踵を返した。「ではアリス、少々お待ちください。まずは着替えて――――」言いながら、なぜか後ろを向いたまま、クローゼットを左手で示す。
「衣装はさきほど届いています。部屋に持ってこさせましょう」
「…あ、ありがとうございます」
吃ってしまった私を意に介することもなく、彼は昨日の変態的なテンションもどこへやらといった風に、至って紳士的な動作で扉のほうへ向かった。
と、そのついでのように足を止めて、なぜか私に背を向けたまま、言った。
「………アリス。私も含めて、男性の前で、そのような格好はあまりよろしくないかと」
私ははっと、そういえば随分寒いなと思っていた胸元を見た。
釦がすべて開いていた。
さすが私、忙しいときに二秒で十個の釦を外せた記録は伊達じゃない。
ってそうじゃない。
下着なんかつけていなかった。
勿論上だけだが。
「うわああああああああああああああああああああ!」
早朝の城の一角で、漆喰の飾り彫りの施された天井に、私の絶叫が反響した。それと同時に、窓の外の鳥がすべて飛び去った。




