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第一章 15. 薔薇色の孤独

 リュンヌは、”アリス”が自分の言葉を聞き、一瞬虚を突かれた表情をした隙を見計らい、音のない回廊の窓へ飛び乗った。日は落ち、紫に棚引く雲が、椿色をわずかに残した山際をいろどる様がよく見えた。自身の腰ほどの高さの桟に右足を乗せ、左足で床を踏み切る。前傾姿勢から一転、宙に投げ出した体を勢いそのままに回転させ、はるか下にも思える中庭へ、塔から落ちるように降る。とさり、と軽い音がして、踏みにじった芝生をちらりと横目で見やり、直ぐに、城を囲う深緑の森へ向けて跳んだ。


 リュンヌはふと自らの右掌に視線を落とした。

 掴んだ手首の細さ、脆さ。彼女(アリス)が少女であるからというだけではないだろう。少女らしいやわらかな感触は無きに等しく、直接骨を掴んでいるようで、正直少し不快感を覚えるほどだった。彼女にではない。彼女の肉体をそういう風にした、何かに。

 青いパフスリーブから顕わになった、細く長い腕。華奢なそれの内側には、二三の、(いろ)が散っていた。

 紫と、黒。脳裏に散る、幾分赤みがかったそれらの色に、リュンヌは目を細めた。


 あの分だと、服に隠れた部分はどうなっているか。


 彼の手を振り払った力の、あまりに頼りないこと。響いた破裂音は、彼の腕に痛みをもたらすこともなかった。あまりに軽い手応えに、一瞬反応できなかったくらいだ。


 女王の手前では、随分果敢だった気もするけど。


 恐らく、傷つけられること、不躾な視線に晒されることに慣れているのだろう。可哀想な”アリス”だ。気まぐれに、いとおしむような憐憫の情が閃く。随分と自分に不似合いな感情だ。口元に皮肉げな笑みを張り付け、自ら華やかな美貌を貶めるようにくつくつと自嘲気味の笑い声をこぼした。


 ―――――――けれど、



 一瞬、自身の眼を射抜いた清冽な青。湖水より澄んだ天の青の瞳。そこに、卑屈さや怯懦、傷から生まれる歪みは、微塵も無かった。不可解な相手に対する怖れすらなく、それはまるで――――――



 天使のよう、ってんじゃないけどね。



 唇で象った三日月型の笑みが、皮肉か嘲りか。それ以外なのか。考えるいとまを排除するように、影絵めいた薔薇園を、音なく歩む。もし本当に絵だとして、瞼に貼りつきそうなほど濃い影絵だ。夜色を背景に、より黒くはえる。


 そう、天使なんかじゃない。


 教会のフレスコ画などに描かれる天の使いを、脳内で握り潰す。罅が放射線状に走り、壁画は鱗のように剥落する。

 醜貌となった天使を捨て、更に彼は想起をめぐらせる。



 あれは―――――――――――



 答えを出さないまま、リュンヌは樹木(きぎ)の奥深くへ姿を消した。













 体温が高過ぎて眠れない。おもに両頬が異常に熱を持ち、ともすれば涙すら出そうになるほどだ。慣れない環境で風邪でも引いたのだろうか。


 ―――――――――そんなわけないだろ。


 やってしまった。や っ て し ま っ た 。I did it.



「………『生理的に無理で』って明らかに嫌ってる言い分だろうがよォォォォォォォ!!!」



 これはまずい。まずいというか、非常にまずい。言い直しになってない。

 こう言いたかったわけではない。けしてない。唐突すぎたから、私の言語認識回路が中途で誤作動を起こしただけだ、多分声帯あたりで取り違えたにちがいない。ついうっかり。ついうっかりやっちまった。


「『生理的に』ってなんだよ! 泣いてたよ! あの人超泣いてたよ! 泣きながら廊下を全力疾走して行ってたよ涙を跡に散らしながら!」


 私の世紀の失言の後、一瞬、静寂が私たちの間に入り込み。

 数秒の後。


――――『そ、そうですか、そうですよね、そうですよね、いきなり言われたら誰だって引きますよねうん、すみません、忘れてください、あ、いや、ていうか今のは別に変な意味じゃなくてっていうか、まあ、その、なんだ、こう無償の愛というか、そう、ぼくって白兎ですから”アリス”を愛さなくちゃいけないからだからっていうか、つまり、まあ、そういうことです、あれ、眼から汗が』



 ボッフル編みの飾りがついた枕に顔を押し付ける。レースの装飾がやわらかくてくすぐったくて、でも今はそれを味わっている場合でもないし余裕もない。



「やばい………」




 傷つけて、しまった。


「わた、し」


 人を、傷つけてしまった。



「だから嫌なんだ………」



 こんな自分が嫌だ。惨めったらしく後悔して、自己完結して自分も傷ついたように振舞う。こんな卑怯な自分が嫌になる。傷つけてしまったことを悔いていると、自分は冷たい人間などではないと誇示し、自分を正当化しようとする。私は、ひねくれて、嫌らしい人間だ。


 だから義母も、私を憎むのだろうか。



 理由などないと、戒めにも近く自分に思い込ませてきた。相性が悪い人間というのはいるものなのだと、そう考えていた。

 けれど、時折、喉の底に、浸み出したように凝りが生まれる。


 わたしがこんな人間だから嫌うのだろうかと、

 わたしが悪いのだろうかと、


 他の使用人に対する態度、私を外へ連れ出した時の声の端々、そんなものから、私の凝りは声を塞ぐような位置に顕れる。

 きっと、そんな醜い人間である私の心から血を通り、凝りが浸み出してくるのだろう。


 飛来する掌の幻影を瞼の裏に見て、身をちぢめる。



 私が他人に触れるとき、それは大抵傷と共にあった。一瞬のぬくもりと引き換えに私の体に残るものは、醜い痣と、時折、濁った血。だから私は他人に触れられることが苦手だ。醜い自分を直視しなくてはならないから。身勝手にも、それを苦しいと感じるから。そして、だからこそ私は、他人に触れることも苦手だ。


 




 ―――――でも、



 何故だろう。



 瞼の裏に、白くカールする髪、アルビノの耳、人形(ドール)のように綺麗な赤い瞳。

 そして、耳の奥に、あいのことば。



 彼にふれられても、怖くない。身が強張ることもないし、反射的に歯を食いしばることもない。

 彼にふれても、心が竦まない。たやすくふれて、気安く触れあえる。


 なぜだろう。


 身にしみついた本能まで覆すような魔法でもあるのだろうか。それとも、あの間の抜けたウサ耳がそうさせるんだろうか。それとも、

 分からない。けれど、彼に触れられると、どこか覚えのある感覚が身をよぎる。肋骨の籠に守られた胸の奥底が、色づくように反応する。あたたかく優しいばかりでなく、もっと――――――



 答えは出なかった。ぴたりとはまる言葉が思いつかない。心を表わす言葉を持たないというのは、とても切ない。


 私は、そんな希有な人を傷つけたのだ。恐らく彼はもう私を愛してくれることはないだろう。それでいい。それでいいのだ。私は人を傷つける存在だから。


 追い詰められた思考に、頬の筋肉が歪む。食い縛った歯に、眼球の裏が熱を持つ。私はもっと、もっとと身をまるめる。もっと小さく、もっと小さく、世界の邪魔にならないように。世界から消えてしまえるように。


 こうして闇につつまれ、ベッドの感触にふれるとき、私は孤独を再認識する。


 上質なリネンの感触。


 胎児のように身をちぢめた自分。


 くるまる毛布の、やわであまい殻。



 孤独はとてもやすらぐものだと思う。ひどくさみしくて、自由なこころ。あいの錘のない秤はとても不安定で、だからこそ安定している。

 ある意味で、世界でもっとも孤独である今の私にとって、この孤独(から)は何物にも代えがたい。



 繭にくるまり、わたしはよるをむかえる。

青痣色した薔薇の花びらで、(孤独をうらなうの。)

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