第一章 13. はりきりウサギの純愛証明
「―――――――ラビ」
耳に快い低音。ハスキーで中性的な呼びかけに、”白兎”―ラビは応える。「はい」
短い返答に、女王はわずかに片眉を動かす。「――――――何年、ぶりだ」
「―――――――八年、でしょう」
この春で。
そう言い、ラビは白銀の睫を伏せる。
閉ざされた窓から、光が差す。東雲の色をした春の夕焼け。真っ白な石造りの城壁が紅に染まる。机上の物がすべて朱色に映えるのを見て、白兎は同じ色の瞳を細めた。その頬にも照り映える赤色の夕陽。深紅の玉座に腰を掛け、それを背に受けたロザリオが、逆光になり分からない表情の下で、呟いた。
「―――――――歴史は繰り返す」
そう言ったのは、誰だったろうか。
とでも続けるように、切れ長の目を伏せ、凄みのある美貌をわずかにゆがませる。
「なあ、ラビ」
呼びかけに応えるように、白兎――ラビは、靴音を立て、ロザリオに一歩歩み寄る。「何でしょうか、陛下」
「必ず物語には終わりがある」
この物語にだって、終わりはあるんだ、と彼女は言いながら、長く骨ばった指で、ざらりとした机上の書物に触れる。布張りの装丁で、金文字の綴られた表紙を上に、静かな佇まいを見せている。臙脂色のわずかに毛羽立った古い表紙を、ロザリオの指先が滑った。
「けれど読者は、読み返す」
物語は、繰り返されるのだ。幾度でも、何度でも。
口内で呟かれた幽かな言葉に、それこそ物語の住人である証の白い兎の耳を揺らして、ラビは口を開く。
「また、同じ結末を迎える」
声が重なった。ロザリオは表紙をいとおしそうに撫ぜていた指の動きを止め、顔を上げた。
その表情には、悲痛。
「”登場人物”は繰り返す。何度も、何度でも、千回だって繰り返す。そこに」
読者がいる限り。
悪夢だ。
「畜生あの男絶対に復讐してやる……」
擦り洗いしすぎて頬が痛い。組んだ腕を解き、苛々しながら頬に当てる。軽薄だ。軽薄過ぎる。頬にキスは紳士の嗜みであるらしいが、紳士ならばこそもっと時と場と相手を弁えろ鼻に一セント硬貨詰めるぞハゲ、と思いながら、私はスプリングの利いたベッドに恐る恐る腰かけた。柔らかい。リネンなのだろうか、シーツの手触りは、私もよく知った高級な手触りだ。まあ、寝たことは一度もないんだけれども。ベッドメイクは下僕の仕事だったのだ。
「しまった………」
こんな悪夢にしたって酷い状況―――物語の中に落ちてきてしまうなんてことになった今、屋敷はどうなるのだろう。まさか義母が心配するとは思えないが、帰った時が大変だ。暖炉の火箸で殴り殺されるかもしれない。と、言うよりも、私のことなんて忘れているか。一年も経てば。
「文無しの十六歳女子、特技は家事、か………」
適当な屋敷に雇ってもらうにも、口利きも何もない。本当にいざとなれば、売れるものは全部売るつもりではいるが………
いや、無理だ。知らない男に愛想振り撒いたり、この私ができるとは思えない。だとしたら、もうテムズ河にでも身投げするしか方法が――――――
「………忘れ物」
なぜか唐突に、その単語が口をついて出た。
先程不穏且適当なことをほざいて一瞬ののちに窓から転落したと見せかけ逃走を図ったらしいあのネコ耳男が―――あ、リュンヌだっけ。名前覚えてない―――最後に言った、ことばだ。
私は、忘れ物をしている。
アリスゲームの中にそれがあるとはどういうことか。大体ゲームって物じゃないだろう。その中に何があるというのか。あるいは、手掛かり。しかし、何を忘れたのか分からないままでは、到底みつけることは不可能そうだ。ていうか、真面目に私は何を忘れている?
先刻から時折、襲ってくるあの奇妙な焦燥感が、ヒントにはなりえるのだろうが。
「元の世界に帰る為に、関係あるのか……?」
そう言えば、今、私は元の世界に帰ったら―――というif節を考えていたとき、その言葉が不意によみがえってきたのだ。私の脳がガラクタでない限り、何の関係もない二つを結びつけたりはしまい。なら、無意識下で、私は”忘れ物”の正体に勘づいているのでは。
「………どうどうめぐり、ね」
ここまでで行き詰まる。当然だけど、なんの手がかりもない今の状態では、どれだけ思考を巡らせても”忘れ物”は見つかることはないだろう。それを見つけることが、ひいては早く帰るための道しるべとなるのなら、出来るだけ早く見つけることに越したことはないんだけれど。
早く、帰るため
誰のために、
「アリス、いますか?」
ドアノブを開けて光速で扉を廊下へ押す、扉のすぐ外にいてノックした状態のままだった白兎に予想通りそれはクリティカルヒットし、顔を押さえて白兎は「………体調は大丈夫そうですね」と明らかにお前の体調が大丈夫じゃなさそうな表情で言う。
「ごめんなさい人が考え事をしているときに妨げるものだからつい(棒読み)」「アリスなんかキャラ変わってません!?」
変わってません。
「とりあえずごめんなさい。鼻が折れなくてよかった」「いやあの、その鼻に攻撃を加えた張本人の言うべきセリフじゃないと思うんですけれど……」
まだ顔の中心を押さえながら、少し潤んだ苺色の瞳を私の頬に向ける。「……頬、どこかに打ちました?」
私はそこを押さえながら、つとめて冷静に言う。「昼寝してたら枕の痕がついただけだから、気にしないで」
「はあ……そうですか」釈然としない様子で白兎は言う。なんとなく、あの男のことは言わない方が良い気がした。別に、律儀に約束は守らなくともよいのだけれども。
「明日、昼から、”ゲーム”を本格的にはじめます。紹介も兼ねて、皆の前に出てほしいんですが」
わずかに体が強張る。”ゲーム”。チェシャ猫の話を聞いたあとでは、気楽には構えていられない。本格的に始まるということは、明日からは私は”Alice”として、この世界にい続けなくてはならないということになる。
「その……その、ゲームについて、なんだけれども、」
棄権―――――――は、許されないのか、と問うてみた。
「棄権?」
どういうことですか、と目を瞬かせた白兎に、説明する。
「その、”アリス”が来ることによって、この世界が成り立っている――――という説明は、一応理解したけれども、”アリスゲーム”は、別に開催しなくとも、世界は成り立つんじゃない、のかな……? ええと、私はあまりそういう、人前に出ることは苦手だし、大体、私なんかがそんな大任をまかされるなんて、おかしいと思う。私がいなければならないというのなら、迷惑をかけてしまうかもしれないけど、甘えて、この世界にはいさせてもらう。でも、そんな―――――――」
歓迎されるなんて、と言った瞬間、ふっと両肩に手が置かれた。
「アリス」
一対の赤が、私の瞳を覗き込む。眼球の裏まで見透されてしまいそうなほど真っ直ぐに、白兎は私の眼を見つめ、唇を開く。
「”アリス”は、誰でもいい、というわけではないんです。ここへ落ちてこられること、それ自体が、もう”特別”なんです。そんな”特別”である貴女が、いくらなんでも”愛されない”なんて―――――――――――」
そこまでまくしたててから、彼ははっと言葉を切った。怯んだように、たじろぎながら、私の双肩から手を放す。「……すみません、私としたことが、」失言でした、と言いながら頭を下げた彼に、私は追いすがり、問いかけた。「待って、ごめんなさい、話をややこしくするようだけど、今の話はどういうこと? ”愛されない”……?」
気まずそうに眼を逸らした白兎は、少しの間をおいてから「……すみません、言葉のあやです」
「誤魔化さないで」
響いた自分の声があまりにも強く、思わず自分でたじろいでしまい、私は言い直す。「誤魔化さないで、ほしい。”アリスゲーム”の説明だって、消化不良のままなの、だから、」
ちゃんと説明して。
私の声が届いたのか、白兎は視線をゆっくりとこちらへ向けた。どこか悲しげな色を含んだ両目が、透明に、私の姿を映す。
彼は口を開いた。
「”アリス”は、愛されなければいけないんです」
”登場人物”に、不思議の国の住民に、運命に、世界に、物語に。
”アリス”である限り、愛される。
”アリス”である限り、愛してしまう。
「それが、私たちの性質ですから」
目の前が白くなった。
ちょっと待って、どういうことだ。あの男は、そんなこと一言も―――――――――
―――――彼女が、午睡の間にみた、奇妙で楽しいワンダーランドの夢―――――――それに育まれた俺たちにだって、恋したり愛する権利はあるわけよ―――――
アイサレル。
あいされる。
愛される。
その言葉が何を意味するのか。
「私に――――そんな権利は、ない」
やがて、絞り出した声は、みっともなく掠れていた。
「愛してなんてくれなくて、いい。拒絶さえなければ、それで充分だから、」
だから、やめてくれ。
涙が出てきてしまう。
「――――――――……」
うろたえたのだろうか、白兎は寸の間躊躇し、そして―――――――
そっと、私の躰を、やわらかく抱きしめた。
抱きしめるというよりは、包み込む。おっかなびっくり、まるで壊れ物でも扱うように、長くて細い腕を、ぎこちなく背に回し、俯いた私の頭に、ことんと顎を乗せる。
「………やめて。髪、洗えてないから」
「かまいませんよ」
いいにおい、します、と、白兎はふっと頬をこすりつけて、それから放した。
「愛されなくていい人間なんて、いないですよ」
そう言って、ふわっと微笑んだ。
まるで、春のようだ。
そう考えてから、思わず笑ってしまった。詩的すぎておかしくなる。自嘲も込めて、白兎に答える。
「――――でも、私は愛されたくはないよ」
目を伏せながら言った言葉に、白兎の声が訝しげに「アリス、」と何か言おうとするのを遮り、続ける。
「誰からも愛されるなんてない。誰かひとりでも、大切なひとがいるのなら、私はそれでいい。たとえその人に愛されなくたって、私は愛するだけでいいと思う」
所謂隣人愛なんて、絵空事だ。人には愛されるための階級がある。私はそのカーストの一番下。だから、大丈夫だ。私は、ただひとり、大事な✻✻✻を愛することができれば、それでいい。
「――――――――アリス」
白兎は、何を言ったらよいのか分からない、といった顔で、逡巡する素振りを見せた。私は我に返り、「変なこと言ってごめん、そんな、トラウマとかそういう深刻なものでもないから、聞き流して、」と言った瞬間、彼は顔を上げ、私を見据えた。その瞳の強い赤に射抜かれ、私は息を呑む。
「それでも私は、貴女を愛します」
強い、光だった。
ちょっとタイミング早すぎたかもしれませんね、白兎の告白。いきなりクライマックスみたいなセリフ言ってんじゃねえよ、とロザリオあたりに蹴飛ばされそうです。
感想とか生きる励みになってます(*´Д‵*) あと、誤字脱字、お気軽に指摘してください。あとで読み返したときの恥ずかしさと言ったらマジ死ねる。