第一章 11. Real - Rule - R...
(I'll tell you ”Twist”(or ”Rule”?) of this Wonderland!)
「取引」
私は彼の方に体の前面を向ける。半身だったが、これはちゃんと話し合う姿勢を取るべきと判断したからだ。
注意深く、相手に付け込む隙を与えないように言葉を選ぶ。
「言っておくけれど、私はあなたが思っているより愚かではないと思う。何も対価にくれてやるものはないし、やるつもりもない。身体でも心でも、絶対に払うつもりはない」
「いやー無理っしょ。いちおー俺大の男だし」
にへら、と笑みを絶やさぬまま、チェシャ猫は言い募る。「でも、力ずくなんてそんな無粋なことはしないよ。俺はね、貴女みたいにプライドの高い子を骨抜きにしてくのが、だーいすきなの」
まず手に入れるのは心。そう言いながら、彼は長い人差し指を、私の胸元に向けて含み笑う。
「世間知らずの高潔なプライドをへし折って楽しいのはオトコの場合だけだからね。本当に好きな人には、俺はそんなことしない。だからアリス嬢にもそんなことしない。意味、わかるよね?」
「………三段論法なんて、随分馬鹿にしてくれる、のね」
a=b
b=c
⇒ a=c
私の強がった返しを受けて、チェシャ猫は黄金の眼を細める。
「……頭いいんだね」
台詞奪われちゃったー、と、おどけながら彼は頭の後ろで腕を組む。反射的にノブを掴む右腕に力がこもったが、すぐに思い直す。今は無理だ。ドアを開けようとすれば、たちどころに捕えられてしまうだろう。
それにしても、性質の悪い冗談。こうして、女性を弄んででもいるんだろうか。そう、冗談に決まってる。なのにどうして、わずかに頬が熱くなった?
少しでも動揺した私が、馬鹿みたいじゃないか。
普通なら、下卑た、と形容したいところだが、美貌としなやかな所作のおかげで全くそう見えないにたにた笑いを顔に張り付けたまま、今度は指を私の顔に向ける。
「アリス嬢は、さいっこーに好み。だから敬意を表して、アリス”嬢”って呼んであげてるっしょ?」
「呼んであげられる覚えはない」
「失礼――――呼ばせていただいてるでしょ?」
金色の目が細まる。笑みを深めたその仕草に、私は強く奴の顔を睨み返す。
「ねえ、俺さあ、こう見えても本気なの。アリス嬢のこと、本当に好み。俺のものにしたいし、実際するつもり。だから、特別に、取引しよーって言ってんの」
白兎や帽子屋と違い、どこか野性味のある美貌。獣のような金の瞳に、一瞬息がとまる。きらめく金の中心を分断する縦に長い瞳孔は、紛れもなく、彼が純粋な人ではないことを示している。その異様さと、――――美しい色合いに、私は息どころか、言葉まで奪われた。
「アリス嬢、どう? 俺じゃ嫌? それとも、――――――」
私は動揺を隠すように、彼のその瞳を睨み返した。続けようとした言葉を一瞬呑み込み、彼は「そんな怖い目しないでよ、アリス嬢」と肩を竦めた。しだらない服装のせいで露わになっている首筋のラインが、筋肉の動きにそって艶めかしく動き、それがなぜか見てはいけないもののような気がして、私は思わず目をそらしてしまった。
「まあ、逢って一日も経ってない奴を好きになれっていう方が無理だよねー。いーや、いずれ実力でモノにするから」
不遜にもそう言ってのける彼を、強く睨む。
それにしても、本当に整った顔立ちだ。出来すぎなほどに。
あえて荒を探すなら、皮肉げな角度に吊った唇が人によっては不愉快な印象をもたらすだろうが、面食いの異性を前にすればそれすら野卑な魅力に転化できるだろうことは想像に難くない。
「で、どうなの? するの、しないの?」
取引、と言いながら、彼は金の瞳を瞬かせる。
「……私はそんなに愚かじゃないって言ってるでしょう。その内容が分からないまま条件は呑まない」
一瞬声が震えたのが、相手に伝わってしまったらしい。「怖い?」と口の端を吊り上げた。その表情がまた、どこか嗜虐的で。
たじろがなかったと言えば、嘘になる。
「うにゃん。お堅い娘も好みー。いいよいいよ、じゃあ特別にお教えしちゃいます。
―――――”アリスゲーム”の、”ルール”。―――――――――――――――知りたいでしょ?」
思わず表情が動いた。「どういうこと、」と続けてしまう。「白兎はルールなんてないって言ってたのに」
しまった、これじゃこの男の思うつぼだ、と思っても、もう遅い。聞いてしまったあとでは、見過ごすことなどできはしない。ルールだって? そんなものがあるなら、知らないままでいるのはまずい。
「……取引の内容は? 条件によっては、取引を、―――――――」
取引をする、と。
腹を括り、私はそう告げる。チェシャ猫の表情が、歓喜にも似た満面の笑みに変わった。
こうなった以上、私は完全に不利な立場だ。向こうが一方的に情報を握っている状況で、こちらには武器も何もない。どれほど運命の神は私を嫌ってるんだろう。禿げろいつか。
それにしても。
ルール。
「――――んー、じゃ、お代は前払いね」
「っ、そんなのは狡い、」
私はにわかに気色ばみ、言う。「この状況では、こちらの欲しいものを持っているあなただけが一方的に優位じゃない、もしあなたがしらばっくれようとしたら幾らでもできる、そんな理不尽なこと許さない」
まくしたててから、はっと口を噤む。まずい、感情的になってしまった。こちらの動揺を悟られることはしなくなかったのに。
彼は、私の発言など全く気にしていないように、笑んだままで口を開く。三日月の形に開いた形のよい唇から、艶のある声が零れた。
「俺がキライなもの三本柱はね、アリス嬢――――――――」
しなやかな指が、人差し指、中指、薬指と伸ばされる。長い濃紫の爪が、光を受けてきらめいた。
「熱いミルクと、午睡中の騒音と、惚れた女に嘘をつく奴」
――――――――――あたたかかった。
佳い匂いは、質の高い香水なのだろうか。至近距離で香ったそれは、とろりと甘くて、奇妙に脳髄を痺れさせるような味をしていた。
ひとのくちびる、が、ほお、に、ふれることって、なんていうんだっけ。
―――――――――ああ、そうだ、kissだ。
「痛ったぁい!?」
「――――――――――ッ!!」
うずくまった奴の青紫の頭部を無我夢中で蹴り飛ばす、まだ残るぬくもりを摩擦熱で発火するくらいこすりまくって消す、なんでなんでどうしてちょっと待ってなにこれ、こんなことって―――――
「ちょっ、待って、待って待ってアリス嬢、ねえ、痛っ!」
「黙れ」
「えちょっ、そんだけ!? もしかしてマジで怒ってる?」
私は何も言えずにドアノブを回し、最低限開けた隙間から必死で廊下へ滑り出た、大きな音を立てて閉めた扉に一瞬慄き、直後、我に帰り全力で走りだした。
やばい、ほんとにやばい。完全にパニックになったまま、私は走り続ける。どこまで行けるか、どこへ行けるかわからないままに、ひたすら廊下に沿って走り続けた。
唇の脇に触れるぬくもり、
頬に爆ぜる熱、
身体に密着した体温、
私を見下ろし嬲る姿、
甘くかおった花の香水、
豪奢に飾り立てたおんなの証、
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、(おもいだしたくない、)
脳が恐怖に支配され、体力の限界でもないのに、息が詰まって、心臓が危険なほど脈打つ、まずい、このままじゃ倒れる、冷静な自分が身体の危機を知らせる、
倒れ、
「アリス嬢!」
もつれた足にあっというまに傾いだ上半身に、細いけれど力強い腕が支えとなった。その状態のまま、縋りつくように勢いよく倒れかかる私は、額があたたかい誰かの体に触れたのを感じて、眼を開けた。
途端、身体の隅々まで、理性が戻ってきた。
「っ、」
思わず突き飛ばしてしまいそうになった体をなんとか抑えて、私はやんわりと彼の体から身を離す。支えてくれていた腕をゆっくりと、「もういい」という風に、下げさせる。
「―――――――ごめんなさい」
硬い声が、静かな石の廊下に転がり落ちた。感謝の気持ちがこもってるようには到底、聴こえなかったろう。けれど、私にはそれが精いっぱいだった。
「他人に触れられることには、慣れてなくて」
「ふうん。―――――――白兎には、おひめさまだっこされてたのにね?」
かっと、頬が熱くなった。目の前が一瞬赤くなるほど。
「――――見てたの、」
「いや、眼に入った。別に揶揄するわけじゃないよ、アイツ女の尻に敷かれるために生まれてきたような男だし。でもさー、」
ちょっと妬けちゃうかなぁ、
「――――――――――――……っ」
絶句した私が何か行動を起こす間もなく、彼は私の目前に、長い人差し指を立て、長身を折り曲げ、その美貌に、三日月の笑みを塗った。
「代価は貰ったから。教えるよ、アリス嬢。
――――――この世界の”ルール”を、ね」
騙されたのはひとりのアリス
アリスちゃんは純粋培養純情乙女です。しかし肝が据わっています。




