第一章 10. 猫の右手は幻だと言う
サーセンタイトルは適当ですwww 本当にこんな言い伝えがあるのかは知りません^^;
ドゥ・キャット・イット・バット。ドゥ・キャット・イット・バット。
頭の中でぐるぐると同じ言葉が回ってる。
猫は蝙蝠を食べるか蝙蝠は猫を食べるか。
不思議の国のアリスにでてくる謎めいた詩の一説、ナンセンスなくりかえし。猫は蝙蝠を食べるか蝙蝠を食べるかの謎を解くのは簡単、英語に変換してみればいいの。英語に直せばほらテンポよく韻を踏んでるのがわかるでしょ、病み付きになるリズムよね。ドゥ・キャット・イット・バット、ドゥ・キャット・イット・バット……
連綿と続く意味不明な謎かけ、延々と続く終わりない問いかけ。最後が必ず「ト」で終わって座りがいいものだから、物心ついて最初に不思議の国のアリスを読んだ時から、この謎かけが頭にこびりついて離れなかったの。
ねえ、それならピンクでパンクなにゃんこさんもこうもりを食べたの?
え? ……あはは、それは分からないわ。アリスもにゃんこさんに逢えたら、訊いてみましょうね。
…… … ・ …… ・…・・… …… …
ねえ、知ってるアリス。チェシャ猫さんって、「チェシャーの猫のようにわらう」っていう慣用句からきてるのよ?
そんなの読めば一瞬で分かるわよ、***。
もう、***は相変わ*ずクールなのね。いいわ、そ*なリアリストさんに、もっと面白い**教えてあげる。……***には、秘密ね?
ねえ、なんて言ってるの
*****は、きっと***********だったのよ。突飛な解釈って思う? でもね、……****……**…*………
ねえ、まって、ねえ、まって、あなたは
***の本当の****だって、そう***いた*****……
あなたは だれ ?
太陽の位置が変わる。
光線の角度が傾ぐ。
突如室内に射しこんできた陽射しが床を掃き、燃えるような橙で少女の金髪を照らす。
「…………」
なんだか妙に汗をかいている。恐らく、よく覚えていないが、夢のせいだろう。
こちらの世界とやらに来てから、どうしてか強い喪失感、それに伴う焦燥感を感じる。動悸が激しく、喉元も苦しい。浅く息をついて、なんとかやり過ごそうと窓の方を向いた。
白兎に案内された部屋は、東側の塔の三階だった。城というから、ものすごく絢爛豪華な室内を予想していたのだけれども、廊下や広間はそれほど飾り立てられることなく、一枚の絵すらなかった。石造りのむき出しの壁、床に、冷たい石の階段。辿りついた三階の部屋は、嬉しいことに、私のリクエスト通りそう広くないものだった(白兎が言うには「こんな兎小屋のようなところにアリスを泊めるなんで(ry」……だったら兎のお前はなんなんだ)。
けれども、内装は落ち着かない。薄い水色の壁紙には、白い薔薇の絵がうっすらと描かれている。少女趣味というには控えめだが、他の部屋と比べるとその可憐さが妙に浮き上がってしまい、私には似合わないものだという現実に気まずくなる。
小ぶりなクローゼットだって、白く塗装された可憐なもので、入れる服もないのに……と開けてみたら、水色のワンピースに白いエプロンと白黒のボーダーの靴下という、今の私とほとんど同じ服が十着ほど揃えてあってドン引きした。
こんなきれいでかわいらしい部屋、私には釣り合わない。
まるで―――――
「っ……」
まただ。またあの、胸が痛くなるほどの喪失感。
座り込んだベッドのスプリングが軋む。アイアンワークの部分に手を置き、気を落ち着かせようと息をはいた。
「――――――ちょっとアリス、俺をしっかり見つけておきながらガン無視すんのやめてくんない? すごく切ないんですが」
「黙れナス。淑女の部屋をのぞくな」
幻覚じゃなかったか……。
聴こえた声に深く深くため息をつき、視線を窓へ向け直す。アーチ状の窓の外、ベランダのバルコニーの手すりの外側に、自然界に存在していたらまず間違いなく変種であろう色彩を全身にまとった青年が立っていた。
「ナス……って……はじめて言われた………」
「煩いナス。それ以上こっちに近寄るな。私はあなたを安全とは認めてない」
若干落ち込んでいるナスは、長い尻尾 (もどき)を一振りして、私の素っ気ない口調にわずかにせつなげな顔を見せた。そんなショボーンみたいな顔をしたって無駄だ。ていうかもとから猫っぽい唇の形だから妙にさまになっているのがイラっとくる。
私はベッドから立ち上がり、部屋の扉に少し近づきながら、油断なく彼に話しかける。
「何の用? ”アリスゲーム”とやらでもしにきたの?」
「”アリスゲーム”?」
忍び笑うような声が、ガラス越しに聴こえた。その声がまるで耳元に直接注ぎ込まれたようで―――背筋が粟立った。まずい、こいつのペースに呑まれる。
気を持ち直し、また扉に一歩近づく。「窓を割るな」
「そんな乱暴なコトしーまーせーんー。アリスが直接、開けてくれればいーんだもーん」
「黙れ雄のナスの分際でだもんとか語尾につけるな気色悪い」
「似合えばいーんですー」「似合わないから即刻やめろ」
しゅん……と尻尾の振られ方が若干弱くなる。嘘だ。本当は似合っている。なんで似合うのかが分からない。違和感のなさが逆に違和感だ。他に比較する人間を持たないから、それがおかしいのかは分からないけれども。
というかまあ、まず目に痛い色彩のネコ耳尻尾つきのチャラ系の男なんて、まず元の世界だったら接点なんてなかったろうけれども。
「アリスー………」
「私はあなたにアリスなどとファーストネームで呼ばれる筋合いはない。したがって即刻何か別の呼称を考えろ」
「んー…、じゃ、」
アリス嬢。
遅かった。
一瞬の出来事に、ドアノブに手をかけて回すだけの動作が、できなかった。手に冷えた真鍮のノブの感触をつかんだままに、私は青年の金の瞳に捕えられ、硬直した。
いつ窓の鍵を開けた。
いつバルコニーの手すりを越えた。
いつ部屋に這入ってきた。
「アリス嬢、そんなに怖がらないで?」
華やかな美貌に笑みをぬり、チェシャ猫は嗤う。「別にとって喰おうってわけじゃないんだし?」
まあゆくゆくは美味しくいただきたいですけどねーと、変態的なことを口走りながら、彼は鋲を打ったブーツでこちらに近寄ってくる。薄い空色の絨毯に靴音が吸い込まれ、それがひどくこちらの不安をあおる。
一歩、また一歩。
ドアノブに手はかかっている。しかし、開けられない。
私と彼の距離は目算にして三メートル程度。私がドアノブを回し、扉を開け、廊下へ飛び出して走り出す前に―――――彼が私を捕獲できるのは自明の理。
距離が、時間が、足りないのだ。
あとは、ちから。
私は眼を細める。
「ねえ、アリス嬢――――貴女、とても忘れっぽい人じゃない?」
私が忘れっぽいだと。聞き捨てならない、これでも毎朝毎昼毎晩の家事やつとめはすべてコンプリートしてきたんだ、私の記憶力をなめるな。
と言い返そうとしたところで、ふと、またあの感覚がよみがえりかけた。
わ す れ も の ――――――
なにか、あるのか。
私がどうしても思い出せない”わすれもの”が、あるというのか。
だとしたら、何を思って、この男は私にそれを問いかける?
「アリス嬢。俺と、取引しようよ」
しなやかな右腕が、こちらに伸ばされる。手首につけた細い銀の鎖が、しゃらりと音を立てた。