第一章 08. それは1リットルの世界
「、ろ、白兎!」
前を行く男の背に呼び掛ける。はっと立ち止まり、彼は振り返る。「すみません、速かったですか?」そうそうこちとらお前ほど足が長くないんだよちょっとは短足を気遣えっていやいや違う。違わないけど。
「待って、さっきの”ゲーム”って、どういうこと?」
「”アリスゲーム”ですか?」
す、と足を引き、白兎は私の方へ向き直る。「ですから、言ったとおり、アリスの歓迎会です」
「それがどうして”試合”になる? 闘うわけでもないのに」
まるで、私を駒にしているようで、正直意味がわからない。しかも、いつ帰れるか分からないときた。そんなの、困る。私には、――――――――――――
『……***、』
『ア*ス、戻っ**たら***の部*に来てね、絶*よ』
喉の奥に声が引っ掛かって、息が詰まった。自然前のめりとなり、痙攣した喉から漏れる声を抑えるために口元を覆う。
「……!?」
なんだろう、この感覚。
「アリス!? 大丈夫ですか!?」
長い指先が私の肩に触れる。まるで壊れ物を扱うように指先でしか触れず、白兎は私の顔を覗きこんでくる。その現実離れした美貌を目の当たりにし、わずかに脳がクールダウンした。
「いや……なんでもない、かな」
なんだろう、この―――記憶。
記憶というには曖昧すぎるかもしれない、遠い日々の、もう忘れてしまった思い出を、無理に取り戻そうと急く感じ。
じわり、と、肋骨の籠に守られた体の奥底が疼く。ああ、
わ れ て し ま い そ う だ 。
「――――――アリス?」
「あ、ううん、いや………」
何を考えてるんだ、本当に。一体なにが”われてしまう”のか、分からない。痛みには慣れている。気にしなければいい。
「それはよかった。――――――”アリスゲーム”のこと、でしたっけ?」
「あ、うん」
「ええ、確かにそうです。まるでこれでは我々が戦うようですね。ルールに縛られて、駒となって」
まるでチェスのようですね、と彼はわずかに微笑する。
「ただの言葉のあやですよ。”ルール”らしきものはありません」
見とれるほど美しい笑みを浮かべ、白兎は言う。その笑顔があまりにも綺麗すぎて、かえって私の疑心はふくらんだ。「本当?」足をかつんと、一歩踏み出す。
「そもそもこの世界に”アリス”が落ちてくるっていう意味が分からないの。どういう原理になってるの、大体住民は、その……どう受け止める?」
住民もなんかウサ耳生やしてたりネコ耳生やしてたり野外でお茶会したりしてるけどな。本当に、これが奇想天外な夢でなくて何だというのだろう。というよりも、最初から、この世界はあの、私が昔読んだおとぎばなしそのままの世界で。
白兎は私を見る。その真っ赤な瞳で、私を見る。
「アリスは、世界がどうして世界なのか、考えたことがありますか?」
唐突に聞かれ、返答に窮する。どうして世界が世界なのか、そんな当たり前のこと、考えたことも―――――
「そういうことなんです」
誰も、当たり前のことなんて考えません。”アリス”が来るなんて、当たり前のこと。
「は、……」
わけが分からない、と続けようとして、言葉が出なかった。”アリス”が来ることが当たり前? どういう意味なのかまったく分からない。
「アリス。アリスの住んでる世界は、なんでできてるんですか?」
「へ? あ、いや……」
必死で学校の授業を思い出そうとする。とは言っても、私が満足に学校と呼べるものに通えたのは十二歳までだから、その間に得た知識の中に、この答えがあるのかどうかは分からないけれども。
「……原子、と、粒子……つまり、宇宙……?」
「それだけですか?」
「え?」
それだけって言われても。いや、全てのものは原子から成り立っているわけだし、詳しくは知らないけれど、宇宙は粒子とかそういうもので満ちているらしい。それ以外、思いつかない。
白兎は問う。そのただひたすらに透明な緋色の瞳を瞬かせて。
「その世界が”ある”と、認識する、人の心は、どうなんですか?」
「ひ、との…こころ……?」
分からない。”ある”と、認識するための、人の心? どういうことなのだろう。
「シュレディンガーの猫と言うそうですね、アリスの世界では」
猫、と言われ、反射的に昼間のあの変態猫を思い出す。いや、関係ないか。うん、ない。白兎は私のそんなわずかな動揺を見咎める様子もなく、「こういう理論です」と、白い手袋をはめた手を、顔の前に持ち上げる。
「すべての事象は、それを観測する者がいなければ、起きていないことと同じである」
人さし指を一本立て、彼はそう言った。
「たとえそこに世界があっても、それを知るものがいないのなら、その世界はあってもなくても同じなのです」
彼はそう続けた。
とても、とても哀しそうに。
「…それが、……」
どうしたっていうの、と続けた私の声は、みっともないほどかすれていた。白兎、ラビの、彼のその、あまりにも哀しくて苦しげな独白に、気圧された。
「それは、逆のことも言えるということです」
どれだよ、と突っ込みたくなった。
彼の話は、難しい。難しくて、切ない。身を切るようなせつなさと、同時にどこか烈しさも、直接脳裏に伝わってくるようだ。
「誰かが観測しているならば、その観測されている世界は存在する」
どういうことなのか、聞き返すことはできなかった。
「昔、あるひとりの数学者が、幼い少女にあるひとつの物語を語り聞かせて、ひとつの”世界”を構築しました。小説として出版されたそれは、瞬く間に世界中の人々の心に広がり、彼らの中である程度、共通の世界を作り上げました」
そしてその世界は、いつしか本当の世界となった。
「生命が生まれ、国が生まれ、”不思議の国”は、完成した状態で、忽然とこの世界ごと現れた。恐らくは。
昼下がり、少女アリスは庭の兎穴へ喋る兎を追って飛び込む。落ちた先は、そう。
時計兎は遅刻寸前、チェシャ猫はいつもにたにた笑い、イカレた帽子屋は終わらないお茶会を開き、ハートの女王は血がお好き――――そんな世界が、生まれたのです」
(だから私たちは”彼女”を愛する。)
(彼女が孕んだばら色の空想は、たったひとつ奇跡の理由なのだから!)
1リットル=人の脳味噌一個ぶん。かな。って思ったから適当に←
でもきっと世界ってそんなもんだと思うんです。自分が今「ある」と思っている者以外は、あってもなくても変わらないでしょう? って、思ったので。