戦い方を変える
廊下に放り出されたランドセルをまたぎ、リビングに入った瞬間、奈緒子は立ち尽くした。
足の踏み場もない。畳んだはずの洗濯物は床に散らばり、菓子の空き袋や鉛筆の削りかす、脱ぎ捨てた靴下が絨毯にまぎれている。テーブルの端に置いた財布は口を開けていた。千円札が一枚、消えている。
「莉央、またお財布を触った?」
リビングの隅でスマホを見ていた莉央は、画面から目を離さずに言った。
「触ってないし。勝手になくなったのを私のせいにしないでよ」
「じゃあ、このレシートは何? コンビニのよね」
「拾ったの!」
奈緒子が次の言葉を探しているうちに、莉央は耳を塞いだ。
「うるさい! ママなんかいなくなればいい!」
自室のドアが激しく閉まり、壁の向こうから泣き声が響く。足を踏み鳴らす音が何度か続いた。
何百回、何千回、繰り返してきた光景だろう。
優しく抱きしめて話を聞いた日もある。壁一面にToDoリストを貼り、ひとつずつ片づけようとした日もある。感情にまかせて怒鳴り、手をあげてしまった夜には、一人で泣いた。
どれも、次の日の莉央を変えなかった。
外では「莉央ちゃん、気が利いて本当にいい子ね」「お母さんの育て方が丁寧だから」と、ママ友に褒められる。学校でも大きな問題は起こさない。そのぶん、外で張りつめたものが家でほどけ、奈緒子に向かって噴き出すように思えた。
けれど、莉央が家で何を抱えているのか、奈緒子にはわからなかった。
『お母さんが感情的になると、お子さんの衝動性も刺激されます。まずは受け止めて、環境を整えましょう』
先月、相談室で言われた言葉がよみがえる。奈緒子の接し方を振り返る必要があるのはわかっていた。自分が手をあげたことも、なかったことにはできない。
それでも、「受け止めて」と言われるたびに、奈緒子は途方に暮れた。財布からお金がなくなり、問いただせば怒鳴り返される。その瞬間に何をすればいいのか。母親が限界を迎える前に、どこへ助けを求めればいいのか。相談室では、そこまで尋ねられなかった。
奈緒子は膝から崩れ、散らかった床に手をついた。
娘を憎んでいるのではない。ただ、この終わりのない消耗から降りたかった。
翌朝、莉央を学校へ送り出すと、奈緒子はパソコンを開いた。「ADHD 相談」と検索しかけて、指を止める。検索窓に打ち込んだのは、いくつかの言葉だった。
「児童精神科 思春期」
「ペアレントトレーニング 相談」
「親子 レスパイト 自治体」
奈緒子が探していたのは、理想の母親像を説く言葉ではなかった。何が起きているのかを一緒に整理し、親子が少しでも安全に過ごせる方法を考えてくれる場所だった。
数日後、奈緒子は紹介状を手に、児童精神科のある総合医療センターを訪れた。これまでの相談窓口とは違う場所へ行けば、すぐに答えが見つかるとは限らない。それでも、ひとりで考え続けるのをやめたかった。
診察室で医師は、奈緒子の話を遮らずに聞いた。奈緒子が用意したメモには、起きたこと、頻度、なくなった金額、言い争いになった時の様子が書かれていた。
「お母さん、よくここまで記録してきましたね」
その言葉に、奈緒子の目に涙がにじんだ。
「でも、これだけで原因を決めつけることはできません。本人からも話を聞きたいですし、学校での様子や、家で何が起きるのかも確かめていきましょう」
医師はメモに目を落とし、続けた。
「莉央さんに何が起きているのかを調べることと、今の生活を安全にすることは、並行してできます。お母さんが手をあげてしまったことも、責めるためではなく、繰り返さない方法を一緒に考えるために話してください」
奈緒子は、息を呑んだ。
娘だけを調べるのでも、自分だけが責められるのでもなかった。
「今日から全部を変えようとしなくていいんです。まずは、お金のことや共有スペースの片づけ方を、家族が落ち着いている時に決めましょう。財布や現金をしまうのも、莉央さんを試すためではなく、親子が同じことで何度も傷つかないための工夫です。家で二人きりになる時間がつらいなら、自治体の相談窓口と、休息を取れる支援についても一緒に確認できます」
「でも、私が距離を取ったら、育児放棄になりませんか」
「距離を取ることと、見捨てることは違います。お母さんが疲れ切る前に支援を使うことも、莉央さんの安全を守る方法のひとつです」
病院を出ると、秋の風が奈緒子の頬を撫でた。
問題が魔法のように解決したわけではない。莉央は明日も悪態をつくかもしれない。部屋もまた散らかるだろう。診察も、話し合いも、これから続く。
それでも、奈緒子のバッグには、鍵付きの小さなケースを買ったレシートが入っていた。財布をしまうのは、莉央を罰するためではない。なくなったお金をめぐって、二人が何度も傷つくのを防ぐためだ。
家に帰り、リビングの扉を開ける。床には、朝にはなかった紙くずが落ちていた。
奈緒子は深呼吸をひとつした。ホームセンターで買った大きな衣装ケースを床に置き、散らかった物をひとつずつ拾い始める。
そこへ、部屋から出てきた莉央が立ち止まった。
「勝手に捨てないでよ」
「捨てないよ。ここに入れておくね。あとで自分の部屋に持っていって」
莉央は返事をしなかった。奈緒子も、それ以上は言わなかった。
怒鳴ることも、ため息をつくこともなく、ただ目の前の物をケースに入れていく。
戦い方を変える。
分かり合うことを諦めるのではなく、まず二人が傷つかずにいられる距離と仕組みを探すために。




