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第69話 吸血鬼、黒い点からWiki管理人を隠す

 八咫烏の秘匿施設、解析室。


 完全にオフライン化された解析端末のモニター上で、『黒い点』が施設内部の座標へ向かって動いた、まさにその直後だった。


 皇かれんの指示により、施設内の警戒レベルが即座に、しかし極めて静かに引き上げられた。


 大げさなサイレンは鳴らさない。代わりに、職員だけが共有する内部警戒コードが全域へ流れる。


 宮原悠斗が収容されている保護区画への物理的な通路が封鎖され、非戦闘職員の移動が制限された。外部からの出入りも一時停止。防犯カメラ、赤外線センサー、熱源探知機、さらには霊的検知器まで、あらゆる監視網が稼働する。


 急遽現場へ呼び出された杖原つかさが、結界用の呪具を展開した。


「保護区画の周囲を、二重の結界で閉じます。物理的な質量を持つものであれ、霊的な気配であれ、中からでも外からでも、何かが触れれば分かります」


 久我陽介も右目に《魔眼》を展開し、吸血鬼としての鋭い嗅覚と聴覚を研ぎ澄ませた。


 だが、誰もいない。


 血の匂いもない。死臭もない。異様な霊的気配もない。


 杖原の結界はピクリとも反応せず、監視カメラの映像には無機質なコンクリートの廊下が映っているだけだった。物理的な異常は、どこにも存在しない。


 それなのに。


 解析用端末の画面の中だけで、小さなラベルのない『黒い点』が、少しずつ宮原のいる保護棟へ向かって進んでいる。


「……そもそも、この黒点は『何』を表示しているんです?」


 張り詰めた沈黙を破り、久我が疑問を口にした。


「これ、本当に誰かが、あるいは何かが、歩いて近づいてきてるって言えるんですか?」


 情報分析担当の職員は、キーボードの上で手を止めた。


「画面の座標上では、確かに移動しています。しかし、現実の施設内には、それに対応する物理的・霊的な存在が全く検知されていません」


「前提を置かないでください」


 かれんが静かに制した。


「前提?」


「はい。この黒点が『何らかの追跡者の現在地を示している』というのは、宮原さんが自身の体験からそう解釈したものです。それを事実として扱うには、まだ根拠が不足しています」


 今まで、宮原も、そして久我たちでさえ、無意識のうちに『黒点=迫ってくる何かの現在地』だと思い込んでいた。


 だが、かれんはその仮説をいったん白紙へ戻す。


「何かが施設内を歩いている。怪異が侵入している。黒点そのものが敵である。それらは現状、すべて推測です。私たちが確認できている事実は、『宮原さんの周囲で奇妙な異常が発生し、同時期にWikiの地図上の黒点が彼へ近づくように移動している』。そこまでです」


       *


 保護室。


 宮原はパイプベッドに浅く腰掛けていたが、当然ながら眠れる状態ではなかった。目の下の隈はさらに濃くなっている。


 久我とかれんが部屋へ入り、現状を告げた。


「先ほど、あなたの端末ではない、こちらの解析環境の地図上でも黒点が確認されました」


 宮原の顔色が、一気に死人のように青ざめた。


「……ここにも、来たんですか?」


「そこは、まだ分かりません」


 久我が答えた。


「でも……」


「あなたのパソコンじゃない環境でも黒点が出た。そこまでは事実です。でも、それが『何かがここまで歩いてきた』という意味なのかどうかは、まだ分かりません」


「宮原さん」


 かれんが続ける。


「黒点があなたの移動に反応するのか確認するため、少しだけ協力していただきたいことがあります」


「協力?」


「施設内の別の保護棟へ移動していただきたいのです」


 宮原の表情が強張った。


「……俺が、囮になるってことですか?」


「そう見えるのは分かります」


 久我が真っ直ぐに答えた。


「でも、無理にとは言いません。今の部屋へ残る選択肢もあります。その場合は、俺たちが別の方法を考えます。嫌なら断ってください」


 宮原は強く唇を噛み、しばらく黙り込んだ。


 怖い。


 しかし、自分が持ち込んだWikiのために、この施設全体が警戒状態になっていることも理解している。


「……俺が動いたら、何か分かるんですよね?」


「黒点があなたの移動に追従するのかは確認できます」


「じゃあ、やります」


 宮原は、自分の意思で頷いた。


       *


 移送が開始された。


 宮原には何も持たせなかった。


 スマートフォンも、ノートパソコンも、外付けSSDも元の解析区画へ残す。財布や鍵などの私物も、八咫烏側で預かった。


 身につけているのは、着の身着のままの服だけだ。


 久我と杖原、そして八咫烏の武装職員二名の護衛のもと、宮原は現在の保護棟から、敷地の反対側に位置する別の保護棟へ移動する。


 その間も解析室では、かれんたちが地図上の黒点を監視していた。


 最初、黒点は宮原が元いた保護棟の近くで停止していた。


 久我たちが別棟へ入り、新しい保護室へ宮原を収容する。


 数分。


 何も起きない。


「……動きました」


 分析担当の職員が声を上げた。


 かれんが画面を覗き込む。


 黒点が、それまで進んでいた方向から曲がった。


 そして、宮原が移動した新しい保護棟の座標へ向かって、再びじわじわと進み始める。


 全員の空気が変わった。


 ただし、一度だけでは足りない。


 宮原へ再度説明し、今度はさらに離れた別の建物へ移動してもらう。


 数分後。


 黒点は再び進行方向を変えた。


 明らかに、宮原の新しい位置へ向かっている。


「……宮原さんの移動に反応してますね」


 久我がインカム越しに呟く。


「その可能性は極めて高まりました」


 かれんは、まだ断定しなかった。


       *


 宮原は何も持たずに移動した。


 それでも黒点は、元の解析室ではなく宮原がいる別棟へと向かった。


「これで少なくとも、宮原さんのPCやスマホそのものを追っている可能性はかなり低くなりましたね」


 久我の言葉に、分析担当が頷いた。


「念のため、データ自体も分離します」


 Wikiデータの完全なコピーを複数作成する。


 元の宮原のノートPC。


 八咫烏の解析専用機。


 完全に別の隔離端末。


 読み取り専用のバックアップ媒体。


 それぞれを、敷地内でも十分に距離の離れた別棟へ分散させた。


 しかし黒点は、データの存在する建物へは向かわなかった。


 引き続き、生身の宮原がいる保護棟へ向かっている。


       *


 解析室のホワイトボードへ、現在確認できている事実が整理されていく。


【可能性が低下したもの】


・宮原のノートPCやスマートフォンなどの物理端末


・特定のサーバーやIPアドレス


・GPSなどの一般的な位置情報データ


・Wikiデータそのもの


・元のWikiサーバー環境


【まだ残る可能性】


・宮原悠斗という人間そのもの


・宮原の何らかの認識


・管理者権限


・Wikiを管理したという行為


・《管理人》という謎のページ


・有料サイト側から何らかの対象指定を受けている可能性


「一つ、試してみたいことがあります」


 情報分析担当の職員が提案した。


「宮原さんが現在持っているWikiの管理者権限を外します。アカウントそのものは残し、まず権限だけを一般ユーザー相当まで落としてみます」


「やってください」


 かれんが許可した。


       *


 宮原のアカウントから、管理者権限が剥奪された。


 強制ログアウト。


 既存セッションの失効。


 APIキー等の管理用認証情報も無効化。


 管理ページへアクセスできない、通常の閲覧者と同程度のアカウントへ変更された。


 数分。


 地図上の黒点が、ピタリと止まった。


 五分。


 動かない。


 十分。


 動かない。


「……止まりましたね」


 久我がモニターを見る。


「偶然の可能性はまだあります」


 分析担当は慎重だった。


「それに、今はログアウトさせています。管理権限が条件なのか、ログイン状態そのものが条件なのか、まだ分離できていません」


「じゃあ、そこも試しましょう」


       *


 宮原へ再び説明する。


「今度は、管理者ではなく普通の利用者としてログインしてもらいます」


「管理画面には入れない?」


「入れません。普通にページを見るだけです」


 宮原は不安そうにしながらも了承した。


 隔離端末。


 ユーザー名。


 パスワード。


 ログイン。


 一般公開されていたページのコピーをいくつか開く。


 一分。


 三分。


 五分。


 黒点。


 動かない。


「ログインするだけでは、反応なし」


 分析担当が記録する。


「では次です。宮原さんは、そのまま何も操作しないでください」


 同じアカウント。


 同じログイン状態。


 八咫烏側から、宮原のアカウントへ管理者権限だけを再付与する。


 権限変更。


 管理者。


 適用。


 数秒後。


 止まっていた黒点が。


 ズルリと動いた。


「……っ!」


 宮原が息を呑む。


「権限を外してください!」


 分析担当が即座に管理者権限を剥奪した。


 数秒後。


 黒点も停止する。


 室内が静まり返った。


       *


「……ログインじゃない」


 久我が呟く。


「はい」


 分析担当が答える。


「少なくとも今回の検証では、一般ユーザーとしてログインしているだけでは黒点は動きませんでした。同じアカウントに管理者権限を付与した直後に移動を再開し、権限を外すと停止しています」


「じゃあ、宮原さん本人でもない?」


「そこまでは言えません」


 かれんが止めた。


「宮原さん本人と管理者権限、両方が条件である可能性もあります。別人へ管理者権限を与えた場合にどうなるかは、まだ検証していません」


「……それは、今やらない方がいいですね」


 久我も即座に理解した。


 誰か別の人間まで対象になる可能性がある。


 試すためだけに新しい被害者を作る意味はない。


 宮原自身が、真っ青な顔で呟いた。


「俺が……このWikiの『管理人』だから、ですか?」


 誰も答えなかった。


 システム上の管理者権限。


 それと、怪異的な意味での《管理人》。


 二つが同じものなのかどうかすら、まだ分からない。


       *


「念のため、あのページをもう一度確認します」


 分析担当が、《管理人》ページを開いた。


 宮原が警察へ出頭する決定打になった、謎のページ。


 『最近の変更』には、ページが作成された事実だけが残っている。


 編集者欄は空白。


 作成したユーザーも不明。


 本文データは空白。


 先ほど確認した時点では、それだけだった。


 ページが表示される。


 空白。


 ……ではない。


 真っ白な画面の中央。


 ただ一行だけ、黒い文字が表示されていた。


『宮原悠斗』


 誰も操作していない。


 新しい更新履歴も増えていない。


 データベースを直接確認しても、そんな文字列は本文に保存されていなかった。


 なのに、ブラウザ上では《管理人》の下に、確かに宮原の本名が表示されている。


「……消してください」


 宮原の声が震えた。


「データとして存在していません。本文データは空白のままです」


「でも、画面に俺の名前が出てるじゃないですか!」


「だから、通常の編集操作では消せないんです!」


 久我が、パニックになりかけた宮原の肩を掴んだ。


「宮原さん。落ち着いてください」


 宮原が荒い呼吸を繰り返す。


 久我は、「大丈夫です」とは言わなかった。


 そんな保証は、今の誰にもできない。


「俺たちは今ここにいます。少なくとも、あなた一人でこれに対処させることはありません」


 宮原は何度か深呼吸し、ようやく小さく頷いた。


       *


「宮原さんの管理権限を完全に破棄します」


 かれんが判断を下した。


 宮原本人も異論はなかった。


 旧アカウントから管理者権限を剥奪した上で、アカウント自体もシステムから削除する。


 管理者一覧から宮原の名前は消えた。


 残るのは、八咫烏が検証・保全用に作成したアカウント一つだけ。


 地図を見る。


 黒点は停止したままだ。


「これで……俺、もう管理人じゃないですよね?」


 宮原が縋るように尋ねた。


「システム上は、もう何の管理権限も持っていません」


 分析担当が答える。


「システム上は、ですか」


 久我がその言葉に引っかかった。


 かれんも、《管理人》ページを再読み込みする。


 画面中央。


『宮原悠斗』


 アカウントは消えた。


 管理権限もない。


 それでも、名前だけは残っている。


「……こっちのシステムで決める『管理人』と、このページが言ってる『管理人』は、別なんですかね」


 久我の推測に、かれんは慎重に答えた。


「まだ、この表示が何を基準に宮原さんを《管理人》と扱っているのか分かっていません」


 否定はしなかった。


       *


 宮原が、《管理人》という文字を見つめながらハッとした。


「……待ってください」


「何か思い出しました?」


「昔……まだ有料サイトの記事を面白半分で整理していた頃、保存した記事の中に《管理人》って単語を見た気がします」


 それがWiki管理人を指していたのか、有料サイト側の運営者を指していたのか、あるいは単なる怪談の中の言葉だったのか。


 そこまでは覚えていない。


「俺のPCの過去ログ、検索していいですか?」


 宮原が手を伸ばしかける。


「あなたは操作しないでください」


 かれんが止めた。


「こちらで検索します」


 分析担当が、隔離環境の過去データへ検索をかける。


 保存済みの有料記事。


 スクリーンショットから文字起こしされたデータ。


 過去の投稿ログ。


 削除済みページのキャッシュ。


 宮原の管理メモ。


 検索ワード。


《管理人》


 数件がヒットした。


『廃墟の管理人に見つかった』


『サイト管理人へ削除依頼を出した』


 ほとんどは、ごく普通の意味で使われているものだった。


 だが、一件だけ。


 有料サイトから保存された、かなり古い記事のスクリーンショット。


 画像の下端が一部だけ残っており、前後の文章は欠けている。


 そこに、小さな文字があった。


『記録された情報は、管理人へ引き継がれます』


 久我が画面を見る。


「これって……宮原さんのことだったんですか?」


「分かりません」


 宮原は首を振った。


「当時は、有料サイト側の管理人とか、そういう意味だと思ってました。正直、まともに気にもしてなかったです」


「現時点で、この一文と宮原さんを直接関連づける根拠は不足しています」


 かれんは冷静だった。


 有料サイトの運営者が黒点を送り込んだとも言えない。


 宮原が何らかの《管理人》へ選ばれたとも断定できない。


 ただ。


 今までなら何でもない文章として流していた一文が、急に別の意味を帯び始めていた。


       *


 一旦の処置が決定された。


 宮原のWiki管理権限は停止。


 本人によるWikiへのアクセスも禁止する。


 端末類はすべて八咫烏が保管。


 宮原は引き続き、施設内の保護区画へ滞在する。


 Wikiのコピーは隔離環境のみで解析を続行。


 黒点の位置、《管理人》ページの表示、そのほかの異常を常時記録する。


 モニター上の黒点は、完全に停止したままだ。


 宮原も、少しだけ安堵した表情を見せた。


「……じゃあ、止まったんですよね?」


「今は」


 久我が答えた。


「今は、ですか」


「このままずっと止まるかは、まだ分かりません」


「……そうですよね」


 宮原は力なく頷き、護衛の職員と共に保護区画へ戻っていった。


       *


 解析室に、久我、かれん、そして分析担当の三人が残された。


 全員が、ようやく深く息を吐く。


「今日は、もうこれで終わりですかね」


 久我が肩を回す。


「黒点の監視は継続します」


 かれんが指示を出した。


 久我が部屋を出ようとドアノブへ手をかけた、その時だった。


「……待ってください」


 分析担当の声が、不自然に上擦った。


 久我が振り返る。


「どうしました?」


 分析担当は、Wikiの『管理者一覧』を食い入るように見つめていた。


 先ほど、宮原のアカウントはシステムから削除した。


 現在の管理者は、八咫烏が検証・保全用に作成した一つだけのはずだった。


 しかし。


 画面上には、


『管理者数:2』


 と表示されている。


「……二人?」


 久我が駆け寄った。


 分析担当が一覧を開く。


 一件目。


 八咫烏の管理用アカウント。


 二件目。


 見覚えのないアカウント。


 ユーザー名。


『administrator_2』


 どこにでもありそうな、あまりにも無機質な名称。


 登録日時。


 ほんの数秒前。


 作成者。


 空欄。


 IPアドレス。


 空欄。


 認証方式。


 不明。


 そしてステータス。


『ONLINE』


       *


「私じゃありません」


 分析担当が即座に否定した。


「他に、この隔離環境の管理権限を持っている人間は?」


 かれんが鋭く尋ねる。


「いません。そもそもこの環境自体、外部ネットワークから物理的に隔離されています。外からログインできる構成ではありません」


「宮原さんは?」


「保護区画です。それに、彼のアカウントは削除済みです」


「じゃあ……誰がログインしてるんです?」


 久我の問いに、誰も答えられなかった。


 分析担当がさらにシステムを確認する。


 アクセス元。


 なし。


 接続ログ。


 なし。


 ログイン処理。


 なし。


 セッション生成処理。


 なし。


 すべてが『ない』。


 なのに。


 管理画面には間違いなく、


『administrator_2 ONLINE』


 と表示され続けている。


「……ログインしたという記録が、どこにもありません」


「でも、今は?」


「オンライン扱いです」


 久我は、ふとモニターの隅へ表示された地図を見た。


 黒点は、止まっている。


 宮原へ近づいてはいない。


 次に、《管理人》ページを見る。


『宮原悠斗』


 そして、管理者一覧。


『administrator_2 ONLINE』


「……これ。このWikiの管理人が、一人増えたってことですか?」


 久我の背筋を、冷たいものが走った。


 かれんは答えなかった。


「この解析環境を封鎖します。端末には触れないでください」


「すでに外部からは切れています」


「そういう意味ではありません」


 解析端末そのものを含む区画を、物理的に隔離する。


 不用意に電源を落とすことも、機器へ触れることも許可しない。


 解析室のモニター。


 黒点は、動かない。


 代わりに。


 管理者一覧の最下段。


『administrator_2』


 その横にある小さな表示だけが、静かに点灯し続けている。


『ONLINE』


 どこから接続したのか。


 誰が作ったのか。


 何者なのか。


 何一つ分からない。


 ただ一つ確かなのは。


《本物かもしれない怪異情報保管Wiki》に今この瞬間触れているのは、もう八咫烏だけではないということだった。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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