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第57話 吸血鬼、他人の人生から帰ってくる

 十六人目。


 三浦直樹として普通に妻と夕食を食べ、退屈そうに笑った《空座喰らい》の監視は、その後も継続された。


「相手の場所がハッキリ分かったなら、今すぐ確保に行かないんですか?」


 久我陽介が、もどかしそうに皇かれんへ尋ねる。


 かれんは即座に否定した。


「二つ理由があります。一つは、本物の三浦直樹さんが現在どこに隠されているのか、全く分からないことです。怪異を下手に攻撃し、本体が死亡したと同時に被害者まで死亡、あるいは消滅する可能性を、現段階では否定できません」


 久我は納得した。怪異を倒すことが目的なら今すぐ踏み込めばいい。しかし、彼らの目的はあくまで行方不明者の救出だ。


「もう一つ。現在、同じ部屋のすぐ近くに三浦さんの奥様がいらっしゃいます。一般人を直接的な怪異との戦闘、あるいは不可解な現象に巻き込むわけにはいきません」


 かれんはタブレットの画面から目を離さず、冷徹に判断を下した。


「対象の怪異が単独になり、周囲から一般人が離れた瞬間に、こちらから接触を図ります」


 さらに、かれんは付け加えた。


「今回、私自身は現場の指揮へ同行しません」


 久我が少し意外そうな顔をする。今まで、現場のすぐ近くまで同行して指揮を執るのが彼女のスタイルだったからだ。


「相手は、非常に強力な『認識干渉型』である可能性が高い存在です。現場で接触する実働担当者と、全体を見渡す指揮担当者が、同時に敵の術の影響下へ入るリスクは絶対に避けるべきです」


「なるほど……」


 杖原つかさも、かれんの判断に深く同意した。


「怪異の認識範囲の外側に、必ず一人、正常な観測者を残すということですね」


 この徹底したリスク管理が、後になってどれほど重要な意味を持つか、この時の久我たちはまだ知らなかった。


       *


 その日の夜。


 三浦の妻との夕食を終えた《空座喰らい》は、少しして「ちょっとコンビニまで行ってくる」とでも言ったのだろう、一人でマンションの部屋を出た。


 自販機かコンビニへ向かう程度の、ごく普通で無防備な外出だった。


『対象が単独で移動を開始しました』


 監視班からの即報を受け、久我、七瀬澪、鏡宮千鶴、杖原の四人が指定されたポイントへ向けて静かに動く。


 同時に、マンションに残された妻の側は、八咫烏と警察の協力班が密かに安全確保へ動いていた。怪異には一切悟らせない。


 対象が歩くルート周辺も、自然な形で人流が減らされていく。深夜の道路工事や、設備点検による小規模な立体駐車場の封鎖など、日常にありふれた名目を使って、一般人だけを鮮やかに現場から排除していった。


       *


 誰もいない、照明の暗い裏通り。


 久我たち四人が、前を歩く三浦――いや、《空座喰らい》の背中へ追いついた。


「三浦直樹さん」


 久我が、背後からごく自然な声で呼びかけた。


 怪異は、何事もないように普通に振り返った。


「はい?」


 少し疲れたような、三十代の会社員特有の反応。完全に、三浦直樹という人間として応答している。


 久我は、相手の目を真っ直ぐに見据え、少し間を置いてから言った。


「……本当に、三浦直樹さんですか?」


 怪異の動きが、ピタリと停止した。


 数秒間の、奇妙な沈黙。


 そして。


「ふふっ」


 怪異は、笑った。


 それは、正体を見破られた怪物が本性を現すような、おどろおどろしい怖い笑いではなかった。


「ああ。やっと、分かったんだ」


 まるで、ちょっとしたいたずらが親に見つかった子供のような、ひどく軽い反応だった。


 その瞬間、怪異が自身に纏っていた強固な認識補正のフィルターを、自分からフッと少しだけ外した。


 久我たちの目にも、目の前の男の姿が揺らいで見えた。


 三浦直樹の顔がスッと消え、防犯カメラの補正映像で見た、『二十代後半から三十代くらいの、極端な特徴の薄い男性』の姿へと切り替わったのだ。


 千鶴が、即座に息を呑んだ。


「……あの時の、人影です」


 千鶴は「完全に同じです」と無責任な断定はしなかった。あの夜、鏡の向こうから白い非常口を出てきた影は、顔までははっきりと見えなかったからだ。


「ですが、今ならはっきりと分かります。あの夜、非常口から出てきたのは、間違いなくこの人です」


 目の前でその立ち姿や首の傾げ方を見たことで、あの時の反射像との一致を確信した。


       *


「八咫烏では、あなたを暫定的に《空座喰らい》と呼称しています」


 杖原が、いつでも結界を張れるよう構えながら告げた。


「空座喰らい?」


 怪異は、少し首を傾げて考えた。


「へえ。いい名前だね」


「自分の、本当の名前は?」


 久我が尋ねる。


「ないよ」


 怪異は即答した。少しの迷いもない。


「名前が必要な時は、その時やってる人の名前があるからね。困ったことなんてないし」


 三浦になる前は藤崎。その前は佐倉。さらに前は山岸。


 彼自身の名前など、最初から一度も持ったことがなかったのだ。


       *


 久我は、すぐに核心の本題へ切り込んだ。


「十五人の行方不明者。あなたがやったんですよね」


 空座喰らいは、少し不思議そうな顔をした。


「十五?」


 本当に、少しだけ考え込んでいる。指を折って数えるほど大げさな素振りすらしない。


「……ああ。今やっているこの人を含めなければ、それくらいかもね」


 久我たちの表情が、一斉に硬く険しくなった。


 こいつは、自分が消した人間の人数すら、正確に数えていなかったのだ。


 そこにあるのは、連続殺人鬼のようなドス黒い悪意ではない。『そもそも自分が行っていることが、被害を伴う誘拐事件であるという認識が完全に欠落している』という、怪異特有の純粋な無理解だった。


「その十五人は、今どこにいるんです?」


 久我が低い声で問う。


「僕の中、と言うのが一番近い表現かな」


「生きてるんですか!?」


 澪が、たまらず前に出て叫んだ。


「もちろん」


 空座喰らいは、何を当たり前のことを聞くんだという顔で答えた。


 全員の張り詰めていた空気が、一瞬だけ大きく変わった。


 十五人全員が、生存している。


「今の、三浦さんもですか?」


「うん。生きてるよ」


       *


 空座喰らい自身の口から、彼の能力の恐るべき詳細が語られた。


 彼が誰かの人生を乗っ取ろうとする時。


 その本人の精神を、非常に深くて強固な『幻の中』へと落とし込むのだという。


 本人は、その幻の中で、今まで通り自分の人生を何の疑問もなく生活し続ける。朝起きる。会社や学校へ行く。家族と話す。食事をする。夜眠る。


 本人からすると、何かを奪われた感覚も、自分が幻にいるという自覚も一切ない。完璧な日常のシミュレーションだ。


 一方、現実の世界では、その本人の社会的な『席』がポッカリと空く。


 空座喰らいが、その空いた席へとスッと入り込む。周囲の人間も、世界そのものも、彼が放つ強烈な認識干渉によって、空座喰らいを『本人』だと信じ込んでしまう。


 だからこその、《空座》。


「じゃあ、前の十五人たちも、ずっとその幻の中で生きているんですか?」


「うん」


「なんで、用が済んだなら解放してやらなかったんです?」


 久我の当然の疑問に、怪異はきょとんとした。


「だって、またその人の人生をやってみたくなるかもしれないから」


 ここが、最も恐ろしい点だった。


 彼は人間を殺すつもりなど、最初から微塵もなかった。しかし同時に、奪った人生を解放してやる理由も持ち合わせていなかったのだ。


 まるでお気に入りのゲームのセーブデータを残すように、ただ十五人の人間を『保存』していただけだった。


       *


「じゃあ、一体何のために、こんなに何度も頻繁に入れ替わっていたんです?」


 空座喰らいの答えは、あまりにもあっさりとしていた。


「色々な人になってみたかったからだよ」


「……それだけ、ですか?」


「それだけ」


 そして、本人は悪びれもせずに軽い感想を述べ始めた。


「会社員はさ、毎日同じ時間に起きて同じ電車に乗って、仕事って思ってたよりずっと退屈だったよ」


「大学生は面白かったな。でも、毎日似たような人とばかり会うんだね」


「年を取った人はちょっと大変だった。周りから昔の話を聞かれることが多くて、合わせるのに困ったよ」


「女の人は、着る服がいっぱいあって面白かった」


「家族がいる人って、毎日ずっと誰かと一緒にいるんだね。一人の時間があんまりなくて驚いたよ」


 どれも、一片の悪意もない、ただの無邪気な体験記だった。


 しかし、久我たち人間側からすれば、それは完全に他人の人生を踏みにじる連続誘拐事件でしかない。


 澪が、久我の後ろで小声で呟いた。


「……陽介さん、本当に『飽きてただけ』でしたね」


 久我は、数日前に自分が「まさか」と一笑に付したことを思い出し、少しだけ気まずそうに目を逸らした。


「……澪さん、大正解でしたね」


「うん?」


 空座喰らいが首を傾げる。


「いや、何でもないです」


 少しだけ空気が緩みかけた。


 でも、その直後。


「じゃあ、今の三浦さんにも、もう飽きてるんですか?」


 久我が鋭く問う。


 怪異は、ごく普通に答えた。


「うん。そろそろね」


 冷や水のような空気が戻る。


 もし今日、八咫烏が彼を捕捉できていなければ。三浦は明日か数日以内には確実に十六人目の失踪者となり、空座喰らいはまた別の新しい十七人目の『席』へと移っていただろう。


       *


 遠隔地の指揮所にいるかれんから、インカムを通じて質問が飛んだ。


『あなたは、どこから東京へ来たのですか』


 久我がその質問を口に出して繰り返すと、怪異は少し考え込んだ。


「どこから?」


 白い非常口。果ての見えない巨大な暗闇。その壁面に並んでいた、無数の赤い非常口。そして、現実への白い光。


「その前は?」


「ないよ」


「ない?」


「覚えてない、じゃなくて、最初から『ない』と思う」


 ここで初めて、八咫烏側の想定していた『搬入』の意味が大きく変わった。


 既存のどこかにいた怪異が、箱に入れられて東京へ運ばれてきたのではない可能性。


「気がついた時には、僕、あの暗いところにいたんだ。そして、白い扉がポンと開いたから、面白そうだからこっちに出てみた。その時が、たぶん僕の最初」


 つまり。


 あの『搬入』というプロセスそのものによって、この東京という街に、彼という存在が全くのゼロから《誕生》したのだ。


 ただし八咫烏はまだ、「あの有料サイトが、意図的に怪異を生成したのか」とまでは断定しない。


『その点については、後で詳細に検証します』


 かれんが通信越しに告げた。サイトそのものの謎は、依然として深く残ったままだ。


       *


「あなた、人間になりたかったんですか?」


 久我が、ふと気になって尋ねた。


 怪異は、即答した。


「違うよ」


 人間への憧れや、命への渇望ではない。


「別に、僕自身が人間になる必要なんてないよ。僕は僕だし。ただ……他の人の人生をちょっとやってみるのが、面白かっただけさ」


 これで、彼との価値観の決定的な違いがはっきりと浮き彫りになった。


「じゃあ、その十五人と、今の三浦さんを、俺たちに返してください」


「嫌だよ」


 怒りはなかった。当然の権利のように、あっさりと拒否した。


「またやりたいかもしれないからね」


「今後、新しく人間の人生を奪う行為も、今すぐ停止してください」


 杖原が厳しく言う。


「それも嫌だな」


「どうして?」


「だって、まだ色々な人をやってないから」


 ここで、完全に共存不能であることが確定した。


 彼は人間を殺したいわけではない。でも、本人の意思を完全に無視して他人の人生を奪うことを、止める気も全くないのだ。


       *


『対象を、即時確保します』


 遠隔のかれんが、冷徹に判断を下した。


『ただし、殺傷は厳禁です。対象は十六人の一般人の精神と、何らかの形で深く繋がっています。怪異を破壊すれば、人質までどうなるか全く分かりません』


 杖原が、即座に呪符を展開し、拘束結界を起動した。


 澪が、目にも留まらぬ速度で対象の背後へと回り込み、退路を完全に塞ぐ。


 久我は両腕に強固な《血装》を展開し、いつでも踏み込めるよう腰を落とした。


 千鶴は少し離れた位置から、反射による観測態勢に入る。


 空座喰らいは、完全に包囲された周囲をぐるりと見渡した。


「ああ。僕を捕まえるんだね」


「そりゃ、そうでしょうね」


 久我が低く唸る。


 ここで、少し意外な展開になった。


 空座喰らいは、拳を構えなかった。恐ろしい怪異の姿へ変貌することも、巨大化することもなく、武器を取り出すこともしない。


 むしろ、少し困ったように肩をすくめた。


「僕、誰かと喧嘩とかしたことないんだけど」


「じゃあ、大人しく捕まってください」


 背後の澪が鋭く告げる。


「それは嫌だな」


 澪の速度なら、瞬きする間に距離を詰められる。物理的な戦闘になれば、一瞬で終わる。実際、空座喰らい自身も、自分の肉体が圧倒的に脆弱であることを完全に理解しているようだった。


 だから。


「じゃあ、少し……『別の人』をやっててよ」


 彼が言ったのは、ただそれだけだった。


       *


 何の予兆もなかった。


 怪異特有の発光も、足元の不気味な魔法陣の展開も、強力な魔力の波動も、一切感じなかった。


 ただ、久我の視界が、ほんの一瞬だけグラリと揺れた。


 次の瞬間。


 久我、澪、千鶴、杖原の四人が、その路地裏の現場からフッと完全に消滅した。


 遠隔の外部指揮所。


 監視映像と生体モニターを注視していたかれんの目が、大きく見開かれた。


 四人の反応が、同時に、そして完全に消失した。通信も完全に断絶。


 画面の中の路地裏には、空座喰らいだけが一人、ポツンと残されている。


 かれんは、即座に事態の異常性を理解した。


「全班、対象への接近を直ちに中止してください!」


 周辺で待機していた応援班へ、鋭い命令を飛ばす。


「現場内へ、追加要員を絶対に入れないでください。対象の能力の有効範囲と条件が、全く不明です!」


 ここで、かれんを現地から意図的に外していたという事前の判断が、八咫烏の全滅を防ぐ決定的な正解だったことが証明された。


       *


 この空座喰らいの放つ幻術は、異常なまでに強力だった。


 単なる精神攻撃や、視覚を騙すだけの安い幻ではない。


 対象の『認識の根幹』へ向けて、「あなたは別の人間であり、この見知らぬ人生こそが、元からあなたの本当の人生だった」という強固な因果を、無理やり押し込んで上書きしてしまうのだ。


 普通の幻術なら、違和感に気づき、「これは夢だ」と認識できれば抜け出せる。


 しかし空座喰らいの場合、「これは夢ではないか?」と疑う自分自身の人格そのものが、徐々に別人の人格へと溶かされ、馴染んでいってしまう。


 だからこそ、Tier 1級の精神耐性を持つ者でさえ、一度完全に入り込んでしまえば、自力での脱出は極めて困難なのだ。


 彼は、この異常な幻術一点突破だけで生きている。


 物理的な攻撃力や防御力をすべて捨て、ステータスのすべてをここへ全振りした、極端な特化型怪異だった。


       *


 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。


 見知らぬ寝室。


 隣のベッドから、女性の声がした。


「起きないと遅刻するよ」


 久我が、ゆっくりと目を開く。


 誰だ? ここはどこだ?


 ……とは、全く思わなかった。


(ああ、妻か)


 当然のように、何の疑いもなくそう認識した。


 のそのそと起き上がり、洗面所へ向かう。


 鏡を見る。


 そこに映っているのは、三十五歳の『久我陽介』の顔ではなかった。全くの別人だ。


 しかし、久我の中に何の違和感も生じなかった。それが、元から自分の顔だと確信している。


 リビングへ行くと、妻から別の名前で呼ばれる。久我は、ごく普通に返事をした。


 スーツを着て、電車に揺られ、見知らぬ会社へ出勤する。


 自分のものだと思い込んでいる仕事のタスクをこなし、同僚と昼休みにランチを食べ、夜になれば満員電車で帰宅する。


 妻の手料理を食べ、テレビを見て、風呂に入り、就寝する。


       *


 一日だけではない。


 二日。三日。何日か経つ。


 久我の精神は、「自分はこの男だ」という強固な幻の認識へと、恐ろしい速度で深く馴染んでいった。


 自分は吸血鬼ではない。血なんて飲まない。魔眼も持っていない。八咫烏の夜間巡回なんて知らない。女子高生たちと一緒に怪異を追って命をかける生活なんて、どこにも存在しない。


 ただの、どこにでもいる、少し疲れた普通の会社員。


 一度だけ。


 夜の駅のホームで、淡い青色のカーディガンを着た制服姿の女子高生とすれ違った時、久我の心の奥底で何かが引っかかり、思い出しそうになった。


 でも。


(……誰だっけ?)


 それだけで終わった。その僅かな違和感すら、一晩寝れば翌日には綺麗に忘れてしまった。


       *


 夜。


 幻の自宅のリビング。


 久我がふと、真っ暗な窓ガラスを見た。そこには、やはり自分の顔だと思い込んでいる、知らない男の顔がぼんやりと映っている。


 その瞬間。


 現実の世界のどこからでもない。


 自分自身の魂の一番深い、どす黒い底の底から、冷たく傲慢な『声』が響いた。


『……この程度の輩の幻に呑まれるとはな』


 久我の動きが、ピタリと止まった。


 何を言われた?


 誰だ?


 しかし、その声が放った『幻』という一言が、楔のように久我の脳髄の奥深くに突き刺さった。


 一気に、すべての記憶が雪崩のように押し寄せてきた。


 自分は三十五歳だ。


 名前は、久我陽介。


 吸血鬼。魔眼。


 皇かれん。七瀬澪。鏡宮千鶴。杖原つかさ。


 夜間警備。有料サイト。白い非常口。


 十五人の行方不明者。三浦直樹。そして、《空座喰らい》。


「……ああ」


 久我は、顔を両手で強く押さえた。


 そして、魂の奥へ向かって低く呟いた。


「ありがとう。……思い出した」


 誰への礼なのか、久我本人にもよく分かっていなかった。しかし、その声は、二度と返事をしてはくれなかった。


       *


 幻の妻が、背後から幻の別名で久我を呼んだ。


 久我が、ゆっくりと振り返る。


 今度は、明確な違和感と嫌悪感があった。


「違います」


「え?」


 妻が不思議そうに首を傾げる。


「俺は、その人じゃない」


 久我は、もう一度窓ガラスに映る自分を見た。


 別人。完全に他人の顔だ。


 久我は、それをはっきりと否定した。


「俺は、久我陽介だ」


 パリンッ。


 その瞬間、窓ガラスに巨大な亀裂が走った。


 ガラスだけではない。壁。床。天井。空。


 久我が認識を書き換えたことで、この強固な幻の世界全体へ、致命的な亀裂がメキメキと走っていく。


 久我は、《空座喰らい》の作り上げた完璧な幻術を、内側から完全に否定し、破壊したのだ。


       *


 現実側。


 誰もいなくなった路地裏から、空座喰らいが興味なさそうに歩き去ろうとしていた。


 外部の指揮所にいるかれんは、遠隔操作で周辺の結界を何重にも封鎖している。対象の能力が判明していない以上、二次被害を防ぐため、追加の要員は絶対に入れない。


 久我たちが消滅してから、現実の時間ではまだ『数秒』しか経っていなかった。


 その時。


 空座喰らいが、突然ピタリと立ち止まった。


「……え?」


 彼自身の胸元、あるいは存在の輪郭そのものに、ガラスが割れるようなバキバキという亀裂のような異常が走る。


 次の瞬間。


 空間が弾け、久我が現実のアスファルトの上へと激しく叩き出された。


「ハァッ……ハァッ……!」


 久我は片膝をつき、肩で大きく息を荒らした。


       *


 空座喰らいは、目を丸くして久我を見た。


「あれー?」


 それは、本当に心の底から不思議そうな顔だった。自分の術を破られたことに対する怒りや焦りは、微塵もない。


「君、出てきたの?」


「……みたいですね」


「どうやったの?」


「俺にも、よく分かりません」


 それは嘘ではなかった。あの声がなければ、自分も永遠にあの幻の中で暮らしていただろう。


「おかしいなあ」


 怪異は、自分の手が透け始めているのを見て首を傾げた。


「あれ、もっとずっと強い人でも、絶対に抜けられない自信あったんだけどな」


 空座喰らいが最大出力の幻術を使った時、彼は自分の『存在核』そのものを、強固な幻術のシステムへ直接接続していた。


 理由は単純だ。


 彼は、自分の幻術が『破られる可能性』を全く想定していなかったのだ。


 まだ誕生して数週間。まともな戦闘経験もゼロ。今まで、誰一人としてあの完璧な幻から戻ってこられた人間はいなかった。


 だから、久我たち実力者四人を確実に一瞬で落とすため、後先考えずに全力で自分自身まで術へ乗せてしまったのだ。


 結果として、久我が内側からその幻の世界を完全に否定し破壊したことで、怪異の存在の成立そのものが致命的に崩壊してしまった。


「まあ、いいや」


 空座喰らいは少しだけ考えてから、笑った。


「僕の、負けってことだね」


       *


 空座喰らいの幻術領域が、音を立てて完全に崩壊していく。


 路地裏に、次々と人影が吐き出されてきた。


 まず澪。次に千鶴。そして杖原。


 三人が、アスファルトの上へ転がり出て、何が起きたのか分からず激しく混乱している。


 そして。


 一人。二人。三人。


 次々と、普通の服を着た一般の人間たちが、虚空から現れて倒れ込んだ。


 山岸健吾。佐倉美琴。藤崎誠司。その他十二人。


 最後に、本物の三浦直樹。


 合計十六人。全員、生存。


 周辺で待機していた救護班が、かれんからの安全確認の許可を受け、路地裏へ一斉に突入してきた。


       *


「……ここ、どこですか?」


 山岸が、救急隊員に支えられながら呆然と尋ねた。


「私、さっきまで大学の講義にいたはずなんですけど」


 佐倉も、周囲の夜の景色を見て混乱している。


「私の娘はどこにいる?」


 藤崎がキョロキョロと見回す。


 本人たちの認識では、彼らは数週間も狭い空間に閉じ込められていたわけではない。『ずっと普通に、自分の人生を送り続けていた』のだ。幻の中で。


 山岸は会社へ行き、佐倉は大学へ通い、藤崎は家族と生活していたと思い込んでいる。


 本物の三浦だけは、「駅から家へ帰ってる途中だったと思うんですが……なんでこんな路地裏に?」と首を傾げていた。


 つまり、先ほどマンションで妻と夕食を食べていたのは、完全に《空座喰らい》だったのだ。


 全員、大きな外傷はない。


 怪異は本当に、人間を物理的に壊してはいなかった。ただ、彼らの人生を、一時的に奪って楽しんでいただけなのだ。


       *


 空座喰らいの身体は、もうほとんど透明になりかけていた。


 久我が近づき、最後に聞いた。


「……あなた、人間になりたかったんですか?」


「いや。違うよ」


 怪異は、少しだけ寂しそうに笑った。


「たぶん僕は、人間が心の奥で持っている『他の人間になってみたいな』っていう、ありふれた欲求が、ただ形になっただけなんじゃないかな」


「……」


「そんな、大層な望みじゃないさ」


「だから、あんなに色んな人の人生に?」


「うん」


 会社員。学生。老人。女性。家庭持ち。


 色々やってみた。


「楽しかったよ」


 久我は、保護されていく十六人の一般人を見た。


「こっちは大騒ぎでしたけどね」


「そうみたいだね」


 謝罪はしない。反省もしない。ただ、人間の理屈は理解したようだった。


       *


 怪異が、自分の完全に透けた手を見た。


「短かったけど、面白かった」


 少しだけ、間を置く。


「……生まれてよかったとも思うよ」


 これが、彼の本質だった。


 人間側からすれば、迷惑極まりない誘拐犯だ。


 でも、彼自身にとって、この数週間は、紛れもなく普通に楽しい人生だったのだ。


「……そうですか」


 久我には、そう返すことしかできなかった。肯定も、否定もできなかった。


「じゃあ」


 怪異は、最後に満足そうに笑った。


「退場します」


 派手な光の粒子になるような演出はなかった。


 輪郭が薄くなり、人の形が少しずつ、夜の路地裏の背景へと溶け込むように消えていく。


 最後まで暴れることもなく。誰を呪うこともなく。復讐の言葉を残すこともなく。


 静かに、完全消滅した。


《空座喰らい》の事件は、これで終わった。


       *


 安全確認後、かれんが現場へと到着した。


 十六人全員の生存と保護を確認する。


「怪異反応、完全消失しました」


 杖原が安堵の報告を上げる。


 今回の評価。


《空座喰らい》自体には、直接的な戦闘能力はほぼ皆無だった。しかし、精神と認識への干渉能力だけに限れば、Tier 1級の能力者すらも完全に拘束し得る、異常な水準だった可能性が高い。


「私、あの時……本当に何もできませんでした」


 澪が、悔しそうに俯く。


「私もです。結界を展開する隙すらありませんでした」


 杖原も唇を噛む。千鶴も、自分が幻に落とされたと気づくことすらできなかった。


 つまり、久我の単独での脱出だけが、あまりにも異常だったのだ。


「久我さん」


 かれんが、真っ直ぐに久我を見た。


「はい」


「あなたは、どのようにしてあの強固な幻術を解除したのですか?」


 久我は、少し迷った。しかし、下手な嘘はつけない。


「……声が、聞こえました」


「「声?」」


 全員が不思議そうに繰り返す。


「誰かに、『これは幻だ』って、頭の中で気づかされたんです」


「誰の声ですか?」


「……分かりません」


 久我は正直に答えた。本当に分からないのだ。ただ、あれが自分の外側から聞こえた声ではなかったことだけは確かだった。


 これ以上は、本人にも説明のしようがない。


 かれんはしばらくの間、久我の目をじっと探るように見ていた。


 しかし、それ以上無理に追及することはしなかった。


「分かりました。後ほど、その内容で記録だけ残してください」


「はい」


       *


 事後整理。


 今回確実になったのは、《空座喰らい》には、『白い非常口』から出てくる以前の記憶が、一切存在していなかったということだ。


 つまり、「既存の怪異が、有料サイトによってどこかから東京へ運び込まれた」という従来の八咫烏の想定が、根底から間違っていた可能性がある。


「『搬入』とは、必ずしも既存の何かを物理的に運んでくることを意味しないのかもしれません」


 かれんが推測を述べる。


「現象、概念、人間の欲求、あるいは怪異の成立条件そのものをこちらの世界へ持ち込み、現地でゼロから『成立』させる……という可能性もあります」


 杖原も同意した。


 ただし、あの有料サイトが意図して《空座喰らい》を生成したのかどうかは不明だ。


 謎を一つ回収したことで、サイトそのものの底知れない謎は、むしろさらに深くなってしまった。


       *


 救護され、毛布にくるまっている十五人と三浦。


 最初の失踪者であった山岸が、救急隊員に尋ねているのが聞こえた。


「あの、妻に連絡してもいいですか。急にいなくなって、心配してると思うんで」


 数週間も失踪していた本人にとっては、それは『ほんの少しだけ変な一日を過ごして、帰りが遅くなった』程度の認識なのだ。


 久我が近づき、優しく答えた。


「もちろんです。奥様も、お待ちですよ」


 十六人とも、無事に帰ってきた。《空座喰らい》は消えた。


 久我は、路地裏の壁にもたれかかりながら、一度だけ、あの幻の中で聞いた声を思い出した。


『……この程度の輩の幻に呑まれるとはな』


 あれは、一体誰だったのか。


 分からない。


 ただ一つだけ分かるのは、あの声がなければ、自分も今頃、存在しない誰かの人生を本物だと思い込んだまま、永遠に生き続けていたということだ。


 久我は、少しだけ背筋を寒くして身震いした。


 そこへ、澪がトコトコとやってきた。


「陽介さん」


「はい?」


「さっき言ってたその声って、女の人の声でした? それとも男の人でした?」


 久我は、少し考えた。


「……それすら、よく分からないんですよね」


 千鶴が横で聞いていて、身をすくめた。


「なんだか、余計に怖くなりました」


「ですよね」


 久我は苦笑した。


 そして、十六人を乗せた救急車が、赤色灯を回しながら順番に深夜の現場を離れていくのを、彼らは静かに見送った。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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