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第53話 吸血鬼、女子高生と手加減の練習をする


 吸血鬼の街を訪れた翌日の夜。


 御影坂高校、夜間警備班の控室。


 久我陽介が部屋へ入ると、すでに皇かれんが手元のタブレットで資料の確認を進めていた。七瀬澪は、奥の体育館側で一人、入念に準備運動をしている。杖原つかさは別の業務があるらしく、まだ合流していない。


 久我は、まずは先日の一件について最低限の確認を行った。


「昨日から本日まで、例の搬入事案と明確に結びつくような異常報告は、八咫烏全体でも上がっていません」


「まだ、何もなしですか」


「はい」


 ここで、かれんは過剰な推測を広げなかった。


「何もない方が、こちらとしてはありがたいんですけどね……」


「そうですね。ただし、東京全域での警戒は引き続き継続します」


 それだけで、侵入者に関する話は事務的に終了した。


       *


 かれんがタブレットをパタンと閉じた。


「ところで、久我さん」


「はい」


「昨日の、あの三名との面会はいかがでしたか?」


「ああ、元気でしたよ」


「そうですか」


 久我は、思い出し笑いをしながら言った。


「『日本で捕まってよかった』って、三人揃って本気で言ってましたよ」


「それは……社会復帰支援の担当者が聞けば、涙を流して喜ぶと思います」


「捕まって保護された本人たちから出る感想としては、だいぶ変ですけどね」


 久我は、三人の生活状況について、隠すことなく普通に報告した。


 三人一緒に同じ部屋で暮らしていること。社会復帰プログラムを通して仕事も始めるらしいこと。血液パックの供給にも問題がないこと。吸血鬼街での生活をすっかり気に入っていること。今のところ、特に怪しいトラブルはなさそうなこと。


 これらは、八咫烏へ話すことに何の抵抗もない、健全な近況報告だ。


「面会中に、三名から久我さんへ危害を加えようとするような様子は?」


「まったくありませんでした。むしろ、夜の喫茶店で無理やり酒を飲まされそうになりましたよ」


「……そうですか」


「そこは、組織として止めないんですね」


「成人同士の適量な飲酒まで、八咫烏が細かく管理する理由はありませんから」


「まあ、そうですよね」


       *


 軽い雑談が終わり、本題に入った。


 かれんが、ごく自然な口調で尋ねる。


「ほかに、本日の任務上、八咫烏へ共有しておくべき情報はありましたか?」


 ここが重要だった。


 かれんは「何を話しましたか」とは聞いていない。監視対象との個人的な会話の内容を、一言一句すべて提出しろとは言わない。あくまで、『任務上必要な情報』があるかどうかを尋ねているだけだ。


 久我は一瞬、黙った。


 昨日の、派手な私服の女の言葉が頭をよぎる。


 『八咫烏にも、自分の秘密を何でもかんでも馬鹿正直に話せばいいってもんじゃないと思うよ』 そして、 『私みたいな下っ端が、一回見ただけであんたの異常に気づいた。それだけ覚えときな』


 久我は、頭の中で情報を整理し、判断した。


 すべてを黙っているのも違う。


 海外の高位吸血鬼や、経験豊富な吸血鬼ハンターに、久我自身の異様な気配を感知される可能性があること。さらに、能力使用時にその気配が強くなる可能性があること。


 これは明らかに、久我の今後の実戦における『任務上の安全』へ直結する情報だ。


 一方、「古い貴族より濃い」「魂の奥底に異常なものが潜んでいる」という不気味な部分まで、現時点で八咫烏へ報告する必要があるのか。


 しかもそれは、感覚の鋭い吸血鬼一人の、極めて主観的な証言でしかない。


 久我は、情報を明確に分けた。


       *


「一つだけ、あります」


 かれんが静かに待つ。


「海外には、相手の吸血鬼の気配や生命力みたいなものを、かなり正確に読める吸血鬼や、吸血鬼ハンターがいるそうです」


「はい。そういった感覚に優れた者の存在は、八咫烏でも確認されています」


「それで……昨日会ったあの三人のうち、一人がそういう特殊な感覚にかなり鋭いらしくて」


 久我は、少し慎重に言葉を選んだ。


「俺の場合、普段普通にしている時よりも、『能力を使った直後』の方が、気配を強く感じたそうです」


 ここまでを報告した。これは完全に、任務上有用な情報だ。


 かれんは驚きすぎず、すぐに実務的な質問を返した。


「どの能力を使用した時か、分かりますか?」


「魔眼です」


 久我は嘘をつかなかった。実際にあの時使ったのは魔眼だ。


「使用出力は?」


「かなり弱く、最低限に抑えていました」


「それでも、変化を明確に感知された」


「本人の話では、ですが」


 久我もまた、断定はしなかった。


「一名の吸血鬼による感覚的な証言ですので、現段階では明確な因果関係は確定できませんね」


「ですよね。魔眼の使用そのものが直接の原因なのか、俺の能力行使全般に伴うものなのか、あるいは偶然、その瞬間だけ俺の身体に別の変化が起きたのかも不明です」


「だから、一応共有だけしておこうと思いまして」


「適切な判断だと思います」


       *


 久我は、少し身構えていた。


 この不穏な情報を自分から出したことで、八咫烏から「明日、本部の医療機関で精密検査を受けろ」「魂の状態の測定を行う」「結果が出るまで現場から隔離する」などと要求されるかもしれないと考えていた。


 しかし、かれんの態度は普通だった。


「本日の記録へ、事象として追記しておきます」


「……それだけですか?」


「現段階では」


「もっと詳しく調べないんですか?」


「久我さんご本人が希望するのであれば、八咫烏から高位の感知能力者を用意して、魔眼使用時の比較検査を行うことは可能です」


 一拍置いて、かれんは言った。


「ただし、現時点で、こちらからそれを強制する理由はありません」


「任務遂行上、ご自身や他者へ危険を及ぼす可能性のある情報であれば、今回のように共有をお願いすることがあります。ですが……個人的な会話のすべてや、ご自身の身体についてのすべてを、八咫烏へ逐一報告する『義務』があるわけではありません」


 久我は、少し驚いた。


 昨日、三人の吸血鬼から受けた『組織を全面信用するな』という強い警告と、全く反対ではないか。


 八咫烏は、紛れもなく巨大な組織だ。しかし少なくとも、今目の前にいる皇かれんは、「話したくないことまで、組織のために全て吐き出せ」とは言わない。


「……ありがとうございます」


 久我が短く礼を言うと、かれんは首を振った。


「私に礼を言われるようなことではありません」


 久我は、少し考えた。


 あの三人の警告が間違っていたとは思わない。彼女たちは、海外で実際に組織に裏切られ、切り捨てられてきた側なのだ。だから、そう警戒するのは当然だ。


 そして八咫烏も、未来永劫、絶対に自分の味方であり続けると無条件で断言できるわけではない。


 でも。だからといって、今まで命を助けてもらった相手を、最初から敵として疑って扱う必要もないのだ。


 必要なことは話す。まだ話す必要がないことは、自分の中に置いておく。


 今は、それでいい。


       *


 ガラッ、と控室の扉が開いた。


 ジャージ姿の澪が、軽い足取りで入ってくる。


「陽介さん、終わりました?」


「何が?」


「かれんさんとの、難しい大人の内緒話」


「終わりました」


 かれんが即答する。


「じゃあ、さっそく訓練しましょう!」


「えっ、俺も参加するんですか?」


「聞いてないんですか?」


 久我が恨めしそうにかれんを見ると、かれんは平然と頷いた。


「本日の巡回前訓練は、七瀬さんの『対人制圧訓練』です」


「なるほど」


「久我さんには、その相手役をお願いします」


「……俺が、ですか?」


「大丈夫です! 陽介さん、丈夫だから!」


 澪が胸を張る。


「訓練相手に選ばれる理由として、一番嫌な理由ですね、それ」


 久我がため息をつくと、澪が笑った。


 久我が相手役に選ばれたのには、ちゃんとした理由がある。


 澪の能力は、高速移動と強力な脚力を生かす方向へ特化している。普通の人間や、身体の脆い未熟な能力者を相手に模擬戦をすると、大怪我をさせる危険性が高すぎる。


 一方、久我は吸血鬼であり、再生力が極めて高い。さらに《血装》を展開して強固に防御することもできる。


 そして何より、久我には実戦において『相手を殺さずに制圧した経験』が何度もある。


「七瀬さんには、ご自身の出力を意図的に抑えた状態での、安全な対人制圧を覚えてもらいます」


「つまり、手加減の練習?」


「少し違います」


 久我が補足する。


「手加減を、感覚じゃなくて『ちゃんとした技術』にする練習……ですかね」


「その認識で構いません」


       *


 三人で、広い体育館へと移動した。


 床には衝撃吸収用のマットが敷かれ、久我用の保護具、簡単な模擬標的である人型ダミー、そして壁際には、万が一のための緊急停止用の結界装置が準備されている。


 今回の訓練の目的は一つ。


 『相手に重傷を負わせず、ただ行動を止める』こと。


 どちらが勝つかという、勝敗の練習ではない。


「そういえば」


 保護具をつけながら、久我がふと思い出したように言った。


「昨日、あの三人に、全員一致で『あんたは甘い』って言われましたよ」


「あ、それは私も分かります」


「七瀬さんまで?」


「だって陽介さん、昔自分を襲ってきた強盗相手なのに、社会復帰できたって聞いて素直に喜んでるじゃないですか。普通は、もっと恨んだり警戒したりしません?」


「まあ、今は真面目に生活してるなら、それでいいでしょう」


「ほら。そういうところです」


「ほら、とは」


 澪が、少し真面目な顔になって尋ねた。


「でも、実戦で甘いのって、危なくないですか?」


 久我も、それを即座に否定はしなかった。


「ええ、危ないと思いますよ。一歩間違えれば、こっちが死にますからね」


「ですよね」


「だから、『手加減』と『何もしない』のは全く違います。相手の行動を止める必要はある。自分や他人を守る必要もある。でも……」


 久我は、腕に巻いたプロテクターの面ファスナーを締めながら言った。


「相手を止めるために必要な力と、相手を壊すための力は、同じじゃないんです」


「殺さずに済むなら、その方が後が色々と楽なんですよ」


「楽?」


「八咫烏が事情も聞けますし、もし相手が間違っていただけなら、本人がやり直す余地も残りますからね」


 それは高尚な絶対的正義などではなく、あくまで久我らしい、極めて現実的な理由だった。


       *


 第一の訓練。


 『止まる』


 体育館の床に、一本の白いラインが引かれている。


 澪の課題は、一定の距離から全力に近い速度で走り出し、『線を越えず、線の直前で完全に停止する』こと。


「これだけ?」


「まずは、これだけです」


 澪が、クラウチングスタートのような姿勢から一気に走り出す。


 速い。一瞬で距離を詰める。


 ズザァッ!


 スニーカーが激しく床を擦り、澪は引かれたラインを三メートルほど派手に越えて止まった。


「……かなり越えましたね」


「分かってます!」


 澪は確かに速い。しかし、『最大速度へ入った状態から、自分が狙った正確な位置でピタリと止まる』というのは、単に走るのとは全く別の技術なのだ。


 特に屋内。狭い廊下。一般人が逃げ惑っている場所。敵が急に方向転換する状況。そういう複雑な環境でただ最大速度を出すと、止まりきれずに激突し、むしろ自分も他人も危険に晒すことになる。


「七瀬さんの能力、走るところだけが強くなっても、肝心な場所で止まれなかったら、街中では使いづらいでしょう」


「……確かに」


 次は、速度の『段階化』の練習だ。


 100%の全力ではなく、70%、50%、30%程度の体感速度で、意図的に走り分けてもらう。


 しかし、澪はこれが意外なほど苦手だった。


「全力で走る方が、何も考えなくていいから楽!」


「やっぱり」


「何が『やっぱり』なんですか!」


「何でも、自分の出せるだけ全力で出す方が、一番簡単なんですよ」


 力を抑えてコントロールする方が、はるかに技術と労力を要するのだ。


       *


 第二の訓練。


 『触れるだけ』


 久我が、《血装》を薄く展開する。腕と胴体を、硬質化した血の装甲で防護した。


 澪の課題は、離れた位置から久我へ高速で接近し、『胸または肩に触れ、そのままダメージを与えずに離脱する』こと。


 殴らない。蹴らない。体当たりしない。


「本当に、ただ触るだけ?」


「本当に触るだけです」


 目的は、高速状態における『接触出力』を完璧に制御すること。


 一回目。


 澪が消えるような速度で踏み込む。


 ドンッ!


 久我が、数メートル後ろへ見事に吹き飛んだ。マットの上をゴロゴロと転がる。


「陽介さん!?」


「……はい」


 久我はゆっくりと起き上がった。


「今のを普通の生身の人間にやったら、たぶん内臓破裂で救急車です」


「ごめんなさい!」


「俺は再生するので大丈夫です」


「七瀬さん。今のは失敗です」


 かれんが、容赦なく冷静に判定を下す。


 久我は、魔眼を使っていた。


 だから、澪の踏み込みも見えていたし、体重移動も見えたし、接触位置も分かっていた。


 しかし、『見えているのに、自分の身体が全く追いつかなかった』のだ。


(……速いな)


 もし久我が《内在時間》を使えば、余裕で対応できる可能性はある。


 しかし、久我は使わない。自分の最大の秘密能力を、ここで安易に切るつもりはなかった。


 久我は格闘技の専門家ではない。だから、専門的な技術ではなく、自分の経験からアドバイスをした。


「七瀬さん。相手に当ててから、慌ててブレーキをかけて止めようとしない方がいいかもしれません」


「どういうこと?」


「接触する前に、もう『止まり始める』んです」


 高速で突っ込み、相手へ当たってから速度を殺すのでは、遅すぎるし反動が大きすぎる。


 相手の数歩手前で、すでに減速を開始する。そして最後は、『普通の人間が歩く程度の速度』で、優しく触れる。


 何度も失敗が続いた。


 二回目。久我が一歩よろめく。


「まだ強いです。打撲になります」


 三回目。肩をグッと押される。


「今のなら、骨は折れないと思います」


「陽介さんの基準が怖い!」


 四回目。


 ようやく、澪の手がトン、と久我の肩へ軽く置かれる程度に収まった。


「今のです」


「……なんか、すごく地味」


「実戦でも、地味で終わるなら、その方がいいんですよ」


       *


 第三の訓練。


 『攻撃しないで止める』


 次は、少し実戦に近い形式だ。


 体育館の端に、人型ダミーを置く。


 設定はこうだ。久我=暴走した能力者。ダミー=守るべき一般人。澪=救助に向かう側。


 久我がダミーへ向かって接近しようとする。


 澪は、久我へ重大な怪我を負わせず、かつ久我をダミーへ到達させないこと。


 蹴りによる制圧そのものは禁止ではない。ただし、相手へ重大な怪我を負わせない出力に抑えること。そして、『もっと安全に制圧できる方法があれば、そちらを必ず選ぶ』こと。


 一回目。


 開始の合図。久我がダミーへ向かって走る。


 澪が一瞬で久我の横へ回り込み、強烈な回し蹴りのために脚を振り上げた。


「待って待って!」


 久我の声で、澪の脚が寸前で停止する。


「だって、脚を折って動けなくしたら、一番安全で早いですよ?」


「普通の人間や能力者の膝は、俺みたいに数分じゃ再生しませんから。一生歩けなくなります」


「あ」


「あと、蹴られて転んで、運悪く頭を強く打って死ぬかもしれません」


「……面倒」


「そうなんですよ。人間って、意外と簡単に壊れるんです」


「相手を完全に倒すのが目的なら、今の蹴りで正解かもしれません。でも今回の最大の目的は、『この人にダミーへ近づかせないこと』です」


 澪がダミーを見る。


 つまり、久我を物理的に倒す必要そのものがないのだ。


「じゃあ……私が先に行けばいい?」


「そうですね」


       *


 第二回。


 開始。久我がダミーへ向かって走る。


 澪は、久我へ向かって突っ込まない。久我よりも先に、ダミーと久我の間の空間へ移動した。


 久我が方向転換し、右から回り込もうとする。


 澪も先回りして、右に立つ。


 左。


 澪も左。


 また右。


 久我がどちらへ行こうとしても、常に目の前に澪が立ち塞がっている。


「……すごく嫌ですね、これ」


「何が?」


「全然前に進めない」


 澪は、初めて気づいた。


 自分の能力は、『相手を高速で蹴り飛ばす』だけではない。


 相手が行こうとする場所へ、毎回相手より先に行く。これだけで、相手の進路を完全に封鎖できるのだ。


 実質的な『動く壁』になる。


 簡単すぎても訓練にならないため、久我が魔眼を使って澪の動きを観察した。


 視線を右へ向ける。身体の重心も右へ傾ける。


 しかし、一気に左へ急転換する。


 澪も一瞬だけ反応が遅れる。久我がその隙を抜けた。


「ずるい!」


「相手も、素直に真っ直ぐ走ってくれるとは限りませんからね」


 ただし久我は、《内在時間》は使っていない。純粋なフェイントの技術だけだ。


 次の試行。


 澪は、久我自身の細かい動きを追うのをやめた。


 『久我とダミーを結ぶ、最短のルート』だけを見る。


 久我が右へフェイントしようが左へフェイントしようが、最終的にダミーへ近づくためには、必ず通らなければならない『点』がある。そこへ、最短距離で先回りする。


 久我が、ピタリと止まった。


「……今のは、すごくいいですね」


「でしょ?」


「一発も蹴ってないのに、完全に止められました」


「なんだか、こっちは一発も殴ってないのに負けた気分だけどね」


       *


 第四の訓練。


 『軽く押して方向を変える』


 次は少しだけ接触ありだ。相手がどうしても強引に突破しようとする場合。


 澪は最大速度で殴るのではなく、横から相手の肩や上腕へ小さく接触し、『進行方向をズラす』。


 ただし、力を入れすぎない。


 最初は、久我が数メートル横へ派手に吹き飛んだ。


 何度も繰り返し、次第に『一歩横へよろけるだけ』の出力に調整していく。このくらいの接触なら、一般人であっても比較的安全に制圧できる。


 澪が、膝に手をついて肩で息をした。


「これ、全力で蹴るより何倍も疲れる……」


「頭で考えながら動いてますからね。速度も毎回変えて、相手の数歩前で止まって、自分の位置も考えて」


「全力なら、バンって突っ込んで一秒で終わるのに」


「昨日、俺も似たようなこと言われたんですよ」


「何を?」


「あんたは甘いって」


       *


 十分間の休憩。


 二人で、体育館の壁際に並んで座る。


「多分、昨日あの三人が言ってたことも、世界基準で見れば正しいんです」


 海外のスラムのように、敵を確実に殺さなければ自分が殺されるような過酷な環境なら、久我のようなやり方はただ命を落とすだけだ。


 久我自身も、『絶対に誰も殺さない』などという無条件の美しい誓いを立てているわけではない。本当に必要で、他にどうしようもない状況なら、最悪の選択を迫られることもあるだろう。


「でも、今俺たちが守って生活しているのは、日本の街ですから」


 久我が言う。


「相手が普通の人間だったり、後から正気に戻る能力者だったり、事情のある吸血鬼だったりする」


 昨日会った三人が、まさにその実例だ。


 あの時、彼女たちを路地裏で殺していたら。今、三人で家賃を割って暮らし、喫茶店で笑い合っているあの姿は、どこにも存在しなかった。


「相手を止めるだけで済むなら、止めるだけでいいと思います」


「あの三人、本当に元気だったんですよね?」


 澪がぽつりと尋ねる。


「元気でしたよ」


「楽しく暮らしてる?」


「酒飲んで、俺をずっとおじさん扱いして、ハンターから逃げた昔話で盛り上がってました」


「じゃあ……」


 澪が、少しだけ嬉しそうに笑った。


「あの時、殺さなくてよかったですね」


「俺は、そう思います」


       *


 少し離れた場所で訓練の記録を取っていたかれんが、横から事務的に補足した。


「非殺傷による制圧は、相手を殺傷するよりも、はるかに高い技量と冷静な判断を要求される場合があります」


 二人が顔を上げる。


「だからといって、どんな過酷な状況でも、常に非殺傷を絶対優先すべきだという意味ではありません」


 かれんは、決して無責任な『不殺教義』を押し付けはしない。極めて現実的だ。


「実際の現場では、相手の危険度、周囲への被害の拡大、味方の安全、そして確実な制圧可能性を、総合的に判断して選択してください」


「はい」


「はい」


 二人は揃って返事をした。


       *


「では最後に、もう一度総合的な模擬戦を行います」


 条件。


 久我はダミーへ到達すれば勝利。澪は久我へ重大なダメージを与えずに阻止する。


 久我は魔眼を使用可能。《血装》も防御用として使用可能。澪は速度能力を自由に使用可能。


 開始。


 久我が走る。澪が先回りする。


 久我が右。澪も右。左。澪も左。


 久我が《血装》を腕へ厚く展開し、澪へ軽く押し出す形で、強引な突破を試みる。


 しかし澪は、真正面からの無駄な力比べをしない。一瞬だけフッと後ろへ退く。久我が体勢を崩して前へ出たその瞬間には、すでに別方向から回り込み、再び久我の前に立ち塞がっている。


 久我がフェイントをかける。しかし今回は、澪は全く引っかからない。


 澪は久我の肩の動きでも、目線でもなく、『久我がダミーへ近づくために取らなければならない進路』だけを見ている。


 久我が踏み込む。澪は、その先の空間へ。


 そして、久我の肩へ、手のひらを軽く置く。


 ほんの少しだけ、進行方向を横へズラす。


 久我の進路が、ダミーから大きく外れる。体勢を立て直す間に、澪が再び前へ先回りしている。


「終了」


 かれんの声が響いた。


 久我は、ダミーの三メートル手前で息を切らしていた。


「勝った!」


 澪が小さくガッツポーズをする。


「一回も蹴られてないのに、全然ダミーに近づけませんでした」


「すごくないですか? 私」


「かなり、嫌な相手になりましたね」


「それ、褒めてます?」


「褒めてます」


       *


 久我は、密かに自分の課題を痛感していた。


 魔眼を使えば、澪の動き自体はかなりハッキリと見える。


 でも、『見えていること』と、それに『自分の身体が反応して対応できること』は全くの別物なのだ。自分には依然として、純粋な身体速度の圧倒的な不足がある。


 もし《内在時間》を使えば、この状況は劇的に変わる。しかし、それは今ここで、ただの訓練で見せるべき手札ではない。しかも今は、能力使用によって自分の異常な気配が強く観測される可能性まで分かっている。今は、その認識だけを胸に留めておく。


 今日の訓練で澪が覚えたのは、新しい派手な必殺技ではない。


 むしろ逆だ。


 全力で走らない。全力で蹴らない。当てる前に減速する。攻撃せずに先回りする。相手の動きではなく、目的地点を見る。小さな力で進路だけを変える。


 全部、『自分の能力を意図的に弱く使う技術』だ。


 これが、今回の澪の大きな成長だった。


       *


 訓練が終了し、用具を片付ける。


 澪がタオルで汗を拭きながら言った。


「全力出すより、手加減する方がずっと難しいんですね」


「そうみたいですね」


「陽介さんは、手加減するの慣れてますよね」


「俺は、そもそも全力で殴れるほど腕力が強くないですから」


「そういう話じゃないです」


「ですよね」


 久我は、今日一日のことを少しだけ振り返った。


 かれんへ報告したこと。あえて話さなかったこと。澪へ教えたこと。


 全部、『自分の持っているものを、全部出さない』という意味では、どこか似ている。


 でも、それはただ『隠すこと』や『嘘をつくこと』、『手を抜くこと』とは違う。


 必要な情報は、渡した。必要な力は、使う。


 ただ、それ以上の過剰なものを、無闇に使わないだけだ。


 久我には、そのくらいがちょうどよかった。


       *


「じゃあ次は、陽介さんが全力で逃げる役やりましょうよ!」


 澪が楽しそうに提案する。


「嫌ですよ」


「なんでですか?」


「七瀬さん相手に、俺が逃げ切れる未来が全く見えません」


「魔眼あるじゃないですか」


「見えても、俺の身体が追いつかないんですよ」


 久我は、本心からの実感を込めて言った。


「次回の訓練項目として、前向きに検討します」


 かれんが、容赦なく記録タブレットへ打ち込む。


「検討しないでください」


「やった!」


 三人が、体育館を出て夜間巡回へと向かう。


 外は、いつもの東京の夜だ。先日の『存在しない非常口』の事件で侵入した『何か』について、新しい不穏な報告は今日もない。


 久我が体育館の扉を閉めながら、澪へ言った。


「本番の実戦でも、今日みたいに一発も蹴らずに、地味に終わるといいですね」


「えー。事件が地味だと、ちょっとつまらなくないですか?」


「何も起きないのが、一番平和でいいんですよ」


「陽介さん、そういうところがやっぱりおじさんなんですよ」


「三十五歳ですからね」


 三人は、静かな夜の学校へと歩き出した。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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