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第51話 吸血鬼、何も起きなかった夜を警戒する

 御影坂高校、特別教室棟一階。北側廊下の突き当たり。


 赤い非常口表示の下で、存在しないはずの灰色の金属扉が、向こう側から強い力で押されている。


 誰も触れていないパニックバーがガチャリと沈み込み、分厚い扉がこちら側へ数センチだけせり出した。


 校内放送の無機質な合成音声が響く。


『全非常口の開扉まで、あと十九分です』


 久我陽介は反射的に、せり出しつつある扉へ手を伸ばしかけた。


 しかし、背後の皇かれんが鋭い声で制止する。


「触れないでください!」


 久我は即座に両手を止めた。


「でも、このままでは開きます!」


「こちら側から直接触れることも、『開扉手順』の一部として怪異に認識される可能性があります」


 記事の手順には、『非常口表示が赤色へ変わった後、現れた扉を完全に開くこと』としか書かれていない。


 誰が、どちら側から開けるのか。何をもって『完全に開いた』と判断されるのか。条件の細部が不明なのだ。押し戻そうとして扉を物理的に動かした結果、かえって怪異の開扉条件を満たしてしまう可能性すらある。


「……では、直接触れずに止めます」


 久我は一歩下がり、両腕へ向けて自身の血液を噴出させた。


《血装》を展開する。しかし、扉そのものを直接押さえるのではない。


 床と左右の壁へ向けて血液を這わせ、硬質化させる。扉の真正面に、強固な血の格子状の支柱を瞬時に組み上げた。


 床のコンクリートへ深く食い込む二本の太い柱。左右の壁へ突っ張るように伸びる横木。扉がこちら側へ開こうとした時だけ、その面全体で受け止める構造だ。扉やパニックバーには直接触れていない。久我自身も、その血の格子越しに全体へ体重をかけて押さえ込む。


 ミシミシッ、と。扉が開こうとするたび、硬質化した血の格子が軋む音を立てた。


「これなら、俺は扉そのものは動かしていません」


「その状態を維持してください。ただし、異常があればすぐ離れてください」


「離れたら、この扉が開きそうなんですが」


「それでも、久我さんが扉の向こうへ引き込まれるよりはましです」


 久我は、その合理的な判断を否定できなかった。


       *


 鏡宮千鶴は、廊下横の窓ガラスに映る『もう一つの廊下』を見続けていた。


 現実の扉は、久我の《血装》によって閉じている。


 しかし鏡面側では、すでに金属扉は完全に開ききっていた。


 その向こうには、無数の赤い非常口が果てしなく並ぶ巨大な暗闇が広がっている。御影坂高校へ侵入していた見知らぬ一般人は、その暗闇の縁に立ったまま、全く動かない。手にスマートフォンを持っているが、画面は消えている。


「こちらの声は届きませんか?」


 久我が尋ねる。


「反応がありません。声が聞こえていないのか、身体を動かせないのかも分かりません」


「鏡の中へ入れば、その人を助けられますか?」


 千鶴はすぐには答えなかった。


 通常の《鏡渡り》の能力を使えば、鏡面を経由してその人物へ近づける可能性はある。しかし、現在見えているのは通常の鏡面空間ではない。東京中に散らばった非常口が、無数の鏡面や壁面を介して重なり合っている、正体不明の巨大領域なのだ。


「……許可できません」


 かれんが冷徹に告げる。


「ですが、このままでは――」


「千鶴さん。今の空間が、あなたの《神鏡返し》の支配下にある保証がどこにもありません。入った後、現実へ戻れるとも限りません」


 千鶴が、ギリッと唇を噛む。


 久我も、必死に血の支柱を支えながら千鶴へ告げた。


「一人を助けるために、千鶴さんまで同じ場所へ飛び込むのは違います。今は、見続けてください。鏡の中の変化は、千鶴さんにしか分からないんですから」


「……はい」


 千鶴は迷いながらも、深く頷いた。


 以前の彼女なら、家から課せられた『自己犠牲』の義務感で、止める間もなく鏡へ飛び込んでいたかもしれない。しかし今回は、あえて踏みとどまり、自分にしかできない『観測』の任務へ徹することを選んだのだ。


       *


 かれんは全体指揮回線を開いたまま、東京各地の現場からの報告を処理していた。


 緊迫した情報が、立て続けに流れてくる。


『地点一。購入者を指定壁の前で確保。識別番号を読み上げる前だったため、非常口表示は出現せず』


『地点二。緑色の表示灯までは出現。購入者を強引に移動させたところ、数分後に表示灯は消滅』


『地点三。すでに金属扉が出現。実働員が周辺を結界で隔離し、扉の前に大型の資材を積んで物理封鎖中』


『地点四。実行者が配信中に姿を消失。現場には配信端末だけが残されている』


『地点五。我々が現地へ到着する前に非常ベルが鳴った。現在、建物内に人影なし』


『地点六。Wikiには場所が投稿されているが、指定された建物自体が数年前に解体済み。現地には何もない』


 報告が激しく混線する中、かれんが正確に指示を振り分けていく。


「人物確保済みの地点は、番号と端末を分離したまま待機」


「扉が出現した地点は、扉へ直接触れずに物理封鎖を徹底」


「消失者がいる地点は、反射面と周辺の監視映像を詳細に確認してください」


「未確認地点の洗い出しを継続。Wikiへ情報を投稿していない購入者の特定を急いでください」


 八咫烏の実働部隊は、確認できた範囲では極めて迅速に対応している。


 それでも、根本的に情報が足りない。


「有料サイトの記事購入件数と、Wikiへ投稿された指定地点の数が一致しません」


 監視班から絶望的な報告が入る。


「記事の購入者は百人を超えています。しかし、Wikiの掲示板に投稿された指定地点は四十前後です。決済履歴やアクセス記録から購入者を追おうとしても、サイト側の記録が通常の形で残っていません」


「……つまり、購入者の半数以上について、指定場所が不明ということですね」


 かれんが確認する。


「ということは、俺たちが知らない扉の方が、数が多くて放置されているってことですか?」


「可能性があります」


 久我が、かれんの端末上の赤い点を見る。目に見えている三十数か所は、全体の一部にすぎないかもしれないのだ。


「……この鏡の中には、地図に表示されている数より、ずっと多くの扉があります」


 千鶴が、窓ガラスを見つめたまま言った。


「数えられますか?」


「無理です。奥へ行くほど重なっていて……百を超えているようにも見えますし、あるいは、すべて同じ扉の反射が無限に繰り返し映っているようにも見えます」


 見えている数そのものも、信用できない。


       *


 外周の封鎖を終えた澪と杖原が、特別教室棟の廊下へ合流してきた。


 澪は途中で校内を全速力で一周し、現実側に侵入者が残っていないことを確認済みだ。


 杖原は、すぐに廊下へ簡易結界を設置し始めた。ただし、怪異の扉そのものを消し去ろうとはしない。通常の結界制御で無理に干渉すると、未知の接続先へどう影響を与えるか分からないからだ。


 杖原の結界は、あくまで『廊下の空間を固定する』ことに特化している。壁と床の形状を強固に保持し、扉周辺の異空間が一般空間へ拡張するのを抑制し、久我の《血装》の支柱が、強力な圧力で床や壁ごと引っこ抜けないよう補強する。


「扉そのものを閉じることはできません。ただ、こちらの廊下側の形が、これ以上崩れないようにはできます」


「助かります。さっきから、床ごと向こうへ持っていかれそうなので」


 久我の言葉通り、床のタイルがメキメキと音を立てていた。


 澪が、血の支柱越しに激しく揺れる扉を見る。


「これ、壊しちゃったら駄目なの?」


「扉を破壊した結果、『開いた』と判定される可能性があります」


 かれんが即答する。


「面倒くさい扉ね」


「怪異絡みで便利で親切だったことなんて、今のところ一度もないよ」


 久我は苦い顔で言い返した。


       *


『全非常口の開扉まで、あと十五分です』


 監視班から、Wiki側の反応が共有される。


 利用者たちは、現地からのライブ配信が次々に途切れたことで、異様な興奮状態に陥っていた。


『マジで扉出た』『映像消えた瞬間だけ見た』『病院でも非常ベル鳴ってるらしい』『運営凝りすぎだろ』『全部同じ時間に回線落ちるのヤバい』『これ成功してるんじゃね?』


 現時点では、彼らはまだ「何も起きない」とは思っていない。むしろ、これからとてつもなく大きな何かが起きると期待している。


 一部の利用者は、八咫烏側が警察や建物の管理者を使って現場封鎖を始めたことにも気づいていた。


『また謎の業者来た』『前の駅にもいた連中じゃない?』『運営側のスタッフだろ』


 八咫烏の命懸けの介入すら、イベントを盛り上げるための演出として都合よく解釈されていた。


       *


『全非常口の開扉まで、あと十二分です』


 御影坂高校の扉の向こうでは、東京各地のあらゆる音が混ざって響いていた。


 しかし、残り時間が減るにつれ、その音が一つずつ順番に消えていく。


 最初に駅のアナウンスが消えた。次に配信者の甲高い声。車の警告音。病院の電子音。別の学校のチャイム。最後には、くぐもった足音と、低いざわめきだけが残った。


「向こうの人たちが、消えている?」


 久我が尋ねる。


「いえ……扉の前から、離れています」


 千鶴が鏡面を見て答えた。


 鏡面領域の中で、各地点から取り込まれた人々が、誰かに命令されたわけでもないのに、ゆっくりと左右の壁際へ移動している。


 無数の赤い非常口が並ぶ中央部分に、一本の長い通路のような空間ができていく。


「道を、空けている?」


「そう見えます」


「誰のために?」


 澪の問いに、誰も答えられなかった。


 千鶴が、鏡面空間のさらに奥へ目を凝らす。


 無数の赤い扉の先。それまではただの暗闇だった場所に、何かがある。


 明確な人影ではない。巨大な塊のようにも見える。しかし距離感が完全に壊れていて、大きさを正しく判断できない。近くにいる人間程度のものが、重なった扉の屈折によって巨大に見えている可能性もある。


「……奥に、何かいます」


「こちらへ向かってきていますか?」


「分かりません。動いているようにも、ずっと同じ場所にいるようにも見えます」


「輪郭だけ報告してください。正体を推測する必要はありません」


 かれんは、千鶴の主観による断定を避けた。


「人間のような形ではありません。ですが……形が一定していません」


 この時点では、それが巨大な本体なのか、扉網そのものの影なのか、単なる遠近の錯覚なのか、全く分からない状態だった。


       *


『全非常口の開扉まで、あと十分です』


 監視班から、鏡面側へ消えた一般人についての報告が続く。


 複数地点で同様の消失が起きている。現実側には、スマートフォン、配信用三脚、荷物、靴、一部の上着などが残されている。


 消え方は地点ごとに微妙に違った。肉体すべてが消えた者。手に持っていた端末だけが残った者。服ごと消えた者。一貫した法則がない。


「でも、ゼロになった時に扉が完全に閉じたら、中にいる人たちは現実へ戻れないかもしれません」


 久我が焦燥を口にする。


「だからといって、扉をこちらから強引に開けば、記事の指示を完成させることになります」


 かれんは、無謀な救出作戦を許可しない。


「現時点では、扉を開かずに戻す方法を探すしかありません」


「各地点で、実行者が識別番号を読み上げた時の端末ログを、逆順に再生させるのはどうですか?」


 杖原が提案する。監視班が即座に検討に入った。


 しかし、音声を単純に逆再生しても、怪異側が『別の発声』として認識し、状況を悪化させる危険があるため却下された。千鶴が鏡面側から強引に引き戻す方法も、接続先が不明で危険すぎる。


 久我たちは、救助したくても手段がないという無力な状態に置かれた。


       *


『全非常口の開扉まで、あと七分です』


 東京各地から、最悪の報告が届いた。


 八咫烏が事前に把握していた地点の一つで、一般人が封鎖の直前に『扉を開けていた』ことが判明した。記事の指示どおり、扉を完全に開き、三十歩離れ、背を向けるところまで実行済みだった。


 現場へ到着した実働員が確認した時には、実行者は意識を失って倒れており、扉は開いたまま。内部へ強力な照明を向けても、光が吸い込まれるような完全な暗闇が広がっているだけだった。


 別の地点でも、配信者がすでに扉を開けていた。


 つまり、既知のすべての扉を『閉じたままにする』という目標は、すでに達成不可能となってしまったのだ。


「もう開いた扉があるなら、ここを押さえていて意味はあるんですか?」


「あります」


 かれんは即答した。


「必要な開扉数が分からない以上、一枚でも多く減らすべきです」


 久我は、血の支柱を握り直した。完全阻止ができないからといって、ここで手を離す理由にはならない。


       *


『全非常口の開扉まで、あと五分です』


 扉の向こうから、すべての人間の声が完全に消えた。


 残るのは、一定間隔の低い音だけ。


 ズズ……。ズズ……。


 呼吸音にも聞こえる。遠くの機械の稼働音にも聞こえる。巨大な何かが、重い足で床を踏む振動のようにも聞こえる。


 血の支柱へ、扉越しに微かな振動が伝わってくる。


 久我は《内在時間》を短く発動した。


 体感時間を引き延ばし、扉と《血装》の接触面の変化を詳細に観察する。


 扉が押される直前。金属板の全体ではなく、毎回違う位置へ不規則に力がかかっている。


 何者かが手で押しているというより、扉の向こう側の空間そのものが、こちら側へ向かって膨張しているように見える。


《内在時間》を解除し、久我は報告した。


「向こうから、誰かが物理的に押しているとは限りません。空間全体が、こちら側へ広がろうとしているように見えます」


「なら、この扉は入口ではなく、怪異領域との『境界』そのものかもしれませんね」


 杖原が分析する。


「その可能性も記録してください。今は、現状の保持を最優先します」


       *


『全非常口の開扉まで、あと三分です』


 千鶴が、鏡面空間を凝視する中で、配置の異常に気づいた。


 赤い非常口の大半には、その前に人間が立っている。Wikiで確認済みの場所か、あるいは未確認ながら購入者が割り当てられた場所だ。


 しかし、奥に『一枚だけ』、誰も立っていない扉がある。


 表示灯は赤ではなく、消えている。


 扉の形も他と違う。一般的な金属製の非常口ではなく、古い建物の業務用扉のような形をしていた。


「……一枚だけ、違う扉があります」


「位置は?」


「分かりません。鏡の中の、どの方向とも一致しません。前に人はいませんし、識別番号を持った方もいないように見えます」


「記事で開く扉ではない?」


「現時点では判断できません」


 ただし、その一枚の前だけ、人々が空けた中央の暗い通路が真っ直ぐに続いているのだ。


       *


『全非常口の開扉まで、あと一分です』


 かれんが全回線へ向けて最終指示を飛ばす。


「残り六十秒。全地点、現在の封鎖を死守。扉が開き始めても、内部へは絶対に入らないこと。消失者が戻った場合は、即時保護。意識があっても、記事の手順について不用意に質問しないでください。識別番号を再発声させないよう厳重に注意を」


 各地点から、短い了解の応答が返る。一部は通信が途絶えている。一部は雑音だけ。一部では、一般人が八咫烏の制止へ反発して揉めている声が聞こえる。


 Wikiでは、利用者たちが無責任にカウントダウンを実況していた。


『あと一分』『全配信同時に映像来るぞ』『絶対録画しろ』『扉の向こう何がいるんだよ』


 彼らは、怪異の完成を完全な娯楽として待っている。


       *


 校内放送が、自動的にカウントダウンを始めた。


『十秒前』


 久我が《血装》の支柱をさらに太く、強固にする。床のコンクリートへ亀裂が入る。


 杖原が結界制御で廊下の構造を全力で固定する。


 澪は、もし扉から何かが出た瞬間に、久我たちを強引に退避させるため身構える。


 千鶴は窓ガラスから目を離さない。


 かれんは、御影坂高校と東京全域の両方の状況を同時に処理している。


『九』


『八』


『七』


 扉の向こうの低い音が止まった。完全な無音。


『六』


 鏡面空間で、取り込まれた人々が全員、一斉に俯いた。


『五』


 一枚だけ違う扉の上に、白い表示灯が点灯する。


『四』


 久我の血の支柱へ、これまでで最大の圧力がかかる。


『三』


 支柱の表面に、ピキッと亀裂が走る。


『二』


 金属扉が、ギシィッと数センチだけこちらへ開きかける。久我が全身の筋力で強引に支える。


『一』


 千鶴が鏡面の奥を見る。


 中央の暗闇から、人間ほどの大きさの影が、白い表示灯の扉へ向かって近づいている。


『開扉します』


       *


 東京各地の非常口表示が、一斉に毒々しく強く光った。


 御影坂高校の金属扉が、凄まじい力で向こう側から開こうとする。


 血の支柱が大きく歪む。床のタイルがバリバリと剥がれ、左右の壁へ深い亀裂が走る。


 久我は《内在時間》を短く連続使用した。一瞬ごとに壊れかけた箇所を的確に確認し、瞬時に《血装》を送り込んで補強する。


 澪が背後に回り、久我の身体を必死に支える。杖原が壁と床の崩壊を結界で繋ぎ止める。


 数秒間。


 扉と血の支柱が、ギリギリの均衡で押し合う。


 そして突然。フッと、圧力が嘘のように消えた。


 赤い表示灯が消灯する。


 金属扉が、壁のコンクリートの中へと静かに沈み始めた。


「……止まった?」


 久我が息を荒らげる。


「まだ警戒を解かないでください」


 東京各地でも、出現していた扉が次々に壁の中へ消えていく。すでに開いていた扉も、内部の暗闇ごとパタンと閉じたという報告が続く。


       *


 ドンッ。


 御影坂高校の廊下。先ほど三脚が転がっていた場所へ、一人の人間が突然倒れ込んだ。


 鏡面側へ消えていた侵入者だ。


 澪が即座に接近し、安全を確認する。


「呼吸あり。脈拍あり。大きな外傷なし。低体温と、軽い脱水症状」


 本人はひどく混乱している。


「え……? なんで、俺、床に……?」


「自分の名前は言えますか?」


 久我が尋ねる。


 本人は自分の名前を答えられた。記事を買ったことも、学校へ侵入したことも覚えている。しかし、識別番号を読み上げた直後から現在までの記憶が、すっぽりと抜け落ちている。


 本人の感覚では、番号を言った次の瞬間に、なぜか床へ倒れていたのだ。


 八咫烏が把握していた他の地点でも、鏡面側へ消えていた人々が次々と帰還した。


 確認済みの消失者は全員生存。重傷者なし。記憶の欠損。低体温。強い疲労。一時的な耳鳴り。一部に鏡や扉への恐怖反応。


 少なくとも、八咫烏がこの時点で把握している範囲では、死亡者はゼロだった。


 久我たちは、最悪の事態は防げたと安堵しかけた。


 しかし、千鶴だけが窓ガラスを見たまま、石のように動かない。


       *


 鏡面空間では、無数の赤い非常口が次々と消えていた。


 取り込まれていた人々も、各自の現実へと無事に戻されていく。


 巨大な暗闇が、急速に縮小していく。


 最後には、一本の中央通路と、『一枚だけ違う扉』が残った。


 白い表示灯。誰も割り当てられていない扉。


 その扉が、向こう側から静かに開いた。


 先ほど暗闇から近づいていた、人間ほどの大きさの影が、そこを通過する。


 千鶴の目に見える範囲で分かる情報は、ごくわずかだ。


 二本の脚で歩いている。腕に相当する部分がある。頭部らしい輪郭がある。身長は成人と大きく変わらない。着ているのが衣服なのか、それとも外皮なのかは判別不能。顔は暗く、見えない。


 動きは獣のような粗暴なものではなく、非常に落ち着いている。


 扉の外は、薄暗い建物の通路らしき場所だった。東京のどこなのかは全く分からない。駅、地下施設、雑居ビル、倉庫、どれにも見える。


 その何かは、通過した直後に走り出したり、咆哮を上げたりはしなかった。


 周囲を一度確認するように、僅かに頭を動かす。


 そして振り返る。


 自分が出てきた扉の縁へ手をかけ、音を立てないように、静かに閉めた。


「……何かが、出ました」


 千鶴の震える声に、久我たちが振り返る。


 しかし現実側には、もう壁の扉はない。


「私たちの扉ではありません。別の場所です。……知らない場所から、何かが外へ出ました」


「追跡できますか!?」


 かれんが問う。


 千鶴が鏡面へ集中する。しかし、扉が閉じたと同時に、鏡面空間そのものが音もなく崩壊した。


 無数の扉も、中央通路も、あの影も、すべて消えた。


 窓ガラスには、御影坂高校の暗い廊下だけが映っている。


「……できません」


       *


 有料怪異情報サイトの記事が更新された。


 一般利用者に表示された文章は、あっけないものだった。


『臨時非常口の運用は終了しました』


『多数のご参加、ありがとうございました』


 数秒後、記事は販売終了状態になる。


 しかし、八咫烏の監視システムが保存した画面記録には、終了表示へ切り替わる直前、一秒にも満たない時間だけ、別の表示が残っていた。


『搬入件数:一件』


『処理は正常に完了しました』


 監視班が復元した画像を、かれんが端末で確認する。


「搬入……」


 久我が息を呑む。


「東京中の扉は、何かを呼び込むためのものだったってことですか?」


 杖原が顔を青ざめさせる。


「可能性が高まりました」


「俺たちが必死に止めていた扉は?」


「経路を成立させるための、システムの一部だったのかもしれません。あるいは、どれが本当の出口か分からなくするための、大規模な囮だった可能性もあります」


「私が見た一枚だけ、表示灯の色も違いました」


 かれんは、すぐさま指示を切り替えた。


「未確認地点の捜索を最優先へ変更します」


 八咫烏は、直ちに東京全域の捜索へと移行した。


       *


 一方その頃、無断転載Wikiの掲示板では、全く別の空気が流れていた。


 利用者たちは、カウントダウンがゼロになれば、怪物の群れや異世界の映像が現れると無責任に期待していた。


 しかし実際には、扉は消えた。参加者は無事に戻った。配信は再開した。建物の大規模破壊はない。怪物の映像もない。死者もいない。明確な超常現象の証拠も、途切れた不鮮明な映像ばかり。


 そのため、掲示板には急速に不満が広がっていた。


『結局何も起きねえじゃん』


『扉が出たところまでは本物っぽくて面白かったのに』


『肝心なところで全員配信切れてるの草』


『どうせ運営と配信者が組んだ宣伝企画だろ』


『終電の方が百倍怖かったわ』


『今回はハズレ記事』


『百人参加させてこれだけ?』


『つまんね。次待ち』


 参加者の一部が、「暗い場所にいた気がする」「誰かが後ろを通った気がする」「番号を言った後の記憶がない」と書き込む。しかし、それすらも「演出に乗っている」「注目を集めたいだけ」「記憶喪失設定まで含めた企画」として一蹴され、処理されてしまう。


 八咫烏が命懸けで被害を抑え込んだ結果、一般の利用者には「大掛かりな割に、結局何も起きなかった」としか見えないのだ。


       *


 事件翌朝。


 御影坂高校の一室に設けられた緊急対策本部。


 夜が明けても、久我たちは帰れずにいた。


 八咫烏による暫定報告が行われる。


『確認できたこと』


・Wikiなどから特定した非常口地点は四十か所前後。


・そのうち多数で表示灯または金属扉が出現。


・一部は開扉前に阻止。一部は開扉済み。


・八咫烏が把握していた鏡面側への消失者は、全員無事に帰還。


・確認済みの参加者については、死者なし。重傷者なし。


・都内に大規模な怪異領域は残っていない。


・確認されていた非常口は、すべて消滅。


・記事は販売終了。サイト運営者への接続は引き続き不能。


『確認できていないこと』


・購入者全員の指定地点の全容。


・実際に出現した非常口の総数。


・千鶴が見た出口の場所。


・出てきた存在の姿。


・侵入者の目的。


・侵入者が単独かどうか。


・現在地。


・能力。


・人間へ擬態できるか。


・サイト運営者との関係。


 千鶴の証言と、一瞬だけ表示された『搬入件数:一件』から、正体不明の存在が東京へ入った可能性を、最重要案件として扱うことになった。


 久我は、事件の規模に反して被害が少なすぎることを指摘する。


「東京中にあれだけ扉を出したのに、運び込んだのはたった一体だけなんですか?」


「表示を信用するなら、そうなります。……ただし、一件が一体を意味する保証はどこにもありません」


「一件の荷物に、複数が詰め込まれているかもしれない?」


「その可能性もあります」


「嫌な数え方をしないでよ」


 澪が身震いする。


「搬入されたのが、生物とも限りません。能力、情報、呪い、現象という可能性も残ります」


 杖原が冷静に分析する。


「ですが、私は自分の足で歩いて出てくる影を見ました」


「少なくとも、人型に近い何か一体が通過した可能性は高い。その範囲で捜索します」


 かれんは、断定できる事実を最小限に留めた。


       *


 事件から数日が経過した。


 八咫烏は東京全域で必死の捜索を続けている。


 結界網の異常。生命力の大量消失。怪異事件の急増。不自然な失踪。原因不明の殺人。動物の集団死。霊脈の乱れ。防犯カメラ上の人外の姿。新規覚醒者の異常増加。鏡面や扉に関する怪談の急増。


 いずれも、事件と明確に結びつくような変化はない。小さな怪異事件は普段どおり発生している。


 しかし、あの侵入者の活動と断定できるものは、一件もない。


 東京は、普通に動いている。


 数日後の夜。


 久我、かれん、千鶴、澪、杖原が、再び御影坂高校の控室へ集まっていた。


「侵入された日から、結局何も起きていないんですよね」


「はい。目立った報告はありません」


「だったら、侵入そのものに失敗した可能性は?」


「あります。東京側へ出た直後に消滅した可能性。活動開始まで時間が必要な可能性。そもそも私たちの世界では生存できなかった可能性も否定できません」


「でも、まだ警戒は続ける」


「はい」


 かれんが千鶴を見る。


「鏡宮さんが見た存在は、扉を通過した後、自分で扉を閉じています」


「はい。偶然触れたようには見えませんでした」


「単なる習性や、命令された動作の可能性もあります」


 杖原が言う。


「そのとおりです。人間と同等の知性があるとは断定できません」


 かれんは頷いた。


「ただ、少なくとも、通過した直後に本能のまま暴れ回るだけの存在ではない可能性があります」


「見つからないように、意図的に隠れている?」


「その可能性を警戒しています」


「何もしない怪異なら、放っておいてもいいということにはなりませんよね」


「何もしないのではなく、まだ何もしていないだけかもしれません」


 かれんの一言が、重く響いた。


       *


 夜。


 御影坂高校の上階の窓から、久我とかれんと千鶴が、東京の灯りを見下ろしている。


 遠くを電車が走る。道路には車のライトの列。コンビニや飲食店の明かり。マンションの窓。歩道を行き交う人々。


 いつもどおりの東京。異常は何一つ見えない。


「この中のどこかに、いるかもしれないんですよね」


「侵入に成功していれば」


「私に見られたことにも、気づいていたかもしれません」


「気づいていたのに、こちらへ来なかった」


「襲わなかったとは限りません」


 久我がかれんを見る。


「どういう意味ですか?」


「今は襲う必要がないと判断しただけかもしれません」


 三人が、何も変わらない街を見る。


 人間に似た姿なら、すでに群衆へ紛れているかもしれない。人間に見えない存在なら、誰にも見つからない場所へ潜んでいるかもしれない。すでに東京を離れている可能性すらある。


 何も分からない。


 あの夜から、東京では何も起きていない。


 少なくとも、久我たちが異常だと気づける形では。


 何も起きていないことが、今は一番の異常だった。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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