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第44話 吸血鬼、存在しない終電を運休させる

 二つの白い前照灯が、暗いトンネルの奥から旧三番ホームへと確実に近づいてくる。


 線路は、約十五年前の路線改修によって、途中で分厚いコンクリート壁により完全に封鎖されているはずだ。


 しかし、列車はその壁を強引に突き抜けてくるわけではなかった。


 列車が近づくにつれて、『そこにコンクリートの壁がある』という現実そのものが、霧のようにふっと薄くなっていくのだ。


 久我の魔眼をもってしても、その異常な光景がどのように成立しているのか、正確には判別できなかった。


 封鎖壁そのものが一時的に消滅したのか。


 列車という概念が壁を霊的に通過しているのか。


 あるいは、この旧ホーム自体が、一瞬だけ別の次元の空間へと移動しているのか。


 現実の地下鉄の構造と、怪異側の狂った路線図が、この一瞬だけ不気味に重なり合っている。


 列車は三両編成だった。


 しかし、その外観は決して一定しない。


 一瞬ごとに、昭和期に走っていた古い地下鉄車両になり、現在使われている銀色の新型車両へ変わり、木製内装の古い電車へ揺らぎ、さらには全く見たこともない、存在しない形式の通勤車両へと姿を変える。


 何百人もの人間が持つ『終電』の記憶とイメージが、一つの形に定まらずに重なり合っているように見える。


 ただし、どの姿へ揺らいでも、『三両目の三番扉』だけは、全く同じ位置に存在し続けていた。


 列車が、ゆっくりと旧ホームへ滑り込んでくる。


 キィィィン。


 重いブレーキ音は、確かに耳へ届く。


 しかし、車輪と錆びた線路の間には、摩擦による火花も、物理的な振動も、一切生じていなかった。


 須藤が、手に持ったスマートフォンを震わせながら、配信画面へ向かって叫んだ。


「本当に来た! 嘘だろ!? みんな、見えてるよな!?」


 コメント欄が、信じられない速度で滝のように流れる。


『ガチ?』


『CGじゃないの?』


『事前収録だろ』


『乗れ』


『三両目行け』


『乗りたい』


 多くの視聴者は、依然としてこれをよくできた演出だと思っている。


 映像上では、列車の姿が一定せずに激しく揺らいでおり、カメラには激しい白飛び、ブロックノイズ、不自然な残像が生じている。


 そのため、画面越しに見ている者には、『複数の鉄道映像を重ね合わせた、加工された心霊動画』のようにしか見えないのだ。


 皮肉なことに、そのおかげで一般社会への怪異の秘匿は、ぎりぎりで崩れずに保たれていた。


       *


 列車が、完全にホームで停止した。


 ホームの電光掲示板に、新しい表示が浮かび上がる。


『0:23 発車』


 到着したのは、午前零時十三分。


 発車までは、あと十分。


 怪異列車は、その時間内に最初の乗客を確保しようとしているらしい。


 ほかの扉は固く閉じたままだ。


 三両目の三番扉だけが、


 プシュー。


 という古い空気音を立てて、ゆっくりと開いた。


 扉の内側には、ごく普通の通勤電車の車内が見える。


 しかし、久我が魔眼でその内部を見ると、空間の構造が異常だった。


 見つめるたびに、座席の数が微妙に増減している。


 車両の奥行きが、外観から推測される長さを明らかに無視して、どこまでも続いている。


 反対側の窓には、暗いホームの景色が一切映っていない。


 吊り革が、完全に停止している列車の揺れとは無関係に、カチャカチャと不気味に揺れ続けている。


 そして、車内の扉の上にある時計は、すべて『零時十三分』でぴたりと止まっていた。


 乗客は、一人もいなかった。


 過去の怪異事件の犠牲者が、今もこの列車へ乗せられている形跡は確認できない。


 内部が完全な無人であるという事実は、この怪異が今夜初めて形を得た可能性を、さらに強く感じさせた。


 ただし、それだけで怪異の起源を断定することはできない。


 誰もいない空席の一つ一つが、不気味なほど強く、『誰かが座るのを待ち焦がれている』ように見えた。


 大庭の身体が、開いた扉へとずるりと引かれた。


「大庭さん!」


 久我は即座に大庭の腕を掴み、吸血鬼の筋力で床を踏みしめて抵抗した。


 しかし、大庭の身体を強引に動かしているのは、物理的な力ではなかった。


 足がホームを引きずられているというより、『ホームの床と大庭の間の距離だけが、空間ごと徐々に遠ざかっている』のだ。


 久我が腕を強く引けば引くほど、大庭の腕を掴んでいる手応え自体が、すっと薄く透明になっていく。


「くそっ、純粋な筋力の問題じゃない……!」


 久我は歯を食いしばる。


 吸血鬼の腕力だけで引き戻せる次元の現象ではない。


 大庭自身の『帰りたくない』という意思と、列車を受け入れかけている因果そのものを断ち切らなければ、彼を救うことはできない。


       *


 佐倉が悲鳴を上げ、大庭へ駆け寄ろうとする。


 須藤はまだ事態を呑み込めず、カメラを回したまま三番扉へ近づこうとした。


 杖原が、二人の前へさっと飛び出した。


「そこから先へは、絶対に行かないでください!」


 杖原が手元の携帯結界具を起動する。


 ホームの床から、薄い光の壁がパラボラ状に立ち上がり、佐倉と須藤を黄色い線の外側へと強引に押し戻した。


 配信映像では、光の壁そのものは鮮明に映らない。


 列車の前照灯による白飛び、古い照明の漏電、あるいは映像ノイズのように処理されて画面に走るだけだ。


 須藤はここで初めて、目の前で起きている出来事が、自分の用意した安い演出などではないことを骨の髄まで理解した。


「……何だよ、これ……。俺、こんなヤバい仕掛け、絶対に用意してないぞ」


「だから! 最初から帰ろうって言ったでしょ!」


 佐倉が泣きそうな声で叫ぶ。


 杖原は結界で二人を守りながら、久我へ声を飛ばした。


「久我さん! 大庭さんだけが、異常に強く引っ張られています!」


       *


 大庭が、開いた扉越しに、列車内部の案内表示を見た。


 久我は己の身体で大庭の視線を遮ろうとしたが、ほんの一瞬だけ遅かった。


 大庭の目には、先ほどまで『表示不能』だった行先が、はっきりと読めてしまった。


『やり直し前』


 怪異列車が、実際に過去へ時間を巻き戻せる能力を持っているとは限らない。


 あくまで、大庭という一人の人間が、今最も強く惹かれる言葉を、幻影として表示している可能性が高い。


 車内の窓には、現実にはない景色が流れている。


 まだ専門学校を辞めていなかった頃。


 家族へ『普通に登校する』と明るく言っていた朝。


 進路を選び直す前の、何も間違えていなかった時間。


 それらの曖昧で甘美な景色が、大庭の心を強く捕らえて離さない。


 大庭が、無意識に扉へ向かって手を伸ばした。


「これに乗ったら……俺、あの時間に戻れるのか?」


 久我は、否定も肯定もしなかった。


「分かりません。ですが、帰り方の書かれていない、得体の知れない電車です」


「今のまま家に帰ったって、どうしようもないんですよ! 学校を辞めたことも言えないまま、毎日毎日、学校へ行くふりをして時間を潰して……!」


「それでも、この見知らぬ電車へ乗れば、あなたの問題がすべて綺麗に解決するとは限りません」


「じゃあ、俺はどうすればいいんですか!」


 久我は、透けかけている大庭の腕をしっかりと掴んだまま、静かに答えた。


「それを決めるのは、あなたがここへ戻ってからです」


「……戻ってから?」


「家へ帰るか。友人の家へ行くか。今夜はどこか全く別の場所へ行くか。家族へ明日話すか、来週話すか。それは、あなたが後からいくらでも決められます。でも、この列車に乗ったら、次の選択ができる保証はどこにもありません」


 久我は、大庭の個人的な問題をここで解決してやることはできない。


 ただ、今夜、怪異へ乗ることだけを何としても拒否させる。


       *


 久我は魔眼の焦点を絞り、列車とホームを繋いでいる見えない因果の線を観察した。


 見えている主な線は、四本。


 一、大庭と三番扉を繋ぐ線。


 最も太く、濃い。


 大庭本人の『現実へ帰りたくない』という切実な意思そのもの。


 二、須藤のスマートフォンと赤い案内板を繋ぐ線。


 配信とSNSへの投稿。


 怪異へ向けて、乗客希望者を集め続けた入口。


 三、駅の時計と列車を繋ぐ線。


『午前零時二十三分』という、怪異に与えられた発車時刻。


 四、ホームの信号設備と列車先頭部を繋ぐ線。


 鉄道施設としての、正規の運行権限。


 久我は、その四本の線の構造を見て気づいた。


「……これは、ただの電車の姿をした怪獣や捕食者ではありません」


「どういうことですか?」


 杖原が問う。


「少なくとも今は、本当に『旅客列車』としての役割を忠実に果たそうとしています。乗客を集めて、決められた時刻に、決められたホームから発車する。怪異だからこそ、与えられたその物語のルールから自由になれないんです」


 久我は、インカムでかれんへ無線を繋いだ。


「かれんさん、鉄道会社の方に確認してください。このホームの運行を正式に停止する権限を持っている人は、まだ駅の管制室にいますか?」


『秘密研修を受けている駅長代理が、現在も待機しています。……久我さん、何をするつもりですか?』


「列車としてこの駅へ来たなら、列車として正式に運休させます」


       *


 八咫烏の施設側で、短い協議が行われた。


 鉄道会社の管理者が懸念の声を上げる。


「存在しない怪異の列車へ向けて正式な放送を行えば、こちら側が、あの怪異を正式な列車として認めたことになりませんか? かえって怪異を強めてしまうのでは」


 久我も、その危険性は十分に理解している。


 公式の駅管理者が列車として扱えば、怪異をさらに安定させてしまう可能性がある。


 しかし久我は、魔眼で因果の線を見据えながら答えた。


「ネットの匿名の視聴者が何百人『乗りたい』と書き込んでも、一人当たりのこの場所への関わりは薄い。でも、この駅を現実に管理し、安全を守っている人の判断は、この場所に対してずっと重いはずです」


 共有認識の強さは、単純な人数の多さだけで決まるわけではない。


 現場との物理的な距離。


 当事者としての責任。


 土地との契約。


 所有権。


 管理権限。


 そして、役割。


 それらの重みが、認識の強度を変えるのだ。


「怪異の存在を認めるのではなく、この駅に、あの列車の『運行権限がない』ことを正式に確定させてください」


 久我の言葉に、かれんが即座に決断を下した。


『……分かりました。駅長代理へ通信を繋ぎます。久我さんは現地で、何が何でも乗客をゼロにしてください』


       *


 列車の車内に、無機質な放送が鳴り響いた。


『まもなく、発車いたします』


 大庭の身体の輪郭が、さらに一段階薄くなる。


 久我は、黄色い線の外側にいる須藤へ向かって叫んだ。


「須藤さん! 今すぐ配信を止めてください!」


「でも、今切ったら俺たちの証拠が――」


「あなたが集めた『乗りたい』という無責任な言葉が、この怪異をここへ呼び込んでいる可能性があります! 彼を助けたいなら、今すぐ止めるんだ!」


 須藤は、すぐには信じられなかった。


 手元のスマートフォンのコメント欄では、依然として無責任な文字が踊っている。


『止めるな』


『乗れ』


『やらせの撤収か?』


『友達を乗せろよ』


 須藤は、画面と、透けかけている親友の大庭を見比べた。


 大庭の身体が物理的に透け、久我の腕の中から今にも完全に消え去ろうとしている。


 佐倉が、須藤の胸元を強く掴んだ。


「再生数と湊の命、どっちが大事なのよ!」


 須藤が、ようやく決断した。


 カメラを自分へ向け、配信画面へ向かって叫ぶ。


「今日の企画は中止だ! 俺たちは乗らない! 『乗りたい』って返信も、全部ただの冗談だ! 誰も現地へ来るな!」


 そのまま、ライブ配信の終了ボタンを叩き切った。


 さらに、SNSへ投稿した赤い案内板の画像と乗車募集の投稿も、震える指で削除する。


 転載や切り抜き動画までは消えない。


 コメントによる視聴者の認識も、即座にゼロになるわけではない。


 しかし、怪異へ向けて乗客を大々的に募集した中心人物が、自らの意思でそれを撤回したことで、須藤のスマートフォンから赤い案内板へと伸びていた因果の線が、目に見えて大きく細くなった。


       *


 それでも、大庭は開いた扉へと引かれ続けていた。


 大庭本人の『現実へ帰りたくない』という強い意思が、依然として残っているためだ。


 久我は、無理に家へ帰れと説教するようなことはしない。


 佐倉が、結界の中から大庭へ向かって叫んだ。


「湊! 家に帰れないなら、今日は私のところへ来ればいい!」


「……え?」


 大庭が、うわ言のように聞き返す。


「家族に本当のことを話すのが怖いなら、明日、一緒に考えればいい。今日すぐ言わなくてもいい。でも、その得体の知れない電車に乗って消えるのだけはやめて!」


「……俺が行ったら、迷惑だろ」


「この意味分からない電車に連れていかれて、一生後悔するよりは、百倍マシよ!」


 大庭の虚ろな視線が、車内の『やり直し前』という幻影から、現実で必死に叫ぶ佐倉へと移った。


 怪異列車は、『ここではない、曖昧な逃げ場所』を提示している。


 それに対して佐倉は、『今夜泊まる場所』という、極めて具体的で現実的な行先を提示したのだ。


 大庭が、震える声で答える。


「……家には、まだ帰れない」


 ここで、怪異との線は完全には切れない。


 続けて大庭は言う。


「でも、この電車には乗らない。……今日は、佐倉のところへ行く」


 大庭が自分の意思で、黄色い線の外側へと足を動かそうとした。


 大庭と三番扉を強固に繋いでいた線に、初めてぴしりと亀裂が入った。


       *


 ジジッ……。


 駅の古いスピーカーから、正式な構内放送が流れた。


 声を発しているのは、八咫烏の秘密研修を受けた、本物の駅長代理だ。


 普段の乗客向けの柔らかい旅客案内とは異なる、鉄道運行上の明確で厳しい命令。


『旧三番線へ進入中の列車に告げます』


 その瞬間、揺らいでいた列車の形が、一度だけ鮮明になった。


 正規の管理者から明確に認識されたことで、怪異が一時的に強く固定されたのだ。


 ホームが激しく揺れる。


 杖原が結界を強化し、久我は大庭の腕を絶対に離さないよう力を込めた。


 放送が続く。


『当該列車は、当駅の運行計画に存在しません。旧三番線への進入、および旅客扱いを一切認めません』


 カチッ。


 ホーム端にある古い信号機が、唐突に点灯した。


 赤。


 長年使われていなかった、絶対的な停止信号。


 列車の白い前照灯が、動揺したように激しく揺らいだ。


『本日、旧三番線を発着する列車は、すべて運休です。乗客を乗せず、ただちに運転を打ち切ってください』


 ホームの電光掲示板の表示が、ジジジッと乱れた。


『0:23 発車』


 の文字がノイズとともに消え、『運休』という赤い文字へと強制的に書き換わり始める。


 しかし、列車側も抵抗する。


『まもなく発車します。ご乗車されるお客様は、お急ぎください』


 車内放送が強引に鳴り響く。


 開いた扉の周囲から、大庭へ向けて何本もの黒い線が、触手のように伸びてきた。


 遠隔地にいる数千人の『乗りたい』という無責任な言葉を寄せ集め、唯一の実乗客候補である大庭を強引に連れ込もうとしている。


       *


 杖原が、手元の携帯結界具を三番扉の前へ向けて放り投げた。


 空中で展開された光の結界が、ホームと車内の境界へ、薄い板のように鋭く差し込まれる。


 怪異列車の扉は、物理的な金属ではない。


 そのため、単に力で閉じることはできない。


 杖原は、ホーム側、車内側、扉の境界、そして大庭へ伸びる見えない線の間へ、精緻な結界制御によって光の壁を固定した。


「この扉から、こちら側の人を絶対に連れていかせません!」


 ミシミシッ。


 結界表面に亀裂が走る。


 Tier4クラスの怪異の引力と、八咫烏の魔法少女である杖原の力が、ぎりぎりで拮抗する。


 須藤と佐倉も結界の端から身を乗り出し、大庭の服を必死に掴んだ。


 久我だけが一方的に救うのではない。


 三人自身が、友人である大庭を現実側へ引き戻そうとしている。


「大庭さん。もう一度、自分で言ってください」


 久我の言葉に、大庭は顔を上げ、開いた扉の奥の暗闇へ向かって叫んだ。


「俺は、この電車には乗らない!」


 バチンッ。


 大庭と三番扉を繋いでいた、最も太い線が完全に切断された。


 久我、須藤、佐倉の三人が同時に引く。


 大庭の身体へ、現実の重さと確かな輪郭が戻った。


 大庭はバランスを崩し、黄色い線の外側へと転がり込む。


 その瞬間、杖原が展開した結界を、一気に前へと押し出した。


 ガシャン。


 三番扉が、重い金属音を立てて完全に閉ざされた。


       *


 駅の時計は、午前零時二十二分五十秒。


 列車はまだ消えない。


 発車しようと、車体を震わせて抵抗している。


 だが、乗客を招待した須藤は募集を撤回した。


 大庭本人は明確に乗車を拒否した。


 佐倉は現実側の具体的な行先を提示した。


 正規の管理者は運行を否定した。


 停止信号が赤く点灯している。


 唯一の乗車口であった三番扉は閉鎖された。


 そして、車内は完全に無人だ。


 午前零時二十三分。


 怪異に与えられた発車時刻を過ぎる。


 車内放送が、ぶつんと途切れた。


 電光掲示板には、はっきりと『運休』の二文字が固定される。


 列車の車体が、再び複数の映像へと激しく分裂し始めた。


 古い地下鉄。


 新型車両。


 木造電車。


 誰かの記憶にある終電。


 どの姿にも確定できなくなり、徐々にその存在が透明になっていく。


 最後に車内から聞こえてきたのは、怪獣のような怒鳴り声でも、怨霊の悲鳴でもなかった。


 通常の駅員放送のような、酷く無機質で平坦な声だった。


『本日の運行は、終了しました』


 列車は、乗客をただの一人も乗せないまま、暗いトンネルの奥へとゆっくり後退していく。


 あるいは、物理的に遠ざかるのではなく、『そこに列車があった』という物語の概念自体が薄くなっているのかもしれない。


 二つの白い前照灯が、ふっと消えた。


 コンクリートの強固な封鎖壁が、再び最初からそこに存在していたかのように、現実へ戻った。


 八咫烏の都市センサーで観測されていたTier4反応が、急速に低下していく。


 Tier4の最低基準を軽々と下回り、やがて完全に観測不能となった。


       *


 ゴォォォ……。


 通常ホーム側から、遠くの列車の音が聞こえてきた。


 遠くのアナウンス。


 換気設備の低いモーター音。


 久我の耳元の無線のノイズ。


 すべての現実の音が一斉に戻ってくる。


 旧ホームの黄ばんだ照明は消灯し、赤い案内板も完全に暗くなった。


 電光掲示板には、もう何も映っていない。


 大庭は埃っぽい床へ座り込み、肩を上下させて息を荒らしている。


 身体の透けは完全に治まり、現実の質量を取り戻している。


 久我が魔眼で簡単な状態確認を行う。


 意識正常。


 呼吸正常。


 外傷なし。


 記憶の欠落なし。


 身体の欠損なし。


 異常な因果接続も見えない。


 須藤が震えながら、暗いトンネルの奥を見た。


「今の……一体、何だったんですか?」


 久我は、一般人へ怪異の真実を説明することはしない。


「あなたたちが、絶対に入ってはいけない場所で、非常に危険な現象へ巻き込まれたことだけは確かです」


「でも、電車が……俺たち、本当に……」


「詳しい説明は、後ほど担当者からあります。今はここを出ますよ」


 佐倉が大庭へ肩を貸す。


 須藤も無言で反対側へ回り、大庭を支えて立ち上がらせた。


       *


 外へ出ると、警察官と鉄道会社の職員が待機していた。


 三人は、鉄道施設への不法侵入や業務妨害、施設内での無許可撮影・配信などについて、厳しい事情聴取を受けることになる。


 ただし、秘密研修済みの担当者が間へ入り、彼らを怪異への直接接触者として別室へ移した。


 記憶の消去は行わない。


 三人は、自分たちが見たものを鮮明に覚えている。


 その代わり、怪異の存在を外部へ決して話さないこと、映像の公開を完全に停止すること、今後、八咫烏側の聞き取りへ応じることを強く求められた。


 須藤のライブ配信は、すでにネット上の利用者によって切り抜かれていた。


 しかし、その映像は酷い有様だった。


 列車の形式が秒ごとに変わり、白飛びとブロックノイズが画面を覆い尽くしている。


 杖原の展開した結界は単なる照明の異常にしか見えず、大庭が薄くなる場面は、映像圧縮の欠落による不具合にしか見えない。


 最後は完全に黒画面になり、ぷつりと途切れている。


 SNSの反応も冷ややかなものだった。


『出来のいいARGだな』


『AIでリアルタイム加工しただろ』


『鉄道会社も協力した、新しい映画の宣伝?』


『不法侵入で普通に警察来ただけじゃん。ダサッ』


『途中から映像が完全に破綻してるし。作り込みが甘い』


 一般社会では、あれが本物の怪異映像として受け取られることはなかった。


 むしろ、警察と鉄道会社が現場へ駆けつけていたことで、


『無許可の撮影者が、摘発を誤魔化すために怪談動画を作った』


 という現実的な見方が優勢になっていた。


       *


 事情聴取前。


 大庭が、久我へ小さく声をかけた。


「……俺、これからどうすればいいんですかね」


 久我は、他人の人生の答えを安易に与えることはしない。


「今夜すぐに決める必要はありませんよ」


「でも、学校も辞めて、家族にも嘘をついて……」


「なら、一つずつ本当のことを話すしかありません。今日、全部を話す必要もありません。ですが、少なくとも、帰り方の分からない電車へ乗って消えるよりは、あなたにはまだ選択肢があります」


 大庭は、隣にいる佐倉を見た。


「今日は私の家に来ればいい」


 佐倉が力強く言う。


「明日、須藤も呼んで、三人でこれからどうするか考えよう」


「……俺も行く。今回のふざけた配信を始めたの、俺だし」


 須藤も神妙な顔で頷く。


 大庭の抱えている問題は、何も解決していない。


 しかし、『現実へ戻ってから、もう一度選び直す』という最低限の足場はできた。


 久我は、それ以上、彼らの問題へ踏み込むことはしなかった。


       *


 午前一時過ぎ。


 かれんから、久我の端末へ都市センサー記録の速報分析が届いた。


『反応推移』


『有料記事公開直後:反応なし』


『公開約十分後:微弱反応』


『Wiki転載後:断続的に増加』


『七件目の「乗りたい」返信直後:Tier4の最低基準へ到達』


『配信視聴者増加:反応安定』


『大庭の乗車意思が強まる:三番扉周辺へ反応集中』


『須藤の募集撤回:反応減少』


『駅長代理の運休放送:一時的に反応上昇後、構造固定』


『大庭の乗車拒否:主接続切断』


『午前零時二十三分:急速消失』


 これだけを見ると、Wikiの一般利用者が無責任に追加した手順が、怪異へ実際の影響を与えた可能性は極めて高い。


 ただし、断定はまだできない。


 もともと『七人』という条件が怪異側に存在しており、Wikiの編集者が偶然それを言い当てた可能性も残っているからだ。


 久我が、購入した五百円の有料記事をもう一度開く。


 記事は削除されていない。


 本文も、実行手順も、すべてそのまま残っている。


 ただし、末尾に、今まで存在しなかった更新履歴が表示されていた。


 その更新時刻を確認した瞬間、久我は画面を凝視した。


 スクリーンショットを撮り、かれんへ転送する。


「これ、時間指定の自動更新でしょうか?」


『現時点では判断できません』


「記事を書いた人間が、現場を見ていた可能性は?」


『あります。あるいは、記事と怪異の間に、こちらが把握していない情報の往復が存在する可能性もあります』


 サイトの運営者が、配信を見ていたのか。


 現場に潜んで監視していたのか。


 怪異を遠隔感知できる能力があるのか。


 怪異そのものから結果を受け取ったのか。


 それとも、最初から運休になることを見越して自動更新を設定していたのか。


 どれなのかは、全く分からない。


 だが少なくとも、この運営者が適当な記事を公開し、その後は放置しているだけではない可能性が、濃厚になった。


 今夜、あの旧ホームで、八咫烏の記録に存在しなかった怪異が確かに形を得た。


 しかし、乗客を一人も乗せられず、公式の運休命令によって消滅した。


 その結果を、どこかの誰かが即座に把握していたのだ。


       *


 午前零時二十三分十一秒。


 存在しない終電が消えてから、わずか十数秒後。


 五百円で購入した記事には、今までなかった一文が追加されていた。


『本日の最終電車は、運休しました』


 久我たちは、確かに誰も乗せずに終電を消した。


 だが、その結果を知っているのは、現場にいた者と、八咫烏の関係者だけのはずだった。


 それなのに、この記事を書いた何者かは、すでに今夜の運行結果を知っていたのだ。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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