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第42話 吸血鬼、旅行明けに普通に出社する


 午前六時半。


 久我陽介の自宅マンション。


 スマートフォンに設定しておいたアラームが鳴り響く数秒前に、久我は自然と目を覚ました。


 ベッドの上に横たわったまま、昨夜まで厳重な防水固定具をつけていた右腕を、ゆっくりと持ち上げてみる。


 肩を回す。


 肘を曲げる。


 手首を捻る。


 指を大きく開いて閉じる。


 すべてが、何の問題もなく滑らかに動いた。


 痛みも、違和感も、筋肉の不自然な引きつりも一切残っていない。


「……治りましたね」


 久我は、パジャマ姿のまま自室の天井を見つめて呟いた。


 境界島の地下で数百枚の鉄片の濁流を正面から受け止め、硬化能力者の巨体を合気で誘導し、暴走する六人の能力者を救助するために酷使した腕が、たった一晩でほぼ完全に元通りになっている。


 吸血鬼という種族が持つ異常なまでの再生能力を、我が事ながら改めて実感する瞬間だった。


 ただし、失ったものが何もないわけではない。


 昨夜、東京へ帰宅した後に、極度の疲労と修復のための栄養を補うべく、血液パックを複数個連続で消費した。


 台所へ向かい、専用の小型冷蔵庫を開けると、旅行前にしっかりと補充しておいたはずのストックが、目に見えて減っている。


「腕は完全に元通りになりましたが、血液パックの在庫は元に戻らないんですよね」


 肉体的な損失は一晩で回復しても、金銭的な損失はしっかりと残る。


 久我らしい、極めて現実的な朝の感想だった。


 洗面所で顔を洗っていると、端末が小さく鳴った。


 境界島の医療班から、朝の状態確認用フォームが届いている。


 久我は歯を磨きながら、片手で画面を操作して入力していく。


『右腕の痛み:なし』


『可動域制限:なし』


『腫れ・熱感:なし』


『痺れ:なし』


『異常な渇き:なし』


『再生後の違和感:なし』


 さらに、右腕を滑らかに動かしている短い動画を撮影し、フォームへ添付して送信した。


 数分後。


 東京側で待機している吸血鬼専門の医療担当から、簡潔な返信が届いた。


『動画および数値を確認しました。日常生活に支障なし。固定具の解除を許可します。本日の対面での再診は不要です。血液パックの消費量だけ、継続して記録してください』


 つまり、これで普通に出勤してよいというお墨付きが出た。


 久我は、腕から外した医療用の固定具を燃えないごみの袋へ入れようとして、少しだけ迷った。


「……これ、八咫烏に医療費として精算するなら、現物確認が必要だったりしますかね?」


 端末で八咫烏の経費規定を検索する。


 規定によれば、状態が分かる写真を残しておけば、現物の処分は可能とのことだった。


 久我は固定具を様々な角度から三枚ほど撮影し、未練なくごみ袋へ放り込んだ。


       *


 午前六時四十五分。


 トーストをかじりながら、久我は端末へ向かい合っていた。


 境界島での事件に関する報告書の最終確認だ。


 文章自体は、帰りの連絡船の中や昨夜のうちに、ほぼ書き上げてある。


 久我がまとめた主な項目は、以下の通り。


『入島目的』


『第十三人工島内での観光・行動記録』


『発火能力者の暴走事案』


『鉄片操作能力者との交戦』


『第七リングへの潜入経緯』


『真壁との戦闘』


『第三医療区画の発見』


『榊原宗一との会話内容』


『B4での救助作戦』


『使用した《血装》の回数と消費量』


『負傷と治療の推移』


『押収物と確認した研究記録』


『同行者・七瀬澪、鏡宮千鶴の行動』


『特区保安局との連携』


 一通り目を通していると、皇かれんから書類の最終的な修正指示が届いた。


 久我が書いた一文。


『現場の状況を考慮し、地下区画の調査を継続した』


 それに対する、かれんによる修正案。


『未知の相手から送られた招待状に応じて地下違法試合へ参加し、その後も上位判断を待たず、独自の判断によって地下深層へ進行した』


「……同じ事実のはずなのに、受け取る印象がだいぶ違いませんか?」


 久我がメッセージを返すと、即座にかれんから返信が来た。


『後者の方が、客観的に見て正確です』


「『特区保安局の協力を得ながら』という一言は、追加してもいいですか?」


『構いません。ただし、最初から正式な共同捜査だったと上層部に誤解されないよう、表現に気をつけてください』


 久我は少し悩んだ末に、表現を慎重に調整した。


『特区保安局から外周支援と情報提供を受けつつ、現場の緊急性を鑑み、三名の独自の判断により地下深層への進行を継続した』


 この折衷案で落ち着き、午前七時十五分、報告書の提出ボタンを押した。


『受領しました。必要に応じて追加確認を行います』


 画面に表示された機械的な文字を見て、久我はコーヒーを一口飲んだ。


「まだ完全には終わっていないんですね」


 ただし、少なくとも今日中に、これ以上対応しなければならないことはない。


 久我は端末を閉じた。


 今日の朝食は、こんがり焼いたトースト、コンビニで買ったゆで卵のたまごサンド、ブラックコーヒー、そして食後の吸血鬼用血液パック一本。


 豪華な境界島のホテル朝食や、島内の珍しい特別メニューではない。


 いつもの東京での、変わらない食事だ。


 旅行中にどれだけ非日常的なものを経験しても、三十五歳の会社員が一番落ち着くのは、結局のところ普段の朝食だった。


 つけっぱなしにしていたテレビのニュース番組から、境界島での事件が短く報じられる声が聞こえてきた。


『東京都臨海特殊共生区域内にある民間スポーツ施設で、行政へ届け出られていない大規模な地下区画が発見されました。警視庁および特区当局の発表によりますと、地下では新型違法薬物の製造と流通、無許可の臨床試験、違法な格闘興行が行われていた疑いがあり、複数の関係者が拘束されています。また、地下区画から複数の負傷者が保護されましたが、現在までに死亡者は確認されていません。地上施設の運営側との関係については、引き続き調査が行われています』


 久我たち三人の関与については、当然ながら一切公表されていない。


 違法薬物オーバークロックも、能力者を対象とした人体実験も、七人を繋いでいた《能力共鳴》も、一般向けの報道では触れられていなかった。


 テレビの映像には、黄色い規制線が張られた第七リングの地上入口と、慌ただしく行き交う車両だけが映し出されている。


 久我は画面を眺めながら、たまごサンドをかじった。


「こうして画面越しに見ると、まるでどこか遠い旅行先で、たまたま物騒な事件があったようにしか見えませんね」


 実際、一般の人々にとっては、その程度の遠い事件なのだ。


 映像の向こうで何が行われていたのか。


 保護された者たちが、どのような力によって繋がれていたのか。


 そうした真実を知る者は、ほんの一部しかいない。


 久我はテレビを消し、着慣れたスーツへ着替えた。


       *


 午前七時五十分。


 久我は、いつもの駅へ向かって歩いていた。


 昨日まで、念動力で荷物を運ぶ者が歩き、特殊な身体を持つ住民が普通に働き、空を泳ぐドームがあり、地下では命懸けの異能戦が行われている、そんな街にいた。


 しかし今日、目の前にあるのは、駅へ急ぐ険しい顔の会社員、眠そうに登校する学生、コンビニに商品を搬入するトラック、苛立たしい信号待ち、そして息の詰まるような満員電車。


 いつもの、変わらない東京の朝だ。


 久我は、無表情な人の流れの中へ自然に混ざっていく。


 境界島の内側では、住民が周囲の目を気にせず能力を使い、久我自身も吸血鬼として登録され、能力者として扱われていた。


 しかし東京の通勤電車の中では、誰も久我が吸血鬼だとは知らないし、気に留める者もいない。


 ただのスーツ姿の中年会社員として、容赦なく車内の奥へ押し込まれていくだけだ。


 右腕は完全に治っているため、吊り革も普通に右手で掴める。


 久我は吊り革に掴まりながら、密かに考えた。


 昨日まではプールの上の空中で横回転していたのに、今日は見知らぬ人たちの間に挟まれ、一駅ずつ律儀に運ばれている。


 だが、それに不満を感じているわけではなかった。


「……これはこれで、日常へ帰ってきた感じがして悪くないですね」


 声には出さず、久我は心の中で呟いた。


       *


 始業三十分前。


 久我が会社のオフィスへ到着すると、受付の近くに大きな段ボール箱が二つ、存在感たっぷりに置かれていた。


 境界島から配送サービスで送った、『空飛ぶクジラまんじゅう』の会社用大箱だ。


 久我が出社するよりも早く、始業前の配達便で届いていたらしい。


 箱の側面には、境界島のご当地マスコットである、丸い空飛ぶクジラの大きな絵が印刷されていた。


 通りかかった総務の女性社員が、久我を見て声をかけてくる。


「おはようございます、久我さん。これ、四連休の旅行のお土産ですか?」


「おはようございます。ええ、自分の部署と、普段お世話になっている方々へ配ろうかと」


「それにしても、かなりすごい量ですね。業者みたいですよ」


「配るべき人数を事前に数えたら、この量になってしまったんです」


「旅行に行く前から、お土産を配る人数を表計算ソフトにまとめていたんですか?」


「足りなくなって、後から揉めると面倒なので」


 総務の社員は、


「久我さんらしいですね」


 と、呆れたように笑って立ち去った。


 久我はオフィスの隅から台車を借りた。


 吸血鬼の筋力なら、この程度の段ボール箱は片手で持ち上げられる。


 しかし、平和な社内で不自然な怪力を見せる必要はどこにもない。


 普通に、いかにも重そうに台車へ載せ、自分の部署まで運んだ。


 始業前のざわついたオフィスで、久我は空飛ぶクジラまんじゅうを配って回った。


 自分の部署の共有スペースには、大きな箱を開け、


『境界島のお土産です。ご自由にお取りください。 久我』


 という付箋を貼って置いた。


 だが、それだけでは個数管理が曖昧になり、行き渡らない人が出る可能性がある。


 日頃から特に世話になっている相手には、自分の足で直接一つずつ配りに行った。


 部署の課長。


 同じチームの後輩社員。


 隣の部署の窓口担当者。


 総務のメンバー。


 休暇中に久我の業務を代行してくれた同僚。


 日頃から、面倒なシステムへの問い合わせへ迅速に対応してくれる事務職員。


「久我さん、お土産までわざわざ律儀ですね」


 デスクでまんじゅうを受け取った同僚が言う。


「四日間も、しっかり休ませてもらいましたから」


「普通に有給休暇を消化しただけでしょう?」


「色々な業務の引き継ぎをお願いしたので、そのお詫びと感謝の分です」


 同僚が、個包装に描かれた絵柄を眺める。


「空飛ぶクジラ……なんだか妙に丸くて可愛いですね」


「境界島のマスコットキャラクターらしいです」


「久我さんが、お店でこの可愛さを基準に選んだんですか?」


「職場で配りやすい個包装であることと、常温での保存期間を最優先に選びました」


「可愛さは?」


「結果的についてきました」


 身も蓋もない答えに、同僚は苦笑しながらまんじゅうの袋を開けた。


 同僚たちが次々と出社してくるにつれ、当然、旅行について聞かれることになる。


「境界島への旅行、どうでした?」


「先端技術の実証都市なんですよね? 普通の観光地とはかなり違うんですか?」


「特殊な医療施設や研究施設が多いって聞きましたけど、一般の観光客でも入れるんですね」


「今朝のニュースで、地下施設が摘発されたとやっていましたけど、久我さんが滞在していた時期と被っていませんか?」


 久我は嘘をつかず、しかし言わなくてもよい部分は省略して答えた。


「先端技術や特殊環境対応の設備を展示している産業施設を見学して、療養プールに入って、空中遊泳を体験して、お土産を買って帰ってきました」


「空中遊泳ですか?」


「ええ。専用のドーム内で、特殊な浮遊設備を使って、水のない空間を泳ぐように移動するアトラクションです」


「ワイヤーか何かで吊るされるんですか?」


「詳しい仕組みまでは説明されませんでした。境界島の実証設備なので、一般向けには安全機能の説明が中心でしたね」


 実際には、飛田真帆の《浮遊付与》によって、一時的に《空中浮遊》を授与されている。


 だが、その事実を一般の同僚へ説明できるはずもなかった。


「すごく楽しそうじゃないですか!」


「俺はバランスを崩して、空中でずっと横回転していましたけどね」


「それも含めて楽しそうですけどね」


 久我は、スマートフォンへ保存されている記念写真を見せるか、一瞬だけ迷った。


 自分が空中で情けなく回転し、澪と千鶴が左右から呆れた顔で支えている写真。


 そこには、二人の女子高校生がはっきりと写っている。


 平和な会社でこの写真を見せれば、


 この二人の若い子は誰なのか。


 三十五歳の独身男性が、なぜ女子高校生二人と旅行へ行ったのか。


 という、異能の話とは別方向に面倒な説明を求められることになる。


 久我は端末をポケットへ戻した。


「写真は、あまり人へ見せられるような出来ではないので」


 能力の隠匿とは別の意味で、偽らざる事実だった。


 一人の同僚が、スマートフォンのニュース画面を久我へ見せてきた。


「久我さん。ニュースに出ていたこのスポーツ施設って、久我さんが遊びに行ったプールの近くじゃないですか?」


 画面には、第七リングの入口が映っている。


「ええ。島内では比較的有名な大型施設だったようですからね」


「行かなかったんですか?」


「地上の施設は、外から少しだけ見ましたよ」


「地下で違法な格闘興行や薬物の臨床試験をやっていたとか、本当に怖いですね」


「……そうですね」


 久我は、動揺を見せずに答えた。


「旅行中、何か変な騒ぎには巻き込まれませんでした?」


 同僚の何気ない問いかけに、久我の脳裏を一瞬だけ、四日間の記憶が駆け巡った。


 火炎能力者の暴走。


 鉄片の嵐。


 地下の違法試合。


 殴るほど強くなる真壁。


 薬を作った榊原。


 七人を繋いだ獅堂。


「……予定より、かなり忙しい旅行にはなりました」


「ああ、欲張って観光地を予定に詰め込みすぎたんですか?」


「ええ、そんなところです」


 それも決して、嘘ではなかった。


       *


 午前九時。


 勤務開始のチャイムが鳴る。


 久我が自分のデスクで業務用端末を立ち上げると、画面の端に大量の通知が表示された。


 未読メール、百二十七件。


 社内チャットの通知、八十六件。


 ワークフローで回ってきた未処理タスク、二十四件。


 四日間の休暇の代償。


 ただし、その大半は目を通すだけでよいものだ。


 全社一斉送信の連絡。


 自動送信のシステム障害通知。


 情報共有だけされた議事録。


 すでにほかのメンバーが解決済みの問い合わせ。


 同じ案件で重複している連絡。


 とりあえず参考として、久我の名前を宛先へ入れただけのメール。


 久我は、上から一件ずつ順番に読んでいくような真似はしない。


 内容を分類する。


 今日中に返答が必要なもの。


 今週中でよいもの。


 確認だけすればよいもの。


 対応済みのもの。


 久我には関係がないもの。


 境界島で、七人の能力者を繋ぐ共鳴の巡回順を読んだ時のように、超人的な魔眼を使ったわけではない。


 これは、ただの会社員として長年培ってきた、普通の業務整理能力だ。


 ただし、生死の境を潜り抜けてきた影響か、以前よりも直感的な判断速度が上がっていた。


 十五分で未読を四十件まで減らし、三十分後には、本当に自分の対応が必要な重要案件を七件まで絞り込んでいた。


「……七人なら、昨日も一気に相手にしましたからね」


 久我が画面を見つめながら小さく呟くと、隣のデスクの同僚が不思議そうに顔を上げた。


「久我さん、何か言いました?」


「いえ。対応が必要な重い案件が、ちょうど七件だったので」


「連休明けにしては少ないですね。さすがです」


 重要案件の一つに、少し面倒なものがあった。


 毎週作成して顧客へ提出する、集計資料の数値が合わないというトラブルだ。


 久我の休暇中、後輩社員が引き継いで作成したのだが、元データの合計値、部署別の集計値、前週比の数値が一致していないらしい。


 後輩は前営業日から合計二時間ほど関数を調べていたが、いまだに原因を見つけられずにいた。


「久我さん、すみません。休み明けの朝から申し訳ないんですが、この集計ファイルを少し見てもらえますか?」


 後輩が、すがるような目でノートパソコンを持ってきた。


 以前の久我なら、


 自分で原因を探して直した方が早い。


 と即座に判断し、そのままファイルを引き取り、自分一人で完成させていただろう。


 しかし今回は、すぐには他人のキーボードへ触れなかった。


「どこまでは確認しました?」


 久我が尋ねると、後輩が説明を始めた。


「集計の関数式に誤りはありません。元データの欠損も、行の重複もありませんでした。前週のファイルとの差分も確認済みです。ただ、一部の部署の数字だけが、全体の合計から大きくずれてしまっていて……」


 久我は、画面に表示された元データの一覧を目で追った。


 すぐに違和感へ気づく。


 集計対象となっている特定の部署だけ、入力されているデータの形式がほかと異なっている。


 通常は、


『150』


 のように数値のみで入るべきセルへ、


『暫定:150件』


 という文字列が混ざっていた。


 集計ツールがこれを文字列として認識し、計算から除外したため、一部の数字だけが漏れていたのだ。


「この部署の元データだけ、先週から入力形式が変わっていませんか?」


 久我が指摘すると、後輩が該当のセルを確認した。


「あっ、本当だ。数値のセルに、備考の文字を一緒に入れています」


「こちらの集計式を無理に直すより、入力元の部署へ連絡して、形式を数値だけに戻してもらった方がいいですね。こちらで勝手に直すと、来週も同じ形式で送られてきて、同じことが起きますから」


 久我は、自分ではキーボードを操作しなかった。


 後輩へ、


 入力元部署への事実確認。


 データ形式の再統一の依頼。


 修正後の今週分の再出力。


 再発防止のための入力チェックルールの追加。


 という手順を伝えた。


「……久我さんが、すぐ直した方が早くないですか?」


 後輩が不思議そうに言う。


「今回だけを乗り切るなら、俺が直すのが一番早いです。でも、それだと来週また、俺が一人で直すことになりますから」


 境界島で得た教訓を、大げさに語るつもりはない。


 だが、一人がすべてを背負って解決するのではなく、仕組みと担当者を整え、相手が自分でできるように支えるという判断が、自然に仕事の進め方へ反映されていた。


「分かりました。自分で先方に連絡して、形式を統一してもらいます」


 後輩は自分の席へ戻り、関係部署と連絡を取りながら、午前中のうちに資料を修正した。


 最後に久我が確認する。


 問題なし。


「ありがとうございます。助かりました」


「次から数字が合わない時は、数式だけではなく、元データの入力形式も確認してみてください」


 仕事を奪わず、やり方と視点を渡す。


 久我なりの、小さな変化だった。


       *


 昼前。


 課長が久我の席へ歩み寄ってきた。


「久我。旅行明けの朝から悪かったな。集計トラブル、無事に片づいたみたいだな」


「引き継いでもらった分の確認と、助言をしただけです。作業自体は彼がやりましたから」


「境界島は楽しめたか?」


「ええ。最終的には」


「何だ、その含みのある言い方は」


「四日間で、色々とありまして」


 課長は、久我の顔を眺めた。


「……お前、前より顔色がよくなってないか? なんというか、憑き物が落ちたような」


 久我は吸血鬼化以降、夜間の覚醒や再生能力によって、以前の慢性的な疲労が大きく減っている。


 さらに前日は、一日中温水プールで身体を休めていた。


「温水療養プールへ入っていたので、かなり休めました」


「観光地へ行って、ずっと療養してきたのか?」


「結果的には、そうなりましたね」


 課長が笑う。


「まあいい。連休明けだからって、無理して残業するなよ」


「今日中に必要な仕事が終われば、定時で帰ります」


「終わらせてから言う奴が、一番危ないんだよな」


 以前の久我なら、


 念のため明日の分まで確認しておこう。


 と考え、本当に深夜まで仕事を抱えていただろう。


 しかし今回は、すでに仕事の優先順位を整理し、今日やる必要のないものは明日以降へ回すと決めていた。


       *


 正午。


 久我は社内の休憩スペースで、コンビニのサンドイッチとコーヒーを取っていた。


 三人のグループチャットに通知が届く。


『澪:学校へ着くまで、普通に歩いたらものすごく時間がかかりました』


『久我:それが、普通の高校生の通学です』


『澪:途中で、何度も壁や屋根を走りたくなりました』


『千鶴:医師から完全に許可が出るまでは、地面を歩いてください』


『澪:鏡宮さんまで、久我さんみたいなこと言う!』


 文字の向こうで、澪が唇を尖らせているのが目に浮かぶ。


 続いて、千鶴から一枚の画像が送られてきた。


 青い、空飛ぶクジラのガラス製写真立て。


 鏡宮家から京都を出る際に持ち出された重厚な調度品や、現在の保護先に置かれた落ち着いた和風の家具。


 その厳かな空間の中へ、明るい青色の観光用写真立てが置かれている。


 中には、久我が空中で横回転し、澪と千鶴が左右から支えている写真が、しっかりと飾られていた。


『澪:部屋の雰囲気から、すごく目立ってますね!』


『千鶴:私もそう思います。ですが、ここへ置くことにしました』


『久我:ほかに、もっと普通に撮れている写真もあったでしょう』


『千鶴:こちらの方が、三人らしいので』


 続いて澪からも、自分の部屋の勉強机へ、同じ写真を同じ写真立てに入れて飾った画像が届いた。


『澪:私も飾りました!』


 久我は、自分の鞄に入っている写真立てを思い出した。


 まだ写真は入れていない。


 注文した写真が、今夜自宅へ届く予定になっている。


『久我:俺の分は、帰宅してから入れます』


『澪:絶対に、同じ写真にしてくださいね!』


『久我:俺に選択権はないんですか?』


『千鶴:三人で同じものを飾ると、境界島で決めましたから』


 二人の強固な包囲網に、久我は諦めた。


 続いて、澪から報告が届く。


『澪:八咫烏の担当の方から、シューズの装備申請を受け付けたと連絡が来ました!』


 まだ審査中であり、製作が決定したわけではないが、第一関門は通過したらしい。


『澪:審査が通って靴が届いたら、最初に壁を走る練習をしたいです!』


『千鶴:最初は平地で、歩行時の身体の使い方と重心移動を確認します』


『澪:新しい専用の靴なのに、歩くだけですか!?』


『千鶴:装備が変われば、同じ動作でも身体への力の伝わり方と反動が変わります。基本が重要です』


『久我:その前に、医師の許可が出ることが大前提です』


『澪:二人とも、同じことしか言わない!』


 三人の関係が、境界島から離れた東京の日常でも変わらずに続いている。


 そのことが、久我には心地よかった。


 昼休みの終わり頃。


 今度は、かれんから個別のメッセージが届いた。


『境界島に関する詳細報告書を受領し、内容を確認しました。大きな不足はありません。後日、確認事項が出た場合のみ連絡します』


『久我:ひとまず、報告書の提出と確認は完了ということでいいですか?』


『はい。大変お疲れさまでした』


 久我は、肩の荷が一つ下りたように息を吐いた。


 続けて、かれんからメッセージが届く。


『紅茶の缶も、施設で受け取りました。ありがとうございます』


 かれんは境界島から東京へ戻った後、八咫烏の施設へ立ち寄り、久我が手配した土産を受け取ったらしい。


『久我:お土産で、報告書の評価に影響はありますか?』


『ありません』


『久我:念のため、確認しただけです』


『本当に、ただ念のためでしょうか?』


 久我は苦笑し、チャットを終えた。


       *


 午後の仕事。


 顧客との定例会議。


 月次資料の数字確認。


 休暇中に発生したシステム障害の報告レビュー。


 午前中に後輩が修正した集計資料の最終確認。


 次週の作業分担。


 社内では、派手な問題は何も起きない。


 境界島での命懸けの戦闘に比べれば、平和で単調な時間だ。


 だが久我にとっては、誰かがやらなければ、どこかで滞る大切な仕事だった。


 会議中、顧客から質問が飛んでくる。


「この障害、来週以降に再発しませんか?」


 久我は、分からない未来を断定せず、事実だけを答えた。


「現時点で原因となったサーバー設定は修正済みです。同一原因での再発可能性は低いと考えています。ただし、別経路からのアラート監視を今夜から追加します」


 以前より、自分一人で過剰な責任を背負うような言い方を避けた。


 担当。


 確認者。


 監視方法。


 期限。


 それらを明確に割り振り、全員が状況を共有できるように進める。


 境界島での経験を、職場で語ることはない。


 ただ、仕事の進め方が少しだけ、風通しのよいものへ変わっていた。


       *


 午後五時半。


 今日中に必要な仕事は、すべて終了した。


 未読メールはゼロではない。


 明日対応する案件も残っている。


 だが、今日残業してまで進める必要はないものばかりだ。


 以前の久我なら、


 どうせなら、きりのよいところまで全部片づけよう。


 と、当然のように残業を始めていただろう。


 今回は、タスク一覧へ翌日の日付を設定し、業務用端末の画面を閉じた。


 隣の同僚が驚いたように顔を上げる。


「久我さん、もう帰るんですか?」


「ええ。今日の分のタスクは終わりましたので」


「旅行明けで疲れているからですか?」


「明日でいい仕事を、今日無理にやる必要はありませんからね」


 自分で言ってから、久我は少しだけ不思議な気分になった。


 境界島の地下で、一人ですべてを背負う必要はないと語った言葉は、会社の平凡な仕事にもそのまま当てはまっていた。


 ただし、その感傷に長く浸ることはない。


 久我は、普通に退勤処理を行った。


 通りかかった課長が声をかける。


「お、本当に帰るんだな」


「帰ってはいけなかったんですか?」


「いや。それが正しいんだけどな。お前が連休明けに定時で帰ると、何か重大なトラブルを見落としているんじゃないかと少し不安になる」


「いくらなんでも、ひどくないですか?」


       *


 午後七時前。


 久我が自宅マンションへ帰り着いた。


 八咫烏用の空飛ぶクジラまんじゅうは、すでに施設へ配送済みであり、久我が立ち寄る必要はない。


 帰りの電車では、剣持と杖原から短いメッセージが届いていた。


『剣持:土産、受け取った。次の訓練は、お前の身体の状態を直接確認してからだ』


『久我:もう完全に治っていますよ』


『剣持:お前の自己判断は信用できねえ。こちらで見る』


『杖原:クジラのおまんじゅう、ありがとうございます! 可愛いですね!』


『久我:配布のしやすさと保存性を重視して選びました』


『杖原:そういうところが、本当に久我さんらしいです!』


 事件の話には、誰も踏み込まない。


 土産が届いたという些細なやり取りだけで、人間関係が日常として続いていることを感じられた。


 玄関を開ける。


 今日は、靴を脱ぐのに苦労しない。


 右腕は完全に、痛みなく動く。


 エントランスの宅配ボックスには、


 境界島から送った自宅用の土産。


 注文していた空中遊泳の印刷写真。


 追加で注文しておいた血液パック。


 が届いていた。


 久我は、自宅用の空飛ぶクジラまんじゅうの箱を棚へ置く。


 そして、買ってきた青いガラスの写真立てへ、届いたばかりの写真を入れた。


 やはり、選んだのはあの写真だった。


 久我が空中で斜めに回転し、澪と千鶴が左右から呆れた顔で支えている一枚。


「……どう見ても、俺だけが助けられている構図だな」


 それでも久我は、その写真を見て少しだけ笑い、仕事用の机の隅へ置いた。


 会社用の業務端末。


 明日の予定表。


 冷蔵庫の血液パック。


 青い写真立て。


 すべてが、三十五歳の普段の生活の中へ静かに収まっていった。


       *


 久我は夕食を食べながら、今日一日を振り返った。


 朝に詳細な報告書を提出した。


 満員電車で通勤した。


 会社へ土産を配った。


 大量の未読メールを処理した。


 後輩の資料を確認した。


 会議へ出席し、定時で退社した。


 誰とも戦っていない。


 誰も救助していない。


 吸血鬼の異能も、魔眼も、一切使っていない。


 それでも、会社員としての一日分の仕事は、確かに終わっている。


 端末が鳴った。


 澪からの、今日最後のメッセージだ。


『明日まで走るの禁止なので、今日はもう早く寝ます!』


『千鶴:おやすみなさい。久我さんも、夜更かしして仕事をしないでくださいね』


『久我:今日はもう絶対に仕事をしませんよ』


『澪:本当に?』


『久我:なぜ二人とも、俺の言葉を信用しないんですか』


 三人のやり取りを終え、久我は端末を机へ置いた。


 写真立ての中では、三人が空中で不格好に繋がっている。


 四連休が終われば、会社員は当たり前のように会社へ行く。


 境界島の地下で違法薬物による人体実験を止め、七人を繋いでいた共鳴を断ち切り、六人の能力者を救ったという事実も、連休明けの百件を超える未読メールを減らしてはくれなかった。


 久我陽介は旅行土産を配り、数字の合わない集計資料を確認し、会議で説明し、定時に会社を後にした。


 吸血鬼になり、異能者が集まる巨大な街から生きて帰ってきても、彼の平凡な生活がなくなるわけではない。


 机の上には、境界島から持ち帰った青い写真立てがある。


 その中で、自分だけが空中で情けなく回転していた。


 久我は写真を一度見てから、明日の朝の目覚ましを設定した。


 異常な旅行明けの最初の出勤日は、驚くほど普通に終わった。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
三人の思い出だけど、確かに知らない人に見せるには誤解を生む写真だからなあ。
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