↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/64

第39話 吸血鬼、薬で繋がれた能力者たちを救う

 四連休三日目、午前一時過ぎ。


 第七リングの地下深層、B4実験アリーナ。


 直径五十メートルほどの、無機質な円形空間だった。


 中央に据えられた制御台には、黒いジャケットを着た獅堂将馬が静かに立っている。


 その周囲を、六人の能力者が六角形の陣形で囲んでいた。


 アリーナの壁沿いには複雑な実験機材が並び、天井には能力測定用のセンサーや金属レールが張り巡らされている。


 六人の被験者たちは、それぞれ異なる表情を浮かべていた。


 火炎能力者は、薬物による過剰な興奮で不自然な笑みを浮かべている。


 冷却能力者は、自分の力に怯えるように震えていた。


 皮膚硬化能力者は歯を食いしばり、全身を襲う苦痛へ耐えている。


 念動力能力者は、焦点の合わない虚ろな目で宙を見つめていた。


 音響能力者は耳を塞ぎたい衝動を必死に抑え込んでいるように、両手を下ろしたまま動かない。


 影移動能力者は、逃げ道を探すように落ち着きなく周囲へ視線を走らせていた。


 正常な判断ができる状態の者は、一人もいないように見えた。


 しかし、中央にいる獅堂が右手を上げると、六人全員が糸で操られた人形のように、寸分違わぬタイミングで臨戦態勢を取った。


「薬を使わない能力者三人。薬と共鳴で繋がった能力者七人。どちらが本当に強いのか、最後の試合を始めよう」


 獅堂の唇が、楽しげに弧を描く。


「こちらは試合をしに来たわけではありません」


 久我陽介は、包帯に覆われた右腕を庇いながら冷たく返した。


「知っている。だからこそ、お前たちが敗北を認めるまで、この試合は終わらない」


 獅堂が、上げた右手を力強く振り下ろした。


 その瞬間。


 七人の能力反応が、同じ周期で一斉に脈動した。


       *


 最初に動いたのは、冷却能力者だった。


 両手を床へ触れさせる。


 久我たちの足元へ向けて、凍てつくような白い霜が一気に広がった。


 同時に、対角線上にいる火炎能力者が両手から激しい炎を放ち、正面の退路を完全に塞ぐ。


 急激に床を凍らせる冷気と、荒々しい熱気が衝突した。


 アリーナ中央へ、大量の水蒸気が発生する。


 一瞬にして、視界が真っ白に覆われた。


 普通なら、ここで敵味方ともに互いの位置が分からなくなり、動きが止まる。


 だが、音響能力者が喉の奥から短い音波を放った。


 反響音の変化から、久我、澪、千鶴の位置を立体的に捉える。


 その知覚情報が、《能力共鳴》を介して七人全員へ共有された。


 蒸気の向こうから、念動力で持ち上げられた鋭い金属片の群れが、見えないはずの久我たちへ正確に飛来する。


 千鶴が滑るように前へ出た。


 偽装用コンパクトから取り出された《真澄鏡》の分鏡が、淡い光を放つ。


 千鶴は《神鏡返し》で金属片を能力者本人へ返さず、無人の天井方向へ軌道だけを変更した。


 金属片が、天井の衝撃吸収材へ深く突き刺さる。


 その直後。


 火炎によって床へ生まれた影の中から、影移動能力者が音もなく出現した。


 狙いは、防御へ集中している千鶴の死角。


「鏡宮さん、右後ろ!」


 久我の叫びに、千鶴は振り向くことなく半歩だけ前へ出た。


 影移動能力者の鋭い手刀が、千鶴の髪を掠めて空を切る。


 反撃に移る隙もなく、今度は皮膚硬化能力者が正面から突進してきた。


 全身を灰色の硬質な皮膚に覆った、生きた盾。


 獅堂本人へ近づかせないための前衛だった。


       *


 澪が吸血鬼の脚力で床を蹴り、皮膚硬化能力者の側面へ高速で回り込んだ。


 攻撃するためではない。


 首元に取り付けられた投薬装置の位置と構造を確認するため、極限まで近づいただけだ。


 だが、澪が動いた瞬間。


 火炎能力者が澪の進路を先読みし、炎の壁を置いた。


 澪が炎を避けて軌道を変えれば、冷却能力者がその着地点を凍らせる。


 念動力能力者が、空中の澪へ横向きの力を加えた。


 音響能力者が、平衡感覚を狂わせる不快な周波数を叩き込む。


 影移動能力者は、澪が落下する地点へすでに先回りしていた。


 澪は攻撃を受ける寸前で、空中に固定された金属機材を蹴る。


 無理やり進路を変え、久我たちの近くへ戻ってきた。


「全部、私が行く場所を最初から分かってました!」


「七人全員が、七人分の目と耳を使っていますからね」


 久我は、魔眼の視界を研ぎ澄ませた。


 一人の視界へ入れば、全員に見つかる。


 一人の死角へ回ったつもりでも、別の誰かが見ている。


 ただ背後へ回るだけの戦術は通用しない。


「……攻撃を、ご本人たちへ直接返すことはできません」


 分鏡を構えたまま、千鶴が言った。


 火炎と氷と金属片が、息をつかせぬ連携で飛んでくる。


 しかし、すべてを《神鏡返し》で本人たちへ反射すれば、負傷の痛みと恐怖が接続された六人全員へ共有される。


 一人が負傷すれば、六人の異能反応が一斉に乱れる。


 薬物によって神経が極端に興奮した状態では、その乱れが連鎖的な暴走を引き起こす可能性が高い。


「安全な方向へ逸らすだけでお願いします」


「分かりました」


 千鶴は《神鏡返し》を攻撃手段として使うことを封印した。


 火炎を天井へ。


 氷結を無人の外周へ。


 金属片を衝撃吸収壁へ。


 音響波を吸音材へ。


 相手へ返すのではなく、安全な方向へ流す純粋な防御へ限定する。


 その分、能力制御に必要な集中力と精神的な負担は大きくなる。


       *


 久我は、七人を繋ぐ異能反応を観察していた。


 共鳴は、七人全員へ常に均一に働いているわけではない。


 獅堂から発せられた命令と感覚情報は、火炎、冷却、硬化、念動力、音響、影移動、そして獅堂へと巡っている。


 ただし、順番は固定されていない。


 獅堂が次に使おうとする能力へ、最初に強い共鳴が流される。


 炎を使うなら、火炎能力者から。


 視界外を探るなら、音響能力者から。


 死角へ回り込むなら、影移動能力者から。


 命令が一周する僅かな時間の中で、反応が強くなる者と、反対に弱くなる者が順番に生まれていた。


「完全な同時ではありません」


 久我の言葉に、澪が息を弾ませながら応じる。


「少しずつ、順番に繋がってるってことですか?」


「はい。獅堂さんが必要な能力から順に、命令を回しています」


「その反応が弱くなる瞬間を狙えば、近づけるのですね」


 千鶴が答えへ辿り着く。


「ただし、順番は攻撃のたびに変わります」


 暗記では攻略できない。


 久我が一周期ごとの変化を読み続け、その場で指示を出す必要がある。


『六人の投薬装置の構造を確認しました。獅堂が個別制御をロックしています』


 通信用イヤホンから、B3の制御室にいる榊原の声が届く。


「そこから薬を止められませんか?」


『中央制御だけでは止まりません。一台だけ停止命令を送ると、残り五台へ投与量を自動で再分配する設定になっています』


「一人分を止めたら、ほかの人の薬が増えちゃうんですか?」


 澪が青ざめる。


『獅堂が、戦闘中に一人が脱落しても全体出力を維持できるよう、システムを変更しています』


「最悪の仕様変更ですね」


『装置の左側面に、黄色い安全ロックがあります。それを手動で待機位置へ移してください。六台すべてが待機状態になった瞬間だけ、私が中央から薬剤供給を停止できます』


 一台目のロックを操作してから、三秒以内に残り五台も待機状態へ移さなければならない。


 間に合わなければ最初の装置が自動復帰し、残りへ薬剤が追加投与される。


 三秒以内に六人へ触れる。


 澪の速度なら不可能ではない。


 だが、七人が視界と攻撃を共有している現状では、近づく前に阻止される。


『もう一つ。中央制御台には、共鳴試験が暴走した場合に備えた緊急隔離機構があります』


 榊原が続ける。


『遠隔操作は獅堂に封じられていますが、現地の手動レバーだけは、安全規則上無効化できません。中央制御台の右端にある黒い《共鳴隔離》レバーを引けば、能力遮蔽壁が展開され、獅堂を隔離できます』


「獅堂さんの目の前まで行く必要があるんですね」


『そうなります』


「簡単な作業が一つもありませんね」


       *


「七瀬さん。まず影移動、次に音響、念動力の順です」


 久我が、魔眼で読み取った最初の経路を指示する。


「三人だけですか?」


「最初は安全ロックの位置と、相手の反応を確認します。無理なら、すぐに戻ってください」


「分かりました!」


 千鶴が火炎と氷結を左右へ逸らし、一瞬だけアリーナ中央へ細い道を作った。


 澪が疾走する。


 獅堂の共鳴が火炎能力者へ強く流れている間に、影移動能力者へ肉薄。


 左側面の安全ロックを指先で滑らせる。


 小さな音とともに、装置の表示が赤から黄色へ変わった。


 次に、音響能力者。


 音波が放たれる直前、久我が叫ぶ。


「今です!」


 澪が音響能力者の懐へ潜り込む。


 至近距離では、味方を巻き込む広範囲音波は使いにくい。


 二台目のロックを黄色へ。


 そして三台目、念動力能力者。


 だが、獅堂が澪の狙いを理解した。


 六人の共鳴順序を強引に変更し、念動力能力者へ大量の共鳴を流し込む。


 周囲の金属機材が一斉に浮き上がり、澪を球状に包囲する。


 さらに影移動能力者が、澪の背後の影から手刀を突き出した。


 澪は、攻撃して二人を排除することができない。


 金属の包囲が完全に閉じるまで、もう時間がない。


「中止! 上へ!」


 久我の指示。


 澪は、念動力の檻が閉じられる直前の隙間を抜け、天井近くの測定レールへ跳躍した。


 壁を蹴り、久我たちの元へ戻る。


 直後。


 一台目と二台目の安全ロックが自動復帰し、表示が黄色から赤へ戻った。


 装置が追加の薬剤を投与する。


 六人の異能反応が、先ほどよりもさらに上昇した。


 着地した澪の左膝が、僅かに沈み込む。


 壁、柱、天井を走り続け、真壁との戦闘でも撹乱役を務めた疲労。


 専用靴と補助具に守られているとはいえ、脚そのものの消耗は消えていない。


「七瀬さん。脚は大丈夫ですか?」


「……まだ走れます」


「それは聞きました。走って大丈夫な状態ですか?」


 澪は一瞬だけ答えに詰まり、前を見た。


「あと一回なら、全力で行けます」


 何度も失敗はできない。


 次が最後の解除作戦になる。


       *


 薬剤の追加投与により、共鳴の繋がりはさらに強くなった。


「弱い個人が勝手に動こうとするから失敗する」


 獅堂が冷たく言い放つ。


「俺に従えば、自分で考える必要も、迷う必要もない」


 火炎能力者が、笑いながら炎を増幅させる。


 しかし、その笑顔のまま、目からは大粒の涙が流れ落ちていた。


 冷却能力者が、震える声で呟く。


「もう……やめたい……」


 その言葉が発せられた瞬間。


 ほかの五人の表情にも、同じ恐怖が広がった。


 冷却能力者のやめたいという感情が、六人全員へ共有されたのだ。


 獅堂の表情が険しくなる。


「余計なことを考えるな」


《能力共鳴》を通じて、獅堂の強い命令が六人へ流れ込む。


 六人の身体が、本人たちの拒絶に反して痙攣し、再び戦闘姿勢を取らされた。


 千鶴が、その異能の流れを見据える。


「獅堂さんは、感覚を共有しているだけではありません」


「命令で、本人たちの意思を押さえ込んでいる」


「はい。あれは連携ではありません。精神の拘束です」


 千鶴の持つ分鏡が、小さく振動する。


《神鏡返し》は、物理的な攻撃だけを返す能力ではない。


 本人の意思を押し潰し、行動を強制する拘束も、反射の対象になり得る。


 ただし、共鳴全体を反射すれば、六人へ流れている感覚や苦痛まで獅堂へ返すことになる。


 どのような反動が起こるか分からない。


 千鶴が狙えるのは、獅堂から六人へ送られる強制命令だけ。


 しかも、それが発せられるごく短い瞬間だけだった。


       *


「俺と鏡宮さんで、獅堂さんの注意を二つへ分けます」


 久我は攻撃を避けながら、作戦を伝える。


「その間に七瀬さんが、六台の安全ロックを操作してください」


『六台が待機状態へ入った瞬間、私が薬剤供給を停止します』


 榊原が通信の向こうから続ける。


「薬が止まれば、六人は獅堂さんの命令へ抵抗しやすくなる。その時、獅堂さんは強制命令をさらに強めるはずです」


「私は、その命令だけを本人へ返します」


 千鶴が頷く。


「獅堂さんの集中が崩れたら、俺が中央制御台へ行って《共鳴隔離》を作動させます」


「久我さんが一番危険な役目ではありませんか?」


 澪が問う。


「中央制御台へ行くには、それしかありません」


「右腕は?」


「使いません」


「左腕も痛めていますよね?」


「なるべく使いません」


 澪と千鶴が、揃って疑わしそうな視線を向ける。


「……今は作戦へ集中しましょう」


       *


 久我が、負傷した右腕を庇いながら、獅堂へ向かって正面から歩き出した。


 左腕にも真壁戦の衝撃が残り、血液も減っている。


 それでも足取りに迷いはない。


「今度はお前が来るのか、中年」


「ずっと後ろから指示しているだけでしたからね。たまには少し前へ出ようかと思いまして」


「その壊れた腕で、何ができる」


「殴る以外のことなら、多少は」


 獅堂が硬化能力者を久我へ向かわせた。


 同時に、火炎能力者が久我の退路へ炎の壁を作る。


 念動力が左右の空間を金属で塞ぐ。


 獅堂の情報処理が、久我の制圧へ集中する。


 千鶴は別方向から、中央制御台へ近づくように動いた。


 獅堂は《神鏡返し》を警戒し、音響能力者と影移動能力者を千鶴の牽制へ回す。


 六人の役割が、久我側と千鶴側へ分散された。


 澪への警戒が、一瞬だけ薄くなる。


 皮膚硬化能力者が、岩のような拳を久我へ振るう。


 久我は受け止めない。


 拳が届く直前に身体を半歩だけ外へ滑らせ、左手を相手の肘へ軽く添える。


 勢いの方向を僅かにずらされた拳が空を切り、床を砕いた。


 久我は、その太い腕の下を潜り抜ける。


 火炎が迫る。


 千鶴が遠隔から火炎を久我の横へ逸らした。


 念動力で久我の身体が持ち上げられかける。


 久我は近くの固定レールを左手で掴み、浮かされるのを防いだ。


 無理に前へ進む必要はない。


 攻撃を避ける。


 敵を獅堂から引き離す。


 獅堂の注意を自分へ固定する。


 それだけでいい。


 久我の魔眼に、共鳴の巡回順が映る。


 最初は硬化。


 次に火炎。


 念動力。


 音響。


 影移動。


 冷却。


 一周期が終われば、獅堂はすぐに順番を変える。


「七瀬さん、行ってください!」


 澪が、残された力を振り絞って疾走した。


 一台目、冷却能力者。


 共鳴が反対側の硬化能力者へ流れている間に、安全ロックを黄色へ。


 二台目、影移動能力者。


 影へ沈もうとする直前、装置へ触れてロックを操作する。


 三台目、音響能力者。


 音波が発生する前に脇を通り抜け、安全ロックを待機位置へ。


 獅堂が澪の動きに気づいた。


「止めろ!」


 共鳴順序が変わる。


 久我はその変化を即座に読む。


「次は念動力! その後、火炎です!」


 澪は最初に決めた順番へ固執しない。


 久我の声に合わせ、空中の機材を蹴って進路を変えた。


 念動力能力者の周囲へ、鋭利な金属片が浮く。


 澪は床を走らず、壁へ移る。


 第七リングの試合で身につけた立体機動。


 金属片の包囲を上から越え、四台目の安全ロックを黄色へ変える。


 火炎能力者が炎の壁を作った。


 千鶴が炎を真上へ逸らす。


 炎が天井の散水設備へ当たり、大量の水蒸気が生まれた。


 視界が白く覆われる。


 音響能力者は、すでに安全ロックが待機状態へ入っている。


 異能反応が僅かに不安定になり、反響による位置把握が一瞬遅れた。


 澪が蒸気を抜ける。


 五台目。


 火炎能力者の装置を黄色へ。


 残りは、皮膚硬化能力者一人。


 だが、硬化能力者は獅堂の目の前で盾となっている。


 獅堂は硬化能力者へ共鳴を集中させた。


 皮膚だけでなく、顔面を含む全身が分厚い灰色の装甲に覆われる。


 投薬装置は、硬化した肩と首の間へ隠れていた。


 残り時間は一秒に満たない。


 久我が、獅堂へ向けてさらに一歩踏み込んだ。


 獅堂が反射的に、目の前の盾へ命じる。


「そいつを止めろ!」


 硬化能力者が久我へ向かって踏み出す。


 獅堂の前から、盾が離れた。


 久我は迫る拳を避けた。


 倒さない。


 掴まない。


 硬化能力者の身体を、自分の横へ通過させるだけ。


 その背後を、限界の速度で澪が走り抜ける。


 久我とすれ違う瞬間、二人の視線が交わった。


 久我は、硬化能力者の左肩を見る。


 澪は意図を理解した。


 硬化能力者の背後へ回り込み、肩の内側に隠れていた安全ロックへ指を滑り込ませる。


 六台目の表示が、赤から黄色へ変わった。


「榊原さん、今です!」


       *


 B3の制御室。


 榊原の指が、停止命令の実行キーの上で止まった。


 画面には、無機質な警告が表示されている。


『最終試験データの一部が失われます。本当に停止しますか?』


 人生を賭けて積み上げてきた研究。


 犠牲者から得た記録。


 完成へ近づいたと思っていた負荷分散試験。


 それらを、自分の手で止める命令。


 モニターの隅では、冷却能力者が涙を流しながら震えていた。


 榊原は警告画面を閉じる。


「……停止する」


 実行キーを押した。


 六台の投薬装置のランプが、同時に青へ変わる。


 薬剤の供給が停止した。


       *


 投薬が止まった直後。


 六人の能力出力が僅かに低下した。


 薬物による異常な興奮も、少しずつ弱まり始める。


 完全に正常へ戻ったわけではない。


 だが、本人たちのやめたいという意思が、表面へ浮かび上がる。


 冷却能力者が膝をついた。


「もう……動けない……」


 音響能力者が、苦しそうに耳を押さえる。


「頭の中に……入ってこないで……」


 影移動能力者が、獅堂から離れようと後ずさる。


 獅堂が焦りを浮かべた。


「動け!」


《能力共鳴》を最大出力へ引き上げる。


 六人へ、個別の命令が送り込まれる。


 火炎能力者へ、正面を焼け。


 冷却能力者へ、右側を凍らせろ。


 硬化能力者へ、久我を止めろ。


 念動力能力者へ、澪を拘束しろ。


 音響能力者へ、千鶴を探知しろ。


 影移動能力者へ、背後へ回れ。


 本人たちの意思を押し潰す、六つの強制命令。


 千鶴が、分鏡を真っ直ぐに掲げた。


 共鳴全体を反射しない。


 感覚共有も、能力反応も、六人の苦痛も返さない。


 獅堂から六人へ流れ込む、強制命令だけへ照準を絞る。


「人を繋いでいるのではありません」


 千鶴の澄んだ声が響く。


「あなたは、ただ彼らを縛っているだけです」


《神鏡返し》が発動した。


 六人へ向かっていた強制命令が、発信元である獅堂へ返る。


 獅堂の身体が、不自然に硬直した。


 正面へ炎を放とうとする命令。


 右側を凍らせようとする命令。


 久我へ突進しようとする命令。


 澪を拘束しようと両腕を伸ばす命令。


 千鶴へ顔を向け、位置を探ろうとする命令。


 背後へ回ろうとする命令。


 六人へ別々に送っていた動作が、獅堂一人の身体へ重なった。


 上半身は正面へ向かおうとしながら、首は千鶴の方角へ捻られる。


 両腕は澪を捕らえようと左右へ伸び、脚は久我へ向かう動きと、背後へ回る動きを同時に始める。


 互いに両立しない命令が衝突し、獅堂の動作と集中が乱れた。


 ただし、千鶴も無傷では済まない。


 七人を繋ぐ強い異能の一部へ触れた反動で、分鏡を持つ手が震えている。


 長時間は維持できない。


「久我さん、今です!」


 久我が、中央制御台へ走る。


 影移動能力者が、最後に受けた命令の残滓へ引かれ、久我の前へ現れかけた。


 しかし薬剤は止まり、共鳴も乱れている。


 完全には影から出られない。


 久我は攻撃せず、その横を抜けた。


 中央制御台。


 榊原に教えられていた、右端の黒いレバー。


『共鳴隔離』


 久我は左手でレバーを引いた。


 重い作動音が、アリーナへ響く。


 獅堂が立つ中央制御台の周囲から、分厚い透明な隔離壁がせり上がった。


 内部には、高密度の能力遮蔽材が埋め込まれている。


 千鶴の反射から立ち直りかけた獅堂が叫ぶ。


「待て!」


 隔離壁が閉じた。


 獅堂と六人の間を流れていた異能反応が、次々と途切れていく。


 火炎。


 冷却。


 硬化。


 念動力。


 音響。


 影移動。


 最後に獅堂へ戻るはずだった流れまで、能力遮蔽壁によって遮断された。


《能力共鳴》が切れた。


       *


 隔離壁の内側で、獅堂が能力を再発動しようとする。


 しかし、接続できる能力者は一人もいない。


「弱い奴らは、一人では何もできない! 俺が繋いだからこそ、あいつらは強くなれたんだ!」


「繋がることと、縛ることは別です」


 久我は壁の外から静かに返した。


「同じことだ! 一人で弱くて何もできないなら、強い意思へ従えばいい!」


「それなら、どうして全員がやめたいと言っているんですか?」


 獅堂は答えない。


「あなたが作ったのは仲間じゃありません。自分の命令に逆らえない、都合のいい道具です」


 久我は、床へ崩れかけている六人を見る。


「一人で戦えないのは、あの人たちじゃない。最後まで六人を盾にして、自分は安全な場所から命令していた、あなたの方でしょう」


 獅堂が隔離壁を殴りつける。


 しかし、共鳴させる相手を失った獅堂は、自分の能力が持つ最大の強みを失っていた。


       *


 接続が切れた瞬間。


 六人全員が、糸を切られた人形のようにその場へ崩れ落ちた。


 共鳴によって分散されていた過剰な負荷が、個々の身体へ戻ろうとする。


 ただし、薬剤の供給はすでに停止している。


 新たな負荷が増えることはない。


 問題は、すでに発動している能力だった。


 火炎能力者の両手から、制御を失った炎が噴き出す。


 冷却能力者の周囲から、無差別に氷が広がる。


 念動力で浮いていた重い機材が落下する。


 音響能力者から、無意識の高音波が漏れ続ける。


 三人は、即座に戦闘から救助へ切り替えた。


 千鶴が《神鏡返し》を使い、炎を無人の耐熱壁へ、氷結を外周へ、落下する金属を衝撃吸収床へ、高音波を天井の吸音設備へ逸らす。


 能力者本人たちへは決して返さない。


 影へ半分沈んだまま意識を失った影移動能力者には、周囲の照明を均等に反射させ、濃い影を薄くした。


 身体が、ゆっくりと床の上へ戻ってくる。


 呼吸困難に陥りかけている皮膚硬化能力者は、気道が確保できるよう横向きへ体勢を変えた。


 澪の脚は、すでに限界に近い。


 それでも、一人ずつ安全地帯へ運んでいく。


 高速では走らない。


 衰弱した能力者へ衝撃を与えないよう、短い距離だけ加速し、すぐに減速する。


 衝撃吸収マットへ静かに下ろし、次の人へ向かう。


 一人目。


 二人目。


 三人目。


 左膝へ鋭い痛みが走った。


 澪の身体が僅かに傾く。


「七瀬さん、無理をしないで!」


「久我さんにだけは、絶対に言われたくありません!」


 怒ったような声で返し、澪は再び動く。


 今回は、澪一人へすべてを背負わせるわけではない。


 久我も左肩と身体全体を使い、硬化能力者の重い身体を支える。


 千鶴も念動力能力者を運ぶ。


 三人で分担し、六人全員を安全地帯へ移した。


 久我は、魔眼で確認できる範囲の異常を榊原へ伝える。


「火炎能力者の心拍が上がっています」


『身体を冷やしてください。ただし急激に体温を下げないで』


「硬化能力者の胸郭が動いていません」


『首元の硬化が弱まるまで酸素マスクを当ててください。投薬装置は外さないで』


「影移動能力者の異能反応が不安定です」


『照明を維持してください。再び影へ沈ませないように』


 榊原はB3の制御室から、医療職員へ伝えるべき処置を指示する。


 六台の投薬装置は青色表示のまま。


 久我たちは装置の外部接続端子だけを解除する。


 身体に食い込んだ注入針や薬剤カートリッジには触れず、医療班が到着するまで固定したままにした。


       *


 アリーナ上部の防火扉が開いた。


 榊原が制御を取り戻し、B1からB3までの防火扉を順番に解除していたのだ。


 特区保安局の黒瀬と、八咫烏の医療・制圧班がアリーナへ流れ込んでくる。


 黒瀬は、現場を素早く見回した。


 中央の隔離区画に閉じ込められた獅堂。


 マットの上へ寝かされた六人の薬物使用者。


 投薬装置は停止済み。


 能力の暴走も、すでに収まりつつある。


 久我は血の滲んだ包帯を巻き、澪は左脚を庇い、千鶴も分鏡を持つ手を震わせていた。


 それでも、死者は一人もいない。


「……本当に、あなたたち三人で止めたの?」


「榊原さんの遠隔支援もありました」


「そこを正直に報告するのね」


「事実なので」


 八咫烏の医療班が、六人の処置を引き継ぐ。


 制圧班が隔離区画のロックを開け、能力抑制装備を装着した上で獅堂を拘束した。


 獅堂は手錠をかけられながらも、最後まで叫び続ける。


「俺がいなければ、あいつらは一生何者にもなれないんだぞ!」


 処置を受けていた火炎能力者が僅かに意識を取り戻した。


 掠れた声で答える。


「……お前がいない方が……俺は、自分で考えられる……」


 獅堂は、それ以上何も言えなかった。


       *


 B3の制御室では、榊原が逃げずに保安局の到着を待っていた。


 研究データのロックを解除し、防火扉の制御を返し、投薬停止の記録も残している。


 しかし、最後に協力したからといって、それまでの罪が消えるわけではない。


 黒瀬が榊原の前へ立ち、告げる。


「榊原宗一。違法薬物の製造、無許可の人体投与、危険性の隠蔽、違法試合への薬物提供、死亡記録偽装への関与。そのほか複数の容疑で身柄を拘束します」


「分かっています」


 榊原は抵抗せず、両手を差し出した。


 手錠をかけられる前に、久我へ振り返る。


「最後に一つだけ。あなたのあの運用の方法は、誰にでも再現できますか?」


 久我が答えられなかった問い。


 久我は少しだけ考える。


「俺とまったく同じことを、誰にでもできるとは思いません」


「やはり、あなた一人の特異な才能ですか。それなら――」


「俺一人では、絶対に無理だったという意味です」


 久我は、隣に立つ澪と千鶴を見る。


 さらに、六人の処置を続ける八咫烏の医療班、現場を指揮する黒瀬、B2で患者の治療を続けている医療職員たちを見た。


「敵の動きを見る人。戦い方を教える人。傷を治療する人。安全に訓練できる場所を作る人。能力に合った道具を作る人。そして、行き過ぎた時に危険だと止める人」


 久我は、榊原の目を見返した。


「一人の天才が、全部を解決する必要はないんじゃないですか」


 榊原は黙って聞いている。


「あなたは、誰にでも使える一つの薬で、全部を解決しようとした。その結果、助けるはずだった人を、薬の都合へ合わせ始めた」


 久我の声に、責め立てるような強さはなかった。


「低出力の能力者をどう支えるのが正しいか、俺にも答えは分かりません。でも、答えが分からないからといって、目の前の人を材料にしていいことにはならないでしょう」


 榊原は反論しなかった。


「……そうですか」


 それだけを答え、黒瀬たちに連行されていった。


       *


 夜明けまでに、第七リングの地下違法区画は特区保安局の管理下へ置かれた。


 獅堂、榊原、真壁をはじめ、地下試合運営者、薬物販売担当者、原料横流しに関与した職員などが逮捕、確保されていく。


 保護された薬物使用者や参加者たちは、一律に犯罪者扱いされなかった。


 自発的な参加だったのか。


 他者への加害があったのか。


 薬物への依存はどの程度か。


 危険性を知らされていたのか。


 運営から脅迫を受けていたのか。


 一人ずつ事情を調べ、犯罪への責任と、薬物被害者としての治療を分けて扱うことになった。


 第七リングの地下違法区画は封鎖され、長期の現場検証と捜査が始まる。


 地上にある認可競技場にも、一時的な立入制限がかけられた。


 ただし、地下事件との関係を確認した後も、合法的な能力競技そのものを廃止する方針は取られなかった。


「表側の施設まで全部悪だったことにすると、真面目に競技を楽しんでいた能力者たちまで居場所を失うからね」


 黒瀬の判断だった。


 境界島全体も、腐敗した実験都市として切り捨てられることはない。


 正規の医療機関や能力者支援団体が、被害者の治療と制度改善へ動き始める。


 榊原が指摘した、制度からこぼれ落ちる低出力能力者の問題も、事件を理由に無かったことにはせず、今後も議論されることになる。


       *


 午前五時過ぎ。


 地上へ続くエレベーターの中に、久我、澪、千鶴の三人が乗っていた。


 久我の右腕は再び固定され、左腕にも新しい包帯が巻かれている。


 疲労回復のため、血液パックのストローを咥えたままだ。


 澪は両脚に冷却材とテーピングを巻かれ、千鶴も分鏡を持ち続けた手に包帯を巻いている。


 三人とも、立っているのがやっとというほど疲れていた。


「四連休の旅行って、普通はもっと色々な観光地を回るものですよね」


 澪が小さくこぼす。


「昨日の昼間、展示館とカフェには行ったでしょう」


「たったそれだけじゃないですか」


「本日は、何があっても休養日にするべきでしょう」


 千鶴の提案に、久我は深く頷く。


「大賛成です」


「久我さんが、あんなに素直に休むって言った……」


「右腕だけでなく、左腕まで痛めましたからね」


「私への心配より、腕への心配の方が強くないですか?」


 地上の保安局臨時本部では、夜間活動用の服装に着替えたかれんが待っていた。


 エレベーターから出てきた三人を見る。


 最初に、足を庇って歩く澪。


 次に、手へ包帯を巻いた千鶴。


 最後に、両腕を傷めた久我。


 かれんは柔らかく微笑む。


「お疲れさまでした」


「勝手に地下深くまで進んだこと、怒らないんですか?」


「それについては、詳細な報告書をすべて提出していただいてからにします」


「後から来るんですね」


「ええ。逃げないでくださいね」


 久我は血液パックを吸いながら、そっと目を逸らした。


       *


 簡単な医療処置を受けながら、澪が言った。


「私、やっぱりもっと強くなりたいです」


 久我と千鶴が澪を見る。


「今回のことで、強くなるのが怖くなったわけじゃありません。もっと速くなりたいし、もっと上手く戦えるようになりたい」


 澪は、包帯を巻かれた自分の脚へ触れた。


「でも、怪しい薬で急に強くなるんじゃなくて、自分で選んで、自分の身体で覚えていきたいです」


「それでいいと思います」


 久我は穏やかに答える。


「強くなりたいという気持ちを、変える必要はありません」


「私も、お手伝いします」


 千鶴が微笑むと、澪は少しだけ顔を引きつらせた。


「また、延々とマットへ投げられる訓練ですか?」


「必要であれば」


「できれば、壁走りの方の訓練でお願いします」


 千鶴は、境界島へ来た目的を思い返していた。


 強い能力を継ぐ者として、鏡宮家の狭い世界の中で育てられた自分。


 しかし、この数日で多くのものを見た。


 弱い能力で働く人。


 強さを求め、薬へ手を出した人。


 能力を日用品へ変える人。


 能力を競技として楽しむ人。


 能力を医療で支えようとする人。


「……来てよかったと思います」


「地下の薬物流通網へ潜って戦ったことがですか?」


「それは余計でした」


「ですよね」


「ですが、鏡宮の屋敷の中だけでは知ることができなかったものを、たくさん見られましたから」


 祖母の死後、予定より早く当主と能力を継承することになった千鶴は、外の世界へ確かに一歩を踏み出していた。


       *


 保安局の大きな窓から、境界島の朝日が差し込んでいた。


 昨夜まで赤い警告灯に照らされていた街は、今は穏やかな朝の顔を見せている。


 夜行性の住民が帰宅し、昼間に活動する人々が目を覚まし始めていた。


 地上の第七リングには立入規制が敷かれている。


 それでも、島全体の日常が止まったわけではない。


 久我の端末へ、通知が届いた。


『特区内事件解決協力に伴う臨時特別手当について。詳細は後日通知します』


「おっ。臨時手当が出るそうです!」


 久我の声が、一段階明るくなる。


「久我さん、急に元気になりました?」


「先ほどまで、休養日にすると賛成していたはずですが」


「休養するためにも、お金は必要ですからね」


「詳細な報告書も必要ですよ」


 かれんの一言で、久我の顔から元気が消えた。


「……現実へ戻された」


 三人は並び、窓の外を見た。


 この人工島には、弱い能力者も、強い能力者もいる。


 能力を使わずに生きる者も、もっと強くなりたいと願う者もいる。


 誰か一人が考えた、たった一つの答えだけで、すべてを救うことはできない。


 それでも、強くなりたいという願いを利用し、その人の選択肢を奪う行為は止めることができた。


 七人を縛っていた薬と共鳴は、朝を迎える前に断ち切られた。


 しかし、人が誰かと繋がることまで否定されたわけではない。


 久我が見つける。


 澪が走る。


 千鶴が守る。


 誰か一人の命令へ従うのではなく、それぞれが自分で選びながら、互いの力を重ねていく。


 少なくとも三人は、その方がずっと強いことを知っていた。


 境界島で迎える三日目の朝が、窓の向こうで静かに始まっていた。


最後までお付き合いいただき感謝します。


もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
能力の光と闇が両方見えた回でしたね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。