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第30話 吸血鬼、流れた血を鎧にする

 ホテル月影での心霊配信者救出任務から数日が過ぎた夜。


 仕事を終えた久我陽介は、指定された通りに御影坂高校の夜間警備班詰所へと足を運んだ。


 古びたパイプ椅子が並ぶ空間には、すでに皇かれんと剣持の姿があった。長机の上に置かれたタブレット端末の画面には、東京近郊から郊外へと放射状に延びる十本の輸送ルートが、赤や青の線で示されている。


「久我さん。次の協力任務は、押収した呪物の輸送護衛です」


 かれんがタブレットを指し示し、淡々とした口調で本題を切り出した。


「呪物ですか?」


「ああ。どうやら、その呪物を狙う襲撃計画が、ダークウェブの超常犯罪者向け掲示板で出回ってるらしい」


 腕を組んで壁に寄りかかっていた剣持が、忌々しそうに吐き捨てた。


「……また、裏で危険な情報を売買している人間がいるんですね」


 ホテル月影の有料情報サイトの件が久我の脳裏をよぎるが、かれんは静かに首を振った。


「今回の情報は、購入者を罠に嵌めるような怪談の類ではありません。純粋に呪物を奪取させるための依頼、あるいは扇動に近いものです。発信元の特定には至っていませんが、八咫烏が押収した呪物が移送されるという事実自体は、正確に漏洩しています」


 輸送されるのは、《哭き骨の楔》と呼ばれる代物だという。


 人間の指ほどの長さをした、黒く変色した骨製の杭。対象者の名前を書いた紙と一緒に地面へ打ち込むことで、遠隔から悪夢や幻聴、激しい内臓痛、自傷衝動を引き起こし、長期間使用されれば死に至らしめるという陰湿な呪具だ。


 単体で大都市を滅ぼすほどの派手な力はない。


 しかし、呪殺代行業者や犯罪術師、裏社会のカルトにとっては極めて使い勝手がよく、高値で取引されるらしい。


「八咫烏は輸送を中止するのではなく、あえて予定通りに行動します」


 かれんが作戦の概要を語り始めた。


「同じ時間帯に、十台の中型トラックを複数の地点から出発させます。全車両が異なる運送会社を装い、積載する封印容器も外見、霊的反応ともにほぼ同一のものを載せます。九台は偽装用の模造呪物。一台だけが、本物の《哭き骨の楔》を運びます」


 偽装容器の中にも、微弱な呪力を発する術具が仕込まれており、単純な霊感や探知能力では、外部から本物を判別することはできないという。


「十チームに分かれて、偽装して対応するわけですね」


「はい。襲撃者を分散させ、本命の輸送経路を秘匿します」


「そのうちの一台に、お前が乗る」


 剣持の言葉に、久我は短く応じた。


「本命ですか?」


「いや。もちろん偽装チームだ。本命は別の専門部隊が固める」


「了解です」


 間髪入れずに即答した久我を見て、剣持が少し意外そうな顔をした。


「随分あっさりしてるな」


「本物の危険な呪物と同じ車に乗らなくていいなら、むしろ安心しましたよ」


「残念ですが、襲撃者側には、どの車両が偽物か分かりません」


 かれんが冷水を浴びせるように事実を告げる。


「……襲われる危険度は変わらないと」


「はい」


 久我のささやかな安堵は、数秒で完全に消え去った。


 なぜ今回の輸送班に自分が選ばれたのか。


 かれんの挙げる理由は極めて事務的だった。


 夜間でも行動能力が落ちない吸血鬼の特性。魔眼による高い周囲警戒能力。負傷しても生存しやすい再生力。そして何より、これまでの任務で見せた、命令を無視して敵を深追いしないという堅実な撤退判断だ。


「お前、思ったより撤退判断は素直だからな」


「命が惜しい、普通の会社員なので」


「その認識を維持してください」


 かれんの言葉に、久我は苦笑した。


 今回の任務は、久我一人ではない。


 後衛の術師が一人、相棒として同行するという。


「接近戦はお前が引き受けろ。後ろから火神という術師が援護する。現場での戦闘指揮は、そいつの指示に従え」


「現場責任者は、その火神さんなんですか?」


「戦闘時の指揮は火神さんです。ただし、輸送の継続または放棄の最終判断は、運転席にいる八咫烏職員が行います」


 すべてを自分一人に背負わされるわけではないと知り、久我は少し肩の荷が下りた。


「第一目標は、敵を倒すことではありません。車両を予定ルートへ進めること、そして襲撃者を本命の車両から遠ざけることです」


 かれんが明確に優先順位を叩き込む。


「偽物の荷物を守って死ぬ必要はないわけですね」


「ありません」


「敵が格上なら、すぐ逃げろ。相手が荷物を持っていっても、どうせ中身はただのガラクタだ」


「少し気が楽になりました」


「その台詞、明日までちゃんと覚えておけよ」


 剣持がニヤリと笑った。


       *


 翌日、午後九時過ぎ。


 表向きは民間物流会社の倉庫を装った、八咫烏の拠点。


 広大な敷地内には、社名も塗装も異なる中型トラックが十台、静かに並んでいた。


 久我は運送会社の作業員を装うため、いつものスーツではなく、黒い作業服に防刃素材入りの上着を羽織り、作業靴を履いていた。胸元には、偽装の社員証が揺れている。


 トラックの荷室は、外から見れば通常の貨物スペースだが、内部は違った。


 向かい合わせに設置された固定座席、緊急通信端末、消火器、簡易医療キット。


 そして中央には、黒い金属製の耐火ケース――偽装封印容器が鎮座している。


 久我が魔眼で容器の表面を観察しても、読み取れるのは幾重にも重なった封印術式の反応だけだった。


 中身が本物か偽物かまでは判別できない。


 久我が荷室へ乗り込むと、すでに片側の座席に一人の男性が座っていた。


 三十歳前後。


 少し明るい茶色の髪。黒いコートの下にパーカーと動きやすいパンツという、ラフな出で立ちだ。


 だが両手には、意匠の施された複数の指輪がはめられ、腰には札や小瓶を収めたポーチが巻かれている。


 男が、ひらりと片手を上げた。


「どうも。今日の相方?」


「久我陽介です。よろしくお願いします」


火神蓮司かがみ・れんじ。よろしく。まあ、どうせ俺たちは囮だし、気楽にいこう」


「前日に俺も似たようなことを考えていたら、危険度は本命と変わらないと釘を刺されましたよ」


「現実的で厳しい指揮官だね」


 蓮司はくすくすと笑った。


「一応確認。能力は?」


「吸血鬼です」


「吸血鬼か。じゃあ前衛、任せていい?」


「ずいぶん早いですね」


「俺、後ろで呪文を唱えるタイプだからさ。誰かが前に立ってくれないと、何もできないんだよ」


 久我は自分の能力を簡潔に伝えた。


「目立った能力は、身体能力強化と再生くらいです。あとは、少し目が良いです」


「少し?」


「動体視力と、血流や体温を見るのが得意です」


 《内在時間》と《外在時間》については伏せた。


 かれんからの指示通り、魔眼の高負荷使用は極力避けるつもりだ。


「十分すぎるでしょ。吸血鬼が前で殴って、俺が後ろから魔法を撃つ。教科書みたいな綺麗な編成だ」


「火神さんは、魔法使いなんですか?」


「能力名は《四象攻術》。まあ、要するに魔法ね。呪文を唱えて、火や氷や風や雷を出すタイプ」


「かなりオーソドックスですね」


「親父が欧州の魔法使いでね。子供の頃から教えられた術式と、俺の能力がうまく噛み合ったんだよ」


「魔法使いの家系ですか」


「親父だけね。母親は普通の日本人。俺も普通に日本で会社員やってるよ」


「魔法使いも会社員をするんですね」


「吸血鬼も会社員をしてるでしょ」


 妙なところで意気投合し、二人は笑い合った。


 蓮司は、今回使う可能性のある術をざっと説明してくれた。


 圧縮した空気の層を作る簡易防御の《風壁》。


 指定地点から氷の杭を突き出し、足止めや進路封鎖に使う《氷杭》。


 敵を押し返すための《風弾》。


「《火槍》や《雷矢》みたいな火力特化もあるけど、道路上や輸送車両の近くじゃ被害が大きすぎるから、原則使わない。俺が詠唱している間、前をお願いね」


「何秒くらいですか?」


「短いので二秒。強いので十秒」


「実戦で十秒は長くないですか?」


「だから前衛が必要なんだよ」


 蓮司は肩をすくめた後、付け加えた。


「吸血鬼協会の護衛にも何度か入ったことがあるから、吸血鬼の基本的な能力は少し知ってる。負傷した時に気になることがあったら聞いて」


「頼りにしています」


「戦闘になる前に終わるのが一番だけどね」


       *


 午後九時四十五分。


 十台の偽装車両が、時間と方角をずらして順番に倉庫を出発していった。


 久我たちのトラックも、都内の喧騒を抜けて郊外方面へと向かう。


 窓のない荷室の中で、二人は向かい合って座っていた。


 走行音だけが響く中、蓮司はコンビニの紙コップコーヒーを、ちびちびと飲んでいる。


「呪物輸送は何度も経験しているんですか?」


「数回ね。だいたいは暇だよ。輸送任務で一番多い敵は眠気だから」


「俺は夜に強いので、その点では適任です」


「吸血鬼の能力?」


「元々、午前五時まで仕事をしていました」


「それは能力じゃなくて、ただの労働災害じゃない?」


「最近よく言われます」


 蓮司がコーヒーを飲み干し、輸送護衛の基本方針を再確認する。


「襲撃されたら、まず運転手が逃走の継続を判断する。走れるなら絶対に止まらない。走れなくなったら降りて迎撃。俺が車両周辺を守るから、君が相手をトラックへ近づけないようにする」


「捕まえるんですか?」


「可能ならね。でも格上なら、容器ごと置いて逃げる。どうせ偽物だから」


「火神さん、撤退判断が早そうですね」


「強いやつを相手に無駄な意地を張るほど、若くないからさ」


「安心しました」


       *


 午後十時半前。


 トラックは高速道路を下り、倉庫や工場が並ぶ郊外の工業地帯を走っていた。


 荷室の壁へ取り付けられた小型モニターには、車両前方と左右のカメラ映像が表示されている。


 夜間の交通量は少なく、街灯の白い光が等間隔に流れていく。


 警報装置にも異常はない。


 平和な輸送任務として終わるかもしれない。


 そう思いかけた瞬間だった。


 キキーッ!!


 トラックが激しいスキール音を立てて、急ブレーキを踏んだ。


 久我と蓮司の身体が、シートベルトへ強く引っ張られる。


 固定された偽装容器だけが、無機質にその場へ留まっていた。


 運転席からの緊急通信が、ノイズ混じりに響く。


『前方、道路中央に人影。警告へ反応なし。回避経路を塞がれています』


 蓮司が紙コップを固定台へ置き、その顔から一切の軽さが消え去った。


「敵がお出ましになったみたいだ」


 革手袋を締め直し、蓮司が立ち上がる。


「迎撃といこうか……!」


「はい!」


       *


 後部扉を開け、アスファルトの道路へ降り立つ。


 冷たい夜風が肌を刺す。


 トラックのヘッドライトが照らす、約二十メートル前方。


 そこに、一人の女性が立っていた。


 足元まで届く漆黒のコート。黒い長髪。顔の下半分は黒い布で隠されている。


 二十代後半から三十代程度に見えるその細身の体躯には、武器らしいものは一切見当たらなかった。


 久我が魔眼で対象を観測する。


 心拍は遅い。


 呼吸も乱れていない。


 血流にも、戦闘前の興奮や恐怖といった筋肉の緊張が、まったく見られなかった。


 まるで、日常的な買い物の途中で立ち止まったかのような、異様なほどの落ち着き。


「……うーん」


 隣に立った蓮司が、顔をしかめた。


「どうしました?」


「これは貧乏くじを引いたかな」


「何か分かるんですか?」


「あいつ、こっちより強いね」


「見ただけで?」


「術者はね、ヤバい相手を見ると皮膚がピリピリするんだよ。能力を抑えていても、なんとなく分かる」


 久我の魔眼には、女から特別な魔力やオーラは視えなかった。


 しかし、何も漏らしていないこと自体が、自身の力を完全に制御しきっている証左であり、不気味だった。


「久我君。無理に勝とうとしないで。時間を稼いで、運転手が逃走経路を作るまで耐える」


「分かりました」


 蓮司が一歩前へ出て、あえて軽い調子で声を張った。


「道路の真ん中は危ないよ。話なら端で聞こうか」


「荷物を置いていけ」


 女の声は低く、感情の起伏がなかった。


「精密機器なんだけど」


「中身が何かは知っている」


 久我と蓮司の視線が交差する。


 輸送情報だけでなく、中身が呪物であることまで完全に漏れている。


「それなら、こちらが渡せないことも分かるだろう?」


「拒否するなら、奪う」


 女が、すっと右手を持ち上げた。


 掌が久我たちへ向けられる。


 久我の魔眼が、その肩、肘、手首の動きを克明に追う。


 大きな予備動作はない。


 何かを投擲した様子もない。


 しかし、久我の生存本能が強烈に警鐘を鳴らした。


「逃げ――!」


 警告を言い切る前に、何かが久我の身体を通り抜けた。


 一瞬遅れて、防刃素材の入った厚手の上着が、まるで紙切れのように裂けた。


 右前腕。


 左上腕。


 胸元。


 脇腹。


 複数の鋭い切創が同時に開き、鮮血が噴き出す。


「がっ……!?」


 衝撃で久我の身体が後方へ吹き飛び、アスファルトの上を無様に転がった。


 蓮司も横へ弾き飛ばされていた。


 ただし彼は、久我の警告とほぼ同時に短い詠唱を挟んでいた。


「風よ、隔てろ――《風壁》!」


 圧縮された空気の層が、見えない斬撃を僅かに逸らした。


 蓮司は肩と頬を浅く切られるだけで、致命傷を避けていた。


 トラックの外壁にも、深く鋭い切断痕が何本も刻まれている。


「何が……起きた……!」


 久我は道路に倒れたまま、自分の身体を見た。


 両腕が深く裂かれ、筋肉の層まで達している。


 吸血鬼の再生は始まっているが、出血量が多すぎて傷が塞がらない。


 蓮司が片膝をつきながら答える。


「あいつが手をかざしたら、何かが来た。俺にも見えなかった」


「両腕が……血を流しすぎた……!」


 急激な渇きと耳鳴り。


 視界の端が暗転しそうになる。


「落ち着いて! 君、吸血鬼だろ!」


 蓮司が叫んだ。


 その声に普段の軽さはない。


「吸血鬼でも、血がなくなれば危ないです……!」


「そうじゃない! 自分の血を操作して止めろ!」


「血の操作?」


「吸血鬼にはオーソドックスな能力だ! 全員が同じように使えるわけじゃないけど、自分の血なら動かせる可能性がある!」


「使ったことありません!」


「今から試すんだよ! 体内へ戻す必要はない、傷を塞げ! 君の血だろ。身体から出たばかりなら、まだ君の力が残ってる!」


       *


 痛み。


 空腹。


 大量出血。


 女はまだこちらを見ている。


 焦るほどに、血は流れ落ちる。


 久我は魔眼で、自分の腕を見た。


 普段は他人の血流を観察する目。


 今見ているのは、自分の中から失われていく命の欠片だ。


 血液パックから摂取した血も、体内へ入れば自分の身体の一部になった。


 今、道路へ落ちようとしている血も、数秒前までは自分の中を流れていた。


 外へ出ただけで、完全に自分ではなくなるのか?


 久我は、腕を伝う血へ強く意識を向けた。


 止まれ。


 これ以上、流れるな。


 何も起きない。


「呼吸を止めるな! 頭で血管一本ずつ追う必要はない! 自分の腕を動かすのと同じだと思え!」


 蓮司の怒声に、久我は一度目を閉じた。


 腕を上げる時に、筋肉の一本一本へ命令しているわけではない。


 自分の身体だから自然に動く。


 なら、血も自分の一部だと思えばいい。


 もう一度、強く命じる。


 流れるな。


 右前腕の傷から垂れていた血の滴が、不自然に空中で震えた。


 落下の途中で、ぴたりと止まる。


「……止まった」


 重力に逆らうように傷口へ戻った血が、周囲へ集まり、粘度を増していく。


 赤黒い膜となって、裂けた皮膚と筋肉を外側から塞いだ。


 右腕。


 左腕。


 脇腹。


 道路へ飛び散った血までは戻らない。


 それでも出血速度が明らかに落ち、再生能力が追いつき始める。


「止血……できた」


「上出来! そのまま維持して!」


 黒コートの女が、わずかに首を傾げた。


「防御が間に合ったのか。片方は仕留めたと思ったが」


 女の視線が蓮司から久我へ移る。


 流れた血が傷口へ集まり、固まり始めているのを見て、小さく呟いた。


「なるほど。吸血鬼だったか」


 正体を知っていたわけではなく、目の前の現象から理解しただけだ。


 女が、再び右手を上げる。


 久我の後ろには蓮司がいて、さらにその後ろにはトラックがある。


 運転手もいる。


 久我が避ければ、見えない斬撃が誰に当たるか分からない。


 止血だけでは足りない。


 防げ。


 切られないように、腕を守れ。


 傷口へ集めていた血が、両前腕全体へと広がり始める。


 皮膚を覆う赤黒い膜が急速に色を濃くし、硬化していく。


 表面には、細い血管のような模様が浮かび上がった。


 右手から肘の手前。


 左手から肘の手前。


 形は不揃いで歪だが、確かな装甲としての硬度を備えていた。


 女の手が動く。


 再び見えない斬撃。


 久我は両腕を顔の前で交差させた。


 激しい衝撃。


 血の装甲へ複数の切断痕が走り、赤黒い破片が道路へ飛び散る。


 久我の足が後ろへ滑る。


 しかし、腕そのものは切断されなかった。


 防いだ。


「君、それ今覚えたの!?」


 蓮司が驚愕する。


「俺にも、よく分かりません!」


「分からないまま突っ込む気!?」


 久我は地面を蹴って走り出した。


「離れていたら、また斬られます!」


       *


 女が連続して手を動かす。


 久我の魔眼は、斬撃そのものを捉えられない。


 だが女の視線、肩の向き、掌の角度、呼吸の変化から、攻撃が来る場所を予測する。


 右腕の血装で受ける。


 身体を捻って避ける。


 足元のアスファルトが切れるのを飛び越える。


 女が両手を僅かに開いた。


 より危険な攻撃の予兆。


 久我は心の中だけで、秘匿していた《内在時間》のスイッチを入れた。


 世界が急激に遅くなる。


 女の髪が、ゆっくりと揺れる。


 瞳が久我の首、胸、右脚へと順に向く。


 斬撃は見えなくても、狙いは読める。


 首を狙った一撃を血装で受け、胸への一撃を身体をずらして躱し、右脚への斬撃が作業服を裂くのを許容する。


 致命傷だけを避ける。


 蓮司から見れば、久我が魔眼で予兆を読み、吸血鬼の反射速度で避けたようにしか見えないはずだ。


 久我が女の間合いへ飛び込む。


 血装に覆われた右拳が、女の脇腹へ向けて放たれる。


 女は左腕で受けたが、重い打撃音とともに数メートル後退した。


 黒いコートの袖が裂ける。


 初めて、女の体勢が崩れた。


「チッ。しつこい男だな、君は」


「仕事なので……!」


 後方で蓮司が立ち上がった。


「久我君、時間稼ぎを頼む!」


「どれくらいですか!」


「十秒!」


「長い!」


「強いやつを使うんだから、我慢して!」


 蓮司が欧州系の古い魔術語で詠唱を開始する。


 足元へ、淡い青色の魔法陣が広がる。


 女は術式の脅威を察知し、狙いを後衛の蓮司へ変えた。


 久我がその射線へ割って入り、血装で斬撃を受け続ける。


 一撃ごとに装甲が削られ、修復のために体内の血液資源が激しく消耗していく。


 喉が焼けるように渇き、視界の端が黒く明滅する。


 女の蹴りを腹部に受け、久我が吹き飛ばされる。


 倒れたままなら、次の斬撃を受ける。


 久我は《内在時間》を一瞬だけ再使用した。


 遅くなった世界の中で道路へ手をつき、強引に身体を起こして、再び蓮司の前へ立つ。


「すごい反応速度だね!」


「目が良いだけです!」


 蓮司には、そう誤魔化した。


「そこまで消耗して、まだ来るのか」


「後ろに、人がいるので」


 女は、僅かに笑ったようにも見えた。


「久我君、右へ!」


 蓮司の詠唱が完成した。


 久我が反射的に右へ跳ぶ。


 蓮司が両手を地面へ向ける。


「凍土よ、閉ざし、穿て――《氷杭》!」


 女の周囲のアスファルトを突き破り、複数の巨大な氷杭が斜めに伸びて、逃げ道を制限する。


 女が右手を向ける。


 見えない斬撃が走り、氷杭をまとめて切断した。


 砕けた氷が道路へ崩れ落ちる。


 だが、その一瞬、女の注意が氷杭へ向いた。


 久我はそこへ合わせ、再び《内在時間》を短く起動する。


 女の視線が蓮司へ残っている間に懐へ入り込み、右拳を腹部へ打ち込んだ。


 女が後退したところへ、蓮司が短く詠唱する。


「風よ、撃て――《風弾》!」


 圧縮された空気が女の背中へ直撃し、体勢を大きく崩させた。


 二人の連携が、初めて綺麗に成立する。


「チッ。本当にしつこいな」


 女が苛立った声を出し、両手を広げた。


 久我の魔眼に、周囲の空気が大きく歪むのが見えた。


「下がれ!」


 蓮司の叫びと同時に、二人が地面へ飛び込む。


 直後。


 道路一面へ、無数の切断痕が嵐のように走った。


 アスファルト。


 ガードレール。


 街灯。


 トラックの荷室。


 そのすべてが同時に切り裂かれる。


 久我の血装も大きく削られ、右前腕の装甲が半分以上崩壊した。


 蓮司の《風壁》も突破され、彼の太腿へ浅い傷が入る。


 本気に近い攻撃をされたら、二人とも耐えられない。


 久我は、その絶望的な事実を理解した。


 しかし女は、切断されたトラックの荷室へ視線を向けた。


 外壁の隙間から見えた封印容器を数秒観察し、彼女の姿勢から、ふっと戦意が消えた。


「なるほど。君たちは囮らしい」


「……何が?」


「呪力の質が違う。外側だけはよく作ってあるが、中身は偽物だ」


「最初から精密機器だって言ったでしょ」


「もういい。撤退する。お互い、時間の無駄だった」


 久我は追おうと一歩踏み出した。


 だが身体は、すでに限界だった。


 血装が崩れ落ち、膝が力なく揺れる。


「追うな!」


 蓮司の制止を背に、女はガードレールの向こうの斜面へ飛び降りた。


 斜面を斬撃で切り崩し、土煙を上げて視界を完全に塞ぐ。


 久我が煙を抜けた時には、すでに遠くに僅かな体温反応が残るのみで、追跡できる距離ではなかった。


 八咫烏の増援到着まで数分。


 間に合わなかった。


       *


 女が消え、戦闘の緊張が途切れた直後。


 断続的に使用していた《内在時間》の反動と、大量出血による疲労が一気に押し寄せた。


「はぁ……はぁ……なんとかなった……」


 久我は道路へ両手をつき、そのまま座り込んだ。


 蓮司も近くへ腰を下ろす。


「お疲れ。ヤバかったね」


「勝てたんでしょうか」


「いや、全然。あいつ、全然本気じゃなかった」


 蓮司の即答に、久我は顔を上げる。


「殺す気なら、とっくにやられてたよ。君は吸血鬼だから即死しにくいけど、俺は最初の一撃でもう危なかった」


「あれで本気じゃないんですか」


「目的は荷物。俺たちが強かったから撤退したんじゃない。偽物だと分かって、戦う価値がなくなっただけ」


「まったく嬉しくない分析ですね」


「でも生きてる。十分だよ」


 蓮司が、薄い膜だけが残った久我の両腕を見る。


「それ、今まで使えなかったんだよね? 戦闘中に新しい能力を覚える人、初めて見た」


「俺も初めてです」


「防御手段が欲しかったんだろうね。能力って、本人の必要性に引っ張られることがあるから」


 数分後、八咫烏の車両と救護班が到着した。


 久我は、


「歩けます」


 と立ち上がろうとしてふらつき、蓮司に支えられた。


「吸血鬼でも、血が足りなかったら倒れるんだね」


「当たり前だと思います……」


 救護員から渡された血液パックを二本飲んでも、渇きは完全には消えなかった。


 新たに発現した血の装甲は、通常の再生以上に大量の血液資源を消費しているらしい。


 作戦の結果として、本物の呪物は別ルートで無事に保管施設へ到着した。


 襲撃を受けた三台のうち、黒コートの女が現れたのは、久我たちの車両だけ。


 彼女は、他の襲撃者とは明らかに格が違っていた。


       *


 深夜。


 八咫烏の提携医療施設。


 治療を終えた久我のベッドへ、かれんと剣持が訪れた。


「派手にやられたな」


「もう少し他に言うことはないんですか」


「生きてるから言えるんだよ」


 かれんの報告によれば、黒コートの女は顔認識や能力者登録データに該当がなく、身元は完全に不明だという。


 車載カメラにも斬撃の軌跡は映っておらず、女が手を向けた直後に、久我たちや道路が切断されているようにしか見えない。


「少なくとも、お前たちが正面から捕まえられる相手じゃないな」


 現場映像を見た剣持が言う。


「偽装輸送の目的は達成されています。黒コートの能力者が偽物の車両へ時間を使ったこと自体、作戦上の成果です」


 かれんは事務的に評価した。


「こっちは死にかけましたけどね」


「それは任務評価とは別に、今後の編成判断へ反映します」


 映像の確認中、かれんが、久我の動きが急激に鋭くなった場面で動画を止めた。


「久我さん。初撃を受けた後、途中から斬撃への反応速度が上がっています」


「何度か攻撃を受けて、手や視線の動きから予兆を読めるようになりました。魔眼へかなり負荷をかけましたけど」


 嘘ではない。


 女の視線や掌の角度から、斬撃の狙いを読んでいたのは事実だ。


 ただし、その情報を処理するために《内在時間》を使ったことは伏せる。


 かれんは数秒だけ久我を見つめたが、それ以上は追及しなかった。


「強い頭痛はありましたか」


「はい。出血と空腹もあったので、どこまで魔眼の負荷かは分かりません」


「分かりました。報告上は、魔眼の高負荷使用として記録します」


 続いて、かれんは流出した血液が久我の両腕を覆う場面で映像を止めた。


「流出した血液を体外で維持し、硬化させています。新たに発現した能力として登録が必要です」


「最初は止血しようとしただけです」


「その後、両前腕へ展開し、斬撃を防いでいます」


 剣持が映像を見ながら言う。


「血の鎧か」


「暫定名称を《血装》とします」


「いつも名前が決まるの早いですね」


「報告書に能力名が必要だからな」


 今回の記録から確認できるのは、自分の身体から流れた血を操作し、傷口を塞ぎ、両前腕へ展開して硬化できたこと。


 血装によって斬撃を防ぎ、打撃力も上がっていたこと。


 そして、維持と修復に大量の血液資源を消費したことだけだ。


 自由に再発動できるのか。


 展開範囲を調節できるのか。


 血装の強度はどの程度なのか。


 遠くへ飛び散った血や、他人の血液にも干渉できるのか。


 現時点では、何も分かっていない。


「能力の詳細確認は、回復後に鳥カゴで行います」


「また訓練ですか」


「はい。それから、次から能力を覚えるために大量出血することは禁止です」


「好きで斬られたわけではありません」


「確認です」


「その確認、必要ですか?」


「お前、妙な前例を増やすからな」


 剣持の言葉に、久我は不満そうに眉を寄せた。


「今回は完全に被害者ですよ」


       *


 帰宅前。


 治療を終えた蓮司が、久我の病室へ顔を出した。


 肩と太腿には包帯が巻かれている。


「生きてる?」


「どうにか」


「次に組む時は、もう少し普通の相手がいいね」


「今回も普通の偽装輸送任務だと聞いていました」


「じゃあ、君がいると強い相手を引くのかな」


「否定したいですね」


 蓮司は少し笑った後、真面目な顔になる。


「あの女、また会うと思うよ」


「どうしてですか?」


「顔も名前も隠して、仕事だけやって帰った。ああいう手合いは、一度きりの素人じゃない」


 久我は、包帯の巻かれた両腕を見つめた。


 顔も能力も隠し、目的だけを果たして帰ったプロ。


 次に会えば、相手はこちらの《血装》を知っている。


 こちらも、あの見えない斬撃への対策を考えなければならない。


       *


 数日後。


 自宅のアパートで、久我は専用冷蔵庫を開けた。


 医療施設での補給分は支給されたが、自宅の緊急在庫も持ち出したため、アプリの表示は、


『通常在庫:残り三本』


『緊急予備:残り二本』


『補充推奨』


 となっている。


「能力を一つ覚えたら、冷蔵庫の中身が半分になった……」


 包帯を外した右手を見つめ、傷が塞がっていることを確認する。


 戦闘中の感覚を思い出し、右手へ血を集めようとする。


 皮膚の表面に薄い赤い膜が浮かんだ。


 しかし形を保つことはできず、すぐに霧散して消えた。


 まだ日常的に、自由に使える段階ではない。


 スマートフォンへ、かれんから通知が届いた。


『【能力確認訓練予定】


 新規能力《血装》の使用条件・強度・消費量を測定します』


「結局、また研修か」


 久我は専用冷蔵庫の扉を閉めた。


 強くなったという実感よりも、激減した血液パックの補充費用の方が、今は切実に気になった。


 それでも、次にあの見えない斬撃が飛んできた時、自分はただ無防備に切り刻まれるだけの存在ではなくなったのだ。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
守りは良いですけど、そろそろ新しい攻め手が欲しくなりますね。
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