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第26話 吸血鬼、捕獲報酬を副業として申告する

 鏡宮千鶴の保護確保任務から数日が過ぎた、ある平日の朝。


 満員電車特有の湿った空気と、車輪がレールを軋ませる単調な音に揺られながら、久我陽介は手元のスマートフォンを見つめていた。


 画面には、八咫烏が提供する専用アプリからのプッシュ通知が表示されている。


 周囲の乗客から覗き込まれても問題がないよう、アイコンも通知の文面も、ごく一般的なタスク管理ツールのように偽装されていた。


 久我が親指でロックを解除し、生体認証を通すと、本来の画面が立ち上がる。


『【協力報酬確定のお知らせ】


 以下の現場協力について、審査が完了しました。


・緊急現場対応協力


・対能力者捕縛支援


・保護対象者接触および安全確保支援


・深夜帯活動加算


※実費補償、被服損耗補償、交通費については別項目で支給されます』


 久我は、明細の末尾に記載された合計金額を見て、思わず小さく息を呑んだ。


 実費の補償分を除いて、およそ二十数万円。


 三十五歳の会社員の人生を劇的に変えるほどの大金ではない。


 しかし、ここ数週間のうちに数回、夜間に呼び出されて対応しただけの副収入として考えるなら、決して無視できる金額ではなかった。


「……本当にお金が出るんだ」


 口の中で、誰にも聞こえないように呟く。


 当然といえば当然だ。


 八咫烏の協力者として現場に立つということは、常に危険と隣り合わせだということだ。


 専門の戦闘員ではない久我であっても、未知の能力を持った対象との接触、吸血鬼としての能力行使、深夜という時間帯の拘束、負傷の危険、さらには事後の膨大な報告書作成と絶対的な守秘義務を負っている。


 これまでの移動にかかった交通費や、派手に裂かれたスーツの代金は、補償として別枠で処理されている。


 今回確定したのは、純粋な現場協力への報酬だった。


 画面を下へスクロールしていくと、最下部に小さな赤字で注意書きがあった。


『【注意】


 継続的または反復的に報酬を受領する場合、勤務先の就業規則に基づく申告が必要となることがあります。


 税務上の取り扱いについては、年度末に別途ご案内します』


 久我は天を仰ぐようにして、目を閉じた。


「……捕まえる前に教えてほしかったな」


 最初は、ただの緊急事態だった。


 野良吸血鬼に襲われ、反撃しただけだ。


 次は、透明人間の居場所が分かるからと、捕縛の支援を頼まれた。


 その次は、鏡の中へ逃げた少女を説得するために駆り出された。


 気づけば、たまたま一回だけ手伝ったでは済まされない回数になっている。


 継続的かつ反復的な報酬の受領。


 会社員として、この事実を見て見ぬふりはできない。


       *


 オフィスに到着し、始業前の静かなフロアでパソコンを立ち上げた久我は、すぐに社内ポータルサイトへアクセスした。


 長年染みついたシステムエンジニアの習性で、検索窓に的確なキーワードを打ち込んでいく。


『副業』


『兼業』


『公的活動』


『謝金』


『外部業務』


『守秘義務』


 検索結果に表示された就業規則のPDFを、上から順に目で追う。


 会社の副業規定によれば、


『継続的に報酬を得る外部活動』


『本業の勤務時間外に行う有償業務』


『公的機関や外部団体から謝金を受ける活動』


 については、事前または事後の申請が必須となっていた。


 休日に一回だけ講演を行い、数万円の謝礼をもらう程度なら簡易申告で済むらしい。


 だが、久我の状況はそうではない。


 今後も八咫烏から、いつ現場協力を求められるか分からない。


 完全に継続的な案件だ。


(……副業っていうほど、自分から積極的に仕事を取りに行ってるわけじゃないんだけどな)


 内心でぼやきながらも、久我は社内システムから『副業・兼業申請書』の入力フォームを開いた。


 並んだ入力項目を見て、手がぴたりと止まる。


『業務内容』


『契約先または依頼元』


『稼働予定時間』


『月間予定時間』


『本業との競業性』


『機密情報の取り扱い』


『健康管理上の懸念』


 久我は、キーボードに置いた指をどう動かせばよいのか分からなかった。


 業務内容。


 まさか、


『透明化能力者の捕縛位置特定』


『未登録吸血鬼の制圧』


『継承型異能力者の説得および保護』


 などと馬鹿正直に書くわけにはいかない。


 依頼元。


 ここに八咫烏と、一般社員が閲覧する可能性のあるシステムへそのまま入力してよいものか判断がつかない。


 稼働予定時間。


 事件が起きるタイミング次第なので、完全に不定期だ。


 月間予定時間。


 そんなものは、怪異や野良の異能力者へ直接聞いてほしい。


「申請フォームとの相性が悪すぎる……」


 久我は深い絶望とともに、一度入力画面を閉じた。


       *


 始業のチャイムが鳴る直前。


 久我はスマートフォンの八咫烏アプリを開き、相談窓口のチャットから皇かれんへメッセージを送った。


『久我:協力報酬の通知が届きました。会社の規定上、副業申請が必要になりそうです。任務内容はどこまで書いていいんでしょうか』


 数分後、まるで見張っていたかのような速度で返信が来た。


『皇:想定済みです。勤務先提出用の活動証明書を発行します』


 久我の眉間が僅かに寄る。


『久我:想定済みなら、報酬の通知を出す前に教えてもらえませんか』


『皇:初回の緊急現場協力だけで終了する場合、年間の受領額によっては申請不要となる勤務先もあります。久我さんの場合、継続的な協力が決まったため、正式な発行対象となりました』


『久我:いつの間に継続協力が決まったんですか』


 メッセージの既読がついてから、少しだけ不自然な間が空いた。


『皇:すでに複数回、任務へ参加しています』


「事実だけど、俺が明確に同意した覚えは薄いぞ……」


 スマートフォンへ向かって呟いていると、間髪入れずにPDFファイルが送られてきた。


 ファイルを開くと、そこには行政機関が発行したような、極めて公的で堅苦しい形式の文書が表示された。


『公的安全活動における夜間協力業務』


『主な活動:現場における状況確認、安全確保に関する補助、関係者間の連絡支援、専門的知見を用いた観測協力』


『活動時間:不定期、原則として本業時間外』


『守秘義務:法令および安全上の理由により、業務内容の詳細開示不可』


『競業性:なし』


『雇用関係:なし』


『報酬形態:案件ごとの協力謝金および実費補償』


 八咫烏という固有名詞はどこにもなく、代わりに行政上有効な証明番号と、企業からの直接照会に応じるための専用窓口の連絡先が記されていた。


「……ここまで完璧に用意されてるってことは、俺と同じような立場の人が結構いるんだな」


 本業を持ちながら、裏では八咫烏の協力者として活動している能力者たち。


 学校の教師。


 病院の医師。


 寺の僧侶や神社の神職。


 大学の研究者。


 普通の会社員。


 トラックの運転手。


 建築士。


 この社会の表側には、数え切れないほどの能力者が日常に溶け込み、事件が起きた時だけ専門的知見を用いた観測協力を行っているのだろう。


       *


 会社の規定上、システムから申請を上げる前に、まずは直属の上司へ報告する必要がある。


 午前十時過ぎ。


 フロアが落ち着いたタイミングを見計らい、久我は課長の机へ向かった。


「課長、少しお時間よろしいですか」


 パソコンのメール画面を睨んでいた課長が、びくりと肩を跳ねさせて顔を上げた。


「どうしたの、久我君。……もしかして、転職?」


「違います」


「よかったぁ。今辞められると、本当に回らなくて困るからね」


(辞められると困るなら、みなし残業で使い潰すような真似は控えてほしいんですが)


 内心の毒を飲み込みつつ、久我は課長を小会議室へ促した。


 扉を閉め、出力した副業申請書の下書きと、かれんから送られてきた活動証明書を机へ差し出す。


「副業?」


「はい。少し前に、政府関係者の方と知り合う機会がありまして。そこから、ちょっとした安全確認などを手伝っていたら、規定の謝金が出るらしくて」


 嘘はついていない。


 かれんは政府関係組織である八咫烏の人間だ。


 現場で手伝い、報酬が出た。


 情報を極限まで削ぎ落とし、解像度を下げただけだ。


 課長は書類へ目を落とし、首を傾げた。


「公的安全活動における夜間協力……何これ、防犯パトロールとか、そういう関係?」


「詳しい内容については守秘義務が課せられているので、俺の口からは説明できない決まりになっています」


「へえ。政府関係者と知り合って、夜にちょっと手伝うだけで金が出るの?」


「ちょっとと言っても、現場での安全確認とか、観測の補助とかですね」


 課長の目が、俄然興味を引かれたように輝いた。


「いいな、それ。俺もできないかな?」


 久我の脳裏に、透明人間の見えない拳、野良吸血鬼の剥き出しの牙、そして《返照》の能力が吹き荒れた写真館の光景がよみがえる。


「どうかなぁ……たぶん、無理かもしれないですね」


「なんでさ」


「求められる体質というか、現場への適性がかなり特殊なので」


 課長はそれを、何らかの国家資格や専門知識の問題だと受け取ったらしい。


「久我君、いつの間にそんな資格取ったの?」


「資格というよりは、向こうから『君なら適性がある』と判断された感じです」


 これも嘘ではない。


 吸血鬼という種族であり、魔眼を持ち、異能力者と対峙しても理性を保てる。


 間違いなく特殊な適性だ。


「俺も政府関係者と知り合えないかなぁ」


「紹介制度ではないと思いますよ」


「報酬、結構いいの?」


「毎月固定で入るわけではありません。向こうから要請があった時だけです」


「へえ。なんか格好いいな。民間の秘密捜査協力員みたいでさ」


 呑気なことを言う課長に、久我は乾いた笑いを返した。


「そこまで格好いいものではありませんよ」


 実際には、命懸けで立ち回った後に、血と泥にまみれながら事後報告書を書き、こうして会社で副業申請の稟議を通すという、極めて泥臭い事務作業が一緒についてくるのだ。


       *


 課長は、久我が用意した申請書を細かく読み込むようなタイプではない。


 彼が気にするのは、自分の管理責任が問われないかどうか、それだけだ。


「本業と競合しない」


「顧客情報を外部へ持ち出さない」


「会社名を活動に利用しない」


「勤務時間中に副業をしない」


「本業へ支障を出さない」


 声に出して確認項目を読み上げると、課長はあっさりと頷いた。


「まあ、本業優先で、今の仕事に支障が出ないなら俺はいいよ」


「ありがとうございます」


「夜にやるんだよね?」


「基本的には、そうですね」


「じゃあ最近、久我君が早めに帰ってたのは、これのせいか」


 久我の表情が、すっと抜け落ちた。


「……早め」


「うん」


 この課長の中では、二十時や二十一時での退社が、早めという分類に入っているのだ。


 久我は喉元まで出かかった文句を飲み込んだ。


 今はここで労働基準法について議論するより、副業申請の承認を得ることが最優先だ。


 課長が、タブレット端末で一次承認の欄へ電子印を押す。


「総務にも回しておくね」


「お願いします。ただ、守秘義務がある案件なので、内容は必要な人以外には――」


「分かってる、分かってるって」


 ひらひらと手を振る課長を見て、久我の胸に嫌な予感が渦巻いた。


 社会人経験上、こういう時の分かってるは、だいたい何も分かっていない時に出る言葉だからだ。


       *


 その予感は、昼前には見事に的中した。


 久我が自席で設計資料の整合性を確認していると、隣の席の佐藤が、キャスター付きの椅子を滑らせて近づいてきた。


 その顔には、隠しきれない好奇心が浮かんでいる。


「久我さん」


「どうした?」


「課長から聞きましたよ。なんか、すごい副業を始めたんですって?」


 久我の手が、キーボードの上で完全に硬直した。


(あの課長、速攻で漏らしやがったな……!)


 申請から、まだ一時間も経っていない。


「……課長が、何か言ってた?」


「はい。政府関係の秘密の仕事も手伝ってるなんて、久我君も裏の顔が広いよなぁって、給湯室で」


 話には、すでに少しだけ尾ひれがついている。


「副業というほど、定期的な仕事じゃないんだよ。たまに要請があった時だけ、夜間の安全確認とかを手伝うだけで」


「地域の防犯パトロールみたいなものですか?」


「まあ……広い意味で言えば、そんな感じかな」


 久我がパトロールして守っているのは、地域というより異能力社会と一般社会の境界線の安全だが、完全な嘘ではない。


 佐藤は感心したように深く頷いた。


「本業だけでも忙しいのに、すごいですね」


「すごいというか、なんか断れない流れで手伝うことになっただけだよ」


「なるほど。だから最近、仕事を二十一時で終えるようになったんですね」


 久我は、眉間を強く揉みほぐした。


「……佐藤。二十一時を『仕事を早く終えた時間』として扱うのは、そろそろ本気でやめようか」


「でも、前の久我さんは、日付が変わるまで普通に会社にいましたよね?」


「それが異常だったんだよ」


「副業があるから、生活を見直したんですね」


「順番としては、生活を見直した後に副業がついてきたんだけどな……」


 佐藤の中では、すでに都合のよい物語が完成していた。


 久我は政府関係の夜間副業を始めた。


 だから最近は二十一時に帰る。


 仕事の処理速度が異常に速くなったのも、すべては副業の時間を作るための努力の成果。


 実際には、魔眼の処理能力で仕事が早くなり、高橋の圧力で残業を止められ、かれんの監視で帰宅を促され、吸血鬼としての体調管理が必要になったという、いくつもの事情が複雑に絡み合っているのだが、それを説明することはできない。


「どんなことをするんですか?」


「だから、守秘義務があるから詳しくは言えないんだって」


「危険な仕事なんですか?」


 久我は、少しだけ視線を宙へ泳がせた。


「……現場によってはね」


 野良吸血鬼に血液パックを奪われ、透明人間に顔面を殴られそうになり、《返照》の衝撃波で吹き飛ばされそうになった。


 間違いなく危険な仕事だ。


「久我さん、本当に映画のエージェントみたいなことをやってるんですか?」


「そんな大げさなものじゃないって」


「でも、内容は誰にも言えないんですよね?」


「そうだけど」


「夜に現場へ出向くんですよね?」


「まあ」


「報酬も、国から出る?」


「出るよ」


 佐藤の目が、きらきらと輝き始めた。


(……否定できる材料が、少なすぎる)


「映画みたいですね!」


「現実は、任務が終わったら深夜に報告書を書いて、翌朝こうやって会社へ副業申請の稟議を通すために頭を下げるんだよ」


「うわ、急に解像度が上がって地味になりましたね」


「現実の仕事なんて、そんなものだよ」


 佐藤は一応空気を読み、それ以上詳細を聞き出そうとはしなかった。


 久我が言えないと言うなら、踏み込まない。


 そこは彼女の長所だ。


 ただし、自分の席へ戻る直前、


「困ったことがあったら、私でよければいつでも手伝いますよ」


 と、頼もしいことを言ってくれた。


「ありがとう。でも、こっちは専門の人がいるから大丈夫だよ」


 一般人であり、おそらくTier 6に属するであろう佐藤を、血生臭い異能事件へ巻き込むつもりは毛頭ない。


「じゃあ、本業の方を私が早く終わらせますね。久我さんが、今日も二十一時に帰れるように!」


「できれば、俺たち全員がもっと早く帰れるようにしよう」


       *


 午後。


 社内チャットツールに、総務の高橋から直接メッセージが届いた。


『高橋:副業申請について、いくつか確認事項があります。十五時に小会議室へ来てください』


 指定された時刻に小会議室へ向かうと、そこには高橋と、なぜか少し気まずそうな顔をした課長が座っていた。


「お疲れ様です」


 久我が席につくと、高橋は手元のバインダーを閉じ、氷のように冷たい視線を課長へ向けた。


「まず、一つ確認します。課長。久我さんの副業申請の内容を、申請処理にまったく関係のない社員へ話しましたか?」


 課長が、居心地悪そうに身をよじった。


「いや、内容ってほどのものじゃないよ。久我君がちょっと副業を始めたって、雑談の中で出ただけだから」


「副業申請は、社員の重要な人事上の申告情報です。本人の了承なく、周囲へ面白おかしく話さないでください」


「でも、別に悪い話じゃないだろ? 政府の手伝いなんて」


「良い話か悪い話かを決めるのは、申請者本人です」


 久我は、高橋の圧倒的な制圧力に内心で拍手喝采を送った。


 透明人間も鏡の能力者も相手にしていない、ただの一般社員のはずなのに、この会社という場所においては完全に彼女が最強だ。


「……ごめん、久我君」


「いえ。まあ、もう佐藤には広まっちゃってますけどね」


「俺、佐藤君にしか言ってないから!」


「誰か一人へ漏らした時点で、それは漏洩と呼びます」


 高橋の追撃に、課長は完全に小さくなって沈黙した。


       *


 課長への説教が終わり、高橋は久我の提出した活動証明書へ目を落とした。


「活動内容の詳細は、この証明書に記載されているとおり、会社には開示できないという理解でよいですか?」


「はい。俺にも守秘義務がありますので」


「発行元へ照会したところ、証明書は間違いなく正式なものでした。競業性もなく、当社の顧客データや設備を利用する業務でもありませんね」


 八咫烏側の照会窓口は、余計なことは一切話さず、


『公的な活動であること』


『久我の専門的適性に基づく協力であること』


『会社業務とは無関係であること』


『情報持ち出しの危険がないこと』


『守秘義務対象であること』


 だけを、完璧な行政答弁で保証してくれたらしい。


 高橋が問題視したのは、業務内容の不透明さではなく、純粋に勤務時間と健康状態についてだった。


「夜間活動とのことですが、月にどの程度発生しますか?」


「決まっていません。何も事件……いや、要請がなければゼロです」


「直近ではどうでしたか?」


「ここ数週間で数回です。深夜の二時や三時になることもありました」


「翌日は、通常どおり出勤していますか?」


「今までは、はい」


 高橋の表情が、さらに一段厳しくなった。


「今後はやめてください」


「……はい」


「でも高橋さん、久我君は体力あるから大丈夫じゃない?」


 空気を読まない課長の横槍。


「体力があることと、休息が不要であることはまったく別です」


 高橋の指摘は、ぐうの音も出ない正論だった。


 吸血鬼だから体力はある。


 しかし、能力使用後には血液を激しく消費し、頭痛や空腹も起きる。


 無理をすれば、会社で理性を失う危険すらあるのだ。


 高橋は、持参したノートパソコンの画面をこちらへ向けた。


 そこには、最近の久我の退勤時刻の記録がずらりと並んでいた。


『20:40』


『21:15』


『20:55』


『21:30』


 以前の深夜退社に比べれば、劇的に改善している。


「久我さん。……これで『早く帰っている』つもりですか?」


「以前よりは……」


「比較対象が根本的に間違っています」


「前はもっと遅かったからねぇ」


「課長は黙っていてください」


「はい」


 高橋はため息をつき、手元の資料へペンで書き込みを始めた。


「夜間の公的活動へ参加する日に、二十一時まで本業の残業をさせるわけにはいきません。本業側の勤務調整が必要です」


「会社が、個人の副業へ配慮してくれるんですか?」


「副業そのものへの配慮ではありません。社員の健康管理と、労務上の危険を避けるためです」


 高橋が提示した条件案は、驚くほどしっかりしたものだった。


・夜間協力が予定されている日は、原則として定時退社とする。


・緊急の深夜出動があった翌日は、時差出勤または半休、全休の取得を認める。


・月間の外部活動時間を、詳細を伏せたまま総務へ申告する。


・負傷または体調不良が発生した場合は、提携医療機関の受診証明を提出する。


・本業の勤務中に外部から連絡が来た場合、原則として対応しない。例外的な緊急要請があった場合は、上司と総務へ事後報告する。


「思ったより、きちんと制度として守ってくれるんですね」


「副業を公式に認めている以上、何の制度もなしに放置する方が、会社としては危険ですから」


       *


 申請条件の確認が終わりかけた頃、沈黙していた課長がふと思いついたように口を開いた。


「久我君、公的な安全活動で、現場の危機対応とかをしてるんだよね?」


「書類上は、そうですね」


「じゃあさ。今度の全社的なサーバー障害対応訓練のシナリオ作り、久我君にまとめてもらえば――」


「駄目です」


 高橋が、即座に、冷徹に切り捨てた。


「まだ最後まで言ってないよ?」


「副業で得た経験を都合よく理由にして、本業の業務を追加しようとしていますよね」


「でも、危機対応の経験があるなら適任じゃない?」


 久我もたまらず口を挟んだ。


「課長。俺が副業を始めた結果、本業の負担が増えたら、わざわざ面倒な手続きをして副業を申告した意味がまったくなくなりますよ」


「それもそうか……」


「納得する前に、最初から仕事を増やそうとしないでください」


 外で有能だと分かったら、会社がさらに仕事を積もうとしてくる。


 ブラックな気質が抜けない課長の悪癖を、高橋が完璧な防波堤となって防いでくれた。


       *


 その後、高橋と久我で申請書の文面を、さらに現実的で無難な表現へと整えていった。


『業務内容:公的安全活動における、夜間の現場観測、安全確認および関係者支援』


『依頼元:行政関係機関。詳細は守秘義務対象。証明番号および照会先あり』


『稼働時間:不定期。原則として本業時間外。一回当たり数時間程度』


『報酬:案件ごとの協力謝金。交通費、医療費、被服損耗等の実費補償は別途』


「これで、本申請へ進めます」


 高橋がパソコンの画面を閉じる。


「詳細をまったく言えないのに、よく通りますね」


「公的機関の正式な証明と、責任ある照会先がありますから。会社が必要以上に社員の個人情報へ踏み込む必要はありません」


「結局、具体的に何をしてるの?」


 まだ諦めきれない課長に、高橋が冷ややかな視線を向けた。


「課長にも、知る必要はありません」


「でも気になるじゃん」


「さっき、俺から説明しましたよね」


       *


 申請内容そのものは、高橋の厳重な管理によって守られた。


 しかし、課長が給湯室で佐藤へ漏らした、久我が政府関係の副業を始めたという断片的な情報だけは、静かに、だが確実にフロアへ広がっていた。


 午後。


 コピー機の前で、別の部署の同僚から軽く声をかけられた。


「久我さん、国の仕事もやってるんですって?」


「たまに協力するだけですよ」


「防災関係ですか?」


「詳しくは言えない決まりなんですよ」


「ああ、なるほど。サイバーセキュリティ系ですか?」


 久我がシステムエンジニアであるため、周囲は勝手にそう解釈して納得していく。


「重要インフラの障害対応とか?」


「想像にお任せします」


 実際には、異能力者の捕縛と怪異への対応だ。


 しかし、重要インフラの障害対応も、将来的に八咫烏の仕事として回ってくるなら、あながち的外れではないかもしれない。


 久我が明確に否定しないため、社内では、


> 久我は政府のサイバーセキュリティ案件を夜間に手伝っている、凄腕の裏エンジニア


 という、実際とはまったく違うが、社会的には非常に無難で格好いい噂へ落ち着いていった。


 守秘義務が、逆に都合よく働いた形だ。


       *


 その日の夜。


 二十時五十分。


 佐藤が、自分の席から久我の机を覗き込んできた。


「久我さん、もうすぐ二十一時ですよ」


「分かってる」


「今日は副業があるんじゃないですか?」


「今日はないよ」


「でも、生活を見直すんですよね?」


 佐藤が、久我の机に残っていた確認用の設計資料を半分、無言で自分の手元へ引き寄せた。


「こっちは私が確認しておきます。久我さんは帰ってください」


「いや、それを佐藤に押しつけたら、俺が早く帰る意味がないだろ」


「じゃあ、一緒に終わらせましょう」


 結局、二人で残りの資料を確認し、二十一時過ぎに作業を終えた。


「やっぱり、副業を始めてから、久我さんの仕事の切り替えが早くなりましたね」


「副業を始めたからじゃない。会社の仕事を、終わらないまま無尽蔵に増やすのをやめただけだよ」


「前の久我さんなら、明日の分まで先にやってましたよね」


「それをやったら、その次の日の仕事がさらに増えるだけだと、ようやく気づいたんだ」


「気づくの、遅くないですか?」


「三十五歳で気づけたなら、まだ間に合ったことにしてくれ」


       *


 翌日。


 社内ポータルに、一通の通知が届いた。


『【副業・兼業申請】承認のお知らせ』


 久我は、承認画面の文字を見て、心底ほっと安堵の息を吐き出した。


 野良吸血鬼に路地裏で囲まれ、素手で首を絞め落とした時よりも緊張した。


 透明人間の再出現位置を魔眼で予測した時よりも、申請の結果がどうなるか気が気でならなかった。


(俺は本当に、骨の髄まで会社員だな……)


 久我は、誰にも見られないように、八咫烏アプリのチャットからかれんへ報告を入れた。


『久我:副業申請が、無事に承認されました』


 すぐに返信が来る。


『皇:確認しました。今後も必要に応じて、協力をお願いします』


『久我:承認されたからといって、任務の頻度を増やさないでくださいね』


『皇:任務の発生件数は、私には決められません』


『久我:参加件数は決められますよね』


 少しだけ、間が空いた。


『皇:久我さんの適性と、安全を考慮して依頼します』


「……否定しなかったな」


 さらに、システムからの自動通知が続く。


『【勤務先調整情報を登録しました】


 深夜任務後の翌日勤務について、必要に応じて活動証明書を発行できます』


 八咫烏側も、本業を持つ協力者の生活を破壊しないよう、制度をきちんと整えている。


 ただし、制度が整っていることと、危険な任務が来ないことは、まったく別の問題だ。


       *


 退勤前。


 帰り支度をしている久我へ、課長がこそこそと声をかけてきた。


「久我君」


「何ですか?」


「今度、その政府関係者と飲む機会があったらさ、俺も呼んでくれない?」


 久我は、かれん、剣持、源、そして吸血鬼協会の面々の顔を思い浮かべた。


 かれんは未成年だ。


 剣持も学生だ。


 源は酒を飲むが、絶対に課長とは会わせたくない。


「そういう接待のような関係ではないので、難しいですね」


「名刺だけでも渡したいんだけどな」


「営業先ではありません」


「公共の大型案件に繋がるかもしれないじゃん」


 そこへ、書類を持った高橋が通りかかった。


「課長。社員の個人的な副業関係を、会社の営業活動へ利用しようとしないでください」


「……聞こえてた?」


「大きな声でしたから」


 課長は、すごすごと自分の席へ戻っていった。


(高橋さん、本当に強すぎるな。能力はなくても、八咫烏へ推薦した方がいいんじゃないか?)


       *


 会社のビルを出た。


 時刻は二十一時過ぎ。


 以前の久我なら、ここからさらに深夜まで残業を続けていた時間帯だ。


「今日は副業ですか?」


 一緒にエレベーターを降りた佐藤が尋ねてくる。


「今日は普通に帰って寝るよ」


「それも、副業のための体調管理ですか?」


「普通に生きるための体調管理だよ」


 駅へ向かって歩き出したところで、ポケットのスマートフォンから八咫烏アプリの通知音が鳴った。


 久我は一瞬、また新たな緊急招集の任務かと身構えた。


 しかし、画面に表示された内容は違った。


『【協力報酬支払通知】


 指定口座への振込が完了しました』


 久我は、夜空を見上げて小さく笑った。


「……捕獲任務が終わっても、最後は振込通知と会社の申請処理か」


 異能力者を捕まえた。


 血に飢えた吸血鬼と戦った。


 京都の名家から逃げてきた少女を説得した。


 どれも、一般社会では絶対にあり得ない、非日常の出来事だ。


 それでも、会社員である久我にとって、それらは最終的に、


『副業申請』


『勤務時間調整』


『健康管理』


『報酬明細』


 という、極めて現実的な書類へ変換されていく。


 透明人間を捕まえるよりも、鏡の少女を説得するよりも、会社で副業申請を通す方が妙に緊張した。


 だが、これで久我陽介は正式に、平日は会社員、夜は公的安全活動の有償協力者となったのだ。


 もっとも、会社の同僚たちは、彼が政府のサイバーセキュリティ案件を秘密裏に手伝っている凄腕エンジニアなのだと、完全に勘違いしたままなのだが。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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