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第17話 吸血鬼、動体視力が上がったことにする

 魂に『吸血神の残響』という世界滅亡級の人生終了爆弾を抱え込んでしまった翌朝。


 久我陽介は、いつものようにヨレたスーツに袖を通し、ネクタイを締め、満員電車に揺られていた。


 ガタン、と電車がカーブに差し掛かって大きく揺れる。


 その瞬間だった。


 隣に立っていた疲れた顔のサラリーマンが、バランスを崩して吊革を掴み損ねた。


 同時に、目の前に立っていた女子高生のリュックについたアクリルキーホルダーが、遠心力で大きく跳ね上がる。


 ホームで駆け込み乗車をしようとしている男の革靴が、コンクリートを強く蹴り上げる。


 ――ズ、ン。


 久我の視界の中で、ほんの一瞬だけ、世界が『遅く』なった。


 サラリーマンの肘が、自分の脇腹に向かって倒れ込んでくる軌道。


 その男の肩の筋肉の収縮、重心のズレ、Yシャツのシワの動きのプロセスまでが、まるでスローモーションのコマ送りのように脳内に直接インプットされる。


 以前の久我なら、間違いなく肘打ちを食らって「痛っ」と顔をしかめていたタイミングだ。


 だが今は、肘が当たるよりも遥かに早く、その『未来の軌道』が視覚情報として完全に処理されていた。


 久我は、極めて自然な動作で、半歩だけ自分の身体を横へずらした。


 数コンマ秒後、サラリーマンの肘が、久我がさっきまでいた空間を空振りして通り過ぎていく。


(……今のが、内在時間か?)


 久我は内心でごくりと唾を呑み込み、すぐさまその思考を全力で打ち消した。


(違う。動体視力が上がっただけだ。夜の学校で走り込みをしてるから、反射神経が鍛えられただけだ。そういうことにする。絶対にそういうことにしておくんだ)


 そう自分に言い聞かせるが、身体は正直だった。


 朝から、妙に喉が渇く。


 昨日の夜に冷蔵庫の血液パックを規定量飲んだはずなのに、すでにタンクの底が見え始めているような燃費の悪さがある。


 鞄の中の保冷バッグの重みを意識しながら、久我は小さくため息をついた。


(……能力を起動させると、血が減る。これはマジで会社で不用意に使うべきじゃないな)


 まだ完全な無意識下の制御が甘い。


 少しでも気を抜くと、勝手に『見えすぎて』しまうのだ。


       *


 株式会社〇〇ソリューションズのオフィス。


 久我が自席にカバンを置いたちょうどその時、隣の席で後輩の佐藤が、両手に資料とコンビニのコーヒーカップを抱えながら慌てて戻ってきた。


「久我さん、おはようございますっ!」


「おはよう、佐藤。朝からバタバタしてるな」


 佐藤がデスクに座ろうとして、山積みの資料をドサッと置いた。


 その反動で、不安定な場所に置かれていたコーヒーの紙カップが、グラリと大きく傾いた。


 ――カチッ。


 久我の右目の奥で、見えない時計の針が鳴る感覚がした。


 視界が鋭くクリアになる。


 傾く紙カップ。


 蓋の小さな飲み口の隙間から、黒い液体が遠心力でせり上がってくる。


 それがそのまま倒れれば、佐藤が徹夜で仕上げたであろう重要資料の端を直撃する完璧な弾道が、赤いラインとなって視覚化された。


 久我は、座ったままスッと右手を伸ばし、倒れかけた紙カップの側面を、親指と人差し指で正確に挟み込んだ。


「おっと」


 チャプン、と音を立てて、コーヒーの液面がカップの縁ギリギリで止まる。


「うわっ……!!」


 佐藤が悲鳴を上げて目を見開き、久我のホールドしたカップと、自分の資料を交互に見た。


「あ、ありがとうございますっ! すごっ、今のよく反応できましたね!?」


「たまたま目に入ってたからね」


(たまたまではない)


「久我さん、最近本当に反応速度上がってません? なんというか、動きに無駄がないっていうか。夜の運動の成果ですか?」


「まあ、最近は夜の学校のグラウンドで少し走り込んでるからね」


 嘘ではない。


 だが、本質はそこにはない。


(嘘はついてない。全部は言ってないだけだ)


 久我はPCの電源を入れながら、小さく息を吐いた。


 能力が増えることより、こうして誤魔化さなければならない『秘密』が増えていくことの方が、社会人としてはよほどしんどい。


 午前十時。


 フロアの奥から、課長が書類の束を片手に、久我の席の方へと歩いてくるのが見えた。


 久我は魔眼を使うつもりは毛頭なかった。


 しかし、視界の端に課長が入った瞬間、脳が勝手にその動きの『情報』を過剰に拾い上げてしまう。


(課長の歩幅がいつもより三センチ小さい。右手に持っている資料の厚みからして、新規の案件。歩きながら視線が俺のモニターと壁の時計を往復している……定時前の納品を狙っている証拠。口の筋肉の動きからして、第一声は『ちょっといいかな』だ)


 そして極めつけは、課長の背後で、総務の高橋さんが般若のような顔でこちらをロックオンしているのが見えた。


(……来る)


「久我君、ちょっといいかな」


 課長が口を開いたそのコンマ一秒後、久我は被せ気味に答えた。


「今日中の追加資料の作成でしたら、高橋さんに事前相談済みのもの以外は、すべて明日以降の対応とさせてください」


「えっ。いや、まだ俺、何も言ってないんだが」


「失礼しました。顔に『急ぎでお願いしたい』と書いてあったので」


「そ、そんなに出てたかな?」


「出てました」


 隣の佐藤が小声で援護射撃を入れる。


 背後の高橋さんが、無言で深く一つ頷いた。


(今のは魔眼というより、長年の社畜経験からくる予測……と言い張れる)


 だが、問題はここからだった。


 先手を打たれた課長の眉間に、わずかにムッとした皺が寄る。


 その『怒りの兆候』が、顔の毛細血管の血流量の増加、呼吸の浅さ、まばたきの回数の変化、喉仏の上下運動として、久我の目に情報過多なまでに流れ込んできた。


 久我の『内在時間』が、ほんの一瞬だけ、無意識に引き伸ばされる。


(このままだと、課長は役員の名前を出して押し切ろうとする。高橋さんが横から物理的に割って入る。佐藤が空気に耐えきれず焦る。もし俺が折れて引き受ければ、今日の夜の学校警備のシフトに確実に遅刻し、かれんさんにこってり絞られる)


 コンマ数秒の間に、最悪のシナリオツリーが脳内で完全に組み上がった。


 久我は、あえて自分から『逃げ道』を提示した。


「課長。明日の午前中までに、三枚のスライドで方向性だけを示すドラフトを作るなら、対応可能です。ですが、今日中に数字まで詰めた完成版を上げるのは、どう足掻いても無理です」


「……三枚のドラフトで、いいのか?」


「役員向けでしたら、むしろ三枚程度の要約の方が、今の段階では稟議が通りやすいはずです」


 課長は少し考え込み、やがて「……分かった、じゃあ明日の午前で頼む」と引き下がっていった。


 高橋さんが遠くから、見事なサムズアップを決めている。


「久我さん、今の交渉の切り返し、めちゃくちゃ早かったですね」


 佐藤が感心する。


「課長の言う『いい感じにまとめといて』は、だいたいパワポ三枚だから」


(これは時間干渉じゃない。たぶん。たぶん、高度な社畜スキルだ)


 しかし、午後。


 顧客との重要なオンライン会議中、久我は『能力を会社で使うことの代償』を身を以て思い知ることになる。


 久我は極力、魔眼を抑え込んで会議に参加していた。


 だが、画面越しの相手企業の担当者が、スケジュールの件で何かを隠している気配を見せた。


 声のトーンの微妙な間、不自然な瞬きの回数、画面外のカンペを見る視線の動き、キーボードを叩く指先の震え。


 久我は、思わず『内在時間』のスイッチを半覚醒させてしまった。


 ズン、と。


 モニターの中の画面共有のカーソルの動きが、泥の中を泳ぐようにゆっくりとなる。


 相手の口の筋肉が動くプロセスが見える。


 嘘をつく前の、浅く引きつった呼吸のリズムが読める。


 久我は、相手が隠そうとしている懸念点を、先回りして正確に突いた。


「一点、確認させてください。御社側の検証環境の確保ですが……ひょっとして、現在まだ社内稟議が通っておらず、確保できていないという認識で合っていますか?」


 画面越しの担当者が、完全にフリーズした。


「……はい。実は、そこがまだ別部署との調整中でして」


 自社の課長が驚いたように久我を見る。


 佐藤も目を丸くしている。


 会議そのものは、久我のファインプレーにより、後々の大炎上を未然に防ぐ形で無事に終了した。


 しかし、会議室を出た直後。


「っ……」


 久我のこめかみに、鋭いアイスピックを突き立てられたような激痛が走った。


 喉が、砂漠を何日も歩いたようにカラカラに乾ききっている。


 視界の端に、あの赤い時計の針のようなノイズが一瞬だけ走り、すぐに消えた。


(やばい。これ、会議の空気読みとか見積もりチェックとかで、気軽に乱用していい能力じゃない)


 久我は慌ててトイレの個室に駆け込み、鞄の保冷バッグから緊急用の血液パックを取り出すと、震える手で封を切って流し込んだ。


 血が喉を通ると、急速に頭痛が引き、視界のノイズが消えていく。


「……はぁっ」


 個室を出てデスクに戻ると、佐藤が不思議そうに声をかけてきた。


「あれ? 久我さん、それ栄養ドリンクですか? 赤いパッケージの」


「……まあ、そんなものだよ」


「最近、本当に健康に気を使ってますね!」


「三十五過ぎたら、健康管理は命より大事だからね」


(血液管理ですけどね)


 久我は深く反省した。


 便利だからといって会社で多用すると、燃費と精神負荷が悪すぎる。


 この力は、絶対に仕事の効率化ツールにしてはいけない。


       *


 その夜。


 定時退社を勝ち取った久我は、指定のジャージに着替え、御影坂高校の体育館にいた。


 今日のメンバーは、皇かれん、剣持、澪の三人。


 源玄蔵はまだパトロール中らしい。


 久我は巡回前のブリーフィングの場で、自分から切り出した。


「皇さん、少し相談があります」


「どうしました?」


 かれんがタブレットから顔を上げる。


「最近、魔眼の見え方が……少し変わった気がします」


 かれんの瞳が、スッと細められた。


「具体的には?」


 久我は慎重に、吸血神のワードを脳内から完全に排除して言葉を選んだ。


「前よりも、相手の動き出しの初動が早く読めるというか……動体視力が上がったというか。……ほんの一瞬だけ、周囲の動きが遅く感じることがあるんです」


「それ、すっごくないですか!?」


 澪が目を輝かせる。


「すごいというか、めちゃくちゃ疲れます。使うと喉が渇くし、軽い頭痛もしますから」


 かれんはタブレットに何かを打ち込みながら、冷静に分析を始めた。


「血液消費を伴う魔眼の処理能力の強化……もしくは、吸血鬼型の特有である知覚加速の発露かもしれませんね」


(『時間干渉です』とは、絶対に口が裂けても言えない)


「実戦の前に、一度訓練で確認しましょう。剣持さん、お願いします」


「おう。じゃあ、軽く見てやるよ」


 まずは安全な検証から始まった。


 体育館のフロアで、久我が立ち、数メートル離れた位置から剣持が柔らかいトレーニング用のボールを投げる。


 ルールは簡単。


 久我はその場から大きく動かず、魔眼で軌道を読んで避けるか、腕で受ける。


 澪は横でタイムキーパー、かれんは測定用端末で久我のバイタルと魔力反応をチェックする。


 最初は、通常状態。


 剣持が軽くボールを投げる。


 久我は普通に反応して、首を逸らして避けた。


 次に、剣持が視線と肩の動きでフェイントを入れて投げる。


「おっと」


 久我はフェイントに引っかかり、反応が一瞬遅れて肩にボールを受けた。


「まだ、目でボールを追ってから身体が動いてるな」


 剣持が言う。


「見えてから動いてるので、俺の運動神経なら当然ですね」


「実戦の接近戦じゃ、それだと一歩遅い」


「じゃあ、次いきます」


 久我は、ごくごく微弱に『内在時間』のスイッチを入れた。


 剣持が振りかぶる。


 その瞬間、ボールの動きが遅く見える。


 それだけではない。


 剣持の肩の筋肉の収縮、肘の角度、指先から離れる瞬間のボールの回転。


 そこから導き出される完璧な軌道が、赤いラインとなって見える。


 久我は、ボールが手から離れるのとほぼ同時に、半歩だけ身体を動かして避けた。


 剣持が、少しだけ驚いたように眉を上げた。


「……今のは、完璧な読みだったな」


「久我さん、今、何をしました?」


 かれんが問いかける。


「相手の動き出しの初動に集中しました」


 嘘ではない。


「心拍と血液反応の数値が、一瞬だけ跳ね上がっています。やはり、発動時に体内の血液を消費している可能性が高いですね」


「やっぱり燃費が悪いですね……」


「陽介さん、大丈夫ですか? 無理しないでくださいね」


 澪が心配そうに覗き込んでくる。


「今のところは大丈夫です」


 久我は次に、『外在時間干渉』を試そうとして、少し躊躇した。


 対象の動きにラグを作る能力。


 いくら柔らかいボールとはいえ、剣持に向かって使うのはリスクがある。


 だが、試さないわけにはいかない。


「もう一球、お願いします」


 剣持がボールを投げる。


 久我は魔眼の焦点を、飛んでくるボールの一点に強く絞った。


 ズッ、と。


 ボールの回転が、空中で一瞬だけ重い泥に引っかかったように鈍るように見えた。


 実際には止まっていない。


 しかし、久我の主観には確かな『軌道修正の余裕』が生まれた。


 久我は余裕を持って手を伸ばし、ボールをパンッと弾き落とした。


「…………」


 剣持が、床に転がるボールと久我の顔を交互に見た。


「……今の、なんか妙だったな」


 久我の背筋に冷や汗が伝う。


「妙、ですか?」


「普通に動体視力で見切ったっていうより、空中のボールの勢いが、一瞬だけ不自然に『死んだ』ように見えた」


 かれんが手元の端末を素早く操作する。


「……計測値に、明確な外部干渉の魔力反応はありません。ただし、久我さんの魔眼のエネルギー値だけが、瞬間的にスパイクしています」


(バレる。これ、格上の能力者には直感で絶対にバレるぞ)


 久我は必死にポーカーフェイスを取り繕った。


「たぶん、俺の見え方の問題だと思います。俺の感覚では、ボールの軌道が前よりはっきり読みやすくなっただけなので」


「……ふむ。現時点では、魔眼の観測精度の向上として記録しておきます」


「お願いします」


(心臓に悪い……!)


 続いて、剣持との軽い対人格闘のステップ訓練に移る。


 武器はなし。


 剣持がゆっくりとした動きで踏み込み、久我の肩に触れたら勝ち。


 久我は避けるだけ。


「安心しろ。こないだの鳥カゴのおっさんみたいに、容赦なく投げ飛ばしたりはしねえよ」


「その言葉を信じます」


「ただし、避けられなきゃ普通に当てるからな」


「やっぱり信じきれないな」


 開始。


 剣持が、まるで散歩でもするようにゆっくりと距離を詰めてくる。


 だが、久我の魔眼にははっきりと見えていた。


 剣持の身体の芯は全く緩んでいない。


 足裏に力が乗り、肩ではなく腰からいつでも爆発的なステップを踏める準備ができている。


 次の瞬間、剣持の姿がブレた。


 速い。


 久我は『内在時間』を、ほんの一瞬だけ限界まで引き伸ばした。


 剣持の手が、久我の右肩へと伸びてくる。


 指先の角度、踏み込みの深さ。


 逃げ道は右後ろのハーフステップしかない。


 久我は、ギリギリのタイミングで半身をずらした。


 剣持の指先が、久我のナイロンパーカーの肩口をかすめて空を切る。


「避けたっ!」


 澪が歓声を上げる。


「へえ」


 剣持の目が鋭く光った。


 しかし次の瞬間、剣持は空振りした勢いをそのまま利用して滑らかに足運びを変え、久我が逃げた先の空間へ、先回りするように身体を入れてきた。


 久我は二度目の『内在時間』を発動しようと脳に命令を送る。


 ズキッ!!


 脳髄を直接殴られたような激しい頭痛。


 喉の奥がカラカラに乾き、視界の端に赤い時計の針のようなノイズが走った。


 発動が、コンマ数秒遅れる。


 ポン、と。


 剣持の大きな掌が、久我の肩を軽く叩いた。


「はい、終わり」


「……一回しか避けられなかった」


 久我は肩で息をしながら膝に手をついた。


「いや、俺の最初の踏み込みを一回避けたのは大したもんだ。前の陽介さんなら、最初の一歩で終わってたぞ」


「すごいです、陽介さん!」


「でも、二回目が全く反応できませんでした」


「そりゃそうだろ。頭で『見える』ようになっただけで、それに合わせて動く足腰と反射神経がまだ全然追いついてねえんだから。車体は軽自動車なのに、エンジンだけF1カー積んでるようなもんだ」


 かれんがタブレットから顔を上げる。


「発動直後に、急激な血液反応の低下と軽度の頭痛反応を確認しました。やはり、連続使用には強い制限とリスクがあるようですね」


「かなりあります。二回連続で使おうとしたら、頭が割れるかと思いました」


「使用回数は、一回の戦闘や訓練につき数回までとします。連続使用は禁止です」


「はい」


(助かる。行政からの『禁止命令』があれば、使わなくていい正当な言い訳になる)


「陽介さん、それって私にもできるんですか?」


 目を輝かせる澪に、かれんが首を横に振った。


「現時点では不明です。澪さんの吸血鬼としての強みは、純粋な身体能力と瞬発力に大きく寄っています。久我さんは、魔眼の観測能力が特殊な方向に伸びている状態です」


「澪は動いてから考えるタイプ。陽介さんは見てから考えるタイプだな」


 剣持が言う。


「むっ。私、そんなに脳筋ですか?」


「褒めてるんだよ」


「全然褒められてる気がしません!」


「俺としては、澪さんみたいに頭で考える前に素直に身体が動く才能の方が、現場じゃ羨ましいですよ」


「私は、陽介さんみたいに常に冷静に見えている方が羨ましいです」


「お互いに、違う方向へ能力を伸ばせばいいのです。同じ吸血鬼型でも、個人の素質によって成長のベクトルは同一ではありませんから」


 かれんの言葉で、久我と澪はそれぞれの特性の違いを改めて認識した。


 訓練の終盤。


 ワンカップの酒瓶を片手に、源がふらりと体育館に現れた。


「おうおう、何やら面白いことやってるじゃねえか」


「源さん、勤務中ですよね?」


「外周の見回りは終わった。この酒は燃料だ」


「源さん、公式の八咫烏のルールブックには、アルコールは燃料とは記載されていません」


「細けえ組織だな」


「久我さんの魔眼が、少し伸びたらしいんですよ」


 剣持が報告する。


 源が、濁った目で久我をじろりと見た。


「ほう。目が良くなったか」


「動体視力が上がった、ということになっています」


「ということになってる、ねえ」


 久我はギクッと肩を強張らせた。


 この歴戦のジジイには、何かしらの違和感を察知された気がする。


 だが、源はそれ以上深くは追求しなかった。


「まあ、いくら目が良くなっても、足が遅けりゃ結局は殴られるだけだ。見えたものに、自分の身体の動きを合わせる地道な訓練をしろ」


「はい」


「あと、目に頼りすぎるなよ。目を潰されたら一巻の終わりだ。実戦じゃあ、見えねえ恐怖の中で動かなきゃならねえ時もある」


「怖いこと言わないでください」


「実戦は怖いもんだ。覚えておけ」


 源はそれだけ言うと、またふらりと夜の校舎の方へ歩いていった。


 その一言で、久我は『能力が増えても、決して万能になったわけではない』と強く戒められた。


       *


 訓練後。


 かれんが保冷ケースから取り出した血液パックを久我に手渡した。


「飲んでください」


「ありがとうございます。……五臓六腑に染み渡ります」


「今回の魔眼の変化について、現時点での仮診断を伝えます」


 久我はパックをくわえたまま、少し緊張して姿勢を正した。


「はい」


「魔眼の観測精度と、脳内の情報処理速度が急激に上昇しています。特に動体視力、相手の初動の察知、軌道予測の伸びが顕著です」


「なるほど」


「ただし、発動時の血液の消費量が非常に大きく、反動として頭痛と飢餓感のサインが出ています。……現段階では、訓練や緊急時以外の使用は『禁止』とします」


「会社でも、ですか?」


「特に、会社では」


「なぜそこを強調したんですか」


「久我さんは、便利な能力を手に入れると、すぐ仕事のタスク処理に転用しようとする傾向があるからです」


「否定できないのが辛い」


「魔眼は、エクセルの監査ツールや会議の空気読みガジェットではありません」


「でも、あれば絶対便利なんですよねぇ」


「使用禁止です」


「はい」


(使いたい場面が多すぎるんだよな……)


 かれんはさらに言葉を継いだ。


「それと、今回の変化はしばらく厳重に経過観察とします。急激な能力の変化は、身体や精神に未知の負荷をかけます。もし、異常な夢を見たり、激しい頭痛や飢餓感が起きたり、視界に『時計のような模様』が出るなどの奇妙な症状があれば、些細なことでもすぐに報告してください」


 久我の心臓が跳ね上がった。


「……と、時計のような模様?」


「例えばの話です。魔眼の過剰使用は、視覚に幾何学的なノイズを生じさせることがありますから」


(……出てる。完璧に出てるよ、かれんさん)


「分かりました。何かあればすぐに報告します」


(全部は報告できないけどな)


 帰り道。


 久我は一人、夜明け前の静かな住宅街を歩いていた。


 今日一日で分かったこと。


 能力は確かにある。


 一瞬なら、剣持の踏み込みすら避けられる。


 ボールの動きにラグを作ることもできる。


 だが、連続使用はキツい。


 血液を激しく消費し、頭痛が出る。


 かれんにも剣持にも、なんとなく違和感は拾われているし、源さんには本質を察された気さえする。


(……この『時間干渉』を隠しながら使うの、めちゃくちゃ難しいぞ)


 でも、全部を正直に話すわけにはいかない。


『吸血神』なんていう世界滅亡級の単語を出した瞬間、自分だけでなく、周囲の人間までどうなるか分からない。


(皇さんや皆を信頼していないわけじゃない。むしろ、信頼している。だからこそ、こんなヤバい爆弾に巻き込みたくないんだ)


 これは、八咫烏の講習で学んだ『守るべき日常を危険に巻き込まない』という考え方に近い。


 自分が抱え込むことで、平穏な日常を守れるなら、それでいい。


 もちろん、いつかは相談しなければならないのかもしれない。


 だが、少なくとも今この場で、何の準備もなく口に出すべき話ではなかった。


 翌朝。


 久我は再び、ヨレたスーツを着て株式会社〇〇ソリューションズに出社していた。


「久我君、ちょっといいかな。今日中にこの分厚い追加資料、ざっとでいいから確認して――」


 課長が、ドサリとデスクに書類を置いた。


 久我の視界の奥が、一瞬だけ鋭く明滅する。


 課長の手元にある資料の厚み。


 中に潜む致命的なミスの箇所。


 修正にかかる概算時間。


 そして、一番角が立たない『断るべきタイミング』。


 魔眼を使えば、全部が完璧に見えそうになる。


 だが、久我はぐっと目を閉じ、己の意志でその能力を完全にシャットダウンした。


「課長。その件ですが、現在の私のタスクの優先度を確認してから対応します。今すぐこの分量すべてに目を通すのは、物理的に無理です」


 静かに、だがはっきりと告げる。


「む、そうか。……じゃあ、急ぎの三ページ目だけ頼む」


「分かりました」


(……使わなかったぞ)


 久我は内心で、小さな勝利のガッツポーズをした。


「久我さん、今の課長への断り方、めちゃくちゃ落ち着いててカッコよかったですね」


 隣で見ていた佐藤が小声で褒めてくる。


「大人だからね、これくらいは」


(人生終了級の秘密を抱えた吸血鬼だからですけどね)


 こうして久我陽介は、時間に触れるという魔眼の恐るべき初歩を手に入れたにもかかわらず、まず最初に実践したのが『便利な力ほど、絶対に会社で使ってはいけない』という、あまりにも社畜じみた教訓だったのだった。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
うーん、いつまで隠し通せるか最初から怪しい感じだ。
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