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第14話 吸血鬼、普通に出社して普通に過ごす

 スマートフォンから鳴り響く無機質なアラーム音で、久我陽介はゆっくりと目を開けた。


 薄暗い部屋の天井を見上げる。


 血まみれの悪夢を見たわけでもない。夢の中で古びた銀杯を持った吸血鬼の化身に絡まれることも、日本吸血鬼協会の理事長から意味深な呼び出しを受けることもない。ましてや、窓の外から吸血鬼ハンターが銀の杭を持って襲いかかってくるようなオカルトイベントも起きなかった。


 ただ、ひたすらに『少し眠い』だけ。


「……三十五歳の朝としては、至極真っ当だな」


 久我はのっそりとベッドから身を起こし、首の後ろを揉みほぐした。


 吸血鬼になったからといって、毎日が世界の命運を懸けた怪異との死闘や、血で血を洗う非日常の連続になるわけではない。


 今日も普通に会社がある。


 メーラーを開けば普通に未読のタスクが溜まっているし、課長は相変わらずフワッとした無茶振りをしてくるだろうし、電車は普通に混んでいる。


「……普通に嫌だな、会社」


 ぼやきながら洗面所へ向かい、冷蔵庫から取り出した血液パックの封を切る。


 昨晩、半分だけ飲んで残しておいたものをグラスに注ぎ、軽くレンジで焼いたトーストとコーヒー、申し訳程度の人間的食生活の偽装と一緒に流し込む。


 冷たい血が喉を通り抜け、細胞の隅々に活力が染み渡っていくのを感じながら、久我は数日前の吸血鬼協会での歓迎会を思い出していた。


『吸血鬼になったのなら、一度死んで生まれ変わったと思いなさい』


 三百年を生きる理事長の、あの静かで重い言葉。


 そして、社会人吸血鬼たちが語った、仕事を失い、家族と離れ、日常を壊された生々しい傷跡の数々。


『会社に残れることと、会社に潰されないことは、まったく別問題ですからね』


 作業着風の吸血鬼が言っていたその言葉が、今の久我には痛いほどよく分かる。


「……本当に、別問題だよな」


 久我はグラスを洗い、スーツのジャケットに袖を通した。


 それでも、今日は出社する。


 自分にはまだ、戻るべき『日常の席』が残されているのだから。


       *


 株式会社〇〇ソリューションズ。


 久我はいつも通り、ビルのエントランスで社員証をかざし、満員のエレベーターに揺られてオフィスフロアへと足を踏み入れた。


「おはようございます」


「おざーす」


 同僚たちと交わす、何でもない挨拶。


 いつものように自分のデスクの椅子を引き、PCの電源を入れる。


 たったそれだけの、入社以来何千回と繰り返してきたただの動作。


 だが、歓迎会であの社会人吸血鬼たちの話を聞いた後の久我にとっては、その『ただの動作』が、奇跡のように尊いものに感じられた。


(営業職をクビになった人。工場で働けなくなって家族と別居になった人。家で化物扱いされた人。……あの人たちから見れば、俺が今こうして当たり前のように自分の席に座ってPCを立ち上げている状況は、信じられないくらい恵まれた、珍しいことなんだろうな)


「久我さん、おはようございます!」


 出社してきた後輩の佐藤が、隣の席から明るい声をかけてきた。


「おはよう。早いな、佐藤」


「いえいえ! ……あ、久我さん、今日も朝から顔色いいですね!」


「そう? 変わらないと思うけど」


「はい! 最近、前よりずっと健康そうですよ。やっぱり、無理な残業をやめてちゃんと寝るようになったからですかね?」


(吸血鬼になって、毎朝上質な血液パックをキメているからです、とは言えないな)


 久我は適当に笑ってごまかした。


 そこへ、朝のフロア巡回をしている総務の高橋が通りかかった。


「久我さん、おはようございます。昨日の勤怠ログ、ちゃんと確認しましたよ」


「あ、高橋さん。いつもチェックありがとうございます」


「当然です。今週も、課長から変な夕方以降の追加タスクが降ってきても、私が全部シャットアウトして無理な残業は入れさせないようにしますからね」


「ありがとうございます。本当に助かってます」


 久我は素直に頭を下げた。


 以前の自分なら、ここで形式的に「はい、気をつけます」とだけ言って、結局はズルズルと仕事を引き受けて残業していた。


 だが、今の久我には彼女の言葉の重みが痛いほど分かっていた。


「本当に助かってると思ってるなら、ちゃんと今日も定時で早く帰ってくださいね。いいですか?」


「はい」


 高橋の背中を見送りながら、久我はPC用メガネ――八咫烏から支給された薄い遮光グラス――の位置を直した。


 午前中の業務が始まる。


 久我は魔眼を『全開』にはせず、あくまで仕事の処理補助として、薄く、静かに稼働させた。


 人間の血流や心拍の変動を視覚化するのは、平和なオフィスでは情報過多で物騒すぎる。だが、エクセルのマクロの矛盾点や、顧客向け資料の論理飛躍、他部署の作ったスケジュールの無理な圧縮を見抜く分には、この魔眼の知覚拡張はこれ以上なく平和で有能なツールだった。


「あの、久我さん。このB社向けの見積もり、ちょっと一回見てもらっていいですか?」


 佐藤が資料をプリントアウトして持ってくる。


「いいよ。貸して」


 久我は紙の束を受け取り、数秒だけ視線を滑らせた。


 一瞬で違和感が浮き彫りになる。


「佐藤。この第三項目のサーバー保守費、三年契約の前提になってるのに、単価の掛け算が一年分しか入ってないよ」


「えっ!? あっ、本当だ……!」


「あと、こっちのフェーズ2の作業工数。データベースの移行テストの分の人月が丸ごと抜けてる。これだと現場がタダ働きになる」


「うわあっ、危なっ……! す、すみません、すぐ直します! ありがとうございます!」


 佐藤が青ざめながら資料を引っ込める。


「納品後に地獄の赤字修正を見るより、今見つけた方がずっと安いからね。気をつけて」


「はい……! でも久我さん、最近ますます資料のチェック早くなってません? 私、まだ全然説明してなかったのに」


「慣れだよ、慣れ」


(魔眼です、魔眼)


 そこへ、チャットツールに課長からのメッセージが飛んできた。


『課長:久我君、今日の午後イチの定例会議までに、この前のA社の提案資料、なんか「いい感じ」に三枚くらいでまとめといて』


「……いい感じ」


 久我が無表情で画面を睨むと、隣で佐藤が小声で囁いた。


「あ、久我さんの顔が死んだ」


 久我は魔眼ではなく、三十五年の社畜経験から、この曖昧なテキストの『真意』を瞬時に分解した。


(課長の言う「いい感じ」は、役員がパッと見て分かった気になれる粒度のことだ。必要なのは三枚構成。一枚目は現在の『状況』、二枚目は今後の『課題』、三枚目は大まかな『対応案』。数字は精査しなくていい暫定でOK。ただし、断定しすぎて後で責任を取らされるような書き方はNG、と)


「佐藤、ちょっとお願い。この前のA社の月次障害報告書のシステム構成図、今すぐ流用できる?」


「はい、できます!」


「じゃあ俺がパワポで全体の構成とテキストを作るから、佐藤はその図だけ最新版に差し替えて、二枚目のスライドに貼り付けておいて」


「了解です!」


 以前の久我なら、「俺がやった方が早い」と全部自分で抱え込んでいただろう。


 だが、今は違う。


(全部自分でやった方が物理的なスピードは早い。でも、それをずっと続けていたら、俺のキャパシティがいつか絶対に潰れる)


 会社に残れることと、会社に潰されないことは別問題だ。


 協会で会った社会人吸血鬼の言葉が、久我の行動基準を静かに変え始めていた。


       *


 昼前。


 高橋が、給湯室へ向かうついでに久我の席へ立ち寄った。


「久我さん。今日の夕方、もしかしたら課長から『明日までの追加資料の作成』で残業依頼が来るかもしれません」


「……予告ですか?」


「予防です」


 高橋は淡々とした表情で言う。


「今週は体調管理と生活リズムの安定を優先してください。もし課長がゴネるようなら、必要であれば私から直接課長に言いますから、久我さんは絶対に引き受けないでくださいね」


 久我はPCから手を離し、少しだけ黙った。


「高橋さん」


「はい?」


「いつも、本当にありがとうございます」


 突然の改まったお礼に、高橋は少し驚いたように目を瞬かせた。


「急にどうしました?」


「いえ。ちゃんと言葉にして伝えておこうと思って」


 久我は、歓迎会で見た『誰にも支えてもらえずに社会から孤立していった社会人吸血鬼たち』の顔を思い浮かべていた。


 もし、この会社に高橋がいなかったら。


 自分もとっくに理不尽な残業で飢餓衝動を抑えきれなくなり、夜のオフィスで佐藤や課長の首に噛みついて、警察と八咫烏の世話になっていたかもしれない。


 彼女の存在が、今の久我には以前よりずっと大きく、得難いものに見えていた。


「……どういたしまして。でも、そんなに感謝してくれているなら、今日もちゃんと定時で早く帰ってくださいね」


「はい。必ず」


 昼休み。


 コンビニで買ったサンドイッチを齧りながら、久我は私用のスマホを開いた。


 チャットアプリに、澪からのメッセージが入っている。


『澪:陽介さん、お疲れ様です! 今日、学校の夜間警備の日ですよね? 来ますか?』


 久我は片手でフリック入力を返す。


『久我:行きますよ。昼間は普通に出社して、夕方普通に退社できれば、ですが。』


『澪:普通って、難しいですよね。』


『久我:本当に。』


『澪:でも、昨日学校で普通に授業受けてたら、なんかちょっと安心したんです。吸血鬼になっても、学校に行って、友達と普通のバカ話していいんだなって。』


 久我は画面を見つめ、少しだけ口角を上げた。


『久我:俺も今日、会社で同じことを思っていました。』


『澪:お互い、表の世界の「普通」を大事にしましょうね!』


『久我:はい。ただし、無理はしない方向で。』


 第十三話で理事長が語った『人間社会との共生』。


 会社も大事、学校も大事。


 でも、自分自身が壊れてしまわないことも同じくらい大事。


 久我と澪は、それぞれの場所でそのバランスを少しずつ模索し始めていた。


       *


 午後。


 久我は資料作成、午後の定例会議、他部署からの技術的な問い合わせ対応と、立て続けにタスクをこなしていった。


 魔眼の処理能力で効率は劇的に上がっている。


 しかし、ずっと稼働させていると、やはり精神的な疲労が蓄積してくる。


(……魔眼で情報は無限に拾える。だが、会議室のピリついた空気、課長の不機嫌の兆候、顧客の隠された意図、佐藤の抱えている作業量の限界。……全部が見えすぎると、普通に疲れるな)


 鳥カゴの模擬戦で普通のおじさんにボコられた時の、『見えすぎる問題』がここでも発生していた。


 会議中、久我の魔眼は嫌でも参加者たちの微細な反応を拾い上げてしまう。


(あ、この営業担当、今かなり納期のことで焦ってるな)


(向こうのシステム担当、こっちの提示した数字を絶対疑ってる)


(この若手、完全に話を聞いてないな)


(課長、今の専門用語分かってないのに、めっちゃ分かった顔で頷いてるし)


(……魔眼、社会人の会議でフル稼働させると、情報量が多すぎてノイズにしかならない)


 それでも、久我は得られた情報を取捨選択し、会議を上手くコントロールしていく。


「では、現状の懸念点は二つに整理します。一つ目は第三フェーズのスケジュール。二つ目は、本番移行前の検証環境の確保です。今日この場で決めるべきなのは、具体的な対応方針ではなく、まず『誰がどの情報を持っているか』の確認とタスクの割り振りですね」


 久我の的確な交通整理に、取引先の担当者が深く頷く。


「はい。それでお願いします。非常にクリアになりました」


「うむ。久我君、よくまとめてくれたな」


 課長が偉そうに腕を組む。


(絶対、後半の検証環境の話、一ミリも分かってなかったな、この人)


 そして、夕方。


 定時まであと十五分というところで、課長が久我のデスクにやってきた。


「久我君、ちょっといいかな。今日中にもう一本、明日の朝イチの会議で使う――」


 そこへ、まるで背後に転移してきたかのようなスムーズさで、高橋がスッと割って入った。


「課長、そのC社の件でしたら、明日の午前のうちに佐藤さんと私で数字をまとめる形で先ほど調整済みです。久我さんは本日、予定通り定時退社となります」


「いや、しかしだな高橋さん、これは役員も見る数字で……」


「必要であれば、私から直接部長に状況をご説明に上がりますが、よろしいでしょうか?」


 高橋の氷のような笑顔に、課長は一瞬だけたじろぎ、やがて諦めたように手を振った。


「……分かった。じゃあ、明日の午前中で頼む」


(高橋さん、マジで強すぎる)


 隣の席の佐藤が、小声でガッツポーズをした。


「久我さん、今日も無事に帰れそうですね!」


「ああ。本当にありがたいよ」


「じゃあ、この後はまた夜の運動ですか?」


「まあ、そんなところだよ」


(夜の高校で、怪異狩りとパトロールだけどな)


 午後六時。


 定時退社。


 久我は会社を出て、ビルの外へと歩み出た。


 夕方から夜へと変わりかけた、少しだけ冷たい空気が、吸血鬼の身体に心地よく馴染む。


 日中の強い日差しによる疲労感が薄れ、代わりに身体の奥底から静かな活力が湧いてくるのを感じる。


 久我は振り返って、まだ明かりの点いている自社のオフィスビルを見上げた。


(……俺は、あの場所にまだ自分の席がある)


 嫌なことも多い。


 理不尽なことも山ほどある。


 でも、佐藤という素直な後輩がいて、高橋さんという強力な味方がいて、俺を『化け物』ではなく『普通の会社員の久我陽介』として扱ってくれる人たちがいる。


(それは……俺が思っていたよりも、ずっと大事で、絶対に手放したくない日常なんだな)


       *


 夜。


 久我は一度帰宅して着替えを済ませ、都立御影坂高校の裏門へと向かった。


 体育館の詰所に入ると、今日は珍しく、かれん、剣持、澪の三人が揃っていた。


 源の姿は見えないが、おそらくどこかで酒を飲んでいるのだろう。


「陽介さん、お疲れ様です!」


 ジャージ姿の澪が、パタパタと駆け寄ってくる。


「お疲れ様です。澪さん、今日の学校はどうでした?」


「普通でした! 数学の小テストが普通に難しくて、普通に赤点回避ギリギリで最悪でした!」


「それは普通に嫌な日常ですね」


 かれんがタブレットから顔を上げた。


「久我さん、今日の体調は?」


「普通に会社に行って、普通に仕事して、普通に疲れました」


「それは普通ですね」


「吸血鬼になってから、『普通』という言葉の定義とストライクゾーンが、自分の中でどんどん広がっている気がしますよ」


 剣持がストレッチをしながら笑った。


「今日は軽めの巡回と運動だけでいいぞ。先日、協会の歓迎会とかいう面倒な行事に行ってたんだろ? 無理はさせねえよ」


「ありがとうございます。助かります」


 校内巡回に出る前、控室で少しだけ協会の話になった。


「で、その日本吸血鬼協会の歓迎会ってのは、どうだったんだ?」


「思っていたより、ちゃんと『吸血鬼のパーティー』で驚きました」


「でも、私、未成年リボンつけられて、美味しい血液ドリンクのおかわりを制限されたんです!」


 澪が不満げに頬を膨らませる。


「そりゃそうだろ。未成年が夜中に血で酔っ払ったらどうすんだ」


 剣持が呆れる。


「理事長のスピーチが、かなり重くて現実的でした。……吸血鬼は人類より上位の存在になったわけじゃなくて、人類と共生する存在になったんだ、って」


「ああ、いかにも日本吸血鬼協会のトップらしい、地に足のついた考え方ですね」


 かれんが頷く。


「あと、吸血鬼ハンターの話も聞きました」


 その単語を出した瞬間、剣持の表情が少しだけ真顔になった。


「……それも聞いたか」


「日本ではほぼいないけど、海外にはまだ普通にいるとか」


「ああ。だから、海外遠征の任務や、向こうのダンジョンに行く吸血鬼には、八咫烏の特別講習が必須になってる。まあ、陽介さんはしばらく大人しく国内でサラリーマンしてろよ」


「言われなくても、今の俺に海外旅行するような余裕はありませんよ。資金的にも、有給の残日数的にも」


「私もパスポート持ってないです!」


「それはそれで、いかにも日本の学生らしくていいな」


 剣持が笑い、場が少しだけ和んだ。


       *


 今日の夜間警備は、大きな戦闘はなかった。


 剣持の指示で、久我は軽い運動と魔眼の基礎訓練をこなしていく。


 暗い廊下でのダッシュ、階段の素早い昇降、強光ライトを持ったままの方向転換。


 魔眼の視覚情報に頼りすぎて足元を見失わないためのステップワーク。


 そして、特殊警棒の素振りと、澪との軽い追いかけっこ形式の機動訓練。


「陽介さん、魔眼の『見えすぎ』に頼りすぎるな。情報が見えてても、それに身体の反応が追いつかなきゃ意味がねえぞ」


「耳が痛いですね。こないだ鳥カゴで普通のおじさんにも全く同じことを言われました」


「陽介さん、でも前よりずっと動き良くなってますよ!」


 澪が息を切らしながら褒めてくれる。


「鳥カゴでボコボコにされた成果ですかね」


「源さんに感謝しとけ」


 巡回の終盤。


 かれんの持つ探知端末が、ピリッと小さな電子音を鳴らした。


「二階の東廊下、小型の怪異反応あり。エネルギー値は大きくありません」


「じゃあ、陽介さんと澪の二人で先行して確認してこい。俺が後ろからカバーに入る」


「了解です」


 久我は特殊警棒を握り直し、澪と並んで二階へと向かった。


 現れたのは、本当に小さな、取るに足らない怪異だった。


 現象としては、誰もいない暗い廊下を歩いていると、自分の背後から『もう一人分の足音』がタッ、タッ、とついてくるというものだ。


 振り返っても誰もいない。


 だが、そのまま放置すると、足音の数が増殖して生徒の怪談の種になり、最悪の場合はパニックを引き起こす。


「うわ……こういうの、地味にめちゃくちゃ怖いです……」


 澪が久我の背中に隠れるようにして震える。


「ダンジョンの子鬼みたいな派手な怪物より、こういう日常に潜むタイプの方が、普通に嫌ですね」


 久我が魔眼の出力を上げる。


 ただの暗い廊下の床に、黒い靄のような『足跡の残滓』が点々と続いているのが見えた。


「床に足跡みたいな魔力の残滓があります。……東階段の踊り場の方へ続いてますね」


「よし、追え」


 剣持の指示で、二人は足跡を追う。


 タッ、タッ、タッ。


 背後からついてくる足音が、明らかに二つ、三つと増えている。


「陽介さん、後ろにいます!?」


「目視はできません。でも、音だけが増殖してます!」


「慌てんな。こういう地縛霊のなり損ないみたいなやつは、大元の『核』を見つけりゃ一発で終わる」


 久我の魔眼が、東階段の下駄箱の隅に放置された、汚れた『古い上履き』に反応した。


 そこから、黒い靄が滲み出ている。


「あれです。下駄箱の上、片方だけの古い上履き」


「私が塞ぎます!」


 澪が吸血鬼のスピードで素早く回り込み、階段側の逃げ道を塞ぐ。


 久我は特殊警棒を構え、強光ライトのスイッチを入れた。


 強い光が上履きを照らした瞬間、隠れていた怪異が黒い足跡の塊となって空中に浮き上がった。


「陽介さん、やってみろ」


「了解」


 久我は怪異の本体である靄を叩くのではなく、核である上履きそのものに向けてライトを照射しながら、特殊警棒を鋭く振り抜いた。


 ガツンッ!


 警棒が上履きを正確に弾き飛ばし、直後に澪が追撃の回し蹴りを叩き込む。


 ポンッ、と小さな破裂音がして、黒い靄が霧散した。


 そして、床に落ちた上履きの中から、古い黒い靴紐のようなものがポロリとドロップした。


「……これも、ドロップ品ですか?」


「ああ。八咫烏の回収班に提出しろ。たぶん査定はクソ安いけどな」


「こういう学校の小怪異にも、ちゃんと行政の査定があるんですね」


「ある。現代日本だからな」


「その言葉、夜の学校の怪異退治にも適用されるんですか」


       *


 深夜三時。


 控室の体育館に戻る。


 久我は保冷ケースから取り出した血液パックを少しだけ飲み、澪もスポーツドリンクで水分補給をしている。


 かれんがタブレットで本日の業務報告書を作成しながら言った。


「今日の怪異は、危険度は最低クラスでしたね」


「でも、ああいうのを放置すれば、確実に昼間の生徒たちの精神生活に悪影響が出ます。夜間警備班の仕事は、大事件を解決して回ることだけではありませんから」


 剣持の言葉に、久我は少しだけハッとした。


「……こういう小さいのを潰して、学校を『普通に回す』のも仕事、ってことですか」


「ああ。生徒が朝普通に登校して、普通に授業受けて、普通に部活して帰る。その当たり前の日常を維持するために、俺たちが夜中に動いてるんだよ」


「普通に回す……」


 久我の胸に、その言葉が深く刺さった。


「そういや」


 剣持がふと思い出したように言った。


「ヤタッピの講習でも、そんなこと言ってたな。『普通の人々の生活と認識を守るのが、我々能力者の第一の役目である』みたいなやつ」


「ヤタッピ?」


 久我が聞き返すと、澪も首を傾げた。


「あ、私もその名前、センターのポスターで見たことあります」


 かれんの指が、タブレットの上でピタリと止まった。


「……おいおい、かれん。お前まさか、陽介さんにまだあの講習受けさせてないのかよ?」


「……そうですね。吸血鬼化直後の緊急対応、病院での初回摂取、魔眼の開眼、学校警備、ダンジョン訓練、鳥カゴ、そして協会の歓迎会と……スケジュールと優先順位が完全に詰まっていましたので、後回しになっていました」


「詰まりすぎてブラック企業の新人研修みたいになってんな……」


「あの、ヤタッピ講習ってなんですか?」


 久我が尋ねると、剣持が答えた。


「八咫烏の新人能力者向け教育映像だ。正式名称はたしか……『ヤタッピでもわかる! はじめての特殊体質者社会!』シリーズ」


「タイトルからすでに、絶望的な不安しか感じないんですが」


「あの変な三本足の烏のマスコットキャラクターが出てくる、クソダサい映像なんだけどな。内容は意外と大事だぞ。能力者の権利義務とか、怪異対応の基本とか、一般人保護の考え方とか……あと、『ティアー・システム』の基礎とかな」


「ティアー・システム」


 新たな専門用語に、久我の眉間が寄る。


「能力者や怪異の『危険度』と『社会への影響力』に関する、八咫烏の基礎的な分類基準です」


 かれんが手元のタブレットを閉じながら言った。


「久我さんには、近いうちに必ずセンターで受講していただきます」


「……また、俺の業務外の講習タスクが増えた」


「必要不可欠な基礎知識です」


「現代の吸血鬼、どんだけ行政の手続きと講習から逃げられないんだ……」


 久我が肩を落とすと、澪が「陽介さん、頑張ってくださいね」と笑った。


「澪さんも受けるんですよね?」


「……え。私も、ですか?」


「もちろんです。未成年の登録者も必須受講です」


「うう……またお勉強ですか……」


 二人して机に突っ伏す吸血鬼コンビを見て、剣持が呆れたように笑った。


       *


 午前四時。


 巡回終了後。


 夜の校舎の屋上で、久我、澪、かれん、剣持の四人は、静かに夜風に吹かれていた。


 眼下には、誰もいない暗いグラウンドと、月明かりに照らされた校舎が広がっている。


 昼間は、ここに何百人もの生徒たちが『普通』に存在していたのだ。


「……今日、朝起きて、会社に行って、見積もり作って仕事して。夜は学校に来て、ダッシュして、足音の怪異を一体片づけて……」


 久我が夜空を見上げながらぽつりとこぼす。


「吸血鬼の日常としては、これは『普通』の一日、なんですかね?」


「御影坂の夜間警備班としては、極めて平和で普通だな」


 剣持が答える。


「久我さん個人の一週間のスケジュールとしては、かなり異常な『普通』ですが」


 かれんが冷静に突っ込む。


「本当にそうですね」


 久我は少しだけ間を置いた。


「でも。今日は何となく、こういう『普通の日常』を、ちゃんと大事にしたいなと思いました」


「協会の歓迎会で、先輩たちの話を聞いたからですか?」


 澪が隣でそっと尋ねてくる。


「それもあります。……朝起きて、会社に行けること。自分の席が残っていること。後輩が普通に仕事の相談をしてきて、総務の人が残業を止めてくれること。そして、夜にここへ来れば、皇さんや剣持さんや澪さんがいて、怪異が出てもちゃんと対処できること」


 久我は、自分が今日一日で触れてきたものすべてを思い返した。


「それって、全部、当たり前にあるものじゃないんだなと思って」


「……そうですね」


 かれんは、普段の冷徹なトーンではなく、少しだけ柔らかい声で応じた。


「私たち八咫烏や警備班が守っているのは、決して派手な英雄譚なんかではありません。人々が明日も『普通の日常』を繰り返せること。それ自体が目的です」


「ああ。俺たちが夜中にこんなとこで怪異斬ってんのも、翌朝、澪みたいな生徒たちが、何事もなく普通に登校してくるためだからな」


 剣持の言葉に、澪が嬉しそうに微笑んだ。


「私も、普通に学校に行ける今の生活、大事にしたいです」


「俺も、普通に会社に行けるこの日常を大事にします。……ただし、普通に理不尽な残業で潰されるのだけは全力で避けますが」


「それは必ず避けてください」


「そこは絶対に守れよ、社会人吸血鬼」


 帰り道。


 久我は一人、夜明け前の静かな住宅街を歩いていた。


 今日一日を思い返す。


 朝、冷蔵庫の血液パックを飲んだ。普通に出社した。佐藤の見積もりミスを直し、高橋さんに定時退社を守ってもらった。


 夜は御影坂高校で澪たちと合流し、足音だけの小怪異を祓い、ヤタッピ講習という新たな研修予定が増えた。


 吸血鬼になってからの日常は、明らかにおかしい。


 でも、それでも、これは今の自分にとって紛れもない『日常』なのだ。


(……普通の一日だった)


 朝は会社員として働き、夜は吸血鬼として怪異を狩った。


(普通という言葉の定義は、俺の中で完全に壊れてしまっている。それでも、俺にとっては今日も一日、ちゃんと守るべき日常だった)


 こうして久我陽介は、吸血鬼として怪異を狩る夜も、会社員として資料を直す昼も、どちらも自分が守りたい『普通』なのだと少しだけ実感し――その普通を守るために、次はヤタッピとかいう謎の三本足の烏の講習を受けさせられる羽目になったのだった。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
『第十三話で理事長が語った『人間社会との共生』。 会社も大事、学校も大事。』 いきなりメタな書き方
陽介さんは周りにも恵まれていますね。良い日常にはそれも大事。
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