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第12話 吸血鬼、歓迎会で地雷原を見守る

 深紅の裂け目をくぐった先にある『異次元の受付窓口』は、ただの儀礼的な空間ではなかった。


 黒い石造りの広い前室で、久我と澪は白石玲奈の案内に従い、一つずつ厳格な事前確認をこなしていった。


 まずは入場認証。


 タッチパネル式の端末に、八咫烏から発行されたカードをかざす。


「久我陽介様、仮登録吸血鬼型、新規覚醒者枠。七瀬澪様、登録吸血鬼型、未成年参加者枠。確認いたしました」


(……異次元ゲートをくぐった先で、まず本人確認と参加区分のデータ照合。現代日本の吸血鬼は、どこまで行っても窓口の受付業務から逃げられない運命にあるらしい)


 続いて、血液反応のチェック。


 指先を小型のセンサー端末にかざすだけだが、魔術的な生体スキャンと医療技術が組み合わさっているらしく、モニターには詳細なパラメータが表示される。


『久我陽介:安定/軽度疲労/直近の訓練負荷あり』


「……直近の訓練負荷ありって、そんなことまで出るんですね」


 久我の言葉に、白石が少しだけ首を傾げた。


「かなり派手に投げられたか、格闘のダメージが蓄積しているようですね」


「鳥カゴで普通のおじさんに、三回ほどマットに沈められました」


「それは大変でしたね」


 隣で澪がくすっと吹き出す。


 彼女も端末に指をかざす。


『七瀬澪:安定/未成年/本日の血液摂取量制限あり』


「うう……制限って、ちゃんと画面に出るんだ……」


「未成年ですから」


「はい……」


 しょんぼりする澪に、白石は淡い赤色のリボンを手渡した。


「未成年参加者用の識別リボンです。会場内では、必ずスタッフから見える位置に着用してください。アルコール相当の成分を含む血液ドリンクの提供をストップするための重要な目印です」


「うう……吸血鬼の未成年マーク……」


「制服のカーディガンに似合ってますよ」


「陽介さんに褒められても、全然嬉しくないです……」


 一方の久我には、小さな銀色のピンバッジが渡された。


「久我様は新規覚醒者枠ですので、こちらを胸元にお付けください」


「こっちは吸血鬼の初心者マークですね。煽り運転されないといいんですが」


「言い方はともかく、概ねその認識で問題ありません。周囲の古参が配慮するための目印です」


「問題ないのか」


 すべての確認を終え、白石が前室の奥にある巨大な扉へと二人を導いた。


 黒い木材に銀の装飾が施された、いかにも吸血鬼の城にありそうな重厚な扉。


 だが、その取っ手のすぐ横には、最新型の電子ロックとQRコードの認証端末が光っている。


「……ゴシックな雰囲気とIT設備の同居が凄まじいな」


「当協会は、古き良き伝統と、現代のコンプライアンスを両立しております」


「便利な言葉ですね、コンプライアンス」


 白石が認証を通すと、重い扉が音もなく内側へと開いた。


 ――スカーレット・ホール。


 白石がそう呼んだ会場は、文字通り『緋色』に染まった大広間だった。


 見上げるほど高い天井を、黒い大理石の柱が支えている。


 床には深紅の絨毯が敷き詰められ、暗めのシャンデリアの照明が、壁に飾られた古い肖像画を妖しく照らし出していた。


 赤い布で飾られた丸テーブルがいくつも配置され、立食形式の軽食コーナーには色とりどりの料理が並んでいる。


 会場内には、スーツ姿の社会人、制服姿の学生、そして明らかに一般社会から浮いている古風な礼服を着た者など、様々な年代と服装の吸血鬼たちがグラスを片手に談笑していた。


「……思っていたより、ちゃんと『吸血鬼のパーティー』ですね」


「すごい……映画みたいです……!」


 澪が目を輝かせる。


 しかし、久我の社会人としての観察眼は、その映画のような光景の端々に配置された『現実』を見逃さなかった。


 会場の隅にある『緊急搬送用・医療スタッフ待機室』の導線。


 テーブルの端に置かれた『血液ドリンク摂取量管理端末』。


 料理のプレートに添えられた『通常食品・アレルギー物質一覧』。


 そして『使用済みグラス返却口(必ず分別してください)』の文字。


「雰囲気は完全にドラキュラ城なのに、端々の設備が完全に『保健所の指導をきっちり受けた安全なイベント会場』だ」


「大勢の吸血鬼が集まる場ですから、衛生管理とリスクヘッジは絶対です」


 白石が胸を張る。


「この後、時刻になりましたら本日の主催者からの挨拶がございます。それまでは自由な交流時間となります。七瀬様、あちらに未成年参加者専用のテーブルがございますので、まずは同年代の学生の方々とお話しされてはいかがでしょうか」


 白石が指し示した先には、澪と同じように淡い赤のリボンをつけた制服姿の男女が集まっていた。


「陽介さん、私、ちょっとあっちに挨拶してきてもいいですか?」


「もちろん。何かあったらすぐに呼んでください」


「はいっ!」


 澪は少し緊張した面持ちで、学生吸血鬼のグループの方へと歩いていった。


 白石も「では、私は他のご案内がありますので」と一礼して去っていく。


 そして、久我は会場の入り口近くで完全に一人取り残された。


(……さて。三十五歳のしがない会社員、吸血鬼の社交場に単独投入か)


 久我はグラスも持たずに立ち尽くした。


 会社の創設記念パーティーなら、まだ立ち回りの正解が分かる。


 名刺を出し、上司の機嫌を取り、取引先に頭を下げて、適当に今期の売上やゴルフの話をしていれば時間は過ぎる。


 だが、吸血鬼協会の歓迎会で、見ず知らずの同族に何を話しかければいいのか。


 社畜としての経験値データベースには、その解答が存在しなかった。


 手持ち無沙汰に耐えきれず、久我はとりあえず壁際の軽食コーナーへと逃げ込んだ。


 テーブルの上には、一口サイズのサンドイッチ、ローストビーフ、チーズの盛り合わせ、野菜スティック、そして赤いジュレが乗った謎のオードブルなどが美しく並べられている。


「……血液製剤を使っていない一般食もあるのか。普通に美味しそうなのが、逆にチョイスに困るな」


 トングを手に取ろうとした時、隣から声がした。


「こんにちは。新人さんですか?」


 声をかけてきたのは、三十代後半くらいの、少し疲れた顔をしたサラリーマン風の吸血鬼だった。


 彼もまた、着慣れたダークスーツを着ている。


「あ、はい。久我陽介と申します。今日が初参加でして」


「やっぱり。その銀の新規ピンがついてますからね。……実は、自分もまだ新人側なんですよ」


「そうなんですか?」


「覚醒して半年ですから。吸血鬼歴で言うと、まだよちよち歩きの赤ちゃんみたいなもんですよ」


「吸血鬼歴という単位が存在するんですね」


 サラリーマン風の吸血鬼の言葉に、隣にいた四十代くらいの少し恰幅の良い工場作業着風の吸血鬼が笑った。


「ありますよ。人間時代の年齢よりも、吸血鬼になってからどれくらい衝動が安定してるかの方が、この世界じゃ重要な場面も多いですからね」


 そこからは、社会人らしい年齢の吸血鬼数人との、当たり障りのない軽い雑談が始まった。


「吸血鬼になってから、身体はやたら健康になるんですよね。風邪はまったく引かないし」


「分かります。前より体力ありますし、夜勤ならいくらでも動ける。それに、長年悩んでた肩こりがいつの間にか消えましたからね」


「歯医者に行かなくても虫歯が治った気がするしな。でも、昼間の役所とか銀行の手続きは、日光のせいで地獄の苦しみですけどね」


「分かります。日差しが強い日は、普通に外へ出るだけでHPをゴリゴリ削られますよね。あと、電車の中の他人の香水の匂いがキツすぎる」


 血液パックの味の好み、日光対策の苦労、夜に元気になりすぎて眠れない問題。


 ここまでは、同じマイノリティとしての『あるあるネタ』として無難に進行していた。


 しかし、久我は相槌を打ちながら、奇妙な違和感に気がついた。


(……おかしい)


 誰も、仕事の話をしないのだ。


 ここにいるのは、全員が社会人として働いている、あるいは働いていたはずの年代だ。


 それなのに、会社名を出さない。


 職種を言わない。


 家族の話もしない。


「帰ったら子どもが」とか「職場のアイツが」といった、飲み会で必ず出るはずの単語を、全員が不自然なほど慎重に迂回している。


 久我の知る会社のパーティーでは、仕事と家庭の話題こそが会話のメインウェポンだった。


 だが、ここではそれがタブーのように扱われている。


(……なんだ、この空間。何が正解なんだ?)


 ふと、久我の脳裏に、数日前にかれんが言っていた言葉が蘇った。


『協会の中には、久我さんよりも遥かに過酷で大変な経験をしてきた吸血鬼が多くいます』


 久我の背筋に、冷たいものが走った。


(そうか。吸血鬼化した時に……何か決定的な騒動が起きたんだ。職場で。あるいは家庭で。家族の前で。そして、それが今も彼らの『触れてはいけない傷』になっている)


 久我は一気に言葉を選ぶようになった。


(怖い怖い怖い。ここで『俺は特に大きな問題もなく、会社の総務に守られながら普通に働き続けてます』なんて言ったら、完全に地雷だ。反感を買うどころか、最悪の無邪気なマウント自慢になってしまう)


「久我さんは、覚醒してどれくらいですか?」


 サラリーマン風の吸血鬼が尋ねてきた。


「まだ、二週間くらいです」


「二週間? それはかなり新しいですね」


「それで歓迎会まで来られるなら、初期の安定処置がよっぽど早かったんですね」


 作業着風の吸血鬼がそう言った。


「はい。たまたま早い段階で八咫烏の案内人に繋げてもらえまして」


 久我は慎重に、そして謙虚に言葉を紡いだ。


「まだ分からないことだらけで、皆さんのこういった生活の工夫を聞けるだけでも、本当に助かります」


「分かります。最初は何もかもが分からないですからね」


「生活のベースは落ち着きましたか?」


「どうにか、行政の支援を受けながら回している感じです」


 嘘ではない。


 だが、会社を定時で上がってきている事実には決して触れない。


(俺は今、三十五年の社会人スキルを総動員して、見えない地雷原の上をタップダンスしないように必死に歩いている……!)


 久我が内心で冷や汗を流していると、ふいに会場の空気がわずかに変わった。


 久我の魔眼が、背後から近づいてくる異常な存在感に反応したのだ。


 振り返る。


 そこには、黒い礼服を完璧に着こなした、一人の男が立っていた。


 外見年齢は三十代後半から四十代前半。


 肌は透けるように白く、その双眸は深いルビーのような赤色をしている。


 立ち姿が、あまりにも自然すぎた。


 動きに一切の無駄がない。


 久我の魔眼で見ても、その男の血流は信じられないほど静かで、心拍は異様なほどに安定している。


 まるで、樹齢数千年の古い大木がそのまま歩いているような、圧倒的な『密度』の圧があった。


(……うわ。この人、めちゃくちゃ強い)


 剣持や源から感じる戦闘力とは違う。


 吸血鬼という生物としての格、その存在の重さが次元違いだ。


「やあ、新人諸君。楽しんでいるかな?」


 男の口調は、ひどく軽やかだった。


 だが、その声を聞いた瞬間、サラリーマン風の吸血鬼も、作業着風の吸血鬼も、弾かれたように姿勢を正した。


「あ、はい。お疲れ様です」


「お、お世話になっております……」


(会社かここは)


 男はにこにこと笑いながら、久我の方へ向き直った。


「君が久我陽介君だね。噂は少し聞いているよ。新規覚醒で強力な魔眼持ち、しかも妙に会社員気質が抜けない面白い新人だとか」


「……どんな噂ですか、それ」


「悪い噂ではないよ。現代日本の吸血鬼社会において、会社員気質というのは非常に大事なスキルだ」


「そうなんですか?」


「面倒な行政の申請書類を不備なく書き上げ、締切をきっちり守れる吸血鬼は、それだけで協会本部から重宝されるからね」


「急にリアルな行政の悩みをぶっちゃけられたな」


 男はふと笑みを収め、社会人組の面々をぐるりと見回した。


「さて、君たち。……ずいぶんと静かに、健康の話ばかりしているね」


 ピクリ、と。


 社会人組の肩が強張った。


「仕事の話をしない」


(うわ)


 久我が心の中で叫ぶ。


「家族の話もしない」


(うわああああああ……っ!)


「まだ、過去を引きずっているのかい?」


 会場のこの一角だけ、完全に空気が凍りついた。


(この人……今、俺が全神経を集中させて避けていた地雷原に、正面から装甲馬車で突っ込んだぞ!?)


 社会人組は誰も口を開かない。


 重い沈黙が落ちる。


 だが、男の表情には相手を責めるような色はなかった。


 ただ、腫れ物に触るように隠されていた場所に、あえて強い光を当てているようだった。


「いや、責めているわけじゃない。引きずるのは当たり前だ。仕事も家族も、人間だった頃の君たちを支えていた社会的な骨組みだったのだからね」


 男の声音に、ほんの少しだけ長い年月を生きた者特有の優しさが混じる。


「ただ、その骨組みが折れた事実をなかったことにして、安全な健康話だけで傷口を舐め合っていても、本当の意味で前には進めないよ」


 数秒の沈黙の後。


 最初に口を開いたのは、サラリーマン風の吸血鬼だった。


「……仕事は、クビになりました」


 久我は息を呑んだ。


「営業職でした。覚醒してから、昼間の外回りができなくなって、夜の会食の匂いも駄目になって。……ある日、得意先の担当者がカッターで指を切った時に、理性が飛んで……反応してしまって。社内で大騒ぎになりました」


 彼は自嘲気味に笑った。


「八咫烏の保護に繋がったのは、その後です。今は、協会と八咫烏の紹介で、夜間のデータ入力の在宅業務をしています」


(……重い。重すぎる)


 続いて、作業着風の吸血鬼が重い口を開いた。


「俺は、深夜の工場勤務でした。夜勤はむしろ吸血鬼には楽だったんです。でも、朝礼が無理でした。工場の外で浴びる朝の光で、肌が焼けるように痛くて。……それに、健康診断の血液検査で異常値が出て、産業医から隔離されかけました」


 彼は自分の大きな手を見つめる。


「家族には、最初は薬物中毒を疑われました。冷蔵庫に隠していた血液パックを見られて……。今は、妻子とは別居中です」


 さらに、別の三十代の女性吸血鬼がぽつりとこぼした。


「私は、家の中で完全に化物扱いされました。親が怖がって、近所に相談しかけて……八咫烏の職員が口止めに入ってくれなかったら、完全に街の噂になってました。今は、実家を出て一人暮らしです」


 次々と語られる、吸血鬼化に伴う社会的な死に近い現実。


 場が重く、暗く沈む。


 だが、不思議なことに、語る彼らの声に怒りはなかった。


 男は、彼らの痛々しい告白を、ただ静かに頷きながら聞いていた。


 久我もまた、何の言葉も挟めず、ただ聞くことしかできなかった。


「うん。……みんな、よくここまで生きてきたね」


 男のその一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


「仕事を失った。家族と離れた。警察を呼ばれた。会社で化け物を見る目を向けられた。……それは、なかったことにはならない。つらいだろう。悔しいだろう。人間だった頃の自分が必死に築き上げたものが、一夜の覚醒で理不尽に壊されたのだから」


 男は彼らの目を見据えた。


「だが、君たちは死んでいない。むしろ、吸血鬼としての身体は、人間の頃より健康になっている者も多いはずだ」


「健康は……確かに、皮肉なくらい健康ですね」


 作業着風の吸血鬼が苦笑する。


「そう。皮肉なものだ。社会的な生活は壊れたのに、生物としての身体は丈夫になる」


 男はふっと息を吐き、静かに告げた。


「だから私は、新人にはいつもこう言うことにしている。――吸血鬼になったのなら、一度死んで生まれ変わったと思いなさい、と」


 社会人組が、ハッとして男を見上げた。


「人間だった頃の仕事、人間だった頃の家族、人間だった頃の肩書き。それをすぐに忘れろとは言わない。捨てられるわけがない。だが、それだけを握りしめて、血を飲んで生き延びている今の自分を否定し続けても、長い夜は持たない」


 男の瞳の奥で、途方もない時間の蓄積が揺れた。


「……先輩は、いつから吸血鬼なんですか?」


 女性吸血鬼が尋ねると、男は事もなげに答えた。


「江戸時代からだよ」


「江戸時代……!」


 久我が思わず声を上げる。


 いつの間にか戻ってきていた澪たち学生組も、その言葉にざわついた。


「江戸時代の人間から見れば、今のこの日本は完全に異世界みたいなものだ。将軍はいない。刀も差さない。町人も武士の身分もない。女も学校で学び、夜は魔法のように明るく、遠い異国の声が手のひらの小さな板から聞こえてくる」


 男は久我のスマホを指差して笑った。


「人間の価値観なんて、三百年もあればいくらでも変わる。だから、君たちも変わっていいんだ」


 その言葉は、優しく、同時にとても残酷な真理だった。


「……とはいえ、明日から急に前向きになれと言われても無理だろうね」


 男が少しだけトーンを落とすと、社会人組から小さな笑いが漏れた。


「私も、最初の百年くらいは、それなりに過去を引きずって面倒くさかったからね」


(スケールが違いすぎて参考にならない……!)


「だから、今日だけでいい。自分はすべてを失っただけではないと、少しだけ思ってみなさい。吸血鬼になった。なら、生き方をもう一度選び直せる。仕事も、家族も、居場所も、全部昔と同じには戻らないかもしれない。だが、別の形なら必ず作れる。……当協会は、そのために存在している」


 男は軽く手を振り、背を向けた。


「では、年寄りの説教はここまで。私は少し準備があるので失礼するよ。君たちはもう少し、ちゃんと自分たちの地雷の話をしたまえ」


「地雷の話を推奨して去らないでくださいよ」


「踏まない地雷は、いつまでも地面の下に残って腐るからね」


 男は楽しげに笑い、広間の奥へと消えていった。


       *


 男が去った後、社会人組の間にはしばらく沈黙が流れた。


 しかし、その空気はさっきまでの腫れ物に触るような重苦しさとは違い、どこか憑き物が落ちたような軽さがあった。


「……すごい人ですよね、あの先輩」


 サラリーマン風の吸血鬼が言った。


「急に特大の爆弾を落としてくるから、心臓に悪いことこの上ないですけどね」


 作業着風の吸血鬼が続ける。


「でも、言われてみれば……私たち、ずっと仕事の話を避けてましたね」


「俺も」


「私もです」


 久我は申し訳なさそうに頭を掻いた。


「俺は……皆さんが明らかに避けているのを察して、これは地雷だと思って何も聞けませんでした」


「普通は聞けないですよ」


「でも、こうして聞かれたら、案外話せるものですね」


「まあ、思い出すと痛いですけどね」


「痛いですよねぇ」


 社会人組の間に、小さな、しかし確かな共感の笑いが起きた。


 ここで、久我は少しだけ迷い、そして口を開いた。


「……俺は、まだ会社を続けています」


 その言葉に、社会人組の三人が驚いたように久我を見た。


「ただ、たまたま早い段階で八咫烏の有能な担当に繋がって、協力病院にもすぐ繋がって……何より、会社に俺の体調を本気で気にかけてくれる人がいて。かなり運が良かったんだと思います」


 久我は自嘲気味に続ける。


「でも、覚醒する前はみなし残業で能力を使い潰されていたのも事実で。自分が完全に恵まれていると言えるのかは、まだ自分でもよく分かりません」


 彼らは反感を示すことはなく、ただ静かに久我の言葉を受け止めた。


「……続けられているなら、その環境は絶対に大事にした方がいいですよ」


「でも、無理して壊れないようにしてくださいね」


「会社に残れることと、会社に潰されないことは、まったく別問題ですからね」


「……はい」


 久我は深く頷いた。


 同じ社会人としての痛みを共有したことで、彼らとの距離が少しだけ縮まった気がした。


 そこへ、「陽介さん!」と澪が制服姿の学生吸血鬼たちを数人連れて合流してきた。


 男子高校生、女子高校生、そして女子大生らしきグループだ。


 澪は、社会人組の空気が先ほどと少し違うことに気づいたらしい。


「あの、何かありました?」


「先輩吸血鬼の方が通りかかって、俺たちが全力で避けていた地雷原に、正面から馬車で突っ込んでいきました」


「え?」


「『仕事の話をしないのか』って、ド直球で言われましてね」


 サラリーマン風の吸血鬼が苦笑する。


 すると、学生グループの女子高校生が目を輝かせた。


「あ、それ、私たちも聞いてもいいんですか?」


(若さゆえの無邪気な追加爆弾……!)


 男子高校生も身を乗り出す。


「大人の皆さんって、吸血鬼になった時、仕事とかどうなったんですか!?」


(うわあああああっ、ストレートに踏み抜いた!)


 久我が内心で絶叫する中、しかし、社会人組はもう逃げなかった。


「俺は、仕事をクビになったよ」


 その一言で、学生組がピシッと固まった。


「私は病院で大騒ぎになって、警備員と警察が来たわ」


「俺は家族と別居中だ」


 学生たちの表情が完全に凍りつき、澪もヒッと息を呑む。


 しかし、社会人組は穏やかな顔のまま続けた。


「でも、今は夜間の在宅業務で稼いでる」


「私は協会の紹介で、夜勤の別の仕事に移ったの」


「家族とはまだ一緒に住めないけど、メールで連絡は取ってる」


「完全に人生が終わったわけじゃないんだよ」


 先輩吸血鬼の言葉が、彼らの中で確実に消化され始めていた。


「吸血鬼になって、一度死んで生まれ変わったと思えって言われた。まだ完全には無理だけど……少しはそう思って、別の形を探してもいいのかもしれないな」


「……生まれ変わった」


 澪がその言葉を噛みしめるように呟く。


「俺、親にすっごく怖がられてるんですけど……それも、いつか変わりますかね?」


 男子高校生が不安そうに尋ねると、作業着風の吸血鬼がぽんぽんと彼の肩を叩いた。


「すぐには分からない。でも、焦らなけりゃ変わるかもしれない。少なくとも、この協会は、俺たちが別の形を見つけるためにあるんだと思うよ」


 その場に、重いが、どこか清々しい空気が流れた。


(……さっきまで凍っていた空気が、不思議と少しだけ温かい)


 久我は思う。


(地雷を踏んだはずなのに。爆発した後に、地面の下に隠れていた本当の気持ちが見えるようになったみたいだ)


 少し離れたところで、澪が久我の袖を軽く引っ張った。


「陽介さん。……社会人の吸血鬼って、すごく大変なんですね」


「学生も、親や学校のことで大変でしょう」


「はい。でも、仕事とか家族とか、今まであったものが全部変わっちゃうのは……やっぱり、すごく怖いです」


「俺も怖いです」


「陽介さんは、会社続けてるんですよね」


「今のところは、なんとか」


「それって、本当にすごいことなんですね」


「今日、先輩たちの話を聞いて、俺も少し分かりました」


「じゃあ、ちゃんと大事にしてくださいね。会社も……でも、自分自身のことも」


「はい。澪さんも、学校の友達を大事にしてください。でも、自分のことも」


「……はいっ」


 吸血鬼という共通の秘密を持つ二人の間に、静かな相互支援の絆が結ばれた瞬間だった。


 チロロロリン、と。


 会場内に、開演を告げる上品なチャイムの音が鳴り響いた。


「皆様、大変お待たせいたしました。まもなく本日の主催者より、新規覚醒者歓迎会のご挨拶を申し上げます」


 白石がマイクを持ってアナウンスすると、参加者たちが少しずつ広間の奥にある小さな壇上へと注目を集めた。


 久我もそちらへ視線を向ける。


 そして、目を丸くした。


 そこに現れたのは、先ほど軽食コーナーで社会人組の地雷原を嬉々として踏み抜いていった、あの黒い礼服の男だった。


「……あの人、ただの先輩じゃなくて、主催者側だったんですか」


「そうですよ。協会でもかなり古い、理事の一人です」


 サラリーマン風の吸血鬼が答える。


「江戸時代からの……」


 澪が息を呑む。


 男が壇上に上がる。


 その瞬間、会場の空気がピリッと変わった。


 軽食コーナーで見せた飄々とした雰囲気は残しつつも、今度は広間全体を完全に包み込むような、圧倒的な存在感が放たれていた。


(やっぱり、ただ者じゃない)


 久我の魔眼が、その強大な密度の前に警告音を鳴らしている。


 男がマイクの前に立つ。


 深紅の照明が、その白く端正な顔を妖しく照らし出した。


「さて。新しい夜を迎えた諸君――」


 そして久我陽介は、三百年を生きる吸血鬼の言葉が、今度は会場全体へ向けられようとしているのを、固唾を呑んで見守った。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
300歳かあ・・・。生きてさえいればまた新しく始められるって重みがありますね。
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