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第1話 みなし残業と深紅の宣告

 午前四時四十五分。


 無機質なLEDの光だけが、等間隔にデスクを照らし出している。空調の低い稼働音と、遠くのサーバー室から漏れ聞こえるファンの唸りだけが支配する空間。


 三十五歳、独身。


 中堅社員である久我陽介は、まだその静寂のただ中にいた。


 カチャカチャ、ターン。


 リズミカルで迷いのないタイピング音が、暗いフロアに小気味よく響く。モニターから放たれる青白い光が久我の顔を照らしているが、その双眸に眠気の色は微塵もなかった。


 手元には、完全に冷めきったコンビニのブラックコーヒーと、すでに空になったエナジードリンクの缶が三本転がっている。普通であれば、胃が荒れ、まぶたが鉛のように重くなり、意識が朦朧としてくる時間帯だ。


 しかし、久我の頭は不気味なほど冴え渡っていた。


 画面には、他部署から丸投げされた複雑な売上集計のデータベースと、明日の……いや、今日の午後に顧客へ提出しなければならない膨大なプレゼン資料が開かれている。


「……よし、ここのマクロはこれで通るな。グラフの推移も辻褄が合った」


 少し前までの自分であれば、確実にここで詰まっていた。エラーを吐き出す画面を前に頭を抱え、数字のズレを見つけられずに上司から舌打ちされるのがオチだった。


 久我は決して無能ではなかったが、要領が良いわけでもなく、ただ「真面目だがパッとしない、少し冴えない会社員」という立ち位置に甘んじていたのだ。


 それがどうだ。


 ここ数週間、太陽が沈み、夜が深まるにつれて、自分の脳がまるで別物になったかのように覚醒する感覚があった。


 数万行に及ぶデータの羅列から、直感的に異常値を見つけ出せる。複雑なロジックが、まるで簡単なパズルのように脳内で組み上がっていく。視力すら良くなった気がする。ドライアイでショボショボしていた目は一切乾かず、モニターの細かい文字はおろか、フロアの対角線にあるカレンダーの小さな文字までくっきりと見えた。


「俺、完全に夜型にシフトしたのかな……」


 独り言をこぼしながら、久我はマウスをクリックする。


 集中力が途切れない。疲労を感じない。むしろ、夜の帳が濃くなるほどに体の奥底から力が湧いてくるような、奇妙な万能感すらあった。


 だが、この急激な有能化は、久我にとって決して幸運な出来事ではなかった。


 彼の勤める会社は、絵に描いたようなブラック企業、とまでは言わないものの、慢性的な人手不足と過剰な業務量に喘ぐ「限りなく黒に近いグレー」な組織だった。


 そして何より、忌まわしき「みなし残業制」が導入されている。


 どれだけ深夜に及ぶ作業をこなそうが、どれだけ神業的なスピードでタスクを処理しようが、給与明細の数字は一円たりとも増えない。


 結果として何が起きたか。


 夜になると無双できる久我の噂は瞬く間に社内に広まり、「困ったら久我に投げろ」「彼なら朝までに何とかしてくれる」という空気が常態化してしまったのだ。


 自己評価が低く、「俺がやった方が早い」「ここで断ってトラブルになる方が面倒だ」と仕事を抱え込んでしまう彼の性格も災いした。


 ピコン、と。


 静かなフロアに、社内チャットの通知音が鳴った。


 時刻は午前五時前。こんな時間に誰だ、と視線をやると、ポップアップには後輩の女性社員、佐藤の名前があった。


『久我さん、まだ起きてますか?(泣き顔のスタンプ)』


 久我は小さくため息をつき、キーボードに手を戻す。


『起きてるよ。どうした?』


 即座に既読がつき、長文が送られてきた。


『本当にすみません! 明日のA社向けの仕様書なんですけど、どうしても第三項の連携部分が上手くまとまらなくて……。以前、久我さんが作ってくれたベース資料を参考にしているんですが、私の理解が追いついていなくて。少しだけ、見てもらえませんか?』


 文面から、切羽詰まった様子と、同時に久我に対する絶対的な信頼が透けて見えた。


 実際、佐藤は事あるごとに久我を頼ってくる。久我は感情的に怒鳴ることはなく、複雑な手順も順序立てて冷静に分解して教えるため、若手からの人望は厚かった。


「久我さんがいると安心する」と、給湯室で佐藤が同僚に話していたのを小耳に挟んだこともある。


『ファイル、こっちの共有フォルダに入れておいて。五分で確認する』


『神ですか……! ありがとうございます! でも、本当に無理しないでくださいね。久我さん、最近ずっと深夜まで残ってるみたいなので』


『気遣いありがとう。確認したら要点だけまとめて返すから、佐藤さんはもう寝なさい』


『はい! 本当に助かります!』


 送られてきたファイルを開き、久我は一瞥する。


 一瞬で問題箇所が浮き彫りになった。


 佐藤が迷っているのは、システム間のインターフェース仕様における前提条件の解釈違いだ。久我は的確な修正案と、なぜそのように直すべきかの簡潔な解説をテキストにまとめ、返信した。


 所要時間、わずか三分。


 ついでに、炎上案件で世話になっている取引先の女性担当者から深夜二時に来ていたメールにも、完璧なリカバリー案を添えて返信しておく。おそらく彼女も、朝出社してこのメールを見れば、胸を撫で下ろすだろう。


 これで、抱えていた急ぎのタスクはすべて片付いた。


「……さて、帰るか」


 伸びをして立ち上がった時だった。


「久我さん、やっぱりまだいたんですか」


 背後からかけられた声に振り向くと、総務・労務担当の高橋が立っていた。早朝出勤してきたらしい彼女は、久我の顔を見るなり眉間に深い皺を寄せた。


「高橋さん。おはようございます。早いですね」


「おはようございます、じゃないですよ。ちょっと久我さん、顔色真っ白ですよ? 勤怠のログ見ましたけど、これ三日連続で朝五時まで残ってるじゃないですか。異常ですよ」


 彼女はこの会社で数少ない、まともな倫理観を持った人間だ。しかし一介の総務社員である彼女に、業務量の調整権限はない。


「キリの良いところまでやってしまおうと思ったら、つい。でも大丈夫です。夜になると不思議と元気なんですよ」


「そんなわけないでしょう! タクシー呼ぶので、今すぐ帰って寝てください。なんならこのまま病院に行った方がいいレベルですよ」


 本気で心配してくれている彼女の言葉に、久我は苦笑する。


「本当に大丈夫ですから。今から帰って、シャワー浴びて寝ますよ」


「おい、久我。お前まだいたのか」


 そこへ、出社してきた直属の上司である課長が、鞄をデスクに置きながら声をかけてきた。


「お疲れ様です、課長。今から上がるところです」


「おう、早く帰れ。お前、これ以上おかしな勤怠ログ残されたら、監査が入った時に俺が上から大目玉食らうんだよ。労基署が飛んできたらどうすんだ」


 高橋とは対照的に、課長の言葉の裏には百パーセントの保身しかない。社員の健康よりも、自分の管理責任が問われるリスクを恐れているのだ。


「申し訳ありません。すぐに出ますので」


「全くだ。そんな死人みたいな顔して……お前、鏡見てみろよ。まるで吸血鬼みたいだぞ」


 冗談めかして吐き捨てられた課長の言葉を背中で受け流しながら、久我はコートを手に取り、オフィスを後にした。


       *


 エレベーターを下り、ビルのエントランスから外へ出る。


 時刻は午前五時半。


 東の空が白み始め、夜明けの光がアスファルトを照らそうとしていた。


 自動ドアを抜け、外気を吸い込んだ瞬間。


「っ……!?」


 久我は思わず顔をしかめ、手で目を覆った。


 ビル群の隙間から差し込む朝日が、信じられないほど暴力的な光線となって網膜を焼いたのだ。ただ眩しいのではない。物理的な痛みを感じるほどの強烈な刺激。


 同時に、露出している首筋や手の甲の肌が、火の粉を浴びたようにチリチリと焼け焦げるような感覚に襲われた。


「な、なんだ、これ……」


 オフィスにいた時までの、あの全能感が嘘のように消え失せた。


 代わりに押し寄せてきたのは、泥沼に引きずり込まれるような圧倒的な倦怠感と、全身の関節が軋むような重さだった。一歩足を踏み出すだけで、膝が笑いそうになる。頭の回転が急激に鈍り、視界の端が白く滲む。


 胃の奥から、冷たい吐き気が込み上げてきた。


「……三十五歳で三日連続の徹夜は、さすがにやりすぎたか……」


 久我は荒い息を吐きながら、ビルの壁に手をついた。


 生活リズムが完全に壊れている。夜型生活に順応しすぎた反動が、一気に押し寄せてきているのだ。高橋の言う通り、これは本当に一度病院で点滴でも打ってもらった方がいいかもしれない。


 家までは電車で三駅だが、歩く気力すらない。タクシーを拾おうにも、吐き気がひどくて車酔いしそうだった。


「……とりあえず、何か胃に入れないと……倒れる……」


 空腹感はある。強烈な飢餓感と言ってもいい。しかし、食欲という形では立ち上がってこない。自炊する気力など皆無の久我は、ふらつく足取りで、駅前にある二十四時間営業のコンビニエンスストアへと向かった。


       *


 ウィーン、という無機質な電子音とともに自動ドアが開く。


 明るすぎる店内の照明が、再び久我の眼球を刺した。目を細めながら、弁当や総菜が並ぶチルドコーナーへと向かう。


 しかし、棚に並べられた商品を見ても、久我の胃の腑はピクリとも反応しなかった。


 いつもなら手が伸びるはずのツナマヨのおにぎりが、まるで無機質な紙粘土の塊に見える。色鮮やかなミックスサンドイッチからは、食べ物としての魅力が一切感じられず、ただ湿った段ボールのような薄い匂いしかしない。


 レジ横のホットスナックケースから漂う唐揚げの匂いも、今日ばかりはただの劣化した油の悪臭として鼻をつき、吐き気を加速させるだけだった。栄養ドリンクの棚に目を向けても、あのケミカルな液体を喉に通すことを想像しただけで胃液が込み上げてくる。


「……駄目だ、水だけでも……」


 ミネラルウォーターのペットボトルを手に取ろうとした、その時だった。


 ふわり、と。


 唐突に、信じられないほど甘美で、芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。


 それは、店内に充満する人工的な食べ物の匂いや、床用洗剤の薬品臭をすべて上書きするほど、鮮烈で圧倒的な引力を持っていた。


 久我の身体が、ビクリと硬直する。


 重かった頭が一瞬でクリアになり、全身の細胞がその匂いの源泉を求めて粟立った。


 視線を泳がせ、レジカウンターの方を見る。


 そこには、深夜帯からシフトに入っているであろう、少し疲れた顔をした若い男性店員がいた。彼は、商品の納品に使われた段ボール箱を解体している最中だった。


 ふと、店員が小さく「あっ」と声を漏らし、自分の指先を口元に持っていく。


 段ボールの縁で、指を切ったのだ。


 ほんのわずかな、数滴の赤い液体。


 久我の視覚は、レジから数メートル離れたその場所にある「血の滴」を、まるで顕微鏡で覗き込んだかのように克明に捉えていた。


 途端に、口の中に大量の唾液が溢れ出した。


 鉄の匂い。


 錆びたような、それでいてどこまでも生々しい生命の匂い。


 今の久我にとって、それは世界に存在するどんな高級料理よりも魅力的な、絶対的なご馳走に感じられた。喉が異様に渇き、干からびた唇を舌で舐める。自分の唇から滲んだ微かな血の味に触れた瞬間、脳髄が痺れるような快感が走った。


 一歩、無意識にレジへ向かって足を踏み出そうとし――。


「――ッ!?」


 久我は弾かれたように後ずさりし、陳列棚に背中を打ち付けた。


 全身から冷や汗が噴き出す。


 俺は今、何を考えていた?


 何を欲していた?


 見ず知らずの店員の指先から流れる血を見て、あろうことか「美味そう」だと感じたのか。


「……いよいよ、頭がおかしくなったぞ、俺……」


 徹夜のしすぎで脳内物質の分泌が完全にイカれている。幻覚や味覚障害の類だ。そうに違いない。


 荒くなる呼吸を必死に押し殺し、ミネラルウォーターのボトルだけを握りしめてレジへ向かう。


 金を払い、逃げるように店を出ようとした。


 その時だった。


「すみません。少しいいですか?」


 背後から、不意に声をかけられた。


 ひどく透明で、だが一切の感情温度を感じさせない、静かな声だった。


 久我が振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。


 セーラー服。高校生だろうか。こんな朝の六時前に、登校するには早すぎる。


 長い黒髪に、透き通るように白い肌。整った顔立ちをした美少女だったが、久我が真っ先に感じたのはそんな表面的な印象ではなかった。


 彼女の存在には、強烈な「圧」があった。


 朝のコンビニにいる女子高生特有の、眠たげな気怠さや隙が一切ない。その漆黒の瞳は、まるで精密機械のレンズのように、久我という存在を真っ直ぐに、冷徹に射抜いていた。


 三十五歳の社会人である久我の脳内に、即座にアラートが鳴り響く。


 こんな早朝に、疲労困憊の成人男性が女子高生に声をかけられる。社会的リスクの塊だ。落とし物でもしたか、あるいは何か面倒なことに巻き込まれる前兆か。


「……はい。なんでしょうか」


 久我は露骨に一歩距離を取り、警戒心を隠さずに応じた。もし変な誤解をされそうなら、すぐに店員を呼ぶ準備をしておく。


 しかし、少女は久我の警戒など意に介する様子もなかった。


 彼女の視線は、久我の血の気のない顔色、光を避けるように細められた目、日に焼けるのを恐れるかのように隠された肌、浅く荒い呼吸、そして……久我自身から発せられているであろう微かな匂いを、瞬時に、かつ徹底的に分析していた。


 その観察は数秒で終わった。


 彼女は、すでに「確信」に至った目をしていた。


「失礼ですけど」


 少女の口調は、ひどく丁寧だった。


 だが、そこには他者への配慮や遠慮といったものは一切含まれていなかった。それはまるで、行政機関の窓口で淡々と事実を告げる職員のような、プロフェッショナルとしての冷徹な宣告の前置きだった。


「貴方、気付いていないかもしれませんけど」


 少女は、わずかに首を傾げ、朝の光に苦しむ久我を見据えて、事実だけを口にした。


「吸血鬼になっていますよ?」


最後までお付き合いいただき感謝します。


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