婚約を破棄されたので、心からの祝辞を申し上げます
「君では、王太子妃の華が務まらない」
夜会の喧騒が、その一言で凍りついた。
中央の階に立つジークハルト殿下が、わたくしを見下ろしていらした。その腕の中には、薔薇色の頬をした男爵令嬢ミリア様。お二人は、とてもお似合いだった。
「エルナ・フォルクハルト。お前との婚約は、ここに破棄する」
満座の視線が、わたくしに集まる。
シャンデリアの光。止んだ弦の音。誰かが息を呑む気配。——皆さま、待っていらっしゃるのだ。わたくしが青ざめ、震え、あるいは泣き崩れるのを。婚約を破棄された令嬢が、そうするものだと。
わたくしは、グラスを手に取った。
そして、微笑んだ。
「殿下。——では、はなむけの言葉を、申し上げてもよろしいでしょうか」
会場が、もう一度凍った。
* * *
誰も、何も言わなかった。
ジークハルト殿下の眉が、わずかに寄る。ミリア様は、首をかしげていらっしゃる。何が起きているのか、おそらく半分も分かっておられない。
それでよろしい。お分かりにならないほうが、お幸せです。
「七年でございました」
わたくしは、静かに切り出した。
「十二の歳に婚約が定まってから、本日まで。長いようで、過ぎてみればあっという間の七年。わたくしにとっては、生涯のほとんど。——殿下のお側で過ごした、大切な歳月でございました」
「……何が言いたい」
「祝辞でございます、殿下。婚礼を控えたお二人への」
わたくしは、グラスを少しだけ掲げた。
「七年のあいだ、わたくしには一つの役目がございました。お分かりでしょうか。いえ、お分かりにならないからこそ、こうしてお伝えしておかねばと存じまして」
* * *
七年。
誰も褒めはしなかった。誰も感謝はしなかった。それが当然だと、皆が思っていた。わたくし自身も、そう思っていた。
毎朝、夜が明ける前に起きた。
殿下のお名前で出される書簡の、下書きをするためだ。隣国との通商条件。領地の収支の調整。社交界の序列の、目に見えぬ綱引き。——そのすべてを、わたくしは「王太子妃となる者の務め」として、ひとり静かに担ってきた。
殿下は、それをご存じない。
「当然だろう」と、いつかおっしゃった。書類に署名をなさりながら、こちらを見もせずに。「お前がやるべきことだ。私の妻になるのだから」
わたくしは「はい」と答えた。
それだけだった。七年で、ただの一度も。「ありがとう」という言葉を、わたくしは殿下から賜ったことがない。
——けれど。
会場の隅に、ひとりだけ、いつもこちらを見ている方がいらした。
隣国の、地味な通商代理人。テオ様とおっしゃった。夜会のたびに壁際に立ち、決して目立たず、ただ静かにわたくしを見ていらした。
今夜も、いらっしゃる。
その表情だけが、満座の中で、ただ一人、違っていた。
* * *
「殿下。はなむけに、わたくしの務めを、ひとつ残らずお譲りいたします」
わたくしは、指を一本立てた。
「まず、外交書簡の差配を。隣国との通商は、来月が更新の月。条件の交渉は、もう半分まで進めてございます。残りは、ミリア様がお続けくださいませ」
「は……?」
ミリア様が、声を漏らした。可憐なお顔が、戸惑いに歪む。
「つ、通商……? わたくし、そのような」
「ご心配なく」
わたくしは、微笑んだまま申し上げた。
「殿下が、お教えくださいます。なにしろ殿下のお名前で、ずっと出してきた書簡ですもの。——ねえ、殿下」
ジークハルト殿下は、答えなかった。
会場の後方で、年配の重臣がたが、互いに顔を見合わせ始めていた。彼らだけは、気づいている。あの書簡を、誰が書いていたかを。
わたくしは、指をもう一本立てた。
「次に、社交界の序列の調整。どの家を上座に、どの家を遠ざけるか。婚礼の招待状を、どの順でお出しするか。——これも、お譲りいたします。ミリア様の、晴れの舞台でございますもの。さぞ、お見事になさることでしょう」
ミリア様の頬から、薔薇色が引いていく。
「それから、領地の収支。今期は不作の村が三つございます。冬を越せるよう、税の繰り延べを差配しておきました。来期分は、まだ手つかず。——どうぞ、お二人で」
会場の空気が、変わっていく。
逆上を期待していた人々が、いつのまにか、別のものに気づき始めている。微笑みながら手渡されていくものが、ひとつ残らず、致命的なのだと。
* * *
「どうか、お聞き届けくださいませ」
わたくしは、グラスを胸の高さに保った。
「わたくしが七年かけてお守りしてきたものを、すべて差し上げます。何ひとつ、惜しくはございません。——どうぞ、お幸せに」
しんと静まった会場に、わたくしの声だけが、澄んで響いた。
「最後に、ひとつ」
わたくしは、ジークハルト殿下を、まっすぐに見上げた。
「わたくし、明日、この国を発ちます」
殿下の顔から、初めて、表情が消えた。
「……何だと」
「もう、お支えする者はおりません。明朝には、王宮を出ております」
「待て」
殿下の声が、わずかに掠れた。
「待て。——明日の朝、北の関所に出す通行許可の書類は。隣国の使節が来る、その応対は。今月の宮廷費の、決裁は」
「ご署名は、殿下がなさるものでございます。いつものように」
「下書きは、誰が」
会場が、完全に静止した。
ジークハルト殿下は、ご自分が今、何を口になさったのか、おそらく言い終えてから気づかれた。満座の前で。下書きは、誰が。——その一言が、七年の答えを、すべて明かしてしまったことに。
わたくしは、何も申しませんでした。
ただ、もう一度、微笑んだだけ。
* * *
「——では、その務めを担える場所へ、わたくしがご案内しても?」
壁際から、ひとりの男性が進み出た。
テオ様だった。
地味な通商代理人の上着を脱ぎ、彼は深く、けれど淀みなく、一礼をなさった。その所作には、見覚えのない品があった。長く人の上に立つ者の、迷いのない礼。
「申し遅れました。隣国レーヴェンの、第二王子テオドール・レーヴェンと申します」
会場が、どよめいた。
「七年、各国の夜会をめぐり、有能な為政者を探しておりました。——書簡の筆跡で、ずっと存じておりました。ジークハルト殿下のお名で届く書類の、本当の書き手を」
彼は、わたくしのほうへ、一歩。
「フォルクハルト公爵令嬢。あなたが担っていた務めを、正しく担える国がございます。よろしければ、その手を、わたくしの国のために貸していただけませんか」
わたくしは、息を呑んだ。
七年。誰にも見られていないと思っていた。誰にも、必要とされていないと。
——けれど、ひとりだけ。
ずっと、見ていてくださった方がいた。
「……わたくしで、よろしいのですか」
「あなたでなければ」
彼は、迷わずおっしゃった。
「あなたでなければ、意味がない」
* * *
「お嬢さま」
不意に、背後から声がした。
侍女のハンナが、わたくしの外套を手に、いつのまにかそこに控えていた。
「外套を、お持ちいたしました。——もう夜も更けてまいります。お冷えになりますので」
張り詰めていた空気が、その一言で、ふっとほどけた。
わたくしは、思わず笑ってしまった。本当に、この子は。こんなときまで。
「ありがとう、ハンナ」
「いいえ」
ハンナは、外套をそっとわたくしの肩にかけながら、ジークハルト殿下とミリア様のほうへ、ちらりと目をやった。そして、誰にも聞こえぬほどの声で、こう申しました。
「——あの方々は、今夜お失いになったものの大きさを、半年後にようやく、お知りになるのでしょうね」
わたくしは、答えなかった。
ただ、テオ様の差し出された手を取り、夜会の灯りに背を向けた。
* * *
半年が、過ぎた。
風の便りに聞いた話を、いくつか。
北の関所では、通行許可の書類が滞り、商隊が三度、立ち往生したという。隣国の使節は、応対の不手際に気を悪くして帰国し、通商の更新は流れたという。今期不作の村は、税の繰り延べが間に合わず、冬を越せなかった家が出たという。
ミリア様は、毎晩、書類の山に埋もれて泣いていらっしゃると聞いた。何を渡されたのか、いまだに分からぬまま。
ジークハルト殿下のもとには、いつしか、招待状が届かなくなった。
誰も、断罪はしなかった。誰も、暴いてはいない。ただ、わたくしがいなくなった。それだけのことだった。
哀れだとは、思わない。
ただ——お幸せに、と。あの夜、心から申し上げたことだけは、本当だった。
* * *
レーヴェンの王城で迎える朝は、静かだった。
窓の外には、見たことのない色の空。誰のためでもない、わたくしだけの朝。
「エルナ」
扉が開いて、テオ様が入っていらした。手には、書類の束。けれど、その上に、わたくしの分の朝食まで載せて。
「今朝の決裁分だ。——君に頼みたいが、急ぎではない。先に、茶を」
わたくしは、書類を受け取った。
「いつも、すまない」と、彼はおっしゃった。「君がいてくれて、本当に助かっている。——ありがとう」
ありがとう。
その一言を、わたくしは、しばらく聞き返さなかった。
七年。一度も賜らなかった言葉。それが今、あまりにあっさりと、当たり前のように、わたくしの朝に置かれている。
「……どうした」
「いいえ」
わたくしは、首を振った。微笑んで。けれど、少しだけ、目の奥が熱かった。
「ただ——ようやく、誰かに見ていただけたのだと、思いましたの」
テオ様は、少し驚いたお顔をなさって、それから、ふと笑われた。
そして、こうおっしゃった。
「遅くなって、すまなかった。——どうぞ、お幸せに、エルナ」
あの夜、わたくしが二人に贈った言葉。
今度は、誰かが。わたくしに、そう言ってくれた。
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