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婚約を破棄されたので、心からの祝辞を申し上げます

作者: 夢見叶
掲載日:2026/05/26

「君では、王太子妃の華が務まらない」


 夜会の喧騒が、その一言で凍りついた。


 中央の階に立つジークハルト殿下が、わたくしを見下ろしていらした。その腕の中には、薔薇色の頬をした男爵令嬢ミリア様。お二人は、とてもお似合いだった。


「エルナ・フォルクハルト。お前との婚約は、ここに破棄する」


 満座の視線が、わたくしに集まる。


 シャンデリアの光。止んだ弦の音。誰かが息を呑む気配。——皆さま、待っていらっしゃるのだ。わたくしが青ざめ、震え、あるいは泣き崩れるのを。婚約を破棄された令嬢が、そうするものだと。


 わたくしは、グラスを手に取った。


 そして、微笑んだ。


「殿下。——では、はなむけの言葉を、申し上げてもよろしいでしょうか」


 会場が、もう一度凍った。


   * * *


 誰も、何も言わなかった。


 ジークハルト殿下の眉が、わずかに寄る。ミリア様は、首をかしげていらっしゃる。何が起きているのか、おそらく半分も分かっておられない。


 それでよろしい。お分かりにならないほうが、お幸せです。


「七年でございました」


 わたくしは、静かに切り出した。


「十二の歳に婚約が定まってから、本日まで。長いようで、過ぎてみればあっという間の七年。わたくしにとっては、生涯のほとんど。——殿下のお側で過ごした、大切な歳月でございました」


「……何が言いたい」


「祝辞でございます、殿下。婚礼を控えたお二人への」


 わたくしは、グラスを少しだけ掲げた。


「七年のあいだ、わたくしには一つの役目がございました。お分かりでしょうか。いえ、お分かりにならないからこそ、こうしてお伝えしておかねばと存じまして」


   * * *


 七年。


 誰も褒めはしなかった。誰も感謝はしなかった。それが当然だと、皆が思っていた。わたくし自身も、そう思っていた。


 毎朝、夜が明ける前に起きた。


 殿下のお名前で出される書簡の、下書きをするためだ。隣国との通商条件。領地の収支の調整。社交界の序列の、目に見えぬ綱引き。——そのすべてを、わたくしは「王太子妃となる者の務め」として、ひとり静かに担ってきた。


 殿下は、それをご存じない。


「当然だろう」と、いつかおっしゃった。書類に署名をなさりながら、こちらを見もせずに。「お前がやるべきことだ。私の妻になるのだから」


 わたくしは「はい」と答えた。


 それだけだった。七年で、ただの一度も。「ありがとう」という言葉を、わたくしは殿下から賜ったことがない。


 ——けれど。


 会場の隅に、ひとりだけ、いつもこちらを見ている方がいらした。


 隣国の、地味な通商代理人。テオ様とおっしゃった。夜会のたびに壁際に立ち、決して目立たず、ただ静かにわたくしを見ていらした。


 今夜も、いらっしゃる。


 その表情だけが、満座の中で、ただ一人、違っていた。


   * * *


「殿下。はなむけに、わたくしの務めを、ひとつ残らずお譲りいたします」


 わたくしは、指を一本立てた。


「まず、外交書簡の差配を。隣国との通商は、来月が更新の月。条件の交渉は、もう半分まで進めてございます。残りは、ミリア様がお続けくださいませ」


「は……?」


 ミリア様が、声を漏らした。可憐なお顔が、戸惑いに歪む。


「つ、通商……? わたくし、そのような」


「ご心配なく」


 わたくしは、微笑んだまま申し上げた。


「殿下が、お教えくださいます。なにしろ殿下のお名前で、ずっと出してきた書簡ですもの。——ねえ、殿下」


 ジークハルト殿下は、答えなかった。


 会場の後方で、年配の重臣がたが、互いに顔を見合わせ始めていた。彼らだけは、気づいている。あの書簡を、誰が書いていたかを。


 わたくしは、指をもう一本立てた。


「次に、社交界の序列の調整。どの家を上座に、どの家を遠ざけるか。婚礼の招待状を、どの順でお出しするか。——これも、お譲りいたします。ミリア様の、晴れの舞台でございますもの。さぞ、お見事になさることでしょう」


 ミリア様の頬から、薔薇色が引いていく。


「それから、領地の収支。今期は不作の村が三つございます。冬を越せるよう、税の繰り延べを差配しておきました。来期分は、まだ手つかず。——どうぞ、お二人で」


 会場の空気が、変わっていく。


 逆上を期待していた人々が、いつのまにか、別のものに気づき始めている。微笑みながら手渡されていくものが、ひとつ残らず、致命的なのだと。


   * * *


「どうか、お聞き届けくださいませ」


 わたくしは、グラスを胸の高さに保った。


「わたくしが七年かけてお守りしてきたものを、すべて差し上げます。何ひとつ、惜しくはございません。——どうぞ、お幸せに」


 しんと静まった会場に、わたくしの声だけが、澄んで響いた。


「最後に、ひとつ」


 わたくしは、ジークハルト殿下を、まっすぐに見上げた。


「わたくし、明日、この国を発ちます」


 殿下の顔から、初めて、表情が消えた。


「……何だと」


「もう、お支えする者はおりません。明朝には、王宮を出ております」


「待て」


 殿下の声が、わずかに掠れた。


「待て。——明日の朝、北の関所に出す通行許可の書類は。隣国の使節が来る、その応対は。今月の宮廷費の、決裁は」


「ご署名は、殿下がなさるものでございます。いつものように」


「下書きは、誰が」


 会場が、完全に静止した。


 ジークハルト殿下は、ご自分が今、何を口になさったのか、おそらく言い終えてから気づかれた。満座の前で。下書きは、誰が。——その一言が、七年の答えを、すべて明かしてしまったことに。


 わたくしは、何も申しませんでした。


 ただ、もう一度、微笑んだだけ。


   * * *


「——では、その務めを担える場所へ、わたくしがご案内しても?」


 壁際から、ひとりの男性が進み出た。


 テオ様だった。


 地味な通商代理人の上着を脱ぎ、彼は深く、けれど淀みなく、一礼をなさった。その所作には、見覚えのない品があった。長く人の上に立つ者の、迷いのない礼。


「申し遅れました。隣国レーヴェンの、第二王子テオドール・レーヴェンと申します」


 会場が、どよめいた。


「七年、各国の夜会をめぐり、有能な為政者を探しておりました。——書簡の筆跡で、ずっと存じておりました。ジークハルト殿下のお名で届く書類の、本当の書き手を」


 彼は、わたくしのほうへ、一歩。


「フォルクハルト公爵令嬢。あなたが担っていた務めを、正しく担える国がございます。よろしければ、その手を、わたくしの国のために貸していただけませんか」


 わたくしは、息を呑んだ。


 七年。誰にも見られていないと思っていた。誰にも、必要とされていないと。


 ——けれど、ひとりだけ。


 ずっと、見ていてくださった方がいた。


「……わたくしで、よろしいのですか」


「あなたでなければ」


 彼は、迷わずおっしゃった。


「あなたでなければ、意味がない」


   * * *


「お嬢さま」


 不意に、背後から声がした。


 侍女のハンナが、わたくしの外套を手に、いつのまにかそこに控えていた。


「外套を、お持ちいたしました。——もう夜も更けてまいります。お冷えになりますので」


 張り詰めていた空気が、その一言で、ふっとほどけた。


 わたくしは、思わず笑ってしまった。本当に、この子は。こんなときまで。


「ありがとう、ハンナ」


「いいえ」


 ハンナは、外套をそっとわたくしの肩にかけながら、ジークハルト殿下とミリア様のほうへ、ちらりと目をやった。そして、誰にも聞こえぬほどの声で、こう申しました。


「——あの方々は、今夜お失いになったものの大きさを、半年後にようやく、お知りになるのでしょうね」


 わたくしは、答えなかった。


 ただ、テオ様の差し出された手を取り、夜会の灯りに背を向けた。


   * * *


 半年が、過ぎた。


 風の便りに聞いた話を、いくつか。


 北の関所では、通行許可の書類が滞り、商隊が三度、立ち往生したという。隣国の使節は、応対の不手際に気を悪くして帰国し、通商の更新は流れたという。今期不作の村は、税の繰り延べが間に合わず、冬を越せなかった家が出たという。


 ミリア様は、毎晩、書類の山に埋もれて泣いていらっしゃると聞いた。何を渡されたのか、いまだに分からぬまま。


 ジークハルト殿下のもとには、いつしか、招待状が届かなくなった。


 誰も、断罪はしなかった。誰も、暴いてはいない。ただ、わたくしがいなくなった。それだけのことだった。


 哀れだとは、思わない。


 ただ——お幸せに、と。あの夜、心から申し上げたことだけは、本当だった。


   * * *


 レーヴェンの王城で迎える朝は、静かだった。


 窓の外には、見たことのない色の空。誰のためでもない、わたくしだけの朝。


「エルナ」


 扉が開いて、テオ様が入っていらした。手には、書類の束。けれど、その上に、わたくしの分の朝食まで載せて。


「今朝の決裁分だ。——君に頼みたいが、急ぎではない。先に、茶を」


 わたくしは、書類を受け取った。


「いつも、すまない」と、彼はおっしゃった。「君がいてくれて、本当に助かっている。——ありがとう」


 ありがとう。


 その一言を、わたくしは、しばらく聞き返さなかった。


 七年。一度も賜らなかった言葉。それが今、あまりにあっさりと、当たり前のように、わたくしの朝に置かれている。


「……どうした」


「いいえ」


 わたくしは、首を振った。微笑んで。けれど、少しだけ、目の奥が熱かった。


「ただ——ようやく、誰かに見ていただけたのだと、思いましたの」


 テオ様は、少し驚いたお顔をなさって、それから、ふと笑われた。


 そして、こうおっしゃった。


「遅くなって、すまなかった。——どうぞ、お幸せに、エルナ」


 あの夜、わたくしが二人に贈った言葉。


 今度は、誰かが。わたくしに、そう言ってくれた。

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