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ステップ・バイ

作者: 時司 龍
掲載日:2026/05/17

 ステージ横は、妙に寒かった。

 空調のせいなのか。緊張のせいなのか。結流(ゆきる)には、もうわからない。

 静かに息を吸う。肺に入った空気まで冷たい気がした。

 耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きい。どく、どく、と不規則に跳ねる音が、イヤモニ越しの雑音より鮮明に響いている。


 スタッフの声が秒単位で飛び交っていた。

「あと五分です!」

「カメラC、位置確認!」

「出演者の皆さん、階段上お願いします!」

 止まる暇もなく言葉が飛び交う。

 誰も怒鳴ってはいない。なのに空気だけが異様に張り詰めている。生放送。その言葉だけで、現場全体が秒刻みで動いていた。


 結流は促されるまま、ステージへ続く長い階段を上がる。

 一段。

 また一段。

 高い。思っていたより、ずっと。

 上まで来ると、スタジオ全体が見渡せた。

 観客席はまだ暗い。だけど熱だけがある。ざわめきが波みたいに押し寄せてくる。


 後ろから強いライトが当たった。

 眩しい。

 出演者達は全員、既に横並びになっていた。


 一組目。Z-GLARE(ジーグレア)

 多国籍ヒップホップダンスグループらしく、メンバーごとに髪色もスタイルも違う。金髪に編み込み、シルバーアクセサリー、肌に沿うレザージャケット。誰もが派手なのに、不思議と統一感があった。

 リハーサルの段階から空気を持っていったグループ。立っているだけで、海外のステージの匂いがする。


 二組目。nil(ニル)

 黒いフードを深く被ったまま、静かに立っている。顔はほとんど見えない。

 装飾の少ない衣装。細い指先だけがライトに白く浮かんでいる。

 喋らない。動かない。なのに妙に目を引く。

 まるでそこだけ音が消えているみたいだった。


 三組目。THE() CORDESS(コードレス)

 肩の力の抜けた、本格ロックバンド特有の空気。

 ボーカルは色褪せたヴィンテージTシャツに黒ジャケット。ギターは煙草でも咥えていそうな雰囲気で時々口元に手をやる。ドラムはスティックを指先で遊ばせていた。

 気負いがない。慣れている人達の空気だった。


 そして、その並びの中に自分がいる。


 場違いだ。

 結流は改めてそう思った。

 ドラマの劇中歌が話題になっただけ。テレビ出演もほぼ初めて。生放送に至っては完全に初心者。

 ここに並ぶには、自分だけ物足りない気がする。

 視線を落としかけた時、すぐ横の空気がふっと華やいだ。


 STELLA(ステラ)-Roots(ルーツ)

 八人組男性トップアイドルグループ。

 全員が並んでいるだけなのに、異様に完成されている。

 衣装は白と黒を基調に、それぞれ微妙にデザインが違う。ロングジャケット。細身のパンツ。光を纏う刺繍。アクセサリーの輝きまで計算されているみたいだった。

 八人いるのに、一人も埋もれない。王子様系。やんちゃ系。クール系。おかん系・・・。役割が違って、グループとして完璧に成立している。

 アイドルというより、完成された商品。立ち姿。視線の流し方。肩を抜く角度。何気ない動作ひとつひとつが、照明に映えるよう作られている。


 客席からはまだ出演者の顔など見えていない。

 長い階段の最上段。逆光の中に並ぶシルエットだけ。

 それなのに、客席のあちこちから歓声が上がり始めていた。

 誰がどこに立っているか、ファンには気配だけでわかるらしい。


 凄い。


 結流は喉の奥が乾いていくのを感じた。

 スタジオの空気が重い。

 観客の熱気。

 ステージ照明の熱。

 生放送直前の張り詰めた緊張。

 全部が混ざり合って、肺の奥まで圧迫してくる。


 自分は本当に、この場所に立っていていいんだろうか。

 ドラマの劇中歌が少し跳ねただけだ。ただ、それだけ。

 周囲を見れば、音楽の第一線にいる人達ばかりだった。


 Z-GLAREは階段の下を見ながら軽く身体を揺らし、すでにステージのリズムを掴んでいる。

 nilはフードの奥に表情を隠したまま微動だにしない。

 THE CORDESSのボーカルは、始まる前だというのにどこか退屈そうで、それが逆に場慣れした余裕を感じさせた。


 その中で、自分だけが明らかに異物だった。

 逃げたい。

 胃が痛い。

 けれど今さら逃げられるわけもない。

 その時、すぐ横から視線を感じた。


 STELLA-Rootsのの一人。

 佐伯(さえき)が、ちらりとこちらを見た。

「大丈夫?」

 小声。

 あまりにも自然すぎて、一瞬自分に向けられた言葉だとわからなかった。

「・・・え」

「顔色」


 結流は反射的に前を向く。

 そんなに酷い顔をしていたのか。慌てて口を開く。

「だ、大丈夫です」

 即答した声が少し上擦る。自分でもわかるくらい不自然だ。

 佐伯はそれ以上追及せず、少しだけ笑った。

「ならよかった」

 余裕がある。

 同じ人間とは思えないくらい。


 観客席からまた歓声が上がる。

 STELLA-Rootsのファンだろうか。

 すごい。

 その感想しか出てこない。

 結流は喉を押さえたくなる。乾いている。逃げたい。心臓がうるさい。


 なんで受けたんだろう。

 いや、受けるしかなかった。

 何度思っても、こればかりは仕方がなかった。ドラマ『ステップ・バイ』が予想以上に跳ねた。視聴率も高止まり。

 自分が歌った劇中歌『Unrequited(アンリクワイテッド)』の動画再生回数も伸びている。

 事務所もレコード会社も「今出るべき」だと言った。

 わかっている。ここがタイミングなのだ。ここで露出しなければ、一瞬で流れていく世界だという事くらい。


 わかっているけど、生放送なんて聞いてない。


 結流は無意識に指先を握り込む。

 巨大モニターに番組ロゴが映し出される。

 ステージ袖で待機するカメラ。移動するクレーン。インカム越しに飛び交う指示。

 観客のざわめきが少しずつ大きくなっていく。

 始まる。

 その実感だけが、じわじわと身体を締めつけてくる。


『・・・Five』

 カウントが入った。

 空気が変わる。

『Four』

 スタッフ達の動きが止まる。

『Three』

 出演者達が一斉に前を見る。

『Two』

 照明が完全に落ちた。

 暗闇。

 一瞬だけ、世界から音が消える。


 次の瞬間。

Friday(フライデー) Music(ミュージック) Palace(パレス)!』

 MCの2人にライトが当たる。

 爆発みたいな歓声がスタジオを揺らした。


 そして。

「こんばんはー!」

 局アナの水樹凛花(みずきりんか)の明るい声。

「金曜夜の音楽の宮殿、フライデー・ミュージック・パレスへようこそ!」

 響雅臣(ひびきまさおみ)の低く柔らかな声。いつも通りの三つ揃いのスーツに蝶ネクタイ姿。

 二人が並ぶだけで、番組が始まったという空気になる。


 観客席が大きく沸いた。歓声。拍手。ステージの熱が一気に上がる。

 結流は階段の最上段に立ったまま、呼吸を忘れていた。喉が張りつく。後ろからのライトが熱い。

 逃げたい。

 けれど、もう始まっている。


「一組目は世界が注目するダンスグループ、Z-GLARE!」

 スポットライトが走る。

 歓声が爆発した。

 Z-GLAREのメンバー達が、音楽に合わせるように軽やかに階段を下りていく。

 誰一人迷わない。

 誰一人、緊張を見せない。

 カメラを理解している動きだった。


「続いて、SNS発の覆面クリエイター、nil!」

 またスポットが当たる。

 空気が変わる。さっきまでの熱狂とは違う種類のざわめき。

 nilはフードを被ったまま静かに階段を下りる。

 大きな動きはない。

 なのに、客席は息を呑むみたいに見つめていた。

 存在そのものが演出みたいだった。


「三組目! 本格ロックバンド、THE CORDESS!」

 低い歓声と拍手。

 THE CORDESSのメンバー達は気負いなく笑いながら階段を下りる。

 ステージに向かうというより、馴染みのバーへ入るみたいな空気。

 場慣れしている。見ているだけでわかる。


 紹介は順調に進んでいく。

 その間にも、結流の心臓だけがどんどん速くなっていた。

 嫌だ。

 次だ。

 頭の中で何度も警報みたいに鳴る。

 逃げたい。

 今ならまだ倒れたふりとかできないだろうか。

 いや無理だ。全国放送だ。終わる。


「四組目・・・」

 空気が少し変わる。観客席の熱が、一段上がる。

 凛花の声が、ほんの少しだけ熱を帯びる。

「ドラマ劇中歌が大反響!」

 モニターに『ステップ・バイ』のロゴ。観客席から歓声が広がる。

「今最も注目される新世代アーティスト!」

 結流の心臓が跳ねる。嫌な音がする。自分はアーティストなんて言われるようなものじゃない。

 どくん、と身体の奥で鳴る。

氷室結流(ひむろゆきる)!」


 その瞬間、視界が真っ白になった。

 スポットライト。

 真正面からスポットライトの光が刺さる。


 強烈な光。

 何も見えない。

 観客席も。

 階段も。

 自分の足元さえ。


 熱。歓声。拍手。それらがすべて自分だけに向かってくる。空気が一気に押し寄せてくる。

 頭が真っ白になる。


 動かなきゃ。階段を下りなきゃ。でも段差が見えない。どこに足を置けばいいのかわからない。

 それでも動かなければ、と体だけが先に一歩を踏み出した。


 次の瞬間、ヒールが段差の端を滑った。

「・・・っ」

 身体が傾く。重心が崩れる。

 終わった・・・と思った。


 生放送。音楽番組初出演。階段から転倒。最悪の文字列が、一瞬で頭を駆け抜ける。

 客席の悲鳴。ネットニュース。切り抜き動画。全部が、落ちる感覚と一緒に脳裏をよぎった。


 けれど。

 次の瞬間、強く腕を掴まれる。身体が引き寄せられた。


 硬いジャケットの感触。

 ふわりと香る香水。

 すぐ近くにある体温。


 気付けば、誰かに抱き留められていた。

「大丈夫」

 耳元で、低く柔らかな声が響く。

 結流は何が起きたのかわからないまま顔を上げた。

 近い。

 近すぎる。STELLA-Rootsの佐伯が、すぐ目の前にいた。


 ライトを浴びても崩れない整った顔。カメラを向けられているはずなのに、まるで余裕を失わない視線。テレビで何度も見たトップアイドルそのままの姿。

 理解が追いつかない。

 男の人、近・・・。思考が止まる。結流は背が高い。女性としてはかなり。だから今まで、男性にこうして支えられる事なんてなかった。

 まして。

 抱き込まれるみたいな距離など。

 心臓がおかしい。耳の奥で、どくどくと暴れる。


 その瞬間、客席の歓声が一気に跳ね上がった。悲鳴みたいな歓声。スタジオ全体が沸いている。

 終わった。別の意味で終わった。ネットニュースのトップは確実だ。

 結流の頭が真っ白になる。


「立てる?」

 佐伯の声だけが妙に落ち着いて聞こえる。

 結流は反射的に頷いた。

「・・・は、はい」

 情けないくらい声が震えた。

「ゆっくりでいい」

 佐伯はすぐに手を離さない。

 結流がちゃんと立てたのを確認してから、自然な動作で自分が先に一段下りる。


 そして。

 観客席へ向けるように、優雅に一礼した。歓声が更に大きくなる。空気を掌握する動きだった。転倒しかけた事故を、一瞬で演出みたいに変えてしまう。

 トップアイドルってすごい。結流は半分呆然としたまま思う。

 そのまま、佐伯が手を差し出す。エスコートするみたいに。


 結流は一瞬固まる。

 けれど。ここで止まった方がまずい。カメラが回っている。カットの声はない。全国放送。観客も見ている。

 震える呼吸を押さえ込む。深呼吸一つ。覚悟を決めるしかない。

 そっと、その手を取った。観客席からまた悲鳴が上がる。


 ライトの熱。カメラの視線。観客の熱狂。生放送の空気。全部が怖い。

 それでも、佐伯は何事もなかったみたいに笑っていた。

「行こう」

 結流は小さく息を吸う。

 そして、自分の足でステージへ踏み出した。



 何がどうなっているのか、正直よくわからなかった。

 気付けば階段を下りていて。

 気付けば歓声の真ん中にいて。

 気付けば、MC席の横に置かれた椅子へ案内されていた。


 眩しい。ライトが熱い。観客席が近い。番組が始まってから同じ事をぐるぐる考える。

 カメラが何台もこちらを向いている。どこを見れば正解なのかわからない。結流は姿勢だけは崩さないように必死に座りながら、自分の呼吸をだけに意識を向けていた。


 手が冷たい。

 でも背中には汗をかいている。やばい。頭の中はまださっきの光景でいっぱいだった。腕を掴まれた感触。近すぎた距離。耳元の声。男の人・・・。


 いや待って。

 あれ、全国放送?

 映ってた?

 絶対映ってる。むしろズームされているはずだ。こんなおいしいシーンはない。

 SNS。絶対ネットに切り抜かれてる。検索欄も凄い事になっているだろう。


 終わった。

 頭の隅でそんな事ばかりが何度もぐるぐる回る。


 なのに、周囲は何事もなかったみたいに番組が進んでいく。スタッフは平然と動き続け、カメラも次の進行へ切り替わっていく。

 プロだ。たった数秒のハプニングすら、流れの中へ飲み込んでしまう。

 結流だけが取り残されていた。まだ心臓がうるさい。腕にはさっき掴まれた感触が残っている気がする。


 なのに、気づけば、もう自分の番だ。

 水樹凛花がカメラへ向けて華やかに笑う。

「今、日本中がその歌声に注目しています」

 モニターにドラマ映像。『ステップ・バイ』。

 自分が演じるアスカの姿。

 夢を追いながら歌うシーン。雨の中、涙を耐える横顔。泣きながら笑うシーン。SNSで何度も切り抜かれた場面が次々流れていく。


 スタジオの観客が小さくざわめくのがわかった。

「あ、このシーン」

「やばい好き」

 そんな声まで聞こえた気がした。


「現在放送中のドラマ『ステップ・バイ』で、デビューを夢見る天才歌手・アスカ役を演じている氷室結流さんです!」

 歓声。

 拍手。

 結流は軽く頭を下げる。

 自分の名前がこんな大きなスタジオで呼ばれている事が、まだ現実味を持たない。カメラレンズがこちらを向くたび、胸の奥がざわつく。


 観客席最前列の女性が涙ぐんでいるのまで見えた。緊張しすぎると、人は妙な所まで見えるらしい。ステージ床に反射する照明。MC席に置かれた台本の端。響雅臣の袖口から覗くカフスボタン。


 響雅臣がゆったりと笑った。

「ようこそ、ミュージックパレスへ」

 低く柔らかい声。

「いやあ、毎週ドラマを見ていますよ。アスカの思いが切なくてね・・・」

 一呼吸。

「って、おじさんの感想はいいとして」

 観客席がどっと笑う。空気が少し柔らかくなる。結流は助かった、と思った。

 響は人を緊張させない喋り方を知っている。

「今夜はドラマの役柄を飛び出して、このパレスのステージ、生放送での歌唱です」


 その言葉で、また胃が痛む。生放送。歌唱。

 逃げられない。

「緊張されていますよね。先ほどは大丈夫でしたか?」


 結流は反射的に背筋を伸ばす。

「はい。本当にありがとうございました」


 自然と視線が横へ向く。

 STELLA-Roots。

 さっき自分を支えた佐伯が、少し離れた位置で座っていた。テレビの中で見るのと同じ笑顔。ジャケットの肩に入る光。足を組む仕草まで絵になる。


 目が合う。

 佐伯は軽く笑って、小さく親指を立てる。

 それだけで、また客席がざわつく。


 なんで。

 そんな一動作で空気動かせるの。

 トップアイドル怖い。


 響が楽しそうに笑いながら言う。

「佐伯君、お手柄だったねぇ」

「こんな素敵な人をエスコート出来て、俺は役得でしたよ」

 佐伯がにこっと笑う。自然。爽やか。眩しい。絶対人生ずっとモテてる人の笑い方だ。

 結流はどう返していいかわからず、曖昧に頭を下げる。


 客席からまた歓声。

 STELLA-Rootsの他メンバー達も面白そうに笑っていた。その中で、鳴海がぐっと身を乗り出す。金髪。幾つものピアス。いかにもチャラ系という空気を隠さない男。

「俺も毎週ドラマ見てます」

 カメラ慣れした笑顔。

「アスカちゃんの歌を今夜聞けるって、めちゃくちゃ楽しみにしてきたんですよ」

 客席がまた沸く。

「緊張も楽しんでっ」

「・・・ありがとうございます」

 結流はなんとか返す。けれど声が少し震えた。自覚して、余計に緊張する。

 ダメだ。

 呼吸。

 呼吸しろ。


『氷室さん、スタンバイお願いします』

 イヤモニから聞こえる声に従って、席を立つ。その瞬間、衣装の裾が椅子の角に軽くふれた。

 さっき階段で転びかけた感覚が蘇って、一瞬足が止まりそうになる。

 怖い。

 また失敗したらどうしよう。


 背後で凛花が話を締める。

「それでは、TV初披露」

 スタジオの空気が変わる。

「今夜だけの特別なステージです」

 歓声が少し落ち着く。聴く空気へ切り替わっていくのがわかる。

 期待の静けさ。

「氷室結流さんで・・・『Unrequited』。どうぞ!」


 照明が落ちた。一瞬で世界が暗くなる。客席の光も消える。

 その代わり。

 巨大スクリーンがゆっくり光を灯した。

 ドラマの名シーン。


 雨の中で歌うアスカ。夢を語る横顔。笑っているのに泣きそうな目。

 自分なのに、自分じゃない。

 映像の中のアスカは、脇役だけど、ちゃんと主人公だった。


 イントロが流れる。静かなピアノ。胸を撫でるみたいな旋律。

 結流は背筋を伸ばす。イメージは往年の名女優だ。母が好きだった古い映画の女優さん。呼吸を見せない。緊張も見せない。汗もかかない。ただ、そこに存在する。


 スポットライトが一筋、足元を照らす。


 さっき転びかけた階段が視界に入る。喉がまた乾く。

 怖い。

 怖い怖い怖い。

 失敗したら。音を外したら。震えたら。笑われたら。耳の奥で不安ばかり膨らむ。


 なのに。

 ふと。

『大丈夫』

 佐伯の声が浮かぶ。


 響の柔らかい空気。凛花の笑顔。見守るスタッフ達の視線。誰も、失敗を待っている顔じゃなかった。

 結流は小さく息を吸う。


 大丈夫。歌えばいい。それだけだ。


 イントロが静かに広がっていく。結流はマイクを握った。冷たい。指先が少し震えているのがわかる。マイクスタンドを強く握りしめる。

 祈るみたいに。

 縋るみたいに。

 スポットライトの熱が頬に刺さる。

 眩しい。

 けれど、もうさっきみたいに視界は白くならなかった。


 客席の輪郭が少し見える。暗闇の中で揺れるペンライト。前列で息を呑んでいる観客。カメラレンズの赤いランプ。

 全部見える。

 見えすぎるくらい。

 怖い。

 でも。


 イントロが流れた瞬間、不思議と空気が変わった。

 生放送特有のざわめきも、観覧席の熱気も、全部が一瞬だけ薄くなる。

 残るのは、音だけだった。

 結流はゆっくり睫毛を上げる。

 歌う。

 その瞬間だけは、怖がっている暇がない。やるしかない。

 ・・・そして、歌い出した。



 ♪ You know my eyes

 嘘は隠せない

 もう誤魔化せない

 Don't play dumb anymore・・・ ♪


 声が出た瞬間、自分でも少し驚いた。震えていない。むしろ静かだった。

 低く、少し掠れた声。

 綺麗に整えられた発声でもない。技巧で聴かせるタイプでもない。ボイストレーニングもさせてもらったけど、そこまで上手くできたとは思っていない。


 音が空気へ触れた瞬間、客席の呼吸が変わるのがわかった。引き込まれる。そんな感覚。

 結流(ゆきる)は歌いながら、時々ほんの少し天を仰ぐ。

 照明が滲む。熱い。でも、その熱さが逆に安心した。寒くない。今、自分はちゃんとここにいる。

 時々、誰かを探すみたいに視線が彷徨う。観客席ではない。カメラでもない。もっと遠く。

 もう届かない場所を見るみたいに。


 アスカを演じた時間が、身体の奥に残っている。失う怖さ。置いていかれる痛み。好きだと言えないまま終わる感情。

 歌詞を演じる余裕なんてなかった。

 だからこそ、余計に隠せない。


 ステージ袖で見ていたスタッフの一人が、思わずモニターから目を離せなくなる。

 MC席では、水樹凛花が無意識に息を止めていた。

 新人歌手を見る顔ではなくなっている。

 けれど結流自身は、そんな事に気づかない。ただ必死だった。


 ♪ 届かなくていい!

 私の未来に

 ねぇ あなたはもういない ♪


 サビで、一気に熱量が跳ね上がる。

 感情を抑え切れず、そのまま声にしてしまったみたいな歌い方。

 危うい。

 叫びに近いのに、壊れない。

 歌っているのに、泣きそうだった。

 結流は一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。スタジオ。ライト。観客。全部遠い。

 ただ、アスカの感情だけが近い。


 届かなくていいと歌いながら、本当は、届いてほしかった。その矛盾ごと声に乗る。


 客席の空気が変わっていく。ペンライトを振っていた観客達の手が、いつの間にか止まっている。

 STELLA(ステラ)-Roots(ルーツ)の鳴海が、珍しく茶化さず真顔でステージを見ていた。

 佐伯もまた、静かに視線を向けている。さっきまで危なっかしかった新人が、別人みたいだった。


 ♪ 応援してるって  笑う その優しさが

 一番痛くて 一番愛しかった

 捧げる最後の Unrequited(アンリクワイテッド) ♪


 最後のUnrequited。

 その言葉を吐き出す瞬間、結流は目を閉じた。


 暗闇。静寂。声だけが、スタジオに残る。

 歌い終わった。

 そのはずなのに、結流はすぐには現実へ戻れない。呼吸が浅い。マイクを握る指先が熱い。

 怖かった。

 ちゃんと歌えていたのかもわからない。

 失敗していないだろうか。音を外していないだろうか。

 沈黙が落ちる。

 一秒。

 二秒。

 歓声より先に、静けさが来た。


 結流はその意味がわからず、ほんの少しだけ不安になる。

 失敗した?

 そう思いかけた瞬間、どこかで、誰かが小さく息を呑む音がした。

 それをきっかけに、スタジオへ空気が戻ってくる。響雅臣でさえ、一瞬コメントを忘れていた。水樹凛花は、台本を持つ指先に少しだけ力を込める。


 失恋ソング。そう分類するには、生々しすぎた。まるで誰か一人の人生を、そのまま切り取って置いていったみたいだった。



 ・・・だが。

 舞台裏のスタッフ達は別の意味で震えていた。

「・・・あの子、ダンスレッスン数回で終わったんだよね?」

 照明スタッフが小声で呟く。

「先生が匙投げたって聞いたけど」

「リズム感、壊滅的って・・・」

 信じられない、という顔だった。


 モニター越しに映る結流は、今この瞬間だけ見れば、完成された新人アーティストにしか見えない。


 だが実際は違う。

 振付を覚えるのも遅い。身体の使い方も不器用。ステージングだって、洗練とは程遠い。

 それなのに。

 スポットライトが当たった瞬間、誰よりも目を奪う。技術では説明できない。感情だけで立っている。

 未完成なまま、人の心臓を掴みに来る。

 それはもう、才能というより・・・怪物だった。



 結流本人は、そんな周囲のざわめきなど知らない顔で、まだマイクスタンドを握っていた。まるで、手を離した瞬間に崩れてしまうみたいに。

 最後の音が、静かに溶けていく。

 照明の熱。荒い呼吸。耳鳴りみたいな静寂。一瞬だけ、本当に世界が止まったみたいだった。

 結流はマイクを握ったまま動けない。

 ちゃんと歌えたのかもわからない。音は外してない? 震えてなかった?途中、息苦しくなってなかった?

 頭の中で同じ不安ばかり反芻する。


 けれど次の瞬間、歓声が爆発した。拍手。悲鳴みたいな歓声。空気が揺れるほどの音がスタジオを満たした。

 結流は少し目を見開く。え、今の、何?


 その時。

『OKです』

 イヤモニからスタッフの声。

『席に戻ってください』

 一気に現実に引き戻される。

「あ・・・」

 結流ははっとして、ようやくマイクスタンドから手を離した。指先が少し震えている。

 スポットライトが落ちる。


 暗転しかけたステージをスタッフが素早く動く。次の転換。次の出演者。

 生放送は止まらない。

 結流は誘導されるままステージ脇へ向かう。


 途中、入れ替わりでSTELLA-Rootsがスタンバイ位置へ向かってきた。

 衣装が照明を反射する。黒と白のジャケット。揺れるチェーン。ステージ用メイクに縁取られた鋭い目元。 歩いているだけなのに華がある。

 八人いるのに、一人も空気に埋もれていない。


 その中で、佐伯がちらりと視線を寄越した。

「よかったよ」

 小さな声。

 自然に。

 本当に自然に言う。まるで、すれ違いざまの世間話みたいな軽さで言う。

 結流は反応が遅れる。

 ありがとう、って言わなきゃ。

 思ったのに、喉が詰まる。

「・・・っ」

 結局。

 ぺこり、と頭を下げるので精いっぱいだった。

 佐伯は少しだけ笑う。

 それだけで、また心臓がおかしくなる。

 なんなの。

 この人。


 結流は逃げるみたいに席へ戻った。座った瞬間、急に全身の力が抜ける。

 終わった。本当に終わった。まだ番組は続いているのに、自分だけ全部使い切ったみたいだった。


 MCの声。歓声。転換の音。

 その中で、STELLA-Rootsのイントロが始まる。

 空気が一瞬で変わった。さっきまでの聴かせる空気じゃない。

 熱狂。支配。会場全体の温度が一気に上がる。客席から悲鳴みたいな歓声。

 結流は思わずステージを見る。


 凄い。

 それしか出てこない。


 LEDが激しく明滅する。

 重低音。

 レーザー。

 一糸乱れないフォーメーション。

 八人が動くたび、歓声の波が起きる。


 佐伯はさっき自分を支えてくれた人と同じとは思えなかった。

 別人みたいだ。

 可愛い顔をしたと思った次の瞬間、鋭い目つき。余裕の笑み。

 観客を煽る指先。


 カメラが寄る瞬間を、全部わかっている動き。

 どの角度で抜かれるか。

 どこで歓声が上がるか。

 身体に染みついているみたいだった。

 完璧。完成されている。アイドルという存在の答えみたいなステージ。


 なのに。

 結流は、どこか現実感が持てなかった。

 画面の向こう。

 テレビの中。

 そんな感覚が抜けない。


 今、自分が同じ番組に出ている事すら、まだ信じられない。

 凄いな。

 遠いな。

 ぼんやりそんな事を考える。


 曲終盤。

 銀テープが舞う。歓声。ラストポーズ。ステージを支配したまま、STELLA-Rootsはパフォーマンスを終えた。

 拍手。歓声。

 メンバー達が軽く手を振りながら戻ってくる。


 佐伯が結流の隣へ座る。

 結流は反射で背筋を伸ばす。

 近い。

 また近い。

 さっきより落ち着いたはずなのに、やっぱり慣れない。掴まれた感触が浮かびあがてきて、思わず、うぁーって叫びたくなる。赤面していると思うけれど、確認はできない。

 香水の匂い。衣装の擦れる音。汗で少しだけ乱れた前髪。ステージでは完璧だったのに、近くで見るとちゃんと人間だった。でも、その距離感に慣れるには、結流の心臓がまだ忙しすぎる。

 どうしよう。

 何か言うべき?

 でも何を。

 頭が空回る。

 結局。

「・・・」

 また、ぺこりと頭を下げる。


 佐伯は一瞬きょとんとして、それから吹き出したみたいに笑った。

「律儀だなあ」

 佐伯が笑った、その余韻がまだ耳に残っていた。結流は曖昧に視線を泳がせたまま、どう返せばいいのかわからず固まっていた。


 気付けば、肩を軽く叩かれていた。

「結流ちゃん」

 ぼんやりしていた意識が、そこでようやく現実に戻った。

「あ、れ・・・?」

 顔を上げる。

 スタジオの熱気はもう少し遠くなっていて、スタッフ達が撤収と転換で慌ただしく動いている。

「ケーブル抜いてくださーい!」

「次、ラストブロック入りまーす!」

 自分はまだ椅子に座ったままだった。

「あ・・・」

 目の前に番組スタッフが立っている。

 その横には、マネージャーの土屋(つちや)もいた。

 いつもより少し眉を寄せている。

「大丈夫? 立てる?」

 心配そうに顔を覗き込まれて、結流は一瞬意味がわからなかった。

 立てる?

 なんで?


 ・・・あ。

 終わったんだ。番組。歌。全部。

 頭がそこまで追いつくのに数秒かかる。

「はい、大丈夫です」

 慌てて立ち上がる。


 スタッフが「こちらお願いします」と楽屋方向を示す。

 結流は反射でぺこぺこ頭を下げながら歩き出した。まだ少し足元がふわふわする。

「ありがとうございました」

 誰に向けているのか自分でもよくわからないまま、とにかく頭を下げる。


 廊下に出ると、急に静かだった。スタジオの歓声が遠い。

 その代わり、裏側特有の慌ただしい空気。早足で行き交うスタッフ。開きっぱなしの楽屋扉。壁際に積まれた機材ケース。

 テレビの中じゃない。

 現場だ。

 土屋が隣を歩きながら聞く。

「結流ちゃん、足とか捻ってない?」

「え?」

「念のため、病院とか行く?」

「だ、大丈夫です」

 結流は反射的に首を振る。

「佐伯さんに掴んでもらって・・・」

 そこまで言って、はっとした。


 足が止まる。

「・・・え」

「ん?」

「もしかして」

 嫌な想像が一気に浮かぶ。

「佐伯さんの方が怪我とかしてませんよね?」

「え?」

「私、大きいし、重いし」

 自分で言ってちょっとへこむ。でも事実だ。女性としては高身長。華奢なタイプでもない。


 あの体勢、普通に危なかったのでは。一緒に転がり落ちる可能性だって。


 土屋が一瞬ぽかんとして、吹き出しそうになるのを堪えるみたいに口元を押さえた。

「普通に踊ってたわよ」

「で、でも・・・」

「向こうのマネージャーさんからも何も言ってきてないし、多分問題ないと思うけど」


 結流はそれでも不安になる。

 トップアイドルに怪我なんかさせていたら、人生終わるのでは。ネットニュース。炎上。事務所謝罪。謝罪金。嫌な単語ばかり浮かぶ。

「・・・謝りに行った方がいいですよね」

 土屋がちらっと横を見る。

「行く?」

「はい。迷惑かけましたし」

 結流は小さく頭を下げる。

「土屋さんもすみません。番組側からも何か言われませんでした?」

「大丈夫よ」

 土屋は軽く笑う。

「結流ちゃんが心配するような事はないわ」

「・・・でも」

「転びかけた新人をトップアイドルが支えた」

 土屋さんがふっと笑う。

「むしろ美談になりそう。おいしいのは、あっちなのがちょっと尺ね」

「美談・・・」


 結流の顔が引きつる。嫌だ。ネットニュースの見出しが浮かぶ。

『STELLA-Roots佐伯、生放送で神対応』

 絶対ある。その横に自分の変な顔が並ぶ。死にたい。結流が無言で沈んでいると、土屋が笑いを堪えるみたいに肩を揺らした。

「とりあえず」

 にやっとする。

「STELLA-Rootsの楽屋に突撃しましょうか」


 結流の胃がまた痛くなった。

 STELLA-Rootsの楽屋前へ着いた瞬間。

 結流は、まず圧倒された。・・・人、多い。こんなにいるもの?。

 スタッフ。

 ヘアメイク。

 スタイリスト。

 マネージャー。

 番組関係者。

 人の出入りが途切れない。

 衣装ケースを運ぶ音。

 笑い声。

 楽屋前だけで、ひとつの現場みたいだった。

 8人もいれば当然かもしれないが、それでも多い。トップアイドルって楽屋前まで忙しいんだ。


 結流は場違い感がこみ上げてきて、帰りたくなる。


 土屋はそんな結流を気にも留めず、近くのスタッフに声をかける。

「あの、氷室ですけど、佐伯さんに少しだけ・・・」

「あ、どうぞどうぞ!」

 妙に歓迎された。

 なんで? 頭の中で神対応の単語が浮かぶ。やめて。絶対ネットで記事になってる。結流が内心で沈んでいる間に、楽屋の扉が開いた。


「佐伯くーん。氷室さん来たぞー」

 中から声。結流は恐る恐る中を覗いた。

 広い。

 そして華やか。

 ステージ衣装のラメが照明を反射している。

 テーブルには飲みかけのペットボトル。

 大きなソファ。

 散らばるアクセサリーケース。

 ついさっきまでステージを支配していた人達が、そこにいた。


 STELLA-Rootsのメンバー達が、一斉にこちらを見る。

 終わった。

 結流は反射的に背筋を伸ばす。


「あっ、どうもー」

「アスカちゃんだ」

「本物だっ」

「ドラマ、ホントに見てるよ」

 情報量が多い。距離が近い。チャラい。眩しい。


 無理。


 その奥から、佐伯が顔を出した。

「あれ」

 少し驚いた顔。

「どうしたの?」

 ステージの時とはちょっと違う。

 ライトを浴びていない分、少しだけ年相応に見えた。


 白銀に近い髪。そこへ細く入ったハニーイエローのメッシュが、動くたび光を拾う。ハーフアップにまとめられた髪から、耳元が覗く。

 178センチある結流から見ると、佐伯はかなり小柄なはずなのに、不思議とそんな印象は薄い。存在感が大きい。

 むしろ、こちらが距離感を狂わされる。

 笑うと少し垂れる目元。汗でわずかに張り付いた前髪。細い肩。なのに、さっきステージで見た時は誰より大きく見えた。


 結流はそのギャップに、また頭が混乱する。

 反射で頭を下げる。

「す、すみませんでした!」

 勢いよく。

 九十度。


 周囲が一瞬静かになる。

「え」

「え?」

 佐伯まで困惑した顔になる。

 結流は頭を下げたまま続けた。

「私が転びそうになったせいで、ご迷惑を・・・! 怪我とかしてませんか!?」

 一気に言い切る。

 沈黙。

 次の瞬間。

 誰かが吹き出した。


「待って待って」

 佐伯が完全に笑っている。

「なんで謝罪会見みたいになってんの」

 他メンバーまで笑い始める。

「真面目すぎるだろ」

「かわいー」

「佐伯オマエ責任取れよ」

「何の?」

 楽屋が一気に騒がしくなる。


 結流だけが置いていかれる。

 え。

 何が面白かったの。

 佐伯は笑いながら結流を見る。

「怪我してないよ」

 優しい声。

「普通にピンピンしてる」

 そう言って、軽く腕を回してみせる。

 細い。自分の腕より確実に細い。でもダンスで鍛えられた筋肉が薄く浮いている。

「だから安心して」

 結流はようやく少し息を吐いた。

「・・・よかった」

 本気で。本当に。

「本当に、すみませんでした」

 結流はもう一度深く頭を下げた。隣で土屋まで一緒に頭を下げている。楽屋の空気が一瞬だけちゃんとした謝罪の場みたいになる。


 けれど。

「いや、だから気にしなくていいのに」

 顔を上げると、佐伯が完全に困った顔をしていた。

 本当に困っている。助けただけなのに、なぜこんな大事になってるんだろう、みたいな顔。


 周囲のメンバー達も面白そうにこちらを見ている。

 ソファに座ったまま笑っている一ノ瀬(いちのせ)さん。メイクを落としながら聞いている如月(きさらぎ)さん。ペットボトルを開けながらニヤニヤしている(すめらぎ)さん・・・。

 トップアイドルの楽屋なのに、男子校の放課後みたいに騒がしい。


「佐伯、ガチで謝られてんじゃん」

(つむぎ)さん、何かした?」

「助けただけだわ」

 笑い。


 結流だけが居心地悪くて縮こまる。

 すると、佐伯がふと思いついたみたいに「あ」と声を出した。

「じゃあ、こうしよう」

 ポケットからスマホを取り出す。

「ゴハンおごって」

「・・・え」

 結流の思考が止まる。

「それでチャラね」

 にこっと笑う。

 軽い。軽すぎる。何を言われたのか理解が追いつかない。

 え。

 ご飯?

 誰と?

 え?


 結流が固まっていると、佐伯が自然な動きでスマホ画面を向けてきた。

「連絡先交換しよ」

「・・・ええぇ・・・」

 声が漏れた。

 完全に素だった。

 楽屋がどっと沸く。

「出た」

「紬の距離感」

「はやーい」

「つむちゃん、ナンパじゃん」

「違うって」

 佐伯は笑いながら否定する。

「だって、連絡先交換しとかないとゴハン行けないでしょ」

 いや。

 それはそうだけど。

 そうなんだけど。

 問題はそこじゃない。


 結流の頭の中は大混乱だった。


 連絡先? トップアイドルの?

 え?

 そんな気軽に? これ後で事務所に怒られたりしない?

 交換とか本当にあるの? マネージャーさん経由とかじゃなくて? 週刊誌とか大丈夫? 

 番組のドッキリとか? ありそう。ドラマの番宣絡み? もうクール後半に入ってるから、それはない? まだ慣れてないから、よくわからない。  


 いやまず自分、まともに異性と連絡先交換した事ほぼないんだけど。

 しかも相手。

 STELLA-Roots。

 佐伯(さえき)(つむぎ)

 ステージで何万人単位を沸かせてる人。


 無理。

 情報量が多い。


 結流が完全にフリーズしていると、後ろから鳴海(なるみ)が勢いよく身を乗り出してきた。

「えー、俺も結流ちゃんと連絡先交換したーい」

飛雅(ひゅうが)はダメっ」

 即座に(たちばな)さんからツッコミが飛ぶ。

「絶対ダメ」

「オマエ距離感バグってるから」

「失礼じゃない?」

「事実だろ」

 また笑いが起こる。

 鳴海は「えー!」と子供みたいに騒いでいる。

 楽屋全体がうるさい。けれど不思議と嫌な感じはしない。みんな自由に喋っているのに、空気が柔らかい。


 結流はその中心で、完全に処理落ちしていた。

 土屋が横で小さく肩を震わせている。

 笑ってる。

 助けてくれない。


「・・・あの」

 結流は恐る恐る口を開く。

「ほんとに・・・私でいいんですか・・・?」

 自分でも意味のわからない確認だった。


 佐伯は一瞬きょとんとして。それから少しだけ目を丸くした。

「?」

「むしろダメな理由ある?」

 あまりにも自然に返される。悪気ゼロ。計算も感じない。その返答が一番困る。

 結流の心臓がまた変な跳ね方をした。

 佐伯はスマホを持ったまま首を傾げる。

「交換する?」

 白銀の髪がさらりと揺れて、ハニーイエローのメッシュが光を弾いた。

 その周囲で。

「佐伯、顔が良すぎて圧迫面接みたいになってる」

「結流ちゃん逃げてー」

「いや逃げないであげてー」

「オマエらうるさい」

 笑い声。ざわざわした空気。スタッフが出入りする音。楽屋の熱気。

 その真ん中で、結流は半分パニックのまま、自分のスマホを取り出した。


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― 新着の感想 ―
 時司 龍さん、こんにちは。 「ステップ・バイ」拝読致しました  ステージ横。出番直前。かなりの緊張度合い。  生放送。空気が張り詰めているのを、感じる。  舞台へ。すでに他の出演者が並んでいる。…
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