塵芥者の、ある小話
遺書 山本正雄
まず、私の死は誰かのせいではない。
私はただ、どこかうまく生きていけなかっただけだ。
孤独も虚しさも、わかってもらいたいわけではない。
ただ、書き残しておく。
書かずにはいられないのだ。
こうすれば良いのだろう?世の中よ。
思えば、私は丈夫な人間ではなかった。
無気力で、無責任で、それでいて妙に世間の目ばかり気にする。
そういう、どこにでも転がっている人間の一人だった。
日々の繰り返しに不満はない。
というより、不満を抱くほどの力もない。
目標はあっても、追う気はさらさら無い。
昨日と同じ今日を積み重ねて、どうにか呼吸しているだけだ。
昔はよく散歩をしていた。
あれは、いつだったか急につまらなくなった。
景色を楽しむ。変化を楽しむ。
はぁ、新しい劇場ができた?
はいはい、結構なことだ。
せめて百貨店でも建ってくれれば、
私も少しは幸福な演技をしてやれたかもしれない。
変化もつまらぬ。私もつまらぬ。
美術館に行けば、「金の無駄だ」とだけ思う。
私の家にでも来てくれたなら、壮大な陰鬱展覧会だ。
私の人生作品をお見せしよう。
あの頃の輝かしい笑顔。
そしてこちらがその現在。
コメディか、サスペンスか。
私はどこにも、心の安らぐ場所がなかった。
そういえば、昔は金魚を飼っていた。
ヒレは風鈴のように涼しく揺れ、
水槽に指をなぞれば、ふわりふわりと付いてくる。
オレンジ色の小さな金魚。
そんな家族の金魚でさえ、
ある日ふと、その目が怖くなり、
庭にこっそり鉢ごと置いてみた。
私は、少し安心した。
それから金魚はどうだと聞かれれば、
「知らないことだ。よもや殺してはいない。
あれは自然に帰っただけさ」
そう思い、曖昧な返事だけを返した。
しかし、ある日ふと庭先の鉢を覗けば、
何やら白いものが水面に浮いている。
光を反射した目が、こちらを見ていた。
あぁ、間違えたのか。
私に罪悪感というものは、なかった。
このまま残すのも面倒だろうと思い、
庭に小さな穴を掘り、
濁った水と一緒に流した。
立ち昇る匂いは、ヘドロか、
それとも私自身の醜悪さなのか。
そんなことを、ただ考えていた。
私は、こんな人間だ。
だが私も、人の前では「普通」に振る舞う。
結婚式に呼ばれたことだってある。
あれは大変だ。
私は、そこでは一日中役者になるのだから。
金魚を埋めてから、ひと月も経たぬうちに、
私はある結婚式に出席した。
祝言の席で、私はふと、
あの金魚の目を思い出していた。
庭に置かれたとき、
何も言わず、ただ揺れていた小さな命。
ここで私が何かを壊せば、
あの目と同じものが、
この場にいくつ生まれるのだろう。
そんな考えは、すぐ胸の奥に沈んだ。
それが金魚のときと同じ「間違い」だと、
私は理解していたからだ。
結局、私は笑うだけだった。
そもそも私は、何も持っていなかったのだ。
式の後、想像通り酒に誘われた。
こいつは、まだ私を友人だと思っているのか。
そう思いながらも、私は頷いた。
夜道を歩くと、ガス灯の光がやけに白かった。
路面電車の軋む音が、遠くで響いている。
酔客が道の端で何事か怒鳴っていたが、
人々は揃って目を逸らした。
私も、その一人だった。
駅前で別れたあと、
私はすぐには家へ戻らなかった。
誰かの笑い声が遠ざかる。
私は、理由もなく同じ道を引き返していた。
その途中、
街角の暗がりで一つの財布を拾った。
黒革で、使い込まれている。
中を開けば、札と小銭、
名刺が一枚、
そして達筆な字で住所と姓名が書かれた紙切れ。
返そうと思えば、返せただろう。
派出所も、すぐそこだった。
だが、私はしばらく立ち尽くし、
やがて財布を懐に入れた。
理由はない。
欲しかったわけでもない。
ただ、そうしてしまったのだ。
翌日、その金で煙草を買い、
残った銭の一部は、寺の賽銭箱に落とした。
悪いことをしたのか。
良いことをしたのか。
私には、わからなかった。
胸は、何も満たされなかった。
こんなことがあってから、
私は自分の空虚さを思い知った。
善行でも、罪でも、
何も私を満たすことはできない。
そんな時、
私がまだ手にしたことのないものに、
思いが向いた。
救いでも、理解でもない。
もっと安っぽく、眩しいものだ。
——名誉。
私は、自分にまだ残っている「何か」を探した。
本棚の隅に放り込まれていた古い文庫本を手に取る。
そこには、自らの弱さを切り売りし、
破滅を言葉に変えた人間たちの文章が並んでいた。
そこにある醜さや怯えは、
私のそれと、大して違わないように見えた。
ならば、私にも書けるのではないか。
彼らの暗闇と、私の暗闇は、
さほど違わないのではないか。
そう思った瞬間、
胸の奥が、ほんの一瞬だけ熱を帯びた。
夜の机に向かい、私はペンを握った。
吐き出すように、殴り書くように、
金魚のことも、結婚式も、
拾った財布のことも書いた。
気づけば、夜が白み始めていた。
活版印刷の匂いを、
まだ知らぬくせに、
私は確かに「何か」を書いたと思った。
まだ、この時はそれが何になるか、などわかりはしなかった。
原稿を封筒に詰め、
私は新聞社の一角にある編集部を訪ねた。
木机の向こうで、若い書記が原稿を受け取り、
一瞥しただけで脇へ置いた。
「……お預かりはします」
それだけだった。
視線は、もうこちらを向いていなかった。
あぁ、これも間違いだったのか。
もう何もかも、億劫だ。
私は封筒を抱えたまま町を歩いた。
冬の空気が、肺に刺さる。
誰も、私を必要としない。
私の書いたものも、
誰の机にも置かれない。
ならば——。
私は家に戻り、机の前に座った。
封筒の表に、ゆっくりと書いた。
『遺書 山本正雄』
そして、数行の言葉を書き足した。
だが、名前の部分だけは、
乾ききらないうちに指で擦り、滲ませた。
これで少しは、読む者も出てくるだろう。
生きている私の言葉に価値がなくとも、
死者の言葉には、
妙な輝きが宿るものだ。
私はペンを置いた。
机の上には、
もう書くものは、残っていなかった。
これは間違いじゃないだろう。




