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光の落ち着く場所

作者: 久遠 睦

第一部:一日の輪郭


第一章:福島からの眺め


土曜日の朝の光が、遮光カーテンのわずかな隙間から細い線となって部屋に差し込んでいた。高橋沙耶は、その光の筋がゆっくりと壁を移動していくのを、ベッドの中からぼんやりと眺めていた。二十六歳。大阪に出てきて四年、今の会社に入って丸四年が経とうとしている。

目を覚ますと、まず窓を開けて空気を入れ替えるのが習慣だった。バルコニーに出ると、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でる。彼女が住むのは、福島区にある築浅のマンションの7階、広さ25平米ほどのワンルームだ。梅田まで一駅という利便性と、昔ながらの商店街と新しいマンションが混在する独特の雰囲気が気に入って、二年前にここに越してきた。このエリアがおしゃれなカフェが増え、一人暮らしの女性に人気だというのも、部屋を決める後押しになった 。決して安くはない家賃は、大阪で働く大卒の20代の平均的な年収からすれば、毎月少なからぬ負担ではあるけれど、この自分だけの城を維持するためだと思えば納得できた 。


キッチンに立ち、手挽きのミルでコーヒー豆を挽く。ゴリゴリという硬質な音と、立ち上る香ばしい匂いが、ぼやけていた意識をはっきりとさせていく。ゆっくりと円を描くようにお湯を注ぐ。フィルターの中で膨らむコーヒーの粉を眺める時間は、彼女にとって一日の始まりを告げる静かな儀式だった。SNSを開けば、きれいに整えられた朝食や、「#丁寧な暮らし」のタグがついた投稿が溢れている。けれど沙耶は、自分のこの時間を誰かに見せるために演出する気にはなれなかった。むしろ、誰にも見られないからこそ、この時間は満ち足りていた。ここ数年、世の中を席巻した「映え」と呼ばれる文化のきらびやかさに、どこか疲れてしまっている自分を感じていた。一過性のトレンドよりも、長く使えるもの、自分の暮らしに本当に必要なものに価値を見出すようになっていた 。この一杯のコーヒーも、誰かの「いいね」のためではなく、ただ自分のためだけのものだった。


大学時代、特にこれといった夢はなかった。周りも大半がそうだったから、焦りもなかった。とりあえず就職活動をして、内定をもらった会社に入る。それがごく自然な流れだと信じていた。二年目までは、新しい環境に慣れるのに必死だった。四年が経った今、仕事はそつなくこなせるようになり、生活は安定した。けれど、その安定と引き換えに、日々は同じことの繰り返しのようにも感じられた。このまま歳を重ねていくのだろうか。そんな漠然とした不安が、凪いだ水面に落ちる小石のように、時折心の静けさを乱すことがあった。


バルコニーの隅に置いた小さなオリーブの鉢植えに水をやりながら、眼下に広がる街並みを眺める。古い民家の瓦屋根の向こうに、真新しい高層マンションがそびえ立つ。レトロとモダンが融合したこの街の景色は、まるで自分の心のようだ、と沙耶は思った 。安定した日常への安堵と、未来への言いようのない不安。その二つの間で、彼女の二十六歳の時間は、静かに流れていこうとしていた。


第二章:オフィスのリズム


平日の朝、沙耶は満員電車に揺られ、本町にあるオフィスへと向かう。彼女が所属するのは、中堅商社の総務部。備品の発注から書類作成、各部署のサポートまで、仕事内容は多岐にわたる 。いわゆる「縁の下の力持ち」で、派手さはないが、会社の機能を円滑に保つためには不可欠な部署だった。

デスクに着くと、まずメールをチェックし、一日のタスクを整理する。電話が鳴り、内線が光る。同僚や他部署の社員とのやり取りは、丁寧で、穏やかだ。彼女は誰に対しても愛想が良く、頼まれた仕事は正確にこなすため、周囲からの評判は悪くない。けれど、そこに深い感情の交流はなかった。仕事はあくまで生活の糧を得るための手段。そう割り切っている自分を、少し冷めているのかもしれない、と思うこともあった。

会社の飲み会にも参加はするが、二次会には行かずに帰ることが多い。職場で恋人を見つけることに期待している同僚もいるようだが、沙耶にはその感覚がよくわからなかった。調査によれば、新社会人の約3割が職場での出会いに期待しているというが、自分はその7割の方に属しているのだろう 。別れた時の気まずさや、公私の区別が曖昧になることを考えると、メリットよりもデメリットの方が大きいように感じられた。


今日の午後は、来年度の社内研修に関する打ち合わせがあった。会議室に座りながら、熱弁をふるう人事部長の話をメモに取る。彼の話す会社のビジョンやキャリアアップの道筋は、沙耶の心にはあまり響かなかった。彼女が求めているのは、会社内での出世ではない。むしろ、この会社がどうなっても、どこへ行っても通用するスキルを身につけ、経済的に自立し続けること――いわば「キャリアの安全性」だった 。Z世代と呼ばれる自分たちの世代は、一つの会社に忠誠を誓い、身を粉にして働くという価値観に、どこかリアリティを感じられなくなっているのかもしれない 。定時で仕事を終え、週末はきちんと休む。そのプライベートな時間を守るために、日中の業務効率を上げる。それが沙耶の働き方だった。

「高橋さん、この資料、明日までにお願いできるかな?」 「はい、承知いたしました」

にこやかに応えながら、頭の中ではタスクの優先順位を組み替える。感情を波立たせることなく、淡々と、しかし確実に。オフィスの時間は、そんな風に制御されたリズムで刻まれていく。それは退屈ではあったが、彼女が大切にする「自由」を守るための、静かな戦いでもあった。


第三章:孤独の聖域


週末、沙耶は自分だけの聖域へと向かう。向かう先は、繁華街の喧騒ではない。電車を乗り継いで、少し都心から離れた住宅街へ。彼女のお気に入りは、緑橋にあるブックカフェ「ホンのジカン」だった 。築100年以上の古民家を改装したその店は、靴を脱いで上がるスタイルで、店内には私語禁止というルールがある。客の八割から九割が一人客で、それぞれが本を読んだり、物思いにふけったり、自分だけの時間に没頭している。

軋む階段を上り、引き戸を開けると、古い木と紙の匂いがふわりと鼻をかすめる。窓際のカウンター席に腰を下ろし、ブレンドコーヒーとチーズケーキを注文する。店内に流れるのは、かすかなインストゥルメンタルの音楽と、ページをめくる音だけ。この静寂が、沙耶の心を穏やかにした。ここでは、誰かの視線を気にしたり、空気を読んだりする必要はない。ただ、自分自身でいることだけが許される。

時には、本を読むでもなく、窓の外を眺めて過ごす。ゆっくりと過ぎていく雲、風に揺れる電線、家の軒先で丸くなる猫。とりとめのない風景が、日々の仕事で少しずつささくれ立っていた心を、優しく解きほぐしていくようだった。


カフェを出た後は、公園に立ち寄ることも多い。中之島公園のバラ園や、靭公園のケヤキ並木。都会の真ん中にありながら、そこだけ時間がゆっくり流れているような場所だ 。ベンチに座って水面を眺めたり、芝生の上をゆっくりと散歩したりする。計画も目的もない、ただ流されるだけの時間。それこそが、沙耶にとっての「自由」だった。誰にも邪魔されず、何にも縛られない、自分だけの時間と空間。それを守ることこそが、彼女が今の生活を続ける最大の理由だった。

告白されたことがないわけではない。けれど、食事やデートに誘われても、相手の好意に応える気にはなれなかった。「なんか違うな」という直感が、いつも心のブレーキになる。相手に合わせたり、自分の時間を犠牲にしたりしてまで、誰かと一緒にいたいとは思えなかった。理想が高いわけではない。ただ、自分のペースを、この静かな自由を、何よりも大切にしたいだけだった。

夕暮れの公園を後にし、帰りの電車に乗り込む。車窓に流れる街の灯りを眺めながら、沙耶は思う。満たされている。けれど、本当にこれでいいのだろうか。この静かで安全な円の中から一歩も出ずに、この先も生きていくのだろうか。答えのない問いが、また心の水面に小さな波紋を広げていた。


第二部:予期せぬ響き


第四章:中之島の黒い箱


その日は、梅雨の晴れ間の蒸し暑い日だった。いつものように中之島公園を散策していた沙耶は、にわか雨に見舞われた。大粒の雨が地面を叩きつけ、あっという間に緑の匂いが立ち込める。近くに手頃なカフェは見当たらず、雨宿りの場所を探して走り出した彼女の目に、黒く巨大な立方体の建物が飛び込んできた。

大阪中之島美術館。二年前に開館した、現代美術が中心の美術館だ 。存在は知っていたが、これまで一度も足を踏み入れたことはなかった。アートには詳しくないし、少し敷居が高い気がしていた。けれど、今は他に選択肢もない。沙耶は吸い込まれるように、その黒い箱の中へと入っていった。

ひんやりとした静謐な空気が、火照った体を包み込む。チケットを買い、エスカレーターで展示室へ向かう。雨音は遠ざかり、世界から切り離されたような静けさが広がっていた。特に目当てもなく、順路に従って歩を進める。抽象的な絵画、意味の分からないオブジェ。やはり自分には縁のない世界だったかもしれない、と思い始めた時、彼女の足は一つの作品の前で不意に止まった。

それは、大きなキャンバスに、ただ黒と白の絵の具がぶつけられたような、激しくも静かな絵だった。大阪を拠点に活動した具体美術の作家の作品だと、横のプレートに書かれている。何が描かれているのかは、全く分からない。けれど、その絵の前に立つと、心が吸い寄せられるような感覚に陥った。混沌の中から生まれ出る力強いエネルギーと、全てを飲み込むような深い静寂。相反する二つの要素が、一枚の絵の中で奇跡的なバランスを保っている。


沙耶は、その絵から目が離せなくなった。それは、彼女が週末のカフェや公園で求めていた「静けさ」とは、全く質の違うものだった。ただ穏やかなだけではない、内側に激しい運動を秘めた、張りのある静けさ。彼女は、自分の心の奥底にある、言葉にならない感情が、この絵によって見事に言い当てられたような気がした。

これまでの彼女の人生は、受動的な体験の積み重ねだった。静かなカフェの雰囲気を「消費」し、公園の美しい景色を「消費」する。それは心地よかったが、常に受け身の姿勢だった。しかし、この絵との出会いは違った。ただ美しいと感じるだけでなく、その奥にある意味を能動的に探りたい、理解したいという欲求が、心の底から湧い上がってきたのだ。それは、彼女の中で何かが静かに、しかし確実に変わり始めた瞬間だった。雨が上がったのも忘れ、沙耶は長い時間、その黒と白の絵の前に立ち尽くしていた。


第五章:いつもと違う本屋


美術館での体験は、沙耶の中に確かな余韻を残した。あの絵について、もっと知りたい。あの作家について、もっと知りたい。その衝動に駆られ、彼女は週末、いつもの大型書店ではなく、専門的な本も扱う独立系の書店を探すことにした。スマートフォンの画面をなぞり、彼女が選んだのは北浜にある「FOLK old book store」だった 。

オフィス街のビルの1階と地下にあるその店は、新刊と古書が渾然一体となって並べられ、独特の空気を醸し出していた。アートやデザイン関連の書籍が充実しているという評判通り、棚には大型の画集や専門書がずらりと並んでいる。沙耶は少し気圧されながらも、美術書のコーナーへと向かった。

お目当ての作家の画集を探していると、ふと隣で同じ棚を見ていた男性と視線が合った。年齢は自分と同じくらいか、少し上だろうか。細身のフレームの眼鏡をかけた、穏やかそうな人だった。

「その作家、お好きなんですか」

不意に、彼が静かな声で話しかけてきた。沙耶は驚いて、手にしていた画集に視線を落とす。人見知りなわけではないが、知らない人に話しかけられるのは得意ではなかった。

「あ、いえ……この間、美術館で初めて見て、気になって」 「中之島ですか?あそこのコレクション、いいですよね」

彼の口調は自然で、押しつけがましさが全くなかった。彼もまた、純粋に本を探しに来ただけなのだと、その雰囲気から伝わってきた。

「この画集もいいですけど、もし初心者なら、こっちの評論集の方が分かりやすいかもしれません。作家の思想的な背景とか、時代との関わりとかが丁寧に解説されてて」

そう言って彼が指差したのは、沙耶が見落としていた一冊の本だった。

「ありがとうございます。参考にします」

沙耶が礼を言うと、彼は小さく会釈して、別の棚の方へ歩いて行った。短いやり取りだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。これまで彼女が経験してきた、どこか下心が見え隠れするような男性からのアプローチとは全く違っていた。それは、彼と彼女という個人同士のやり取りではなく、アートという共通の興味を介した、純粋な情報交換だった。

沙耶は、彼が勧めてくれた本を手に取った。そして、最初に手にしていた画集も一緒にレジへ持っていく。店を出ると、初夏の夕暮れの光が目に眩しかった。手にした二冊の本の重みが、新しい世界の扉を開ける鍵のように感じられた。彼の名前も知らない。連絡先も交換していない。けれど、沙耶の心には、あの静かな会話の響きが、心地よい波紋のように広がっていた。


第三部:一歩の勇気


第六章:白い壁に、新しい色


その日から、沙耶の週末の過ごし方に、少しずつ変化が生まれた。北浜の書店で買った本を、お気に入りのカフェでゆっくりと読む。ページをめくるたびに、あの黒と白の絵に込められた意味が、少しずつ理解できるような気がした。それは、これまで読んできた小説やエッセイとは全く違う、知的な興奮を伴う体験だった 。

本を読み終えると、彼女は再び中之島美術館を訪れた。今度は、雨宿りのためではない。明確な目的を持って、あの絵の前に立った。以前はただ圧倒されるだけだった作品が、作家の人生や時代の苦悩といった背景を知ることで、より深く、多層的に見えてくる。絵の具の盛り上がり一つ、かすれ一つに、作家の息遣いが感じられるようだった。


美術館の帰りに、画材店に立ち寄った。そして、小さなスケッチブックと一本の鉛筆を買った。プロの画家になりたいわけではない。ただ、自分が見て、感じたものを、自分の手で形にしてみたいと思ったのだ。自宅の白い壁に向かい、おそるおそる鉛筆を走らせる。描いたのは、美術館で見た絵の、力強い線の一部分。それは拙く、不格好な線だったが、彼女にとっては大きな一歩だった。自分の時間とお金を、誰のためでもない、自分自身の内面的な成長のために使う。その行為が、彼女に静かな満足感を与えた。

数週間後、沙耶は再び「FOLK old book store」を訪れた。新しい本を探すという目的もあったが、心のどこかで、あの時の彼に会えるかもしれない、という淡い期待があった。美術書のコーナーを眺めていると、思った通り、彼はそこにいた。


「こんにちは。この間の」 「ああ、どうも。あの本、どうでしたか?」

二度目の会話は、一度目よりもずっと自然だった。沙耶が美術館に再び足を運び、スケッチブックまで買ってしまったことを話すと、彼は嬉しそうに目を細めた。

「いいですね。見るだけじゃなくて、自分で手を動かしてみると、また見え方が変わってきますよね」

彼の名前はみなとだと知った。フリーランスでグラフィックデザインの仕事をしているという。彼は、沙耶が興味を持ちそうな別の作家や、小さなギャラリーについて、楽しそうに話してくれた。その知識は豊富だったが、決してひけらかすような口調ではなかった。

別れ際、湊が言った。 「来週の土曜日、中崎町の小さなギャラリーで、知り合いの作家の個展が始まるんです。もしよかったら、来てみませんか。オープニングなので、作家本人もいますよ」

それは、誘いではあったが、強制する響きはなかった。「もし、時間が合えば」という、軽やかな一言が添えられているだけだった。沙耶は、その場で返事をすることができなかった。「考えておきます」とだけ言って、店を出た。


第七章:自由の再定義


湊からの誘いは、沙耶の心に静かな波紋を広げた。土曜日の午後。それは、彼女にとって週に一度の、誰にも邪魔されない聖なる時間だった。いつもなら、一人でカフェに行き、本を読み、公園を散歩して過ごすはずの時間。そこに、他者との約束を入れる。そのことが、彼女を躊躇させた。

これまで沙耶が大切にしてきた「自由」とは、義務や束縛からの「不在の自由」だった。誰とも約束をしない自由。誰にも期待されない自由。その心地よい孤独の殻の中にいる限り、彼女は傷つくことも、失望することもない。湊の誘いは、その安全な殻に、小さなひびを入れる可能性を秘めていた。

いつものカフェの窓際の席で、沙耶は考え込んでいた。コーヒーカップから立ち上る湯気を眺めながら、自分の心を覗き込む。なぜ、こんなに迷っているのだろう。湊との会話は楽しかった。彼が教えてくれる世界は、刺激的で、魅力的だ。行ってみたい、という気持ちは確かにある。

けれど、同時に怖かった。誰かと時間を共有することで、自分のペースが乱されるのが。相手に幻滅されたり、自分が幻滅したりするのが。そして何より、これまで大切に守ってきた、一人でいることの安らぎが、失われてしまうのではないかと。彼女の孤独は、いつしか安息の場所であると同時に、自分を閉じ込めるための頑丈な砦にもなっていたのだ。


ふと、美術館で見たあの絵が脳裏をよぎる。激しいエネルギーを内に秘めた、あの静寂。今の自分は、ただ停滞しているだけの、生気のない静けさの中にいるのではないか。このまま、この安全な砦の中から、外の世界を眺めているだけで、本当にいいのだろうか。

自由とは、何もしないことではないのかもしれない。むしろ、自分の意志で何かを選び取り、行動することこそが、本当の自由なのではないか。誰かに強制されるのではなく、自分の心が行きたいと告げている場所へ、自分の足で踏み出していくこと。それは、これまでの「不在の自由」から、何かを成し遂げるための「積極的な自由」への転換を意味していた。

沙耶は、ゆっくりとスマートフォンを取り出した。そして、湊に短いメッセージを送る。「土曜日、伺います。楽しみにしています」。送信ボタンを押した指が、わずかに震えていた。それは、彼女にとって小さな、しかし確かな勇気を伴う一歩だった。


第八章:分かち合う景色


土曜日の午後、沙耶はOsaka Metro谷町線の中崎町駅で電車を降りた。レトロな雰囲気が漂うこの街は、古着屋や雑貨店、そして小さなギャラリーが点在する、散策するだけでも楽しい場所だ 。湊から送られてきた地図を頼りに、細い路地を進む。目的のギャラリーは、古い長屋を改装した小さな建物だった。

中に入ると、思った以上の人で賑わっていた。少し気後れしていると、人混みの中から湊が気づいて、こちらにやってきた。 「来てくれたんですね。よかった」 彼の笑顔に、沙耶の緊張が少しほぐれた。

展示されていたのは、若い女性作家が描いた、植物をモチーフにした油絵だった。湊は、専門用語を使うことなく、絵の具の質感や光の捉え方について、沙耶にも分かる言葉で説明してくれた。彼の隣で絵を見ていると、一人で見ていた時とは違う、新しい発見があることに気づく。一つの景色を誰かと分かち合うことが、こんなにも世界を豊かにするなんて、知らなかった。


ギャラリーを出た後、二人は近くのカフェに入った。これまでアートの話が中心だったが、その日は初めて、お互いの仕事や、大阪での暮らしについて話した。湊は、フリーランスという自由な働き方を選んだ理由や、その大変さについて語った。沙耶も、自分の仕事に対する割り切った考え方や、一人で過ごす週末の静かな楽しみについて、素直に話すことができた。

「高橋さんの話、聞いてて面白いです。自分の世界をしっかり持ってる感じがする」 湊の言葉に、沙耶は少し驚いた。自分のことを、退屈な人間だと思っていたからだ。

「でも、その世界が、ちょっと窮屈に感じる時もあって」 思わず、本音がこぼれた。すると湊は、穏やかに言った。 「窮屈に感じたなら、少しだけ扉を開けてみればいいんですよ。今日みたいに」

その時、沙耶は確信した。これまで感じてきた「なんか違うな」という違和感が、この人との間には全くない。むしろ、静かで、確かな心地よさがある。それは、無理に自分を飾ったり、相手に合わせたりする必要のない、自然体でいられる安らぎだった。


エピローグ:ここからの景色


数ヶ月後の、土曜日の朝。 沙耶の部屋には、あの日と同じように、静かな光が差し込んでいる。キッチンでコーヒーを淹れる習慣も変わらない。けれど、部屋の景色は少しだけ違っていた。

白い壁には、中崎町のギャラリーで買った、小さな花の絵のポストカードが飾られている。テーブルの上には、使い込まれたスケッチブックが開かれたままだ。完璧ではないが、生き生きとした線で描かれたデッサンが、何ページにもわたって続いている。

バルコニーに出て、オリーブの鉢に水をやる。眼下に広がる福島の街並みは、いつもと同じだ。けれど、その景色を見る沙耶の心は、数ヶ月前とは確かに違っていた。

未来は、相変わらず不確かだ。湊との関係がどうなるのかも、アートという新しい興味がどこへ向かうのかも、まだ分からない。けれど、以前のような、先の見えない漠然とした不安は消えていた。代わりに、自分の足で踏み出すべき、次の小さな一歩が見えている。道はまだ続いていく。でもそれは、何もないだだっ広い荒野ではなく、自分の意志で選んだ、確かな手触りのある道だった。

スマートフォンの画面が光り、湊からのメッセージを知らせる。 『今日、天気いいね。よかったら、国立国際美術館に行かない?』

沙耶は、空を見上げた。雲ひとつない、青い空が広がっている。 光が落ち着く場所は、一つではないのかもしれない。それは、最終的にたどり着くゴールではなく、歩みを進める中で、その時々に見つけるものなのかもしれない。

小さく、しかし確かな微笑みを浮かべ、彼女は返信の文字を打ち始めた。


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