第七話/だまし絵
東京の夜は静かだった。高層ビル群の窓に映るネオンが淡く揺れ、車のライトが街路を線のように走る。科警研第二課の追跡チームは、公園から逃げた犯人を北西方向の路地裏で確保した。呼吸は乱れていなかったが、鋭い目つきは、冷徹な計算と危険性を強く示していた。
「確保完了。男の名前は小林和樹、35歳。都内在住」秋山室長が報告を受け、短く頷く。
恵美は、端末に映し出された小林の顔写真を凝視する。無表情なその顔には、心理操作の痕跡も、動揺も読み取れない。赤い座標の点滅は止まり、心理指数も沈静化した。母子は安全圏内に移動され、路地裏の緊張は静まったかのように見えた。
取り調べ室は冷たい蛍光灯の光に包まれ、静寂が重く沈んでいる。小林は椅子に座ったまま、完全に黙したまま。口を開かず、目もほとんど動かさない。質問を重ねても、返答はなく、ただ静かに時間だけが流れた。
「……どうする?」渡辺が眉をひそめ、資料をめくる手を止めた。
「焦るな。今は彼の心理を読むしかない」恵美は低く答える。彼女の視線は、解析端末に浮かぶ数字に吸い寄せられる。
蛇の目は、拘束後の行動パターンや心理的圧力に対する反応を予測しており、タイムリミットの到来までの残時間を正確に表示していた。残り時間はわずか数時間。
取り調べ室の壁に時計の針が静かに進む。
時間の経過とともに、課員たちの心理は微妙に緊張と疲労の間で揺れた。小林の冷淡な無表情は、まるで取り調べ班の焦燥を試すかのようだった。質問を重ねても答えはなく、口元に微かな筋肉の動きすら見られない。まるで時間そのものが、犯人と課員の間で均衡を保っているようだった。
「タイムリミット、経過……」恵美は端末を凝視し、数字が赤から緑に変化するのを確認する。
「……予測通り、36時間経過。危機は回避された」秋山室長が短く息を吐き、課員たちを見渡す。部屋の緊張は一瞬だけ緩む。肩の力が抜け、息をつく音が静かに響く。
恵美は椅子に深く腰掛け、目を閉じる。都市のネオンの光が窓ガラスを通して差し込み、心を揺らす。母子の安全は確保されたが、完全な勝利ではないことを、彼女は直感していた。犯人の完全黙秘は、まだ全貌を明らかにしていないことを意味していた。小林の冷静さ、計算高さ、そして心理操作能力の高さは、今後も脅威として残る。
翌日の夜。
恵美が端末を整理し、少しだけ肩の力を抜いた瞬間、科警研第二課の通信回線が鳴った。モニターに赤いフラッシュが点滅し、緊急通報の文字が踊る。
「……新たな遺体発見。事件現場は港区内の廃屋、被害者は親子。遺体の形状は『我が子を食らうサトゥルヌス』を模している可能性あり」
恵美の心臓が一瞬、凍りつく。
「……そんな……」言葉にならず、喉の奥で声が詰まる。端末画面には、現場の写真が次々と表示される。冷凍された遺体、親子の位置関係、血の跡、そして惨劇の残滓。モニターの光が、恐怖を増幅させる。
「どういうことだ……小林は確保されている……なのに……」渡辺の声が震える。
片瀬は端末に手を置き、顔を青ざめさせながら解析を開始する。「可能性は……小林以外に協力者がいるか、あるいは複数犯の可能性……。心理指数が過去の事件パターンと一致する部分がある」
秋山室長が静かに立ち上がる。目には決意が宿る。「安堵は一瞬に過ぎない。これは次の構図の始まりだ。全員、即座に動く」
恵美は深く息を吸い、冷静さを取り戻す。心理的に脆弱な都市の影に潜む計画を、止めるためには、蛇の目の解析と人間の判断が不可欠だ。
「私たちは、また先手を打つ」
都内の街は、静かに夜を包む。しかし、赤く点滅する解析座標の奥には、冷徹な脅威が潜んでいた。36時間の安堵は、たった一瞬の間で消え去り、科警研第二課は再び危機に直面する。
恵美の指先が端末に触れ、画面上で赤と黄色の座標が再び瞬く。冷徹な鼓動のように、次の惨劇の予兆が都市を覆う。
「……誰が、どうして……でも、やるしかない」
彼女の声は小さく震えるが、決意は揺るがない。
科警研第二課の戦いは、まだ終わっていない。心理操作、複数犯、そして残酷な構図――都市の暗部に潜む連続事件の糸を、冷静かつ緻密に解きほぐすための時間が、再び始まったのだ。
科警研第二課の一行は、港区内の廃屋に到着した。街灯の光が届かない細い路地を抜けると、荒れ果てた建物が闇に沈んでいる。窓ガラスは割れ、壁は剥がれ落ち、湿ったコンクリートの匂いが鼻腔を突く。車のヘッドライトを頼りに、一歩ずつ慎重に内部へ進む。
「……ここか」恵美が低く呟く。端末の赤い座標が現場を指して瞬き、蛇の目が現場の危険性と心理的影響度を示す。解析はすでに最悪の事態を予測していたが、現場に立つとその現実感に息を呑む。
廊下を進む課員たちの足音は、濡れたコンクリートに吸収される。空気は重く、湿気と腐敗の匂いが混ざり合って鼻を刺激する。廃屋の奥、ひび割れた床板の上に、一つの黒い影が見えた。恵美の瞳がその形を認識した瞬間、身体中の血が凍るような感覚が走る。
「……これは……」渡辺の声も震える。手元の端末が解析できるものを超え、視覚が直接、心理を突き刺す。
床に横たわるのは、生皮を剥がれた男の遺体で、まるで口に何かを咥えるように、無理やり肉塊を口元に押し込まれている。その姿は、まさに神話にある「我が子を食らうサトゥルヌス」を具現化したかのようだった。
「……どういうことだ……」片瀬の声はかすれ、思わず後ろへ一歩下がる。
恵美は端末を握りしめ、深呼吸を強制する。心理的防御を限界まで高めながら、冷静に現場を把握しようと努める。
床には血痕が不規則に広がり、壁には赤い飛沫が点々と残っている。遺体の周囲には、何者かが意図的に置いたかのような痕跡が散らばっており、犯行の計画性を示していた。
「完全に模倣……神話のサトゥルヌスだ」恵美の言葉は静かだが、内側で震える感情を抑えきれない。
渡辺は顔をしかめ、目を背ける。「……親子じゃないのか……?」
蛇の目が解析を開始する。赤い座標が遺体の位置、形状、残された痕跡をリアルタイムで読み取り、犯行手口と心理的意図を分類していく。
「解析中……この構図、明確な象徴性を持つ。犯人は単に殺害しただけでなく、心理的インパクトを最大化するために神話的象徴を再現している」片瀬が低く説明する。
恵美は端末の光に照らされた遺体を見つめながら、冷たい汗が背中を伝うのを感じる。
「もし……これが意図された構図なら……犯人は親子、もしくは家族関係にある対象を狙う可能性が極めて高い」
「……やはり小林一人ではないのか……?」渡辺が呟く。心理的防御を崩さぬよう顔を引き締める。
現場には静寂しかない。だがその静寂は、恐怖を何倍にも膨らませる音響となって課員の心に響く。床を踏む音、遠くで鳴るネオンの瞬き、かすかな滴る水の音、すべてが心理的圧迫を増幅する。
恵美は心の奥で、次の展開を冷静に予測しようとする。犯人は完全黙秘のまま小林である可能性もある。しかし、現場の構図と手口は、複数犯または別個の協力者の存在を示唆していた。
「……記録を始める。現場保存、写真、化学分析、DNA、すべて。犯人像の再構築が急務だ」秋山室長が低く命じる。課員たちは指示通りに動くが、視線は常に遺体と現場に集中し、心理的負荷は高まる。
蛇の目は解析を続ける。遺体の位置、血痕のパターン、象徴的配置、時間経過――すべてが次の犯罪を予測するデータとして刻まれる。
赤と黄色の座標が、冷徹な光で課員の端末上で点滅し、現場のリアルと解析空間が重なる。恵美はその光に目を凝らし、冷静さを取り戻そうとするが、胸の奥に恐怖と怒りが混ざり合う。
「……次はいつ、どこで……」片瀬が低く呟く。
恵美は端末の解析画面を見つめ、赤く点滅する座標を追う。心理的圧力、構図の意図、犯人の可能性――すべてを計算し、次の行動を予測する必要があった。
「落ち着いて、順序立てて動く。焦ってはならない……今は情報を整理し、解析することが最優先」
外の夜風が、廃屋の窓から差し込み、課員たちの髪を揺らす。ネオンの光と解析端末の青白い光が、廃屋の闇を縫うように瞬く。恐怖と緊張が渦巻く中、科警研第二課は、冷徹な心理戦の最前線に立たされていた。
現場の惨状を前にしても、恵美は覚悟を決める。
「……誰も、逃がさない……次の犠牲者を出させない」
蛇の目の解析はまだ終わらない。赤と黄色の座標が絶えず点滅し、課員たちの動きと心拍、次の危機の予測がリアルタイムで表示される。
廃屋の奥に潜む闇と、解析画面上の冷徹な座標が、次の惨劇を阻止するための戦いを告げる。
36時間の安堵はもはや過去のものとなり、現実の恐怖と向き合う時間が再び始まった。




