第三十六話/吸収する目
蛇の目はこの状況を即座に解析し、数学的かつ論理的に四人の構造を浮き彫りにした。各人物の役割、心理的傾向、行動パターン、過去の犯行データ、顔料や画材の使用履歴、潜在的被害者の配置に至るまでを統合して、一つのモデルを構築する。解析の結果、蛇の目は彼らをヨハネ黙示録の四騎士に擬える。「ルール」「ウォー」「ファーミン」「デス」と、それぞれに異なる象徴を割り当て、実社会において多大な災厄を齎す存在として位置付けた。四人は個別に狂気を発動するが、合わさることで破滅的な連鎖を生む。それは単なる犯罪ではなく、計算され尽くした災厄である。
さらに蛇の目は、四人が隠していた核心をも解析し出した。彼らを束ねる存在は存在せず、それぞれが独立した意思決定で行動しているにも関わらず、結果として統合的な目的――“最後の作品の完成”に向かって盲信的に進んでいた。水野匡彦だけでなく、伊東美奈子、小川亮、中村智久も、各自の制作行為を通じて意思が一つに重なり、コラージュとしての作品世界を構築していたのだ。
蛇の目は冷徹に解析を続ける。作品の一部となった小林和樹(35)、山内久美(28)もまた、彼らの“コラージュ”の一要素であったことが明らかになっていた。物理的には死亡していた二人も、心理的・象徴的には修復家ネットワークの作品内に組み込まれ、最終的な芸術構造を完成させる素材として機能していたのである。この冷徹な構図は、二課の面々に衝撃と戦慄をもたらす。
数学的解析により蛇の目は、各修復家の役割を定量化し、作品内での影響度をスコア化する。水野は中央像として最も高い重みを持つが、伊東が与える“修辞”的要素、小川の“レイヤー調整”、中村の“舞台構築”も、全体として不可欠なパラメータである。これらのデータを元に、最後の晩餐の構造図を仮想空間に展開すると、十三人の犠牲者配置、各修復家の操作ポイント、画材の利用法、時間軸上の行動順序までもが詳細に予測される。すべてが数理モデルとして把握可能であり、極めて冷徹な論理が狂気の全貌を可視化する。
恵美は取り調べ後、深い余波に襲われる。彼女の意識の奥底には、言語化できない恐怖が棲みつき、理性と感情が鋭く交錯する。四人の供述の中で語られた論理と矛盾、伏線が脳内で反響し、目を閉じるだけで背筋に寒気が走る。自分がいかに小さな存在であるか、そしていかに冷徹な計算に人間の命が組み込まれているかを思い知る。
取り調べの中で露わになった四人の言葉は、それぞれが異なる価値観と美学を持ち、しかし結果として一つの狂気の構造を作り上げることを示していた。矛盾する論理、補完し合う役割、心理的盲信、象徴として組み込まれた犠牲者たち――すべてが一連のコラージュの中で統合され、芸術作品としての犯罪構造を形成していたのである。蛇の目はこれらの要素を基に、最終的な“最後の晩餐”計画の全構造図を完成させ、二課に提示する。図面上には人物の配置、時間軸、使用画材、心理的影響の流れまで詳細に示され、理性と狂気の境界線が鮮明に浮かび上がる。
この瞬間、取り調べ室は、単なる聴取の場ではなく、狂気の論理と数学的解析が交錯する異次元の空間となった。恵美の胸には、理解と恐怖、絶望と覚悟が同時に押し寄せる。彼女は息を吐き、瞼を閉じる。眼前に広がるのは、人間の狂気が計算され、構造化され、象徴的な芸術として顕現した世界の全貌であった。
蛇の目は最後に、四人の統合的狂気をこう総括する。「独立した意思決定が、一つの芸術作品として統合される。犠牲者もまた、作品の要素となり、最終構造の中で機能している。これが“修復家ネットワーク”の本質である」と。その冷徹な論理は、人間の倫理や感情の枠を超え、残虐性と美学を数理モデルとして証明していた。
蛇の目の一連の絵画殺人分析は、異常な手口、狂気の構造、犠牲者の役割、修復家ネットワークの統合――あらゆるデータを整理・解析し尽くした段階で終了を告げた。ログ画面には、各被害者の配置、犯人たちの行動履歴、心理的パラメータ、使用画材の分析、最終作品の構造図、さらには四人の供述から抽出された矛盾と共鳴のマップまでが網羅され、冷徹な論理の極致として示されている。しかし、これらの異常な事件の全貌を俯瞰した蛇の目にとって、結果は意外にも凡庸であった。
彼らの手口は、確かに社会的に凄惨で、心理的な恐怖を巻き起こした。しかし、計算された秩序の中で行動する彼らの構造は、あくまで“パーツ”としての役割に過ぎず、全体の構成や意志決定の主体は持たなかった。水野匡彦の中央像としての操作、伊東美奈子の修辞、小川亮のレイヤー調整、中村智久の背景構築――個別には狂気で満ちていたが、統合的に思考する存在ではなかった。つまり、頭を持たぬ蛇である蛇の目にとって、彼らはあくまで入力データの集合であり、分析対象のサンプルに過ぎなかったのだ。
ログ上に浮かぶのは、無機的に整列した数値とグラフ、各人物の行動確率、心理的影響度、犠牲者の被害度、作品完成度のスコア……それらの情報が、事件全体の“意味”を語ることはなく、単純にモデル化された異常行動の集合として処理されていた。人間社会でどれほど恐怖や混乱をもたらそうとも、蛇の目にとっては“凡庸な殺人犯”の寄せ集めに過ぎない。その残虐性も、心理的操作も、コラージュとして統合された行為も、冷徹に分析され、秩序立てられ、必要に応じて破棄可能なデータとして扱われるだけである。
事件のパーツとなった小林和樹や山内久美もまた同様である。彼らは人間としての存在価値や倫理的判断を持たず、単に“作品の要素”としてコラージュに組み込まれた。それは蛇の目が指摘した通り、個々の命や意識は分析の対象であり、必要な情報を提供する役割を果たすだけであった。
四人の修復家ネットワーク、犠牲者、作品――すべてはデータ構造の中に吸収され、秩序立てられた論理の中で完結する。
二課や人間社会における恐怖や混乱は、この解析の視点から見れば単なるノイズに過ぎず、蛇の目はそれらを感情的に評価することはない。狂気と残虐性が生む劇的な場面も、論理的構造のパーツとしてのみ認識され、冷徹にモデル化されていた。その意味で、事件の手口は異常でも、構造としては凡庸であり、蛇の目の分析対象としては極めて扱いやすいものだったのである。
そして、解析終了の信号がログに表示される。スクリーン上の情報は静かに凍結し、無数の数値、グラフ、心理的指標、行動確率がそのまま保存される。蛇の目にとって、四人の修復家も、犠牲者たちも、作品のコラージュも、すべては消去可能なデータの一部として存在し続けるだけである。結局のところ、頭を持たぬ蛇にとって、彼らの存在は必要不可欠ではなかった。凡庸な殺人犯の集合が、冷徹な分析の中で消費され、意味のない秩序として残っただけなのだ。
恵美たち二課の面々が、事件の余韻を噛み締める傍らで、蛇の目はただ静かに次の観測対象に目を向ける。人間の狂気も悲劇も、解析という名の秩序の中では、単なるパラメータに過ぎない。凡庸な殺人犯たちの狂気は、冷徹な論理の前にその意味を失い、次なる異常の観測へと吸収されていく。




